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★被爆地で向き合う「加害」 岡まさはる記念長崎平和資料館 [長崎県]
2015年07月17日 18時50分
1枚の写真の前で足が止まった。背中で腕を縛られてひざまずく中国人の青年の後ろに立ち、
両手で刀をかまえる日本兵。2人は24歳の私と同世代に見える。目が離せず、しばらく動くことができなかった。
JR長崎駅から徒歩で数分の場所にある「岡まさはる記念長崎平和資料館」。
被爆地・長崎の一角で、戦時中に旧日本軍が犯した「加害」の歴史を伝え続け、今年で20年になる。
「慰安婦」問題、南京大虐殺、731部隊…。テーマ別に分けて資料を展示する館内で、
私は中国での体験を思い出していた。
学生時代、私は中国各地を巡った。中国残留婦人2世との出会いをきっかけに興味を抱いた、
旧日本軍による戦争被害者を訪ね歩いた。海南省に暮らす戦時性暴力被害者の高齢女性は、
上着をめくり、丸まった背中の傷痕を指さして「日本兵に切りつけられた」と静かに訴えた。
731部隊による細菌戦の被害に遭った浙江省の村は、犠牲者の生涯を記録したパネルを
村中に掲げていた。「日本政府が謝罪をするまで闘いは終わらない」。村民の集会で、
高齢女性が声を荒らげた。出会った被害者の多くは、侵略の事実に無知である私を責めなかった。
その代わり、無念を知られることなくこの世を去ることへの焦りを募らせていた。
私が現在と切り離していた「戦前の歴史」は、被害者や遺族にとっては過去の話ではなく、
今も痛みの根源となっている。あのとき、そう気付かされたのに、帰国後に就職して新しい
生活が始まると、被害者たちのことを思い返すことはなかった。
□ □
資料館の名にもなっている岡正治さん(1918~94)は戦時中、広島県江田島の海軍兵学校で
無線通信の教官を務めていた。戦争に加担したことへの贖罪(しょくざい)意識から75歳で
亡くなるまで、牧師や長崎市議として韓国・朝鮮人被爆者の実態調査や救済といった平和運動に
尽力した。岡さんの遺志を継ぎ、資料館は「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」の会員らが95年
10月に開館した。展示の額縁は手作りで、約30人のボランティアが受け付けを担うなど、
すべてが市民によって運営されている。3年前に訪ねた、南京大虐殺記念館(南京市)も思い出した。
入館するのもやっとというほど、若いカップルや家族連れでごった返していた。展示品をぼうっと
浮かび上がらせる照明や感情を揺さぶるような音響の演出があり、「歴史」への向き合い方に
違和感を覚えた。長崎では、淡々と資料が並べられている。
「日本は他の国にひどいことをしてきたとわかりました」(三重県の14歳の男子生徒)
「今後、平和を意識する中で知らなくてはいけない事実だと思った」(広島県の19歳の女子学生)-。
若い世代の来館者が寄せる感想文には、率直な思いがつづられている。
「『日本がアジアの国でしたことをなぜ学校で学んでこなかったのか』という疑問を原点に、
事実を知ろうとする心を持ち続けてくれると信じている」。資料館の高実康稔理事長(75)は
目を細め、被爆地で「加害」を伝える意味をこう語った。「加害の事実に無自覚でいては、
核兵器廃絶を訴えても国際社会で通用しない」長崎市が作製する観光マップやガイドブックは
「代表的な観光施設のみ紹介する」(市観光推進課)として資料館を記載していない。
来館者数は年間約5千人。同じ長崎市内にある原爆資料館の1%に満たない。
私が滞在した日曜の正午から約5時間の間、来館者は5人だけだった。
「日本では戦争被害を訴える施設しか出合ったことがなかったので、ほっとした」。
ソウルから訪れた韓国人女性の1人はそうつぶやいた。
=2015/07/17付 西日本新聞朝刊「もっと九州」=
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