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★【野口裕之の軍事情勢】大御心の柔らかみ
2015.4.20 06:00
大東亜戦争(1941~45年)を終結させるにあたり《国体護持》を貫いた歴史は、
わが国近代史における最大の国難回避であったと思っている。70年後。激戦地パラオ共和国
ぺリリュー島に行幸啓された天皇・皇后両陛下が発せられた、言葉では到底表し尽くせぬ御力は、
大日本帝國陸海軍の退役軍人と遺族、現地の人々を柔らかく包み込んだ。退役軍人の一人は
民放テレビの取材に、申し上げようと思っていたことはたくさん有ったが、お礼言上が
精いっぱいだったとの趣旨を語っていた。
一部メディアは「(悲惨な)戦争当時の話は触れたくなかった」といった内容を、答えとして
引き出した。否定はしない。時間は限られていた。緊張もしていたはず。しかし、最大の背景
ではなかろう。ぺリリュー島行幸啓に限らず、両陛下の御心に接する国民の多くが言葉を控える。
「空間の共有」だと感ずる。今次も、両陛下との間で深い悲しみの空間を共有し、それ以上言葉を
必要としなかったのではないか。一点の曇り=私心なき大御心は、歴代天皇と同じく国民の心
を優しく、だが激しく揺さぶるのだ。陛下と国民の間に修辞は必要ない。そうでなければ、
極めて短い会話の後「長い間にわたり、われわれ遺族以上に、散華された方々を思って
くださっていたのが分かった」という気持ちにはなれない。
パラオ入りしていない小欄が畏れ多き事柄に触れるのは、九州在住の友人に聴いた逸話で、
先帝(昭和天皇)陛下が背負い続けられた深い悲しみと苦しみ、国民に寄り添う立ち位置を
あらためて知ったことにも因る。住職・調寛雅(しらべ・かんが)氏の著書《天皇さまが
泣いてござった=教育社》に詳しいが、そのお姿は刻苦を正面から引き受ける修行僧のようでもある。
・先帝陛下、御行幸での涙
先帝陛下は昭和24(1949)年、佐賀県に行幸あそばされた。敗戦で虚脱した国民を
励まされる全国御巡幸の一環で、ご希望により因通寺に足を運ばれた。寺では境内に孤児院を
造り、戦災孤児40人を養っていた。陛下は部屋ごとに足を止め、子供たちに笑みをたたえ
ながら腰をかがめて会釈し、声を掛けて回られた。ところが、最後の部屋では身じろぎもせず、
厳しい尊顔になる。一点を凝視し、お尋ねになった。
「お父さん、お母さん?」
少女は2基の位牌を抱きしめていた。少女は陛下のご下問に「はい」と答えた。
大きく頷かれた陛下は「どこで?」と、たたみ掛けられた。
「父は満ソ国境で名誉の戦死をしました。母は引き揚げ途中、病のために亡くなりました」
「お寂しい?」と質された。少女は語り始めた。
「いいえ、寂しいことはありません。私は仏の子です。仏の子は、亡くなったお父さんとも
お母さんとも、お浄土に行ったら、きっとまた会うことができるのです。お父さんに、
お母さんに会いたいと思うとき、御仏様の前に座ります。そして、そっとお父さんの、
そっとお母さんの、名前を呼びます。するとお父さんも、お母さんも私の側にやってきて
抱いてくれます。だから、寂しいことはありません。私は仏の子供です」
陛下は少女の頭を撫で「仏の子はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」と仰せられた。
見れば、陛下の涙が畳を濡らしている。少女は、小声で「お父さん」と囁いた。
陛下は深く深くうなずかれた。
・共産主義者の一団も嗚咽
側近も同行記者も皆肩を震わせた。ただ単に、けなげに生きる少女への感動の涙と片付けては
ならない。少女の悲しみは陛下の悲しみだった。愛する肉親を失った国民。
国民の眼前に広がり心を蝕む敗戦に因る焼け野原=廃虚と飢餓。全てに絶望する国民の虚脱…。
国民の苦しみは陛下の苦しみであった。 >>2へ続く
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