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【サイパン戦跡】「戦前も戦後も日本が開発した」 感謝を忘れないチャモロ人 - 暇つぶし2ch1:◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★
15/06/01 17:44:13.36
★【サイパン戦跡】「戦前も戦後も日本が開発した」 感謝を忘れないチャモロ人
2015.6.1 14:00

戦後70年の歳月を経て、巨大な樹木が日本刑務所跡を侵食している。
分厚いコンクリートで堅牢に造られているが、雨水を溜めやすいようトタン屋根だったという。
熱帯地域にある米自治領・北マリアナ諸島のサイパン島。相当に暑かったことだろう。

「当時の現地人は委託統治に不満だったと思います。階級制度がありましたから」。
戦跡巡りのガイドを務めるバルシーナス米子さんが話す。夫はミクロネシアの先住民であるチャモロ人。
夫の父親から1920年に始まった日本の委任統治領だった頃の話をよく聞かされるそうだ。

「第1国民が日本人、第2国民が沖縄からの移住者、第3国民が現地のチャモロ人やカロリン人、
第4国民が朝鮮人だった」と米子さん。当時、国際連盟が制定した委任統治条項で現地人に酒類を
提供することが許されていなかった。隠れて酒を飲み、刑務所に入れられる現地人も多かったという。

16世紀のマゼランによる発見以来、サイパン島はスペイン、ドイツ、日本、米国に統治されてきた。
米子さんの義父は「いま考えると一番よかったのが日本」と振り返るそうだ。「算術も九九も教わった。
成績優秀者は内地の学校にも入れてもらえた。今の教育よりずっといい」。そして「戦前も戦後も
日本が開発してくれた。戦後は観光業でサイパンを育ててくれた」と感謝を忘れない。

太平洋戦争の開戦で刑務所が米軍捕虜の収容所になった。数多くの砲弾の後が残る壁には
西洋人の名前と1944年6月15日の日付が刻まれていた。米軍の上陸日だ。

■砂糖王の顔に弾痕

刑務所跡近くにあるシュガーキング公園に南洋興発初代社長、松江春治の銅像がある。
南洋興発は統治領開発のために1922年に設立された国策会社でサイパン島に本社が置かれた。
製糖業を中心に大成功を収め「北の満鉄、南の南興」と呼ばれるまでに発展した。

台湾の新高製糖取締役だった松江はサイパン島を調査してサトウキビ栽培に理想的な環境で
あると確信。日本各地から集めた農業労働者を使って密林を開墾してサトウキビ畑を整地し、
全島に運搬用の鉄道を敷設するほどの経済的繁栄をもたらした。鉄道は28両の長大編成で
最後の1両は客車になっていたそうだ。

銅像は1934年に従業員たちがお金を集めて建てたもので戦時中に壊されることはなかった。
ルイジアナ州立大出身のため米本土から「決して壊すな」という命令があったとされるが
真偽は定かではない。

土台を含めれば相当な高さであるにもかかわらず、銅像の顔部分に複数の銃弾跡が痛々しく残る。
米兵が遊びで狙い撃ちしたそうだ。当時、公園は彩帆(サイパン)香取神社の境内になっていた。
3週間続いた上陸に伴う戦闘ではテントが張られ野戦病院になったという。

内地にいた松江はサイパン陥落の知らせに銅像も当然破壊されたものと思っていた。
戦後にサイパンを訪れた息子から銅像が無事だったことを聞き、大変驚いたそうだ。



戦後70年に合わせてサイパン島を訪問した。激戦地に残る戦跡を紹介する。
(産経デジタル 長浜明宏)

URLリンク(www.sankei.com)

廃墟となった旧日本刑務所=サイパン島(佐藤良一撮影)
URLリンク(www.sankei.com)


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