14/04/26 19:57:58.76 FS7KwE8I0
世界有数の海洋民族である日本の漁師
ジョン万次郎
URLリンク(ja.wikipedia.org)
(前略)
慶応3年(1867年)には、薩摩藩 の招きを受け鹿児島に赴き、航海術や英語を教授したが、同年12 月、武力倒幕の機運が高まる中、 江戸に戻った。
明治維新後の明治2年 (1869 年)、明治政府により開成学校(現・東京大学)の英語教授に任命される。
明治3年(1870年)、普仏戦争視察団として大山巌らと共に欧州へ 派遣される。
帰国の途上、アメリカで恩人のホ イットフィールドと再会し、身に着けていた日本刀を贈った(この 刀は後にアメリカの図書館に寄贈 され、第二次世界大戦の最中に あっても展示されていたが、後に何者かに盗難され行方不明になり、現在はレプリカが展示されている)。
更に帰国途上にハワイにも立寄、旧知の人々と再会を果たした。
帰国後、時の政治家たちとも親交を深め政治家になるよう誘われたが、教育者としての道を選んだ。
明治31年(1898年)、72歳で死去。現在は雑司ヶ谷霊園に葬られており、墓石は東京大空襲で傷つ いている。
社会的影響 [編集]
坂本龍馬も万次郎から聞いた 世界観に影響を受けたと言われ、激動の幕末における影の重要人物である。
アメリカの様々な文物を紹介 し、西洋知識を貪欲に吸収しようとしていた幕末の志士や 知識人達に多大な影響を与えた。
人物 [編集]
奢ることなく謙虚で、晩年は貧しい人には積極的に施しを行い、役人に咎められても続けていたという。
甘いものや、うなぎの蒲焼が好物だったという逸話が残っている。
アメリカとの交流 [編集]
日本にいる万次郎の子孫は、 アメリカのホイットフィールド船長の子孫と代々交流を続 けている。
また出身地の土佐清水市はアメリカでの滞在先となったニューベッドフォード、フェアヘーブンの両市と姉妹都市盟約を締結し、現在も街ぐるみでの交流が続けられている。