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★【西論】「主権回復の日」に思う 「吉田ドクトリン」の幻想から脱却せよ
2015.5.1 07:00
木々の緑が影を濃くする伊丹緑地(兵庫県伊丹市春日丘)を歩くと、「白洲屋敷跡」の石碑を見つけた。
「当地には、戦中・戦後、英国留学経験で培った語学力を活かし、外交・貿易・経済各方面に活躍した
白洲次郎(1902-1985)の実家がありました」
市教育委員会設置の石碑にはこのように記されている。
長身に甘いマスク、英国仕込みのファッションセンス…。近年、テレビドラマが火付け役となって、
一時はブームの様相すらあった白洲は、大正末期から昭和初期にかけて、石碑近くにあった広大な屋敷に居住していた。
吉田茂首相の「懐刀」。白洲にはこの異名がよく使われる。先の大戦に敗戦後、連合国軍総司令部
(GHQ)の占領を経て、日本が主権回復を果たしたのはサンフランシスコ平和条約が発効した
昭和27(1952)年4月28日。沖縄、奄美大島、小笠原諸島は米国施政下のままであった。
63年前である。
・透徹した白洲のまなざし
白洲は、26年9月に平和条約と日米安全保障条約の調印のため渡米した吉田首相に随行した。
GHQによる日本国憲法草案の作成過程の目撃証人でもある。白洲の論考集『プリンシプルのない日本』
(新潮社)からは、透徹した現実主義が見て取れる。
「憲法改正の焦点は再軍備の問題になると思う。現在の憲法の『戦争抛棄(ほうき)』の条項も、
又連合国側というか、米国側の発明である。(中略)当時には米ソの軋轢はなかったどころか、
大部分の米国人は永遠の米ソ親善を信じ、世界平和を夢見ていたに違いない」(昭和27年)
憲法施行から5年後にして、9条の欺瞞(ぎまん)を喝破していた。一方、皮肉交じりにこうも記している。
「憲法などにはズブの素人の米国の法律家が集まってデッチ上げたものだから無理もない。
しかし、そのプリンシプルは実に立派である。マックアーサーが考えたのか幣原総理が発明したかは
別として、戦争放棄の条項などその圧巻である。押しつけられようが、そうでなかろうか、
いいものはいいと率直に受け入れるべきではないだろうか」(昭和44年)
また、「安保を廃止して自分のふところ勘定で防備をすれば、いくらかかる。(中略)税金がふえて、
我々の生活が今よりぐっと苦しくなっても、なお外国の軍隊を国内に駐留さすよりもいいというのが
国民の総意なら、安保など解消すべし」(同44年)とも指摘する。日米安保で日本が防衛予算を抑えられ、
経済発展に邁進(まいしん)できる状況を肯定しつつも、「安保ただ乗り」は通用しなくなることも見透かしている。
・知られざる自己否定
これらの論考を読むと、思い浮かぶのは、白洲を知恵袋として重用した吉田首相が主導したとされる
「防衛力最小限、経済合理主義」を根幹とする、いわゆる「吉田路線(ドクトリン)」として知られる考え方だ。
田久保忠衛・杏林大名誉教授の著書『憲法改正、最後のチャンスを逃すな!』(並木書房)では、
この「吉田路線」について「日本を徘徊する妖怪」と評している。
吉田首相は、朝鮮戦争の勃発、東西冷戦の緊張の中で米国政府から突きつけられた再軍備を
「経済的にも、社会的にも、思想的にも不可能」として、日本の再軍備にモラトリアムをかけ、
経済大国への道筋をつけた。
しかし、この路線が暗黙のうちに継承され、繁栄を謳歌(おうか)するなかで、
「軍事忌避、絶対平和」が浸透した。主要国の仲間入りをしても、国際社会の安定のために
十分な存在感を示さないまま、心地よい無責任な平和の“ぬるま湯”に浸かってきた。>>2へ続く
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