14/05/09 03:04:50.25 xF22+Y7Z0
科学的に安定しすぎで残るのか
3:名無しさん@13周年@転載禁止
14/05/09 03:10:51.66 2zIXYjQi0
>>1
ヒント 「神の手」
4:名無しさん@13周年@転載禁止
14/05/09 03:12:49.45 qKG7qt3t0
>漆の採取跡
まるで土地から掘り出したみたいな言い方だな。
5:名無しさん@13周年@転載禁止
14/05/09 03:13:56.33 7/sZ1ZnP0
英語で漆:JAPAN
6:名無しさん@13周年@転載禁止
14/05/09 03:32:59.45 25VHMeP30
熊とちゃうやろな
7:名無しさん@13周年@転載禁止
14/05/09 04:08:24.58 vX5lQQWD0
>>1
漆器があるんだから採取してたのは当り前。
8:名無しさん@13周年@転載禁止
14/05/09 05:07:55.15 twrozTcK0
>>6
ワロタ
縄文時代の漆塗りの弓があるね。全長160㌢の大弓だ
日本弓は大昔から変わってないんだ。すごいね
9:名無しさん@13周年@転載禁止
14/05/09 05:15:14.07 MsRlCZDT0
|
\ __ /
_ (m) _ピコーンッ!!
|ミ|
. / `´ \
∧_∧
. <*`∀´ > ガタッ
r ー -ヽ
__|_| / ̄ ̄ ̄/_
\/ LG /
 ̄ ̄ ̄
10:名無しさん@13周年@転載禁止
14/05/09 05:20:02.79 MsRlCZDT0
>>7
そりゃそうなんだけど、
採集跡そのものの発掘は今回のが最古になるんでしょ。
漆そのものは
>北海道の南茅部町の垣ノ島遺跡から出土した
>漆の装飾品6点が、米国での放射性炭素年代
>測定により中国の漆器を大幅に遡る約9000年
>前の縄文時代前期の装飾品であると確認された[1]。
ってあるし。
11:名無しさん@13周年@転載禁止
14/05/09 05:31:12.75 1HX7kRbO0
中央区って与野か
12:名無しさん@13周年@転載禁止
14/05/09 05:44:21.37 /ytgdbFn0
>>10超古代文明だな
13:名無しさん@13周年@転載禁止
14/05/09 05:58:43.41 NPhtJNLVO
埼玉って縄文時代から、やっぱり埼玉だったの?
中国だと殷の頃だったけ?もっと前だっけ?
14:名無しさん@13周年@転載禁止
14/05/09 06:02:01.50 WOtkrknu0
いまだに、いのしし追いかけてるもんな
15:名無しさん@13周年@転載禁止
14/05/09 06:35:11.20 tjwYyEO70
歴史のマル秘部分をさらけ出さないで
ウルシ恥ずかしいヾ(≧▽≦)ノ
16:名無しさん@13周年@転載禁止
14/05/09 06:38:07.22 qPzCddOB0
さいたまに漆なんて生えてたのか。
17:名無しさん@13周年@転載禁止
14/05/09 06:39:56.62 RD2pbkWV0
>>13
さきたま古墳群とか言うよね
18:名無しさん@13周年@転載禁止
14/05/09 06:40:46.05 y07wX1eZ0
URLリンク(i.imgur.com)
縄文時代の東北から九州にいたる日本では、全人口は縄文中期で最も多く26万人であった。
興味深いのは、関東地方と中部地方で人口密度が最も高いことである。面積が広い東北地方も人口そのものは多い。
全体の傾向として、縄文時代を通じて、人口は東日本に多く西日本に少ない。
基本的に西日本での人口密度は東日本の1/10にも満たず、人口密度が東北地方と逆転するのは弥生時代に入ってからである。
このような人口の対照性は、食料と関連していると考えられている。
野生のイモについては東西日本で大きな違いはなかった。
