【奈良】卑弥呼の後継者、台与の墓説がある西殿塚古墳に巨大な石積み方形壇 天理市 ★3at NEWSPLUS
【奈良】卑弥呼の後継者、台与の墓説がある西殿塚古墳に巨大な石積み方形壇 天理市 ★3 - 暇つぶし2ch50:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/13 17:19:49.80 RqoP698P0
一大率=イワレ=イワレヒコ

51:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/13 17:51:59.22 eqlHoyH7O
逆でしょ
卑弥呼がそれまでの畿内旧皇族を滅ぼして日本王となったんだよ
だから宮内庁は正確な学術調査進まないようにしてる

52:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/13 17:53:38.87 obEEnr+D0
帯方郡から邪馬台国まで12000余里
そしてその道程は南に海を10日、陸を一月行ったところにある
南に海を10日とは九州上陸地点である末廬国までの行程だろう
となるとそこから南に一月、陸上を移動した先に邪馬台国はあったということだ
つまり邪馬台国は熊本長崎もしくは大分となる
さらに弥生時代の鉄器出土数で日本ベスト5のうち1~4位までを熊本が占めること、
そして古代熊本おいて石の文化が著しく発展していたこと
これらを考えると熊本が邪馬台国だろう

53:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/13 18:32:42.62 qMEO+L+k0
九州説は魏志倭人伝の記載から破綻してます
近畿説は無理やりピースをはめても年代が破綻してます

邪馬台国は阿波で最終決着してます(´・ω・`)

54:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/13 18:35:29.04 UIu0k8ya0
>>52
『晋書』帝紀では邪馬台国を「東倭」と表現している。
また、正しい地理観に基づいている『隋書』では、都する場所ヤマトを「魏志に謂うところの邪馬臺なるものなり」と何の疑問もなく同一視している。
すなわち「魏志」がすべて宋時代の刊行本を元としているのに対し、それ以前の写本の中には、南を東と正しく記載したものがあった可能性もある。

55:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/13 19:38:36.32 9a1JAcCpO
その隋書では倭国の中心は阿蘇山て記述があんだが

56:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/13 19:42:02.67 qMEO+L+k0
距離・緯度・東は海
水銀朱・地5000里

邪馬台国は阿波です(´・ω・`)

57:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/13 20:35:36.93 UIu0k8ya0
>>55
そりゃ中国から見れば火山は珍しいから特筆すべきだろう
しかし中心という記述は無い

58:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/13 20:56:55.66 pCsPUzlT0
南方経由できた高表仁が阿蘇山の噴火に出くわしただけだろう。

59:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/13 20:59:05.28 pCsPUzlT0
>>55
このように九州王朝説は捏造100%でできています。

60:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/13 20:59:25.76 9a1JAcCpO
倭国王に拝謁後にランドマークとして記述したとしか思えないけどなぁ
他の百済や新羅の使者も珍しがってるとか言ってるし

物見遊山とは思えない

61:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/13 21:21:01.36 qMEO+L+k0
時系列で考えて
・紀元前100年頃の日本は100余国からなる国
・西暦57年、奴国が後漢に朝貢し光武帝から金印を授かる
・倭国大乱
・西暦184年、倭国大乱をおさめるため、卑弥呼を女王に共立
・西暦238年、卑弥呼が魏の皇帝から親魏倭王の金印を授かる
・西暦247年、卑弥呼死す
・3世紀初頭、阿波に前方後円墳が築かれる
・3世紀中頃、奈良盆地に大規模な前方後円墳が出現する

邪馬台国は阿波です(´・ω・`)

62:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/13 21:31:21.57 pCsPUzlT0
隋の使者である高表仁は新州刺史。新州ってこんな場所。
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)

だから高表仁は当然台湾から島嶼を伝って九州南部から上陸してきたと思われ、
その過程で阿蘇山の噴火に出くわしたのだろうというのは十分に蓋然性のある推測。

ちなみに、香港あたりをおさめている新州刺史に命令が下ったということは、
隋朝としては、倭国は朝鮮半島あたりなどではなく、はるか南方にあると思っていたという証拠のようなもの。
確証にはならなくても傍証にはなるだろう。

63:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/13 22:03:06.72 HUULOWTv0
みなさん九州論で盛り上がってますか?

64:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/13 22:09:05.69 9a1JAcCpO
すかしてるな

65:王 猛烈@転載禁止
14/04/13 22:12:47.18 GvyzFuV40
>>44
わかってるね。それ正解wwwww
邪馬台国がどこにあったか、それから500年間くらいについては、
俺が一著をまとめる予定だが、命名法はそれだよ。先達の研究と同意見だ。

66:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/13 22:28:16.47 qMEO+L+k0
日本書紀ではツクヨミノミコトが怒ってウケモチを斬ってしまいます
(豊受大神別名が保食神ウケモチです)
古事記ではスサノオノミコトが怒って大宜津比売を斬ってしまいます
ほぼ同じ説話です

大宜津比売は阿波国の別名です
台与は卑弥呼の一族なのは間違いがない
邪馬台国は阿波(´・ω・`)

67:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/13 22:32:58.99 HUULOWTv0
大体、当時九州以外は縄文未開の地でしょ。

68:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/13 22:38:06.28 w/+6MD1NO
やまとは卑弥呼の墓がある三輪山のふもとにあったが正解。

69:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/13 22:45:11.93 mYyRt3qV0
逆に畿内説を推進するサイトないの

70:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/13 22:48:05.07 qMEO+L+k0
>>69
畿内には説よりマキムクがあるでしょ
大和の地が奈良なのは間違いなんだし(´・ω・`)

71:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/13 23:01:57.52 DN9NR9VI0
邪馬台国が巻向遺跡で、百襲姫が卑弥呼なら納得することが多いよ。
百襲姫や天照の伝承から、卑弥呼は殺された可能性が強い。
じゃ誰が殺したのかといえば、台与に天照分祀を依頼した崇神だろ。
崇神はどこ出身かは、この頃から突然表れる前方後円墳が吉備で始まったこと。神武天皇の最後の滞在土地で最も長くいいたのも吉備であること。
つまり吉備出身の豪族だった崇神が卑弥呼政権を簒奪した。
これが天皇家の始まりで都合が悪かった日本書紀には邪馬台国は載せられなかったんだろ。

72:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/13 23:04:52.69 AB/9ID8V0
>>69
>>70のいうように今は纒向の発掘がそのまま邪馬台国の研究になってるから
現在進行で大規模な考古学研究が行われているといえる

サイトから見る文献主体の畿内説だと門外不出の海部氏系図関連の方が面白い

73:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/13 23:12:18.93 qMEO+L+k0
大和は奈良です
台与の墓はホケノ山古墳です

ホケノ山古墳の先例が
阿波の前方後円墳ですから

邪馬台国は阿波です(´・ω・`)

74:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/13 23:19:04.77 /4xENZ0a0
>>72
纏向の発掘費用を集めるための道具として邪馬台国を利用している、が実態だろ。

75:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/13 23:22:58.44 qMEO+L+k0
阿波南部海部地方に勢力をもっていたのが海部氏

阿波に繋がるワケです(´・ω・`)

76:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/13 23:23:49.76 AB/9ID8V0
>>74
推測ばかりで研究する場所すらないんじゃ費用は落ちないのは当たり前

77:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/13 23:24:53.48 +zS9FU1u0
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    ((  ,ヘ,   l::∨○   ○ l:::l::i:|l / 」 ))  キーボードのVとBとNを
        '、/\.i_L""r-‐¬""イi::i|√ ̄\     よく見てみるのじゃ
.         /   .ハルゝヽ、__,ノ_ノ/Li/     〉
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              ル;i=====ミvレ
                  /::::::::::::::::::::::::コ
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78:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/13 23:25:10.08 HUULOWTv0
邪馬台国九州説はロマンがあります。
成立年代不明の古い神社も多いし邪馬台国は吸収です(´-ω-`)y-~

79:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 00:08:39.30 GVupCr8K0
畿内説

 三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡だー
  … 大きさから魏で作られた鏡じゃありません。

 箸墓(前方後円墳)が卑弥呼の墓だー
  … 卑弥呼の墓は径百余歩の「冢」=円墳。

 纒向が卑弥呼の都だー
  … 纒向は宗教施設。居住生活した様子がありません。

 邪馬台国が大和朝廷の前身だー
  … 卑弥呼も壱与も記紀に出て来ません。

80:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 00:13:40.44 GVupCr8K0
畿内派は倭人伝を「当時の列島の中心は邪馬台国」と勝手に拡大解釈して
「だから列島の主役たる大和政権の前身」としたくて躍起。


