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バグラチオン作戦は、第二次世界大戦中の1944年6月22日にベラルーシで開始された赤軍のドイツ軍に対する最大の反撃作戦の名称である。
この作戦の結果、長期戦により兵力を消耗していたドイツ軍は、赤軍の電撃戦に敗走を重ね、
同年7月末までには独ソ戦開始時の国境付近まで押し戻されることとなった。
短期間で空前の規模の戦死者を出したとして『ギネスブック』に記載されるほど、苛烈な戦いであった。
この作戦前に兵力90万人とされたドイツ軍中央軍集団は、38個師団のうち28個師団を失い壊滅的な打撃を受けた。
死傷者は40万人に達し、47人いた将官も31人が戦死・行方不明もしくは捕虜となった。
10万を越える捕虜はスターリンの発案により、決定的な戦果を自国民に示して士気を鼓舞するとともに、
ドイツはもちろん米英からの誇大な数値という疑念や逆宣伝を粉砕する目的で、
モスクワ市街を市民の前で行進させられた後、各地の収容所に送られた。
東部戦線は南北に分断されて事実上崩壊し、以後ドイツ軍は絶望的な防御戦と後退戦に徹することになった。
ソ連軍も17万8千人以上もの戦死・行方不明者を出したが、スターリン、なによりも冷徹なジューコフにしてみれば
その規模の損害は織り込み済みであり、8月以降引き続きバルカン半島(ヤッシー=キシニョフ攻勢)およびバルト三国への進攻作戦を始める。
この攻勢は枢軸国からの離反を誘発させ、8月28日にルーマニア、9月24日にはブルガリアが降伏した。
戦後に向けた動きとして、ソ連は7月23日にモスクワで設立し戦後ポーランド共産党の母体となった「ポーランド国民解放委員会」(PKWN)を、
占領したばかりのルブリンに移転させた(いわゆるルブリン政府)。
8月に入って進撃が止まり、翌年1月までソ連軍がヴィスワ川から動こうとしなかった理由については、
ソ連軍の兵站線が伸び切ったうえ、増援を得たドイツ中央軍集団の抵抗が強まったことがあげられる。
しかし、ロンドンにあるポーランド亡命政府の指揮を受けたワルシャワ蜂起が成功することを嫌ったスターリンが
進撃を一時停止させ、ワルシャワ蜂起軍を見殺しにしたという見方もある(ソ連は蜂起軍に決起は呼びかけたが、赤軍の進撃停止は知らせなかった)