09/06/16 19:08:01 0
しつこいなこいつ
前スレの最後の方でみんなに叩かれたのに懲りないやつだな
3:世界@名無史さん
09/06/16 19:16:46 0
いきなりカオスで終わったので
もうちょっと冷静に議論しましょう。
4:世界@名無史さん
09/06/16 22:41:00 O
任那日本府なんてなかったと結論は出たはず
このスレ終了
5:世界@名無史さん
09/06/16 22:53:16 O
どうも朝鮮関係になると荒れるね。
まったく関係のない話題を延々と続けたり、
でも、その中でも冷静に表をだしたり、資料をだしたり、
きちんと理論を繋げられる人もいたので、そういう方に敬意を表したいです。
6:世界@名無史さん
09/06/16 22:58:30 0
>>4
とか言いつつ上げたりして、このゥ ( ´∀`)σ)´Д`) プニ
日本府よりも任那四県、栄山江流域関連のほうが良い議論になってたね。
7:世界@名無史さん
09/06/16 23:54:35 0
>>4
なかったという結論じゃないだろ。
前スレの最後は、現段階で植民地政府などと結論するのは阿呆ということで大団円。
たいした根拠もなく植民地と言い張る抵抗者が一人いたが最後は無視された。
8:世界@名無史さん
09/06/17 00:17:17 0
どんな役割であれ、存在しなかったという証拠がないんだから
教科書から消すのはおかしい。
9:世界@名無史さん
09/06/17 00:21:33 0
リテラシーないやつがまた出てきたな
10:世界@名無史さん
09/06/17 00:23:49 0
存在しなかったという証拠がないからあるんだっていうのは
いくらなんでも酷いだろjk
11:世界@名無史さん
09/06/17 01:21:41 O
親百済派の豪族が百済にプレゼントした事実から、朝鮮半島南部の任那は日本の物だった。
12:世界@名無史さん
09/06/17 02:05:09 0
>>10
半島南部が倭の領土だった状況証拠はいくらでもある
というより、古来より倭人が住んでいた土地という意識さえみてとれる。
だが、植民を目的とした辺境という意味での植民地、を想定しているのなら、おそらくここの誰も言っていないだろうが
当時の倭王政権は中央集権的な機構を構築できていないのだから、まちがっていると言えよう。
その点では皆コンセンサスがとれている。
ここで議論されていたことはそんな低レベルの話題ではなくて
任那は、大和の倭王直下の支配秩序には組み込まれていなかっただろうが
倭人世界の一部であり、当時刃向かう倭人勢力はいなかったであろう大和国家連合に間接的に
支配下に置かれていた地域であり、一時期倭王の勅命をうけた使節が来て
倭王が直接イニシアチブをとろうとした地域であるということだろう。
13:世界@名無史さん
09/06/17 02:11:40 0
>>12
言いたいことは分かるが、>>8の論法は史学的にありえんだろ。
14:世界@名無史さん
09/06/17 02:19:11 0
任那日本府という定義によるだろう
わざと狭義の意味をつくりあげ、そういう日本府は存在しないとして
教科書から消すのは、わら人形論法といって詭弁だ。
>>8は説明下手だが、まったくおかしいとはいえんだろう
15:世界@名無史さん
09/06/17 02:48:59 0
そもそも、外国ならまだしも日本という国において国史の記述を尊重しない態度が異常としか思えない。
慰安婦の定義は広義に解釈し、戦争犯罪に国家が荷担していたとうそぶき、
対して、半島がかつて日本の支配下にあったという記述に対しては狭義の意味をあてはめて
そんなものはなかった、日本がまた歴史を偽造したのであるとセンセーショナルに報道し
日本が悪である証拠として世間に流布するっていうのは、あきらかにこの国が他国に屈従している証拠だよ。
しかも、戦後教育の流れとして知識人がそういった思想背景の中で育てられたという自覚すらせず
それが普通の思考方法であると洗脳されていることにものすごい危機感を覚えるな
ま、おれはどうでもいいが。
16:世界@名無史さん
09/06/17 06:36:02 0
>>15
そういう話は該当スレでやれ…。こういう忠告をあと何回するのか
と思うと、気が滅入る。
17:世界@名無史さん
09/06/17 07:34:45 0
>>15
武寧王が倭に送られた人質の子であったことは墓誌の享年などからみても、日本書紀の正確さ
を裏づける。『三国史記』にも同様の記載があるから間違いないとみてよい。これは、議論の
余地がないから教科書には掲載すべきことではあるが、日本府の場合、あまりに不明瞭な点が
多く、諸説紛々としている。こういうことは、教科書に掲載すべきことではないだろう。「狭
義の意味をあてはめ」という論は、かなり筋違い。狭義に限定できるほど硬い事実なら、掲載
すべきなんだが、実際はそこまで硬い事実じゃない。
18:世界@名無史さん
09/06/17 07:38:33 0
アホか、なら沖縄戦の件はなんなんだよ
ダブスタも甚だしくて話になんねえww
19:世界@名無史さん
09/06/17 07:45:06 0
素人でもかんたんに論破できる現教科書の不公平性てなんなの?
