16/01/25 22:42:17.35 WjBv5ReU.net
従って子供は生まれながらにして悪い考えも、良い考えも持ち合わせていない。ただ大人になれば認められる、
なんというか鉄腕アトムになりたいとかサッカー選手になりたいとかいう感情で、根源的には大人の模倣と言う特質を兼ね備えていると考えている。
考えて見れば当然と言えば当然で、子供は何も経験していないのであるから大人の模倣をして経験を取り入れるしかないのである。
そうやって歩行も、言葉も覚えていくのだろうし、遺伝的にも当たり前だ。
ところが儒学者が性善説を唱えるとどうだろうか?悪い影響を受けないようにと社会風土に触れさせず、儒学者の善を一方的に押し付けられたら、そんな子供は社会と自我のバランス、
社会の中での自分の歯車としての立場を想像することができず歪んだ大人になるに決まっているのだ。これが朝鮮人の根底にあるとみている。
義・・・義は恐らく歪んだ大人になれない独裁者によって決められてしまう運命だ。
民衆が集合体の公益性を想像しても手遅れなのだ。
礼・・・経験のない歪んだ子供を甘やかすだけだ。民衆はここで経験のない信頼できない独裁者を見限るべきだ。
智・・・歪んだ支配者の偽物の学問など覚える必要がない。
信・・・歪んだ支配者を信頼してもつけあがらせるだけだ。真面目に生きた分だけもっと支配者がつけあがり、もっと酷い支配になる。
もう、信じるな。
以上だ。
儒教とはあらゆる意味で、支配者の質によるところが大きすぎるとても危険な思想だと感じる。
その分、ある意味統治理論としては恐ろしく高い完成度を誇っていると認めざるを得ない。
こうやって見ると、カルト宗教の思想も理解できてしまうから不思議だ。