15/04/07 14:15:26.64
★【正論】ペリリュー英霊が問う戦後精神 文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司
15.4.7 05:01
8日から天皇、皇后両陛下がパラオ共和国を訪問され、大東亜戦争の激戦地ペリリュー島で
戦没者を慰霊される。これは、戦後70年の今年における最深の行事といえるであろう。
最深というのは、忙しさの中に埋没している日常的な時間を切り裂いて、歴史の魂に思いを
致らし、日本人の精神を粛然たらしめるものだからである。
《「海ゆかば」を知らない日本人》
戦後60年の年には、サイパン島に慰霊の訪問をされた。そのときも、先の戦争を深く回想
する契機を与えられたが、サイパン島は、バンザイクリフなどによって玉砕の島として日本人
に知られているであろう。戦争の記録映像などでも、よく出て来るからである。
しかし、そのサイパン島や硫黄島などに比べてペリリュー島の方は、慚愧(ざんき)の
至りであるが、戦後生まれの私も、この島の名前を知ったのは、そんなに古いことではない。
日本人の多くが、知らなかったのではないか。
そのような島に天皇、皇后両陛下が訪問され、戦没者を慰霊されるということは、戦後70年間、
大東亜戦争を深く記憶することを怠りがちであった日本人の精神の姿勢を厳しく問うものである。
戦後の日本人が、いかに民族の悲劇を忘れて生きてきたかを叱責されるようにさえ感じる。
今年1月3日付本紙の「天皇の島から」の連載で、ハッとさせられる話が載っていた。
パラオ共和国の94歳になる老女が取り上げられていたが、明快な日本語で「君が代」を歌い上げ、
続けて「海ゆかば」を口ずさみ始めたという。歌詞の内容も理解していた。
この記事を目にしたとき、戦後60年の年に両陛下がサイパン島を訪問されたときのエピソードを
思い出した。敬老センター訪問の際、入所者の一部の島民が「海ゆかば」を歌ったという話である。
玉砕の悲劇を回想するとき、島民の心からおのずから「海ゆかば」が湧き出てきたのであろう。
それに対して、日本人の方が「海ゆかば」を知らないのである。
《日本が失ったものの大きさ》
このように「海ゆかば」を通して先の戦争を記憶しているサイパン島の島民やパラオ共和国の
老女に比べて、日本列島の島民はどうであるか。私もそうであったが、ペリリュー島を忘れて
いたではないか。サイパンやパラオの島民はずいぶん貧しいかもしれない。しかし、歴史の
悲劇と戦没者を忘れないという精神においてどちらが品格が上であろうか。それを思うと、
戦後70年間、日本が経済的発展の代償として失ったものの大きさに改めて気づかされる。
ペリリュー島については、40年ほども前に産経新聞社の前社長の住田良能氏が、
支局時代にとりあげていたことを最近知って感銘を受けた。1978年、本紙の茨城県版に
掲載された「ペリリュー島’78」には、「犠牲の大きい戦いであっただけに、米軍にとって、
勝利はひときわ印象深かった。戦後、太平洋方面最高司令官だったニミッツ提督は『制空、
制海権を手中にしていた米軍が、一万余の死傷者を出してペリリューを占領したことは、
いまもって大きなナゾである』と述べ、また米軍公刊戦史は『旅人よ、日本の国を過ぐる
ことあれば伝えよかし、ペリリュー島日本守備隊は、祖国のために全員忠実に戦死せりと』
と讃(たた)えた」と書かれていた。
この「旅人よ、日本の国を」は名訳といっていいが、この文章の原型は、紀元前480年の
ギリシャでのテルモピレーの戦いを讃えた碑文につながっている。テルモピレーの戦いと
いえば、吉田満の『戦艦大和ノ最期』初版の跋文(ばつぶん)に、三島由紀夫が「感動した。
日本人のテルモピレーの戦を目のあたりに見るやうである」と絶賛したことを思い出す。
戦艦大和の激闘が、テルモピレーの戦いの如くであったように、ペリリュー島の激戦も、
テルモピレーの戦いであったのである。 >>2へ続く
URLリンク(www.sankei.com)