14/03/25 17:58:07.23 JUoV+88K0
>>485
それ宮中の賢所に奉置されててた形代
内侍所の神鏡は天徳4年(960年)、天元3年(980年)[3]、寛弘2年(1005年)に起こった
内裏の火災により焼損している。天元の際に半ばが焼失し、鏡の形をとどめないもの
となった。寛弘の際には、ほとんど灰になってしまい、やむなく灰の状態のまま保管した。
このため直後から鏡を改鋳する議論が持ち上がり、諸道に勘文を提出させた。
翌寛弘3年7月には一条天皇御前で公卿会議が行われ、左大臣藤原道長が
改鋳を支持したものの、公卿の大半が反対したため改鋳は行われなかった。
その後、平家の都落ちとともに西遷し安徳天皇とともに壇ノ浦に沈み、それを源義経が
八尺瓊勾玉とともに回収したものが今日も賢所に置かれている。