こうも取り繕えないほどなめた記述を許している今の日本おわってるな
学問やってるんじゃなくて大学の経営やってるだけだから仕方ないか
公職追放おそれて学説かえるくらいの人間しかいないもんな
20:世界@名無史さん
09/06/17 07:58:26 0
>>18
沖縄戦の話は該当スレでね。つーか、>>17は別に沖縄の
おの字も出してない。議論をすり替えるな。
21:世界@名無史さん
09/06/17 08:08:20 0
17「日本府の場合、あまりに不明瞭な点が 多く、諸説紛々としている。こういうことは、
教科書に掲載すべきことではないだろう」
18「アホか、なら沖縄戦の件はなんなんだよ 」
どうやら、議論する知能がない人間が一人混ざってますねw
22:世界@名無史さん
09/06/17 08:10:17 0
同じ教科書の話をしているのだから、まったくすり替えではないのだが。。。
さらに、苦言を呈するなら、専門馬鹿がひとつの対象にのみこだわって、全体的な歴史の流れをせず
疑わしい部分のみをわざわざとりあげてゆけば学問的に好奇でおもしろいのかもしれんが
既存歴史観の破壊が目的ならいざしらず、全体的な整合性を無視していくことは歴史学においてはありえない。
雑談でここまで高度な内容を求めるのは酷というものだが
なにやら学問をふりかざすアホがいるので学問的態度のなんたるかを教えといてあげるね
23:世界@名無史さん
09/06/17 08:16:54 0
>>22
だから、沖縄戦と任那日本府混ぜてどうすんだって。しかも、誰も
沖縄戦の話なんてしてねーよ。例えば、>>17は任那日本府が不明瞭
で駄目なら、沖縄戦だって駄目って立場かもしれないじゃん。
相手が言ってもいないことを、さも言ったかのようにミスリードしたり
レッテル貼ったりするのが馬鹿げてるって指摘してるの。歴史観以前の
問題。
24:世界@名無史さん
09/06/17 08:30:20 0
さらにまだまだ教科書には問題がある
たとエヴァ、天武天皇の母親が百済系の血を引いているという記述をわざわざあげること。
天皇の血筋において母方にどんな血がまじっていようとたいして重要な歴史事実ではないのに
ただでさえ薄くなってきている歴史の教科書で取り上げる内容ではない。しかも、百済系というだけで
百済人の一世ではない。完全に日本人化した百済系日本人であり、当時の日本ではごく一般的な
日本人の一人である。
しかも、百済がほろびたあと、日本が沿岸の防備を行った際、百済人がこれを監督支援したと教科書は
書いているが、亡国の人間がそんな居丈高な地位にいるわけがないだろ。
そもそも日本は百済を助けようと思って巻き込まれたんだぞ。
普通に考えて、日本に保護された感謝から尽力したとうけとるのが文脈だ。
さらに、元寇の記述にしてもいまだに神風で偶然助かったという内容だし、
高麗は日本を攻めるようモンゴルに奏上しているのにそこはのせず、高麗が初期モンゴルに
抵抗したために元寇の時期が遅くなり、そのおかげで日本は助かったんだという記述をのせている。
こいつらまともに歴史の本書く意志ないだろ
25:世界@名無史さん
09/06/17 08:32:02 0
>>23
いやいや、沖縄戦が駄目なら、教科書で任那日本府の記述が消されている理由に
別の理由が考えられるってことだろうが。
おまえ頭が弱すぎるだろ
26:世界@名無史さん
09/06/17 08:45:06 0
>>25
だから、沖縄戦の話を持ち込んでも>>14が言うところのストローマンで
慎重派への反論になってないってこと。
27:世界@名無史さん
09/06/17 08:45:50 0
とりあえず、教科書の問題は長くなるからおいておこうか。
現在、任那日本府の定義について学問の世界において一定せず
その解釈が諸々紛糾していることは誰もが認めるところだろう。
ある、ないも含めて、すでに前スレにて話し合ったから今さらここで議論するまでもないが
NHKの報道を含め、現在の任那日本府についての一般に認識されている見解には
さまざま問題があるところが多いように思われる。
こんな展開だったと思うけどな。
28:世界@名無史さん
09/06/17 09:16:29 0
>>12
>半島南部が倭の領土だった状況証拠
領土?倭の定義にもよるが、これが大和政権のことだとすれば、その領土だった証拠なんかないよ
29:世界@名無史さん
09/06/17 09:58:06 0
古代で証拠が見つかる方が希だろ。その当時の日本ですら、見つかるものといえば古墳と集落跡くらい。
それらは誰が造ったかはっきりしない。
30:世界@名無史さん
09/06/17 10:58:05 0
証拠がなかったら断定してはいけないはずだな。
31:世界@名無史さん
09/06/17 12:17:36 0
十七条の憲法も大化の改新も疑わしいのに教科書は肯定的に記す。一方で任那日本府だけは否定的に記すか、
スルーが最近の傾向。日本の教科書はおかしいな
32:世界@名無史さん
09/06/17 12:38:04 O
任那日本府については少なくとも諸説が紛糾していて何一つ断定ができない状態
それを存在した前提で「半島南部は日本の植民地」とか「百済も新羅も日本の属国」というのは
あまりにも偏った見方であると言わざるを得ない
現状では任那日本府がそもそも存在したかどうかもわかっていない
33:世界@名無史さん
09/06/17 12:59:32 0
公館らしきものはあったことはあったが、それが定常的な状態だったのか不明
ましてやいわゆる「日本府」と戦前から呼ばれているようなものは、「日本府」自体が近代の造語だからね
34:世界@名無史さん
09/06/17 13:00:54 0
失礼
×近代
○後世
35:世界@名無史さん
09/06/17 15:40:53 0
519 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:2009/06/02(火) 12:46:11 0
【文章化版】
ETV特集 日本と朝鮮半島2000年(2)
「“任邦日本府”の謎」
URLリンク(7538315.web.fc2.com)
36:世界@名無史さん
09/06/17 18:54:42 0
>>32
必ずしも最近の教科書は十七条の憲法も大化の改新も肯定的には記載していないよ。
聖徳太子は、厩戸皇子の呼称が増えてきているし、改新の詔については、郡評論争を
載せている。ただし、天智の諸改革が645年の乙巳の変の直後でなくて、663年の白江
村の戦いの後だとしても、諸改革があったこと、それが天智を主導として行われたこ
とは確かなわけだ。それに対し、任那倭府(日本府)の場合は、隣国の反発の有無に
かかわらず、その目的や性格、設置や廃止の年代等不明な点が多い。教科書への記述
はもっと外堀が固まってからでもいいんじゃないんだろうか。
37:世界@名無史さん
09/06/17 18:56:51 O
倭が朝鮮半島で活動し、百済を臣下にしていた事は史料や遺物から明らか。
倭が朝鮮半島に進出していなければ高句麗と衝突しようがない。
さらに雄略天皇は南朝鮮の一部が百済にプレゼントされ、百済は再興している。
倭のものでなかったならば、プレゼントできるであろうか。
38:世界@名無史さん
09/06/17 19:32:58 0
状況証拠としては概ねそういうことは言えても、だからといって「任那日本府」という呼称の、
倭王直属の直接統治機関があったというふうに結論されるわけではないでしょう。武力進出と
人質の件は記載すべきだが、あやふやで異論の多いものを断定的に記載したのでは、学問から
遊離した教科書になってしまう。
39:世界@名無史さん
09/06/17 19:38:08 O
いずれにせよ、真実探究の精神を、韓国に売り渡したくない
40:世界@名無史さん
09/06/17 19:50:04 0
>>30
日本書紀に倭府の存在が書かれている。文献が証拠。
現代解釈はどうあれ、当時の記録を優先して書くのは歴史学の基本。
>>31
任那日本府だけでなく、大化の改新も現代解釈によって修正されている例の一つ。
聖徳太子がいなかったなどという説がまかり通り、厩戸皇子と早々と書き換えてしまうのは
どうかと思う。日本に対して、肯定的に記している箇所が多い、、もっと否定的に記さなくてはいけない
という視点で教科書を記述することが中立的な態度ではない。
日本の教科書なのだから、日本側から見た当時の記録を書けばいいだけ。
聖徳太子の存在があやしいのなら、文字を消すのではなく、注釈を書けばいいだけなんだよ
41:世界@名無史さん
09/06/17 20:47:11 0
もちろん「聖徳太子」の呼称は消えていないけどね。括弧書きや注釈で対応というケースが
多いようだ。
42:世界@名無史さん
09/06/17 20:50:51 0
>>40
史料批判は必要ないってことですか?