ところが倭人伝は「列島の中心は邪馬台国」と記してるわけではないw

魏に「戦争に負けそう!助けて!」と泣きついてきた豪族に
とりあえず使節を送った見聞録。

地方豪族なのか、他にもっと栄えた中心が無かったのか、何も記してないんだw


だから同時期に
近畿に大遺跡があろうと
近畿から前方後円墳が広まろうと
そもそも邪馬台国と関連つける論拠にならないんだw

81:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 00:16:13.91 Vg1tkg4O0
>>71
勝手に納得しとけwww

82:名無しさん@13周年@転載禁止@転載禁止
14/04/14 00:38:57.21 +04olR3F0
魏志倭人伝に書いてある国は現在の郡に相当する広さのようだな。
すると邪馬台国は20数カ国の頂点の国だから奈良にあるとすると
北部九州までが支配下ならば20数カ国では少なすぎると思う。

83:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 00:39:21.84 9RAmm3w+0
名前が2つあるのは変だし、古代の日本は「壱与と台与」という双子の幼女が
W女王として君臨していたという設定にしてくれ

84:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 00:47:18.50 C68sogHD0
魏志倭人伝なんか、朝鮮半島南部に住んでる倭人に聞いた話を元に
適当に書いたものだからw
信用出来るのは地名くらいだよ
陸行何日、水行何日とか全部適当な数字w

85:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 00:54:56.28 nGqceMMs0
邪馬台国は別府だよ。

86:名無しさん@13周年@転載禁止@転載禁止
14/04/14 01:03:38.76 +04olR3F0
>>84
日本人が書いたのならば信用出来るが中国人が書いたのはどこまで信憑性
があるのかな。

87:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 01:04:41.45 I7DSoOkH0
>>85
それはいいのう。夢があるのう。男のロマンじゃのう。
ちなみに秘宝館が潰れたのは残念。(´-ω-`)y-~

88:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 01:06:24.46 uAiEIiai0
>>35
大タタネコの故地とされる東河内にも南の陶ムラ周辺にも
猿田彦は昔から見当たりませんよね

89:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 01:29:12.58 h3cMpfvA0
倭人伝は軍事偵察報告を元に書かれ、
だから正確と判断すべき。

魏呉蜀の三国対立する緊張下、
倭は島々に展開していたから
水軍の弱い魏から見て、
味方にすれば強力な補完勢力
呉につかれれば背後から挟み撃ちにされかねない、
情勢を把握せねばならなかった。

派遣された張政は
魏正規軍を示す黄幢を授けたとあり、
その権限がある武官(塞曹掾史)。


www.kurumi.sakura.ne.jp/~mmrnet/yamataikoku/yamataikoku4.html
塞曹掾史は、国境守備隊長のような役割であり、
実務経験の豊かな下級武官と考えられる。

90:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 01:44:19.10 h3cMpfvA0
「一万二千里」 「水行十日陸行一月」について、

対馬 → 一大国 が一千里、
一大国 → 末羅 が一千里、
したがって1里は約80m。

すると
「一万二千里」
「水行十日陸行一月」
ともに1000km弱の全工程
として矛盾ない、

だから「どちらも全行程」でほぼ間違いない。

91:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 02:29:04.99 ZV2zQmoBO
そもそも場所なんて本質的な問題ではなかろう
常に定位置とは限らないし
それより権力の推移が重要

92:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 02:35:14.53 /PsO5eRf0
新たに卑弥呼当時の遺跡が出てきて、
その遺跡から文字資料が出てこないと永遠に決着がつかんな

93:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 02:50:05.57 mLskI9nl0
卑弥呼の墓があるところが邪馬台国。日本のどこかにある。徹底的に探してみないか。
怪しいところは全部住民どかすとか神社だろうがなんだろうがひっぺり返して
徹底的に探せば見つかるはず。

94:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 03:00:01.13 xUJwANow0
>>77
「ひ」「こ」「み」

95:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 03:25:40.90 +f2nAIGd0
>>77
ひこみかわいいよひこみ

96:名無しさん@13周年@転載禁止@転載禁止
14/04/14 04:08:52.36 +04olR3F0
邪馬台国支配下の国数が20数カ国と言う事は福岡、佐賀、長崎、大分
山口西部が邪馬台国支配下だったと思う。邪馬台国の南は狗奴国だから
それは熊本県鹿本地方の事だろう。邪馬台国は筑後地方の瀬高付近かも
しれないし、久留米付近か宇佐付近かのどれかだろう。

97:名無しさん@13周年@転載禁止@転載禁止
14/04/14 04:34:32.21 +04olR3F0
久留米の近くにはヤマトと呼ぶ地名が2カ所あり、佐賀県大和町(現神埼市)
福岡県山門郡瀬高町(現みやま市)がある。江戸時代の秀才本居宣長は
瀬高町を邪馬台国と比定した。みやま市のHPにも卑弥呼の里へようこそ
と書いてあるので瀬高が邪馬台国の中心地と決定した。
もう議論の余地は無い。

98:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 04:45:36.62 NkMlAO5Wi
もう聞くに堪えん!!

