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★国宝「台徳院殿霊廟」空襲で消失→「まさか…」英国で国宝級の精巧模型発見→増上寺で日本初公開
2015.4.10 14:04
徳川幕府の第2代将軍秀忠の御霊屋(みたまや=墓所)として江戸初期の寛永9(1632)年に
建立され、昭和20年の空襲で焼失した国宝建造物「台徳院殿霊廟(れいびょう)」。
その実像を唯一知ることのできる精巧な模型が英国で見つかり、修復をへて増上寺(東京・芝公園)
で公開が始まった。秀麗な彫刻や極楽浄土を夢想させる極彩色は戦後70年の間、
歴史のふちに忘却された大伽藍(がらん)の面影を現代に伝えている。
増上寺は徳川家の菩提寺で、境内に建立された台徳院殿霊廟は拝殿と相之間(渡り廊下)、
本殿の3つの建物が縦に連なる「権現造り」。拝殿と相之間は枯淡な和様建築。
本殿は極彩色を施した禅宗様が取り入れられためずらしい折衷様式の霊廟として知られる。
それ以前の桃山時代の霊廟は和様、台徳院殿霊廟を模して再建された日光東照宮は禅宗様だが、
桃山と江戸をつなぐ建築様式の歴史には未解明な点が多い。霊廟はその謎を解くともいわれる。
しかし、台徳院殿霊廟は空襲で焼失。戦前に来日した外国人には日光東照宮よりも人気だった
というが、戦後70年の間にその存在は忘れられていった。
「まさか…」。1996(平成8)年。ロンドンから北西に約200キロ、田園地帯の倉庫で、
古びた木箱の中をのぞきこんだオーストラリア人建築史学者、ウィリアム・コールドレイク氏は言葉を失った。
木箱の中身は黄金色に輝く「来迎(らいこう)柱」と呼ばれる台徳院殿霊廟の本殿の主柱だった。
模型は1910(明治43)年、ロンドンでの日英博覧会に展示するため、日本から渡り、
その後に行方不明となっていた。
「亡くなったはずの友人と再会したような気持ちでした」。コールドレイク氏は徳川時代の
建築史が専門で、英国文化財保存財団の要請で倉庫に駆けつけた。現在は模型を所有する
英王室直属のロイヤル・コレクション・トラスト代表を務め、修復の指揮を執った。
コールドレイク氏は1952(昭和27)年、両親がキリスト教宣教師として来日していた
ことから日本で生まれた。幼いころに見た東照宮の美しさをきっかけに米ハーバード大で
日本建築史を学び、東大大学院で特任教として教鞭を執る。
「台徳院殿霊廟模型と確認したとき、必ず里帰りをさせてあげるから、と模型に約束したのです」。
木箱から全部材を取り出すのに3週間を費やした。詳細な調査を終え、確認から18年後の
昨年4月、日本に長期貸与する計画が実現した。
◇
「これだけでも国宝級の価値があります」。コールドレイク氏の手のひらにはミニチュアサイズの
彫刻が置かれていた。松の枝近くに鷹が雄々しく羽を広げる精巧な細工。元の霊廟にも同じ細工
の彫刻が装飾として施されていた。
続けて模型の柱を指差した。「この柱と隣の柱の間は18センチ。残された記録を調べると、
実物の間隔は1・8メートル」。模型は実物の10分の1の大きさだが、幅約4メートル、
奥行き約5メートル、高さ約2メートルもあり、「模型というよりも小さな建物と考えるべきです」という。
模型は日英博覧会の展示用に当時の東京市が東京美術学校(現東京芸術大)に依頼して製作された。
手のひらの小さな彫刻は、上野公園の西郷隆盛像などを手がけた彫刻家で東京美術学校教授
だった高村光雲の監修によるものだ。
高村ら専門家は増上寺へ何度も通い、霊廟の寸法を採るなど、実際の霊廟を実測した上で
模型を製作したという。「だから模型と実物はまったく一緒なのです」とコールドレイク氏。
模型がロンドンから地方の倉庫に移されたのは、第二次大戦中のドイツ軍による空襲から
逃れるためだったのではないかと考えられる。実物の霊廟は戦火に消えてしまった。
だが、渡英した“霊廟”は異国で戦禍をくぐり抜け、100年以上の時を超えて祖国へと帰還したのである。
URLリンク(www.sankei.com)
日本初公開となる台徳院殿霊廟の模型=東京・芝公園(Royal Collection Trust/(c)Her Majesty Queen Elizabeth II2015)
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