43:世界@名無史さん
09/06/17 21:07:51 0
史料批判するなら、その史料を覆すような別の文献又は遺物が無いとな。
この前のETV特集は史料も遺物の説明も曲解過ぎたし
44:世界@名無史さん
09/06/17 21:32:51 0
韓国人に言わせとく番組らしいね
45:世界@名無史さん
09/06/17 21:34:42 0
>>43
ETV特集の話はカンケーないでしょ。歴史研究において史料批判が必要なのかどうかの話
でしょ。史書に叙述されていれば、教科書には何でも書くべきだって意見だったのでは
ないの?
46:世界@名無史さん
09/06/17 21:54:33 0
>>45
おいおい、勝手に他人に当たるな
おれは史料批判するなとは一言も言ってなかったので無視してただけだ。
なされた史料批判にそれなりの妥当性があれば
歴史のメインストリームを教えるはずの教科書において、脚注や括弧付きで補足し説けばいいだろ
基本当時の自国の歴史書をそんちょうするのは当たり前。
47:世界@名無史さん
09/06/17 21:57:57 0
>>46
>基本当時の自国の歴史書をそんちょうするのは当たり前。
あ~あ、韓国面に堕ちた人間がまた一人…。
48:世界@名無史さん
09/06/17 22:01:19 0
>>47
イミフ
韓国は当時の史料すら、ねじまげとるやんけ
おれは日本書紀を自国に都合の良いように解釈しろとは言ってないぞぃ
49:世界@名無史さん
09/06/17 22:14:09 0
つーか、史料批判と言っても一次史料か否かで随分と
印象が違うはずだし、国の正史だからは問題になるのかね。
いまいちかみ合わないのは、慎重派が科学的な事実から
述べているのに対し、教科書に載せろ派は理念から入ってる。
ID信者と進化論支持者の議論のようなもん。
50:世界@名無史さん
09/06/17 22:21:37 0
>>49
理念で語ってるのはどっちも同じだろ。掲載派の論法が
あれなだけで…。
51:世界@名無史さん
09/06/17 22:54:23 0
なんかすぐどっちも理念だからって相対化して既存概念に譲歩を求めるのってアホサヨクのやり方だよな
52:世界@名無史さん
09/06/17 23:00:16 0
歴史学ってのは、基本一次資料としての歴史を尊重しながら、
遺跡からの発見によって、その整合性を考証していくってのが筋なんだけど
なんだか、今学界の主流はこういう意見ですと言っては
どんどん教科書の改訂をしていくやり方ってのはその時代の政権というか、それに影響をうける学界の権威
にもろ屈従してるだけだよな。NHKの偏向なんてまさにそれだし。
53:世界@名無史さん
09/06/17 23:05:08 0
でも『日本書紀』は編纂物だから一次史料ではないわな
54:世界@名無史さん
09/06/17 23:14:03 0
アホだなこいつ
55:世界@名無史さん
09/06/18 06:11:19 0
>>52
そんなに教科書の改訂が頻繁におこなわれるわけではないが、改訂の際には、新発見
の事実や研究成果の深まりが反映されるのは当然のことでしょう。執筆者・監修者は
学者(研究者)なのだから、改訂を行う場合には、その観点でなされる。荘園の発達
と武士のおこりの単元などはだいぶ叙述が変わったし、中世のはじまりは現代では院
政期におかれることが多い。学問の領域に政治が介入するのはあってはならないこと
だが、別段、「学界の権威」などというものがあるわけではない。
56:世界@名無史さん
09/06/18 07:53:21 O
オレはあくまであったと信じる。
なかったという証拠が出ない限りはな。
57:世界@名無史さん
09/06/18 08:45:15 0
いつまで任那日本府があったなかったなんて低次元の言い合い続けているんだよ。
そんなくだらない話はもう聞き飽きたんだよ。任那日本府が存在したなんて
小学生が考えても一目瞭然だろ。くだらない御託はいいから議論をその先に進めろ。
58:世界@名無史さん
09/06/18 08:45:43 0
「客観的に見て存在したとは信じられない」というモロ主観的な思いこみを堂々と発言する某有名歴史学者もいる
59:世界@名無史さん
09/06/18 08:50:38 O
まさに信仰だな
60:世界@名無史さん
09/06/18 10:19:54 0
日本府がなかったなどと言うやつは国賊だから死刑にしてもいいと思うよ
61:世界@名無史さん
09/06/18 11:12:01 0
百済も新羅も小国乱立っちゃあ小国乱立だけども、現地勢力の中に盟主格があった。
任那は特にひどい小国乱立状態で現地に抜きん出た盟主が無いから西海道大宰府が
盟主をやっていた。
百済・新羅の盟主も日本に臣従していたけれども、抜きん出た盟主の無い任那の小国
の方が直参の扱いで格が逆転して上になってしまっていた。
奇異に聞こえるかもしれないけれど、国の下の郡よりも、県の方が格が上で、
白村江の直前に、任那から百済に移された四県が叛乱をおこしたのも、直轄地(本国の一部)
である県から、百済という国の下に移され郡に格下げになることに首長が不満を持ったから。
62:世界@名無史さん
09/06/18 12:29:12 0
>>61
おもしろい着想ではあるが、中国史の常識では、県が集まって郡になるんだよね。
63:世界@名無史さん
09/06/18 14:40:11 0
ん。
脱線するけど、現代日本で、県の下位に郡があるのを中国人は奇妙に感じるらしい。
64:世界@名無史さん
09/06/18 15:55:31 0
>>63
日本人の俺でも違和感あるわ
65:世界@名無史さん
09/06/18 16:03:20 0
県が設置された当初は日本に300以上の県があった
それが統合統合で今のような大きさになった経緯があるからな
66:世界@名無史さん
09/06/18 16:39:37 0
日本府に相当するものはあったろうが、大宰府はないな。時代が違う。
67:世界@名無史さん
09/06/18 17:27:53 0
>>65
というより、律令制度では中国と同じく国郡制で江戸時代まで来て、
明治政府が新たな地方制度を構築するとき「県」という名称を国郡制に
関わらず使い始めたのがそもそも。
明治時代の住所表現は
「神奈川県武蔵国南多摩郡八王子町宮下町」
68:世界@名無史さん
09/06/18 17:36:49 0
だから一つの国に複数の県があるのは当たり前で
それどころか一つの郡に複数の県があることもあっただろ
69:世界@名無史さん
09/06/18 18:56:52 0
長野の小県は昔の県の名残なのだろうか?