一方、落葉広葉性のドングリは東日本に、照葉樹林のドングリは西日本に分布しているが、落葉広葉性のドングリの方が単位面積あたりの生産高が高かった。
さらに、三内丸山遺跡などの縄文人にとって最も重要な食料資源であったクルミ、クリ、トチなどの
大型堅果類や河川を遡上するサケやマスなどの資源は、東日本にひどく偏っていることが知られている。
サケやマスの漁獲高は、北海道で特別高く、太平洋側の北関東から東北まで、日本海側の北陸から東北までの地域で高くなっており、
これらは縄文人の生活に非常に大きな恩恵を与えたものと考えられる。
本州のこれらの地域では、上記の食べ物に加えてシカ、イノシシなども多く、狩猟に十分依存した生活を営め、人口支持力が高かった。
三内丸山遺跡からは、その他にカモ、タイ、サメなどの骨も出土しており、副食としてさまざまなものが食べられていたと考えられる。
URLリンク(i.imgur.com)
19:名無しさん@13周年@転載禁止
14/05/09 06:48:41.14 RD2pbkWV0
ヤマトと言う国の東の先にニホンという国があったと
支那の古い文献に残っていたそうじゃないかロマンだな
もともと西の大和朝廷が明治維新以降に東に墓を移して何か隠してるな
20:名無しさん@13周年@転載禁止
14/05/09 06:49:42.43 rsWvuwNy0
縄文人は、漆かぶれにどうやって対応してたんだろう
21:名無しさん@13周年@転載禁止
14/05/09 10:45:13.25 MsRlCZDT0
>>19
神武東征のころ、大阪平野はかつて河内の海だった。
その湾奥、石切神社がある東大阪には日下(くさか)の港があったという。
日下と書いて何故クサカと読むのか。
その理由は、諸説はあるが、本来は福岡の草香の江が元となったと考えられている。
すなわち、福岡の草香と区別して本来は「日下の草香の江」と呼ばれていたものが、
省略され、日下をクサカと読むようになったのだろう。
では、「日下の草香の江」と書いたときの日下とは本来なんと呼ばれていたか?
むかし、縄文人が日本で平和に暮らしていた頃、
北陸地方に天孫から神が降臨した。
もしかしたら中国の公孫(←天孫)たちかもしれない。
彼らはニギハヤヒを自称し、縄文人の王族と融和した。
縄文人の王は ナガスネヒコ、これをアイヌ語で意訳すると
イスキリ となるらしい。石切神社の祭るところだろう。
NAGASUNE の音を読み替えると ナシメ となる。
これが 難升米 の正体と見るむきもある。
その名は、魏志倭人伝に名を残す。
ヒミコの伝説で有名な使者の名前だ。
ナガスネヒコ、ニギハヤヒ、その奥さんのセオリツヒメが
その後どうなったかつまびらかではないが、
神武東征で支配者の座を終われたのは確かだろう。
また、ヒミコ(日巫女=オオヒルメ)たちが初めから
大阪湾の奥から奈良に居たかどうかはわからない。
ひょっとしたら彼らはもともと九州北部にいたのかもしれない。
しかし、いづれにせよ、彼らの居住した東大阪付近こそ、
日下こそが、「ひのもと」、
本来の日本だったのかもしれない。
22:名無しさん@13周年@転載禁止
14/05/09 10:51:09.12 wooAwG5+0
いいね
23:名無しさん@13周年@転載禁止
14/05/09 11:35:13.63 clGNhrtw0
泥炭層に埋まると漆器が腐らずに残ることがある
この遺跡もそうなんじゃないかな
24:名無しさん@13周年@転載禁止
14/05/09 12:03:34.30 2yOat6XU0
日本一万年の歴史
25:名無しさん@13周年@転載禁止
14/05/09 12:42:13.97 93kXryww0
もともと日本の中心は埼玉
26:名無しさん@13周年@転載禁止
14/05/09 12:49:02.29 fR396N9e0
>>1
中央区って浦和か?大宮か?
27:名無しさん@13周年@転載禁止
14/05/09 13:27:50.54 r4iN1mh50
>>26
与野