14/04/19 20:03:18.81 0
(>>1の続き)
空襲の敵機の数と回数についてこう記している。
「大都市では昼間なら1回に20機か30機、夜なら10機」「弾はめったにあたらない。爆弾、焼夷弾にあたって死傷するものは極めて
少ない」「焼夷弾が落ちてきたら、砂や土などを直接、焼夷弾にかぶせ、その上に水をかけ火災を抑え延焼をふせぐ」
米軍が開発したM69焼夷弾は直径8センチ、全長50センチ、鋼鉄製の筒状で「ナパーム剤」と呼ばれるゼリー状のガソリンが入って
いた。5秒以内にナパーム剤に火が付き、その熱で筒が吹き飛ばされて四方にナパームを巻き散らかし延焼させた。850度で粘着性も
あり、一度ついた火は払っても容易に取れなかった。
当時の政府が恐れたのは戦争の恐ろしさを国民が知ること。開戦と同時に、内閣直属の機関「情報局」が「大本営の許可したるもの
以外一切掲載禁止」と発表。大本営発表がうそだとわかっても軍の報道規制が厳しいこともあり、新聞、ラジオ、雑誌は国の宣伝機関
と化していった。
一夜にして10万人が亡くなった東京大空襲を伝える大本営発表は「3月10日零時すぎより2時40分の間、B29約130機主力をもって
帝都に来襲、市街地を盲爆せり。都内各所に火災を生じたるも宮内省主馬寮は2時35分、その他は8時ごろまでに鎮火せり」と、10万人
の犠牲者は「その他」でしかなかった。
防空法の存在を法定で明らかにしたのは「大阪空襲訴訟」弁護団の大前治弁護士。防空法制の研究の第一人者である早稲田大学の
水島朝穂教授と『検証 防空法―空襲下で禁じられた避難』(法律文化社)を出版した。大前弁護士は「空襲被害は避けられなかった
偶然の災害ではなく、当時の政府が選んだ政策の結果として生じたものです」と語る。
(終わり)