日本で県(あがた)てあんまきかんよな
うちの地元も郡(こおり)だし。
70:世界@名無史さん
09/06/18 20:36:38 0
>>第一次資料で有る碑文中の王称号が、三国史記に載って無く日本書記に載ってるって如何して!!
新羅の王(君主)を表す称号としては『三国史記』には居西干(コソガン)、次次雄(チャチャウン)
尼師今(イサグム)、麻立干(マリッカン)の固有語由来の表記が見られ、第22代の智証麻立干の代で
王号を「王」に定め、諡の制度が始まったとしている。
また、中原高句麗碑文や『日本書紀』には「寐錦」、蔚珍鳳坪碑文には「寐錦王」、迎日冷水碑文には
「葛文王」、『太平御覧』で引用する『秦書』には楼寒(これについては麻立干に相当すると考えられる)
などの表記が見られる。
71:世界@名無史さん
09/06/18 21:34:51 0
>>69
つ 県主(あがたぬし)
72:世界@名無史さん
09/06/18 22:34:06 0
なーる。
大和王権以前にこおりはなかったのか、国造が治めていたから
国(くに)だったんだな。
任那四県はけんなのかな、あがたなのかな
あがたなのであれば、もともと権力基盤はうすそうだね
73:世界@名無史さん
09/06/18 23:15:33 0
韓人の領事館は日本にはなかったんだな
74:世界@名無史さん
09/06/18 23:16:25 0
>>64
えええええ?
75:世界@名無史さん
09/06/19 05:37:54 0
>>62
中国史に組み込まれるのは統一新羅からで、それまでは、日本史の範疇だよ。
白村江会戦は三韓および任那の宗主権が、日本から、支那に移った事変だ。
州(国)、県、郡の用法・定義についても、隋・唐を参考としながらも、かなり違った
意味合いで使っている。
飛鳥時代には、概ね、旧来の豪族がそのまま支配していてその豪族が朝貢してくるところが「国」、
土地の豪族による間接支配ながらも朝廷の指揮によく従う、制度的には本国とほぼ同じ支配の確立
しているところが「県」、朝廷の派遣した人員による直接的な支配の及んでいるところが「郡」で
国・県・郡が、階層ではなく、並立していたわけだ。
白村江と近い時期に朝廷の力が伸長して公地公民(中央集権化)が進み、国をそのまま地方行政
単位とし、県は郡に改編されたり、職や鑑の管轄していた規模の大きな県・郡をそのまま国に
格上げしたりして、国の下に郡という枠組ができた。
地方の大豪族の視点からすれば、強弱はあるにせよ、相互に「国」で、地方の豪族が朝廷を習って
自らが、国の下に県や郡を持っていたりもしたので、それも、構造をそのままに朝廷の配下に
置いたりもした。
中古には、「県」の用語は、地方官を承認した自治単位くらいの意味にのこる程度で、実質は
衰退した。
76:世界@名無史さん
09/06/19 07:07:23 0
>>75
>それまでは、日本史の範疇だよ。
それじゃこのスレは板違い決定。
77:世界@名無史さん
09/06/19 10:04:46 0
むしろ、新羅が半島を統一して、倭国が日本と改称し、半島から完全に手を引いたのが日本史の
始まりでしょう。それは同時に朝鮮史の始まりでもある。それ以前の歴史は東アジア文明圏創成
の歴史というべきだ。何だか、発想においては韓国国定教科書とそっくり(ウリ二つ)な人が、日
本人側にも多くて、非常に失望している。これじゃ韓国人をわらえんね。
78:世界@名無史さん
09/06/19 10:14:38 0
>>77
まさにそうだな
こんな即レスするとそいつらに自演と思われるかもしれないがw
79:世界@名無史さん
09/06/19 10:20:29 0
>>77
具体性がなく、なんとなく両論を折衷しようとする姿勢は学問的じゃないよ
そんな日和見が通用するのは今の日本外交だけ。
80:世界@名無史さん
09/06/19 10:21:37 0
>>79
折衷しようだなんて誰も思っておらんよ
それに歴史で白黒二元論で解釈するのも学問的じゃないしね
81:世界@名無史さん
09/06/19 10:30:30 0
>>79
両論に同じく説得力ありゃな
片方が資料にまったく基いてないからそっちは学問的に消え去れって言ってるだけだ
82:世界@名無史さん
09/06/19 10:40:49 0
読解不能な各レス、5963
83:世界@名無史さん
09/06/19 11:07:51 0
>>79
折衷ではないし、きわめて具体的だろ。2世紀から6世紀にかけては中国大陸は三国・
南北朝の分裂時代であり、それゆえ、周辺諸民族が自立化と文明化の両方を獲得して
いくプロセスとしてとらえられる。その結果、曲がりなりにも日本と新羅は部族国家
の段階を脱して中央集権的な民族国家の形成に成功したわけだ。いっぽうの中国では、
隋・唐ともに鮮卑の血統を引いているように、それ以前の漢民族は血統のうえでは絶
えたも同然だが、北方民族の新しい血を受け入れて、変質した漢文化でもって大陸を
再統一した。朝鮮人そっくりのウリナラ史観では、現代の国家関係をそのまま過去に
投影しなくちゃならないみたいで、それを批判する視点は「日和見」にみえちゃうら
しい。こんなものが「学問」だなんて。お笑い草だ。
84:世界@名無史さん
09/06/19 13:22:27 0
西城秀樹は済州島出身の家系だが、あのバタ臭い顔を見るとどうしても韓国人とは思えない
どう考えても済州島の住民は倭人の子孫だろ
85:世界@名無史さん
09/06/19 13:42:02 0
サイジョウヒデキと
トウジョウヒデキ
重なる漢字は一文字もない(だからなんだ?
