【皇室】ひめゆりの塔事件直後に明仁皇太子が詠まれた平和の「琉歌」 [07/31]at NEWSPLUS
【皇室】ひめゆりの塔事件直後に明仁皇太子が詠まれた平和の「琉歌」 [07/31] - 暇つぶし2ch1:◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★
15/07/31 18:37:11.29
★ひめゆりの塔事件直後に明仁皇太子が詠まれた平和の「琉歌」
2015.07.31 07:00

世の中のさまざまな問題について国民とは違ったお立場で考えてこられた
であろう天皇陛下。戦後70年の節目となる今年4月には、天皇皇后両陛下の
強い希望により、パラオ共和国への慰霊の旅を終えられた。また、6月には
私的旅行中に宮城県蔵王町を訪問され、パラオ共和国から戦後に引き揚げた
人々と懇談された。折に触れ、陛下が発せられる考え抜かれたお言葉の背景
には、第二次世界大戦で命を失った人びとへの慰霊の思いと、そうした過ち
を二度と繰り返してはならないという強い決意が常に存在する。

なかでも「その原点となったのが“沖縄”だったのではないか」と語るのが、
陛下のお言葉を綴った『戦争をしない国』(小学館刊)の著者である矢部宏治さんだ。

「昭和天皇は敗戦の翌年から、国家再建の先頭に立つべく、全国各地を訪問
されました。しかし1か所だけ行けなかったところがあります。沖縄です。
激しい地上戦が行われた沖縄には、昭和天皇に対する強い怒りがあったからです。

その代わりに1975年7月17日、当時41才だった明仁皇太子が、沖縄海洋博の
開会式出席のため、美智子妃とともに初めて沖縄を訪問されましたが、そこで、
“ひめゆりの塔事件”という大事件が起こります。明仁皇太子も『石ぐらい
投げられてもいい。そうしたことに恐れず、県民のなかに入っていきたい』
と沖縄訪問前に語っておられ、不測の事態が起こることも覚悟されていた
のでしょう。しかし、投げられたのは石どころか火炎ビン。数メートル前方の
献花台の手前の柵に当たって炎上した炎は、明仁皇太子と美智子妃の足元
まで流れ、現場は大混乱に陥りました」(矢部さん)

命さえ危うい緊迫した状況のなか、予定を変えず訪れた次の慰霊の地である
「魂魄の塔」へ向かわれた。そこで詠まれたのがこの歌だ。
これは、「琉歌」という沖縄の伝統的な形式で詠まれたものだ。

「花よおしやげゆん(花を捧げます)
人 知らぬ魂(人知れず亡くなった多くの人の魂に)
戦ないらぬ世よ(戦争のない世を)
肝に願て(心から願って)」
(1975年/沖縄訪問から帰京されてすぐに詠まれたお歌)

「一種の極限状態の中で明仁天皇は、沖縄の人たちが、日本人、アメリカ人、
軍人、一般人の一切の区別なく、身元不明の戦没者を弔った『魂魄の塔』の
前に立たれた。これはそのときの厳粛な思いを詠まれた歌で、何度読んでも
本当に素晴らしい。私がこの本を書こうと思うきっかけになった歌です。

このなかで歌われた、二度と戦争という過ちを起こしてはならないという
強い気持ち、平和国家建設への強い思いが、象徴天皇という新しい時代の
“天皇のかたち”を探し求める明仁天皇の原点となっていったのではないかと、
私は思っています」(矢部さん)

※女性セブン2015年7月30日・8月6日号
URLリンク(www.news-postseven.com)


※ひめゆり事件
川野 純治(かわの じゅんじ、1954年(昭和29年)9月22日 - )は、日本の政治家。
沖縄県名護市議会議員、日本の新左翼党派の沖縄解放同盟準備会の元活動家、テロリスト。
1975年、当時の皇太子・皇太子妃沖縄訪問に抗議し、ひめゆりの塔事件を起こした。
熊本県球磨村生まれ 鹿児島県出水市育ち。

URLリンク(ja.wikipedia.org)


レスを読む
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch