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世界有数の海洋民族である日本の漁師
ジョン万次郎
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(前略)
安政元年(1854年)、幕府剣道指 南・団野源之進の娘・鉄と結婚。
藩校「教授館」の教授に任命されるが、役職を離れた。理由の1つ には、もともと士分でない万次郎 が、アメリカ人とも臆することなく対等に交友することをやっかむ 者が多かったことも挙げられる。
また当時、英語をまともに話せるのは万次郎1人だったため、ペ リーとの交渉の通訳に適任とされたが、(オランダ語を介しての) 通訳の立場を失うことを恐れた老中がスパイ疑惑を持ち出したため、結局ペリーの通訳 [1] の役目から下ろされてしまったが、
実際には日米和親条約の平和的締結に向 け、陰ながら助言や進言をし尽力した。
万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准書を交換するため の遣米使節団の1人として、咸臨丸に乗りアメリカに渡る。
船長の勝海舟が船酔いがひどくまともな指揮を執れなかったため、万次 郎は代わって船内の秩序保持に努めた(彼はアメリカ人との対等な交友を日本人船員にそねまれることを恐れ、付き合い方には注意していたとされる)。
サンフランシ スコに到着後、使節の通訳として活躍。帰国時に同行の福澤諭吉と 共にウェブスターの英語辞書を購 入し持ち帰る。
文久元年(1861年)には外国奉行・水野忠徳に同行し、小笠原諸島などの開拓調査を咸臨丸を含む四隻の艦隊で行った。
万次郎が小笠原付近に知識があり、当時小笠 原に住んでいたアメリカ人やイギ リス人との面識もあり、通訳もできるために選ばれた。
文久2年、 幕府の軍艦操練所教授となり、帆船「一番丸」の船長に任命される。翌年には同船で小笠原諸島近海に向い捕鯨を行う。
江戸に帰航後、再度捕鯨航海を企図するが政情不安のため幕府の許可が下りず、翻訳をしたり、細川潤次郎などの士民に英語の教示を行っている。