86:世界@名無史さん
09/06/19 14:14:03 0
クソとクソを足して2でわってもクソでしかない。折衷する意味すらない。
87:世界@名無史さん
09/06/19 14:25:47 0
折衷は糞だが実際は折衷じゃないものを折衷と思い込んで糞と思い込む脳味噌はまさに糞だな
88:世界@名無史さん
09/06/19 19:11:06 0
証拠も正当性もない妄想をひとつの説として受け入れることが、学問的にも
倫理的にも正しいことと信じているのだからしょうがない。
89:世界@名無史さん
09/06/19 20:24:22 0
>>83
概ね同意だが、当時、周辺民族の自立化と文明化の両方を獲得されたというのはどうかと。
単に外的な危機により、結果的に団結した中央集権体制がととのえられ、安定状態をもたらした
で、その後シナと遊牧民族が常に争乱状態にあり、半島の事大が容易だったため
両国は、比較的自国文化が発達するほどの均衡状態が維持されつづけたというだけだろう。
90:世界@名無史さん
09/06/19 22:15:47 0
日本が対馬も含めて半島勢力に支配されたことはない
逆はあるようだが
91:世界@名無史さん
09/06/19 22:45:58 0
いや、日本の勢力圏だった半島南部を支配されてます
とも言えるわな
92:世界@名無史さん
09/06/19 23:20:22 0
ギリシャみたいなもんだな
現代のギリシャ人は古代ギリシャ人の末裔ではなく南下してきたスラブ人だって
聞いたことがある。
93:世界@名無史さん
09/06/20 01:12:59 0
>>90
>日本が対馬も含めて半島勢力に支配されたことはない
>逆はあるようだが
それがどうした? 「日本が当時半島を支配していたは
ずがない。文明度は朝鮮半島より低かったのに」という
理屈と寸分違わない。要するに、当該事項とは直接関係
のない憶測や予断が根拠だという点においては、ウリナ
ラ史観とまったく同じでしょ? それってほとんど、似
た者同士の近親憎悪にすぎないんだよな。
94:世界@名無史さん
09/06/20 01:17:24 O
>>93
憶測?碑や書物や遺跡があるのに?
見ようとしてないだけじゃないの?
95:世界@名無史さん
09/06/20 01:26:34 0
倭、新羅の台頭は地理的な要因が大きいと思うが戦後の自虐史観によって
歴史が見直しになったが考古学の進捗によって意外とやりすぎではなかっ
たような気がするね。
96:世界@名無史さん
09/06/20 01:50:16 0
>>93
文献、考古学無視ですか?
史学は理念(という名の思い込み)のみではない。
97:世界@名無史さん
09/06/20 01:58:07 0
>>95
考古学の進捗によって、日本は4世紀から中央集権化が進み、
大和朝廷は、関東から九州までと、朝鮮半島南部を支配していた
証拠が次々と見つかってる状況じゃないのか?
98:世界@名無史さん
09/06/20 02:08:50 0
文献では、公開土王碑や倭の武王の言うとおりの状況だったことが考古学的に
裏付けられてる状況ですな。
つまり、
「日本が当時半島を支配していたはずがない。文明度は朝鮮半島より低かったのに」
という事に対する裏付けはまったくないが、その逆には文献、考古学の裏付けはある。
99:世界@名無史さん
09/06/20 02:14:13 0
>それを存在した前提で「半島南部は日本の植民地」とか
「植民地」というのは、疑問ですが、
>「百済も新羅も日本の属国」というのは あまりにも偏った
>見方であると言わざるを得ない
「百済も新羅も日本の属国」というのは全く偏った見方ではありません。
三国史記にせよ、日本書紀にせよ、中国の史書にせよそれを肯定する
記述があっても、否定する記述はない。
100:世界@名無史さん
09/06/20 02:23:24 0
>>12
>倭王政権は中央集権的な機構を構築できていない
なぜ、そう断言できるんですか?
日本書紀を読む限り、官僚組織は存在し、中央集権的な機構を構築しており、
地方の豪族は前方後円墳を築くことにより、完全に大和朝廷に対し屈服している。
それに、5世紀には既に世界最大の陵墓(伝応神陵)を築造しており、中央集権国家
でなければあのようなものを築造するのは不可能だと考えますが。
101:世界@名無史さん
09/06/20 09:18:29 0
>>100
「中央集権的な」機構は、4・5世紀段階ではまだ成立していないでしょ。たとえば、
対馬の国司が中央から派遣されるようになったのは天智の諸改革、いわゆる「大化
の改新」以後の話で、それ以前は、各地の豪族が「国造」「県主」というカバネを
名乗って、それぞれの地域を支配していた。各地域に直接倭王の支配は及ばず、豪
族を通した間接支配だったんじゃないのかな。4・5世紀段階で中央集権的支配がな
されていたという話は聞いたことがない。
102:世界@名無史さん
09/06/20 09:38:16 0
>>100
5世紀に中央集権的な機構を支えるほどの官僚組織があった
とは思えませんね。倭王に奉仕する職能集団はあったけれど、
体系だった官位制度もなく、合議や諮問のための機関が存在
したかも疑問です(後者は欽明朝あたりと思いますが)。
また、前方後円墳についても、吉備の造山古墳(墳丘長360m)の
ように同時期の王墓と目される上石津ミサンザイ古墳(現履中陵、
墳丘長365m)に匹敵する規模のものが畿外にも存在し、『日本書紀』
にみえる吉備氏の増長や反乱伝承とあわせて考えると、倭王の権力
が中央集権的といえるほど、絶対的であったとは言えないと思います。
むしろ、倭王や豪族の権威権力が、彼らの墳墓である前方後円墳
の規模規格の大小で推し量れるものである以上、それは相対的な
ものであったと考えられます。
103:93
09/06/20 09:44:14 0
言葉不足だったが、
>日本が対馬も含めて半島勢力に支配されたことはない
>逆はあるようだが
だから、任那日本府という倭王直属の統治機関が朝鮮半島に恒常的にあって
朝鮮南部を支配していた。それを教科書に記述すべきだ。
…そういう理屈が成り立つのか?ということだ。その意見が成り立つのだと
したら、ウリナラ史観とさほど変わらないってこと。
104:世界@名無史さん
09/06/20 09:56:09 0
>>103
そんな言ってもないことに対して反論されてもね
105:世界@名無史さん
09/06/20 10:08:19 0
ウリナラトンデモ史観にはまったく反発せず、対馬を含め日本は半島勢力
に支配されたことはないと書いただけで興奮して猛反発。
ではこの人の歴史解釈は一体どうなのであろうか?
