【沖縄戦】「子供達を殺すか、さもなくば、ここから出て行け!」日本兵に脅され、食料を奪われ…米兵に助けられるも、7歳で一人ぼっちにat NEWSPLUS
【沖縄戦】「子供達を殺すか、さもなくば、ここから出て行け!」日本兵に脅され、食料を奪われ…米兵に助けられるも、7歳で一人ぼっちに - 暇つぶし2ch1:◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★
15/05/18 20:46:53.08
★沖縄戦 7歳で一人ぼっち 戦災孤児の戦後70年
2015年5月18日 04:01

今から70年前に、沖縄戦がありました。沖縄戦で家族を亡くして、孤児になった人は数千人もいると
言われています。激しい地上戦によって、人も家も物も焼けて失われました。孤児たちは戦争中だけでなく、
戦争が終わってからもたくさんの苦労をしてきました。その一人、石原絹子さん(77)=那覇市=に体験を聞きました。

■   ■

「子どもたちを殺すか、さもなくば、ここから出て行け!」。沖縄戦の時に国民学校(今の小学校)
1年生だった私は、母と兄、2人の妹と一緒に隠れていた防空壕に、数人の日本兵が来て母に銃を突きつけ、
脅し、食料を奪った光景を覚えています。小学3年の兄は、やけどを負って足が不自由な母に
「妹たちを殺させないで」と言って肩を貸し、7歳だった私は1歳の妹をおぶって3歳の妹の手を引き、
壕を出ました。

海を埋め尽くしたアメリカの軍艦からの砲撃と戦闘機の爆撃が続き、火炎放射器も火を噴いて、
空も地面も真っ赤に染まりました。逃げる住民は次々と倒れ、粉々にちぎれた人の肉片が顔に飛んできました。
あてもなく歩く途中で、日本兵に「摩文仁方面は安全だから」と教わり、必死にたどり着きましたが、そこは地獄のようでした。

「お母さん、私たち死ぬしかないの?」と聞くと、母は土や砂で真っ黒に汚れた顔で、何も言わずに
頭をなでてくれました。昼も夜も爆弾が降り注ぎ、辺りは煙で見えなくなりました。気づくと、母と兄の姿がありません。
たくさんの死体を踏み越えて探すと、2人は崩れた岩の下敷きになって亡くなっていました。

叫び声を上げて後ずさりし、我に返ると、今度はおぶっていた1歳の妹が冷たくなっていました。
「起きてちょうだい!」と何度も揺さぶりましたが、動きません。妹のほおは紫色に変わり、
目や鼻、口からウジがわき出して、払いのけても増えるばかりでした。

やがて3歳の妹の胸に、砲弾の大きな破片が突き刺さりました。苦しそうな息で「お姉ちゃん、お水をちょうだい」
と何度もせがまれましたが、戦場のまっただ中には、唇を潤す一滴の水さえありません。涙を浮かべながら、
私の腕の中で息絶えました。

父も防衛隊として戦場へかり出され、亡くなりました。一人ぼっちになった私は、身も心も尽き果てて死体にうずもれ、
遠のく意識の中で「今度は私が死ぬ番。これでみんなに会える」と思いました。どれほどの時間がたったのでしょう。
目をさました時には、学校で「鬼畜」と教わったアメリカ兵に抱かれていました。助かったのです。

■   ■

命は助かりましたが、戦場で経験した怖ろしい光景や、煙の臭いが、毎日のように夢に現れてうなされました。
「助けて!」と悲鳴を上げて飛び起きたこともよくありました。戦争が終わってから、長い間笑うことができませんでした。
家族の死を受け入れることができず、本当はみんなどこかで生きているのではないかと思うようになりました。
降伏した住民が集められた収容所で、来る日も来る日も小高い丘に登って、両親やきょうだいの名前を呼んでは
「どこにいるの?私を迎えに来て」と叫び続けました。

収容所には、学校の校舎も木陰もなく、日照りの下に座らされて授業を受けました。
ノートはなく、先生は子どもたちをごみ捨て場に連れて行って、アメリカ軍が活字を打ち損ねた紙をみんなで
拾って裏側を使いました。鉛筆は1本を三つに分けました。食料もありません。
草も燃えてなくなり、ネズミやバッタをつかまえて食べました。

収容所には、別に生き延びた祖母が、私が生きていると人づてに聞いて、迎えに来てくれました。
私は会うとすぐに「お父さんもお母さんも、兄さんも妹たちも、なぜ死ななないといけなかったの?」と泣きじゃくりました。
祖母は私を抱きしめ、「みんな戦争が悪いんだ。どんなにつらくても、命を落とした家族のために強く生き抜こう」と説いてくれました。

 >>2へ続く

URLリンク(www.okinawatimes.co.jp)


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