15/03/01 14:51:06.18
★【日曜に書く】総理の「007」をつくれ 今も変わらぬ左派リベラルと省庁間対立
2015.3.1 11:30
安倍晋三首相は「イスラム国」を名乗るテロ集団の邦人殺害事件の教訓から、
対外情報機関の設立検討に着手した。首相がこれを実行に移すと、吉田茂首相以来になる。
吉田が戦後の混乱期に目指したのは、情勢分析にとどまる内閣情報調査室ではなく、
情報工作部門もある米中央情報局(CIA)のような本格的な情報機関だった。
ワンマン宰相の吉田は“総理大臣の007”を渇望しながら、なぜ設立に失敗したのだろうか。
手元の米CIA解禁文書から「内閣直属のインテリジェンス機関」への顛末(てんまつ)を探ると、
安倍首相が留意しなければならない幾つかの問題点が浮かび上がってくる。
◆日本版CIAへの始動
解禁文書の中に、吉田と首相軍事顧問の辰巳栄一元陸軍中将が、日本版CIAの設立に挑んでいた
記述が出てくる。昭和26年7月の文書には「辰巳が近く設立されるインテリジェンス機関のトップに
内定している」とある。辰巳は吉田が駐英大使時代の駐在武官で、ともに対米英開戦に反対した仲であった。
サンフランシスコ講和会議で独立が決まると、吉田はその4カ月後、密(ひそ)かに情報体制の構築に
取りかかった。大磯の吉田別邸に、連合国軍総司令部(GHQ)参謀第2部の工作部隊「キャノン機関
」のジャック・キャノン中佐と延禎少佐を招き、助言を求めている(延禎『キャノン機関からの証言』)。
吉田はカネのかかる軍備増強には躊躇(ちゅうちょ)するが、情報機関の構築には執念を燃やし、
27年4月には「内閣官房調査室」を発足させた。内調は外務、法務、通産の各省や警察からの
寄せ集めで、室長には総理秘書官で警察畑の村井順を起用した。
吉田はこのときすでに、内調を基礎として、新たな情報機関の創設をもくろんでいた。
辰巳は吉田から情報機関に送り込む人選を依頼され、元特務機関員、元駐在武官ら情報活動の経験者を絞り込んだ。
吉田は反共で米国と足並みをそろえてはいたが、軍事的圧力よりも情報要員を大陸に「逆浸透」させ、
中国人を共産党から離反させることが可能であると考えていた。その路線にそって辰巳は、村井の顧問
として中国からの引き揚げ者を利用する「最高機密計画」を推進していた。内調の別動隊として東京都
目黒区の民家を借り上げ、名を「陸隣会」とした。資金は米CIAが拠出する形で、日米の情報連携は
着実に進んだ(辰巳メモ『内閣調査室報告書類』)。
だが、内調は吉田が期待する情報機関に脱皮する前に、2つの障壁にぶつかってしまう。
◆熾烈(しれつ)な2つの障害
一つは左派勢力からの攻撃である。社会党の飛鳥田一雄から「陸隣会」の存在が暴露され、
長春、重慶など主要軍事施設の情報収集活動を非難された。容共派に足を引っ張られると、
情報要員が海外に展開していた場合には命とりになる。
もう一つは官房調査室内の旧内務官僚と外務官僚の深刻な対立である。室長の村井順は28年8月、
訪米先のワシントンでCIAのダレス長官と会談後、ロンドンに飛んだ。ここで彼は、通関時に
申告漏れの約3千ドルが見つかり、「村井闇ドル事件」として報じられた。辰巳は日記に、
「外務省筋の反村井分子の策謀によりヤミドルの件デマ報道さる」と書いた。
このころ、外務省は対外情報活動の権限を旧内務官僚中心の調査室に奪われるのではないかと警戒した。
外務次官の奥村勝蔵らは、調査室が国内情報のみを担当すべきであると申し入れている。
おりしも、外務省が内調に送り込んだ日暮信則が、29年1月のラストボロフ事件でソ連の
エージェントであることが発覚する。 >>2へ続く
URLリンク(www.sankei.com)