106:世界@名無史さん
09/06/20 10:21:37 0
サイエンスZERO
放送日:6/20 (土) 22:00~ NHK教育
> およそ1万年前、西アジアの小麦作、東アジアの稲作から始まった農耕。
> 気候が安定していたために農耕が世界に広がり、
> 人々に豊かな暮らしをもたらしたという通説や、
> 農耕が起こってから定住が始まり、
> 階層社会が生まれたといった従来の考え方が、最近の研究で揺らぎつつある。
> 縄文時代後期までに日本に伝わった稲作。
> 大阪の池島・福万寺遺跡の発掘で意外な事実が次々と明らかになってきた。
107:世界@名無史さん
09/06/20 10:52:12 0
卑弥呼なんだが、魏志をよく読むと、卑弥呼は決して「邪馬台国の女王」と書かれて
いない。「倭の女王」「倭王」と書かれている。そして、邪馬台国は「女王国の都す
るところ」と叙述されている。こうしてみると、初代倭王(正確には初代のヤマト王
権の王)は卑弥呼だった、そして首都はヤマタイ国つまり今のマキムクであったろう
と思われる。当時のヤマトは奈良盆地の南東部マキムク一帯であり、後世の令制の大
和国よりは小さい範囲だったのではあるまいか。
卑弥呼は、「共立された」女王であったことから、吉備・讃岐・播磨などの勢力によ
って立てられた王だったのだろう。決して外的な征服によるものではない。前方後円
墳の起源は、おそらく吉備の楯築墳丘墓に求められるのではないか。つまり、薩長土
肥の連合政権が明治天皇をいただいて東京に新政府をたてたと同じようなことが、こ
こで起こったのではないか。
初代王が女王であったことは、ヤマト王権のなかでは「むかし話」というかたちで残
ったのではないだろうかと思う。その反映が「アマテラス」という皇室の祖神ではな
いか。岩戸隠れして世が闇となったのは、卑弥呼の死によって再び倭国が乱れたこと
を暗示していよう。おもしろいことがある、世の中は楽しい、そうやって諸臣はトヨ
を再び女王位に就けたところ、再び倭国は平和になった。つまり、諸豪族の連合が再
び成立して強化されたということじゃないか。
一方、政治向きのことは「男弟」がやった。これがのちに倭の五王につらなる系譜な
んじゃないか。
108:世界@名無史さん
09/06/20 11:21:46 0
>>105
日本人の叙述する歴史が、ウリナラ史観に脊髄反発しているようなレベルじゃ困るだろ。
硬い史実から出発して、ハードファクツを積み上げていく手法を採らない限り、同じレ
ベルだよ。
109:世界@名無史さん
09/06/20 11:34:20 0
>>105
大和朝廷や当時のその支配地全体が半島から来た人に支配されたわけではないが、
地域的にはいくつかの場所で支配されている
関東でもたとえば群馬の多胡郡、埼玉の高麗郡、栃木の那須郡などはみんなそうだな
新羅や百済などから来た半島の人たちが入植に成功して繁栄した土地だ
で、それのどこが問題?
当時の人々の民族観がいまの人々のそれとは違うことをまず理解しないと、な
彼らは日本民族や朝鮮民族ではないよ
110:世界@名無史さん
09/06/20 11:37:06 0
中国の教科書には三国=新羅・百済・伽耶、任那日本府説と載ってるし
アメリカの教科書には日本が百済・新羅に中国以上の影響力を持っていたと載ってるのね
111:世界@名無史さん
09/06/20 12:51:51 0
>>110
だとするなら、米中の教科書は、近代的な国家観で古代を描いていることに
なるな。
112:世界@名無史さん
09/06/20 13:36:53 0
>>97
だから戦前の歴史解釈はやりすぎではなかったと言っている。
任那地域の広範囲で発見された前方後円墳等は任那日本府以上
の意味を持つと思う。
113:世界@名無史さん
09/06/20 13:39:20 0
大日本帝国は古代にも存在したのだ。
日本列島と朝鮮半島を完全制覇。わが大和民族の優秀性が証明されているのである!
日本と朝鮮は日本人のもの。朝鮮人は出て行け!
114:世界@名無史さん
09/06/20 13:41:25 0
ジャップは大百済帝国と大高句麗帝国の奴隷だったくせに
115:世界@名無史さん
09/06/20 13:45:50 0
>>112
前方後円墳等は任那日本府以上の意味を持つというのは同意だが、分布をみれば
栄山江流域に限定されており、決して「広範囲」とはいえないのでは。
116:世界@名無史さん
09/06/20 13:48:12 0
>>114
URLリンク(birthofblues.livedoor.biz)
URLリンク(kwout.com)
国旗が大清国属であることを示してる万年属国が何を言ってるのかしらん
117:世界@名無史さん
09/06/20 14:05:02 0
>>109
事実としてはまったくその通りで、7世紀中葉以前は、倭の領域(倭王の権力が
直接ないし間接的におよぶ範囲)も朝鮮半島も様々な種族が雑居する地域であ
った。天智・天武の兄弟が、それまで列島に住む諸族を糾合して、天皇中心の新
しい国家の国号として在ればれたのが「日本」であり、「天皇」の称号であった。
「日本」という国号の成立とほぼ同時に歴史書が編纂され、その名称に『日本書
紀』という名が選ばれたのは、ここで中国的な易姓革命の原理ではなく、別の原
理で日本という国は動いていくということの意思の現れだったように思える。同
じことは金春秋の新羅でも起こった。半島に住む韓族、倭人、貊族、漢人らは、
新羅の王権を中心に民族文化を発展させていくことになる。ただし、ここでは中
国文化の直輸入、あるいは中国社会の一部という性質は色濃くのこることとなった。
118:世界@名無史さん
09/06/20 14:08:14 0
つまり
中国語=ゲルマン
非中国語のアルタイ語=日本・朝鮮
そして
ドイツ=中国(カトリック)
ポーランド=朝鮮(カトリック)
ロシア=日本(堂々ロシア正教)
日本はロスケ
119:世界@名無史さん
09/06/20 14:10:25 0
>>118
比喩ヘタすぎ。
120:世界@名無史さん
09/06/20 14:37:40 0
漢帝国とローマ帝国の対比でいうと、五胡十六国にあたるのはゲルマン民族
移動後のゲルマン諸王国ということになるんだろうか。
黄巾の乱後の満州平野・朝鮮半島・日本列島の状況は、ローマ滅亡後のガリ
ア・ブリタニア・ゲルマニアの状況が参考になるかもしれない。
ここで、ローマの属領だったガリアやブリタニア、いまの英仏に相当する領
域の人びとは属領でなかったゲルマニア、いまのドイツに対して、文化的優
越感をもっている場合がある。これは、朝鮮人の伝統的な文化的優越感に一
脈通じるものがある。
つまり、今でこそ国民国家全盛ということでナショナリズム史観が猛威をふ
るっている韓国だが、少し前までは違っていて、朝鮮では、みずから中国的
世界の一員であることが誇りであったし、中国の属国であることが自慢であ
ったわけだ。自民族の文化を徹底的に卑しんだのが、朝鮮の知識人であった。
ただ、ローマ帝国は滅んだのに対し、東アジアでは、遊牧民族や狩猟民族の
権力によって何度も中華帝国が再興された。ここが、東西の世界史の展開を
大きく分かつ分水嶺のような気がする。
121:世界@名無史さん
09/06/20 18:21:22 0
>>101
>たとえば、
>対馬の国司が中央から派遣されるようになったのは天智の諸改革、いわゆる「大化
>の改新」以後の話で、それ以前は、各地の豪族が「国造」「県主」というカバネを
>名乗って、それぞれの地域を支配していた。
天智は唐の制度をまねただけだよ。
支配の実態なんて変わっちゃいない。
アンタの言う「中央集権制」は、日本では明治時代まで存在してないよ。
実態としては。
>各地域に直接倭王の支配は及ばず、豪 族を通した間接支配だったんじゃないのかな。
だったら、なんでみな足並みそろえて、前方後円墳を作ったんだ?
