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★【正論】戒めとしたい対中「苦渋の記憶」 国学院大学名誉教授・大原康男
2015.3.9 05:01
別に古傷を暴いて気分をスカッとしようとしているのではない。「人の噂も75日」と俚言にもあるように、
忘れっぽい日本人への戒めとして、ここ30年にわたる中国との外交関係を振り返り、同時代を生き、
直接関わった者の一人が若い世代にもこの苦渋に満ちた記憶を共有してもらえれば、との思いで一筆したためた次第。
≪隘路に追い込まれた靖国問題≫
一つは靖国神社参拝問題である。占領末期に参拝を復活した吉田茂首相以来、4半世紀にも及ぶ首相による
公式参拝の実績がありながら、昭和50年の終戦の日に首相として初めて参拝した三木武夫首相が突如として
「私的参拝」を標榜(ひょうぼう)したことから、靖国神社をめぐる混迷の時代が始まった。
三木首相の豹変(ひょうへん)は憲法の政教分離原則に過敏に反応したものであった。それからちょうど
10年たった同60年に中曽根康弘首相が「戦後政治の総決算」の一つとして公式参拝を復活したことによって、
三木参拝がもたらした最初のボタンの掛け違いが解消されたのは評価されてよいが、その直後に中国のいわゆる
“A級戦犯”合祀(ごうし)を理由とする抗議を甘受して爾後(じご)の参拝をとりやめたため、それ以降、
歴代の首相は公私を問わず靖国神社に参拝できないという異常な事態が続くことになる。
これが第二のボタンの掛け違いである。
かくして平成8年の橋本龍太郎首相による例外的参拝を除けば、中断の期間は同13年の小泉純一郎首相の
参拝再開まで16年にも及ぶが、首相の靖国参拝はあくまでも国内問題である。にもかかわらず、
その不当な干渉に簡単に屈したことによって、あってはならない外交問題と化してしまった不見識さ
-ここに靖国問題を隘路(あいろ)に追い込んだそもそもの原因があるのだ。今もなお天皇のご参拝が
実現しない最大の要因でもある。
そればかりか、昭和61年秋頃から中国側の意向に沿って“A級戦犯”を靖国神社から分離して別の
神社に祀(まつ)るという合祀取り下げ工作を密(ひそ)かに進め、いわゆる“分祀論”の鼻祖に
なって今日に至っている。中曽根首相の“罪科”はたとえようもなく大きい。
≪強行された天皇ご訪中≫
二つ目は平成4年秋に宮沢喜一首相によって強引に実施された天皇ご訪中問題である。
まず第一に念頭に置かねばならないのは、憲法上「国政に関する権能」を有しない
「国および国民統合の象徴」である天皇の外国ご訪問は「現実の国際政治の次元を超えたところで
なされる友好と親善」でなければならないという原則である。
しかるに当時は教科書検定、首相や閣僚の靖国神社参拝、中国による尖閣諸島の領土“編入”や
東シナ海での油田採掘、国連平和維持活動(PKO)法案への執拗(しつよう)な反対等々、
日中間には厄介な問題が山積しており、その真っ直(ただ)中でご訪中を強行すれば、
天皇の「政治利用」になるという激しい反対の声が全国から寄せられていた。
政府は加藤紘一官房長官の下で形としては各界の有識者を集めて意見聴取を行いはしたものの、
その1週間前に宮沢首相はご訪中を決断、与党幹部にその旨を伝えていたのである。
ある台湾人が「まるで勝手に丸刈り頭にしておきながら、あとで周囲に“髪を伸ばすべきか、
刈るべきか”と相談するようなもの」と評したように、茶番劇もいいところ。
平成15年秋に刊行された銭其●外相の回顧録によれば、ご訪中招請は中国が天安門事件による
孤立化の打破を狙って進めたもので、「天皇訪中は西側の対中制裁を打破する上で積極的な効果」
があったと明言しているが、当時の関係者のうち誰一人として責任の弁を語った者はいない。 >>2へ続く
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