15/03/05 14:29:02.74
★【戦後70年~大空襲(1)】なぜ米軍は東京大空襲を機に無差別爆撃に踏み切ったのか?
2015.3.5 07:00
先の大戦中の首都・東京への空襲は100回を超えるが、昭和20年3月10日の「東京大空襲」を機に、
米軍は、一般市民をターゲットにした無差別爆撃に舵を切った。なぜ米軍は戦術を転換したのか-。
20年1月20日、後に「米空軍の父」と言われる米陸軍航空軍司令官のヘンリー・アーノルド大将
(後に空軍元帥)は、爆撃で成果を上げられない日本空爆の指揮官、ヘイウッド・ハンセル准将を更迭し、
欧州戦線などの爆撃で成果を上げたカーチス・ルメイ少将(後に空軍大将)を任命した。
ルメイ氏は、それまでの軍需工場への精密爆撃をやめ、一般市民を多数巻き込む無差別都市爆撃を計画した。
ルメイ氏は戦後、自著で無差別爆撃を「全ての日本国民は航空機や兵器の製造に携わっている」と正当化している。
さらにルメイ氏は、高度1万メートル近い高高度昼間爆撃から2千メートル前後の低空夜間爆撃に切り替えた。
爆弾搭載量を増やすため機銃の大半は取り外させた。3月の時点で護衛戦闘機はなく、もし敵戦闘機に
襲われても反撃のすべはない。B29搭乗員の多くは「死の宣告」と受け止めたという。
ただ、無差別爆撃の責任をルメイ氏一人に押しつけるのは酷だろう。
背景には、すでに日本陸海軍の組織的反撃は困難となり、米軍が日本本土上陸を想定するように
なったことがある。無差別爆撃により日本の厭戦気分を高めるとともに、都市部を壊滅させることで
速やかに占領しようと考えたようだ。根底には米陸海軍、そして陸軍から独立を企てる陸軍航空軍
(後に空軍)の主導権争いもあったとされる。
防衛大学校の源田孝教授(軍事史)は「当時ルメイ氏は少将にすぎない。爆撃は全てアーノルド大将の
命令で実行された。ルメイ氏は組織人として上官の期待に忠実に応えただけだ。無差別爆撃への転換には
『米兵の死傷者を少なくしたい』という米政府の思惑がからんでいた。日本への原爆投下の正当化と
同じ論理が見てとれる」と語る。
その証拠に米国は1943(昭和18)年、ユタ州の砂漠に日本の木造長屋を再現し、
焼夷弾による燃焼実験を行っている。やはり無差別爆撃は「米国の意思」だったとみるべきだろう。
「わが国政府並びに国民は、非武装市民への爆撃や低空からの機銃掃射、
これら卑劣きわまる戦争行為を全力をもって糾弾する」
これはフランクリン・ルーズベルト米大統領が、39(昭和14)年にソ連軍がフィンランドに
無差別爆撃を行った際、発表した声明だ。ルーズベルト氏は東京大空襲直後の45(昭和20)年
4月12日に死去したが、日本全国で繰り広げられた無差別爆撃、そして広島、長崎への原爆投下を
どう抗弁するつもりだったのだろうか。(玉嵜栄次)
URLリンク(www.sankei.com)