3世紀だったら、邪馬台国は緩やかな国家連合組織だったろうが…
122:世界@名無史さん
09/06/20 18:31:12 0
労働組合の「連合」は実態がない妄想電波集団だから連合体でもいいけど
実際に統治するとなると、スターリンや紅衛兵みたいのが必要なんだよ。
123:世界@名無史さん
09/06/20 18:45:52 0
>>109
半島から来た人に支配されてないとは言ってないけどな
半島勢力に支配されたことはない書いたんだけど
半島から日本に来た人は倭人となったのだよ
倭人が日本を支配するのは当然
ちなみにお前は半島に残って倭人にならなかった人間の子孫じゃないの?
俺はどこからか日本に渡来して倭人になった人間の子孫だよ
124:世界@名無史さん
09/06/20 18:59:43 0
倭王武によれば、大和朝廷は5世紀後半には、関東から九州、朝鮮半島に渡る小国を征服した。
倭王武の上奏文
「封國偏遠、作藩于外、自昔祖禰、躬環甲冑、跋渉山川、不遑寧處。
東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、王道融泰、廓土遐畿、
累葉朝宗、不愆于歳。」
「皇帝の冊封をうけたわが国は、中国からは遠く偏って、外臣としてその藩屏となっている国であります。
昔からわが祖先は、みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、安んじる日もなく、東(関東)は毛人を
征すること五十五国、西(九州)は衆夷を服すること六十六国、北のかた海を渡って、(朝鮮を)平らげる
こと九十五国に及び、強大な一国家を作りあげました。
王道はのびのびとゆきわたり、領土は広くひろがり、中国の威ははるか遠くにも及ぶようになりました。」
125:世界@名無史さん
09/06/20 19:02:01 0
>>124
倭王武によれば、大和朝廷は5世紀後半には、関東から九州、朝鮮半島に渡って小国を征服し、
強力な王国を築き上げた。
126:世界@名無史さん
09/06/20 19:06:52 0
>>124
文章がチョンぽい
127:世界@名無史さん
09/06/20 19:08:20 0
倭王武の上奏文は、考古学的に見れば、4世紀には関東から九州にかけて広く、
前方後円墳が築造されており、朝鮮半島南部にも5世紀以降の前方後円墳が
築造されていることから、考古学的に完全に裏付けられたと考えます。
128:世界@名無史さん
09/06/20 19:11:33 0
捏造。
129:世界@名無史さん
09/06/20 19:36:02 0
持っててよかったYAP+遺伝子
130:世界@名無史さん
09/06/20 19:36:14 0
次に広開土王碑の倭に関する記述。
・そもそも新羅・百残(百済)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に
海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。
・399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲にでむいた。
ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので
高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
・400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、
これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
・404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。
倭は4世紀末~5世紀初頭にかけて、さかんに朝鮮半島南部を侵略したことが分かります。
131:世界@名無史さん
09/06/20 19:46:00 0
考古学的にも、倭が朝鮮半島南部において一定の勢力を持っていたことが、だんだんと分かってきた。
以下、wikipediaより、引用。
1990年代後半からは主に考古学的側面から、卓淳(昌原)・安羅(咸安)などの諸地域の研究が
推進される一方で、1983年に慶尚南道の松鶴洞一号墳(墳丘長66メートル)が前方後円墳である
として紹介されて以来相次いだ朝鮮半島南西部での前方後円墳の発見[8]や新羅・百済・任那の
勢力圏内で大量に出土(高句麗の旧領では稀)しているヒスイ製勾玉の原産地が糸魚川周辺に
比定されている事などを踏まえ、一部地域への倭人の集住を認める論考が相次いで提出された。
132:世界@名無史さん
09/06/20 19:47:13 0
以下、wikipediaより、引用。
133:世界@名無史さん
09/06/20 19:57:03 0
>>121
>なんでみな足並みそろえて、前方後円墳を作ったんだ?
