【ビルマ戦線】日本人捕虜となった反日元英国人兵士、来日し「戦犯が裁かれた事」「日本人もおかゆと木の根っこを食していた事」を知る [07/03]at NEWSPLUS
【ビルマ戦線】日本人捕虜となった反日元英国人兵士、来日し「戦犯が裁かれた事」「日本人もおかゆと木の根っこを食していた事」を知る [07/03] - 暇つぶし2ch1:◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★
15/07/03 22:47:28.48
★「日英兵士の和解」―ビルマ戦線―
笹川陽平2015年07月03日 07:46

私のブログは報道関係者から「大切な情報なのに、いつもトラック競技でいえば
一周遅れですね」と笑われる。ものぐさと遅筆の性癖のためである。

6月7日、毎日新聞の小倉孝保欧州総局長が一面と四面全てを使って書かれた
『ひるまぬ和解大使』と題した記事が掲載された。

戦後、ビルマ戦線で虐待を受けたと対日憎悪に固まる強硬反日団体の一つであった
ビルマ戦線生き残りの兵士たちの集まりに単独乗り込み、日英兵士の和解に半生をかけ、
7年前に88歳で亡くなった平久保正男さんの特集記事である。

紙面には限りがあり、掲載できなかったであろう事柄で、私の知るところを補遺と
してここに記しておきたい。

当時、日本政府は1998年の天皇皇后両陛下の訪英を視野に入れていたか否かは承知
していないが、この強硬反日団体の存在に困惑しているところであった。
勿論、平久保さんはそんなこととは別に、純粋な気持ちで和解のために誠心誠意汗を流しておられた。

1985年、私は日英交流の大切さから『グレ-トブリテン・ササカワ財団』
(以後ササカワ財団)を設立。ロンドンに本部を置いて活動していた。
ある日、平久保さんより日英兵士の和解のための交流事業についての協力・支援の申し出を受けた。

この財団の当時のスタッフであった井上美津子さん(旧姓 渡辺)と、1991年から引き継いだ
仙石節子さん(元トルコ大使夫人)のお二人は、情熱と誠心を持って英国ビルマ戦線退役軍人の
日本招待に努力され、親切この上ない『おもてなし』が彼らの反日感情を薄める効果を発揮
してくれた影の功労者であったことは確かである。

最初のグループは、1989年に12名が来日した。ほとんどが70歳以上の高齢者で、会談の折、
「私たちは日本を憎んで反日で死ぬことを共通の目的としていた。私たちを虐待した日本兵が
暮らす日本を訪れるなんて考えてもいなかった。帰国すれば必ず仲間はずれにされるでしょう。
しかし、極東裁判で日本兵の多くが法廷で裁きを受けたことを来日して初めて知った」と語り、
また、捕虜として施設に隔離された軍人の間では、おかゆや木の根を食べさせられ、
屈辱に満ちた悲惨な扱いであったと思っている人が多くいると言い、しかし、日本兵も食糧難
から我々と同じ食事であったことを聞き、「このことは帰国したら正確に仲間に伝えたいと思う」
と語っていた。

当時の日本ビルマ戦線生き残りの全ビルマ戦友会団体連合会は、確か3万6000人余りのメンバー
であったと記憶するが、彼等は真心をこめ、大歓迎で迎い入れてくれた。1回で終わりかと
思っていたら、訪日の報告を聞いた元兵士たちが次々に来日を希望され、1995年までに5回、
78名が日本の土を踏むことになった。また、日本側からも1992年と1994年、二度にわたり
27名の日本ビルマ戦友会員が英国を訪問した。

1995年には高齢による体調不良者が2~3名も出て、1名は聖路加国際病院に入院させるほど
重病で最悪の事態も覚悟したが、日本ビルマ戦友会と仙石節子さんの献身的なお世話で
1週間ほどで無事退院、帰国された。

第1回の訪日時、英国元兵士一行は元日本兵と共に靖国神社を参拝してくれた。
以降、毎回靖国神社を参拝するのが恒例となった。お世話をしてくれた仙石節子さんは、
後年、「あの時は嬉しくて涙が止まらなかった」と、しみじみと語ったものである。

その後英国側より、残っている元兵士は85歳以上の高齢になり、長旅は難しくなった。
目的は十分達成された。好意に感謝する旨の連絡を受け、この相互訪問交流プログラムは終了した。
>>2へ続く

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