●当時の日本列島は九州が上で北海道が下と考えられていたんだ。
 つまり時計回りに90度回転した姿。これに当てはめるとドンピシャ
 畿内説が正解となる。分かったかな・・園児たちよ

99:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 05:15:26.79 39c+JSC3O
邪馬台国がどこにあったかよりも、当時の日本各地に、かつて想定していたよりも多様な結合様式が存在していたという事実こそが、歴史学には重要

邪馬台国を発見することが目的となったが為に、発掘調査それ自体が恣意性の高いものになってしまうことが最も危険だ

100:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 06:01:27.84 b83ypXSt0
奴国は福岡
邪馬台国は熊本
投馬国は宮崎
狗奴国は鹿児島

でFA

101:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 06:24:38.03 I7DSoOkH0
今日も九州説で快調に飛ばしましょう。(´-ω-`)y-~

102:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 06:53:24.14 mfB+t0ud0
日本人はずーっと四方を海で囲まれ小さい日本列島に住み続けてるのに
千年や2千年前のしかも日本人の頂点に立ってた人にこともわからないとはね
アホすぎ

103:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 08:12:04.11 ixG9kMFw0
>>79

三角縁神獣鏡が国産だったら、3世紀の畿内では銅鏡を作れる技術があったということですか?
あんな精巧な模様や漢字を金属に加工する技術が畿内にあったとは。

あんな巨大な前方後円墳を作るには、相当な労働力と日数と権力が必要ですね。奈良県の狭い地域だけであんな
巨大な古墳を作る労働力や財力があるのでしょうか?

宗教施設というのは、国家をまとめる中枢のようなものではないですか?

104:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 09:43:03.74 Q5Wmoy5h0
>>82
古代ギリシャの都市国家同盟もそんな感じではなかったか?

デロス同盟(アテナイ海上帝国)
URLリンク(upload.wikimedia.org)
日本と欧州の比較図
URLリンク(4.bp.blogspot.com)
MapFightで日本とギリシャを比較
URLリンク(mapfight.appspot.com)

それに、漢代に100ほどと言われたのが三国時代には20にまでまとまったという話だ。
都市国家といっても主都市と服属都市(集落)のセットだろ。
大陸の春秋時代的な感じだな。記録上、主要諸侯の都市国家の露出が大きい。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
URLリンク(blogs.c.yimg.jp)
URLリンク(www.h7.dion.ne.jp)
URLリンク(www.ofko.jp)

105:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 11:40:59.34 q09vFfh20
三角縁神獣鏡は銘文以外はほぼ呉鏡。
www.geocities.jp/taru638/page040.html

魏の年号が入れてあるのに
銘文が魏で普通の韻を踏んでおらず
大陸のまともな工房で作られたものでは有り得ない。
yamatai.cside.com/tousennsetu/innritu.htm
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10113968125
bell.jp/pancho/travel/izumo/kanbara%20jinja.htm

列島側で漢文は「まあ読み書きできる」程度の者が銘文を書いている。

呉の技術者が渡来して列島にも工房を構え、
政治的理由で魏の年号を入れたものを造らされたと考えるべき。

106:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 11:48:36.65 N+0M4x4f0
常識で考えたら卑弥呼はメヒコから来た渡来人だろ。

107:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 11:52:49.54 q09vFfh20
常識で考えて
卑彌呼も卑彌弓呼も
倭人伝の時点で西日本一帯の覇者ではない。

108:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 11:56:15.10 jk7reVhC0
邪馬台国って朝鮮半島の南部も支配してたんだろ
機内が本拠だったら一大帝国だな

109:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 12:09:10.10 N07LVYif0
>>92
諸氏百家。小国家集合体の国体から生まれる。
日本はイザナギイザナミの神話から続いている。

110:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 12:09:58.40 2z6ZDotF0
>>98
帯方郡の使者は卑弥呼のいる都のある邪馬台国を目指してくるわけで、
しかも邪馬台国から遠く離れた国々については詳しいことはわからないとしている
すなわち、魏志倭人伝に書かれた倭の記述に関しては邪馬台国周辺の文化や様子を書かれたものと考えるべき

男子は皆顔や体に墨や朱を塗って刺青をしている。
倭地は温暖で冬夏生菜を食す。皆裸足である。

これらの記述を見るに南方の風俗としか思えないが・・・
どうもチブサン古墳の壁画を残した人々に共通するものがあるように思う
やはり邪馬台国は九州にあったように思われる

111:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 12:33:43.50 2z6ZDotF0
熊本には「火君(ひのきみ)」という豪族の伝承が各地に伝わっている
この火君一族の長こそが卑弥呼だったのではないか?

実際、向野田古墳では昭和44年に朱に染められた長大な石棺の中から女性一人の骨が完全な状態で多くの副葬品とともに見つかっている
この石棺の長さは4mもあり全国でも2番目に長いと言われる
女性が単独で古墳に埋葬されるのも極めて珍しい
相当高位の人物であったことがうかがえる

112:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 12:45:04.45 BCovcBOi0
>>79
でも三角縁神獣鏡には魏の年号(景初3年)が彫られているし、中には徐州で取れた
石を加工して陳氏(漢人)が洛陽で作ったと書かれたものすら存在するんだけどな

113:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 12:45:58.84 Q5Wmoy5h0
>>110
>男子は皆顔や体に墨や朱を塗って刺青をしている。

これは海人の風俗でもあるが、それなら瀬戸内や南紀、東海も範囲になるぞ。

114:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 12:48:44.19 BCovcBOi0
>>105
そして、呉の年号である「赤鳥」の文字が記された本物の呉鏡も出土している
後漢の霊帝時代の漢鏡も出土している
だが蜀鏡は日本にはほんのわずかしか存在していないようだ

115:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 12:53:08.81 2z6ZDotF0
邪馬台国とは山大国、すなわち阿蘇山を象徴とした阿蘇~菊池周辺地域のことです

116:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 13:12:52.98 cdeAlq3x0
>>106
アスカとナスカは地下でつながってるというアニメがあったなぁ。

117:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 13:20:39.13 ZV2zQmoBO
>>107
だからそれ以後西日本の覇者となる経緯が記されてないだけだよ
なんらかの理由で

118:名無しさん@13周年@転載禁止@転載禁止
14/04/14 13:25:19.89 +04olR3F0
邪馬台国は福岡県山門郡瀬高町(現みやま市)で決着しているんだよ。
新井白石や本居宣長もそう結論づけている。そして邪馬台国と支配下の軍隊が
東征して瀬戸内の国々を従えて近畿地方の豪族と対決して勝利し、ヤマト朝廷
となるんだ。

119:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 13:36:47.70 ixG9kMFw0
>>105

じゃあ、畿内には中国人の技術者が住んでたんだね

120:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 13:48:22.73 Qw1CjpvZ0
>117

巨大な箸墓古墳(全長280mの前方後円墳)を
卑弥呼の墓とするのは無理という事。

> 卑弥呼以死 大作冢 徑百余歩

これは直系70mくらいの円墳。

121:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 13:49:37.27 1abmo7Bm0
日本人ってD2とO2ばっかり
沙沙貴君がD2
O2が呉越か?
D2が神別、皇別
O2が諸蕃か?
でも、諸蕃なら、呉(O2?)や劉(O3?)などの漢や秦氏(O2?)と、百済(C3?)や高句麗(C3?)が半々づついると思うから
O2と同じ割合でO3やC3もいなくちゃおかしいよな?
でも、ほぼドンピシャの割合だっけか?

122:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 14:00:57.18 1abmo7Bm0
日本では百済系、高句麗系(C3?)は少ないな
むしろ、O2やO3の呉越、秦、漢だけで半数超えてる

日本は龍の国だから、D2なのは間違いないが
O2O3もかなり多いとなると
D2がO2O3を従えてたと考える
そういえば西日本は昔、大漢国って呼ばれてたよな

ということは東日本の高天原がD2帝国で
西日本の豊葦原中国はO2O3の王国だということだ

だから国譲りして、ニニギが豊葦原中国の領有権を主張し出したんだな?

中国大陸も領有権主張しようぜ

123:名無しさん@13周年@転載禁止
14/04/14 14:06:06.14 Qw1CjpvZ0
>122
「日出処天子至書日没処天子無恙」云々としたため
中華の覇者(天子)たらんとした
ツワモノが7世紀にいたよ。


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