わかっているとは思うが、前方後円墳をつくったのは首長層以上の階層で
あって、末端庶民までつくったわけではない。豪族が連合してヤマト王権
を支えたわけだから、古墳時代は私地私民制で豪族連合政権と把握される。
「前方後円墳体制」と呼ばれるゆえんだ。もちろん、地方の豪族はヤマト
の大王に近侍していった。これは肥後の江田船山古墳や武蔵の稲荷山古墳
の鉄剣の銘などによっても明らかなことで、ヤマト王権も徐々に朝廷とし
ての内実を備えていくことになる。ただ、宮廷がいかに統治集団として整
備されても、それだけでは中央集権体制の確立とはいえない。
>天智は唐の制度をまねただけだよ。
>支配の実態なんて変わっちゃいない。
>アンタの言う「中央集権制」は、日本では明治時代まで存在してないよ。
一般的には、天智・天武・持統の段階で中央集権制が確立したとみられて
いる。豪族が私有していた部曲の民と田荘が廃止され、豪族には食封が支
給された。国・郡が定められて、国司・郡司が任命された。戸籍・計帳が
作成されて、班田制が実施された。軍団の制が定められて、防人・衛士な
どとして徴兵がはじまった。全国規模の刑法・民法・行政法として近江令
から始まる律令が整備された。「日本」「天皇」の称号が採用された。条
坊制を備えた本格的な都城が建設された。
これらを称して、中央集権制の確立だとか律令国家の完成だとかいわれる
わけだ。
常識的に考えれば、いずれも豪族の中間支配を排して公地公民制を社会の
末端まで広げ、中央集権体制を確立するための施策であったと考えられる。
これらの施策・改革が「中央集権化でない」としたら、何をもって「中央
集権制」を定義づけるのか? 教えていただきたいものだ。
134:世界@名無史さん
09/06/20 20:02:36 0
>>121はまだ何も理解できていない
まるで犬のようだ
135:世界@名無史さん
09/06/20 20:06:53 0
専門の論著を読まなくても、山川の詳説日本史でも読んでいれば
当時中央集権などありえなかったことが分かろうに。
136:世界@名無史さん
09/06/20 20:16:54 0
>二番目は「灰色を認める」運動広げること。政治やメディアはすべて黒か白かの論理だけ前面に出し
>て妥協の文化や配慮の文化が国民に入り込むことができない、ということだ。
【韓国】 先進国と先進国民~日本の友人からの提案「日本を見習っては?」★2[06/18]
スレリンク(news4plus板)l50
137:世界@名無史さん
09/06/20 20:32:42 0
>>133
まるで、中央集権制じゃなきゃ国じゃないような…w
制度的にはあなたの言うとおり、唐の制度+独自の制度で
中央集権体制を整えていったことは確かですよ。
しかし、実態は制度が整ったことにより、天皇の直接的支配は
弱まっていますよね。天皇は君臨するけど統治せず、実体的
支配は藤原氏などの貴族が行っている体制に移行している。
むしろ、「豪族を通じて間接支配していた」時代の方が天皇が
直接的支配をしており、天皇自らが軍を率いて日本を統一、
征服していったという歴史があります。
天皇が直接統治、君臨していたわけです。
いわば、前者は「中世的中央集権体制」、後者は「古代的専制王朝」といえましょう。
138:世界@名無史さん
09/06/20 20:48:06 0
なるほど。天智天皇の時代から中世が始まったわけですね。
139:世界@名無史さん
09/06/20 20:55:30 0
>>137
>天皇は君臨するけど統治せず、実体的
>支配は藤原氏などの貴族が行っている体制に移行している。
それはもっと後代の話では?
律令制が整った奈良時代の頃は政策案件は天皇(または上皇)が
裁可していたし、人事なども思うがままに行っていたようですが。
>天皇が直接統治、君臨していたわけです
直接統治とか直接支配というのは、具体的にはどういったことを
指しているんでしょうか。
『日本書紀』における屯倉の設置記事もようやく6世紀の継体、
安閑、宣化朝のころに出てくるんですが。
140:世界@名無史さん
09/06/20 21:46:24 0
中央集権国家じゃなきゃ、任那日本府なんて存在しないという訳でも
あるまいに…。
141:世界@名無史さん
09/06/20 22:33:06 0
>>107
ヒミコは九州だと思うのだが
142:世界@名無史さん
09/06/20 22:36:18 0
>>147
九州説と畿内説の議論は確実に荒れるので、該当スレで
お願いします。
143:世界@名無史さん
09/06/20 22:37:07 0
失礼。>>141ね。
144:世界@名無史さん
09/06/20 22:46:16 0
>なんでみな足並みそろえて、前方後円墳を作ったんだ?
当時の倭の宗教観によるのだと思う
既に倭人世界が構築されていた証だよ。
145:世界@名無史さん
09/06/20 23:03:30 0
>>121
唐をまねたというか対抗したのはそうだろうよ
しかし、名称だけを変えて実質何もかわらなかったというのはちがう。
班田収受法、口分田は唐のやり方と同じだろ
実際、シナをまねて強烈な中央集権化をして外部に備えようとしてたんだよ
でも、外圧がなくなり、外来文化ブームも収束したころ
ようやく内向きに目が向くようになったのか、律令制は速攻くずれはじめた。
まあ、唐も節度使をおいた700年ころからもう崩壊してるけど
口分田を売って夜逃げしたり、荘園ができたりと、国司が私服をたくわえたりと
中央への不満がたかまり、土着民は武士として台頭しはじめた。
ここから、日本は安定をもとめて900年から江戸時代の1600年まで実に700年かかって
たくさんの血を流しながら、現在までつながる日本人の高い倫理性、高いガバナビリティを構築した。
このような質の高い文化は欧州や日本くらいでしか見られない。
こういった血の上に気づかれた倫理性を因習といって簡単に捨てようとしているのがサヨク。
そして、ふたたび万人による万人の闘争をまきおこそうとしている。
146:世界@名無史さん
09/06/20 23:47:17 0
王勇っていう中国人学者も大和王権を強大な統一国家って言ってたな。
中央集権国家について論じる前に、弥生都市や前方後円墳国家論について定義
したらいかがだろうか?
中央集権って何か?ってとこから未だ決着ついてないんだし。
147:世界@名無史さん
09/06/21 00:10:32 0
>>109
>大和朝廷や当時のその支配地全体が半島から来た人に支配されたわけではないが、
>地域的にはいくつかの場所で支配されている
>関東でもたとえば群馬の多胡郡、埼玉の高麗郡、栃木の那須郡などはみんなそうだな
ぜんぜん明確な証拠がないものばかりだ
韓国人がいう、奈良はウリナラのナラだという、こじつけによく似ている。
チャウスだなんだと書いているサイトの主は君じゃないだろな
弥生人といってもピンキリで紀元前900年ころから断続的に日本にうつりすんできた人々、あるいはその末裔の総称。
とりわけ西日本の倭人は長江流域から半島をも含めて流れていった人々の血が多くまじっていた。今でもそうだ。
渡来人というのは、こういったハイブリッドの倭人の中で
とくに半島から職能を見込まれて迎えられた人々あるいはその他貿易取引関係者だろうが
そういった人々を支配層ととらえるのはいかがかと思う。
どう見ても、お雇い血族集団といったものだろう。
そもそも大和朝廷は蝦夷とよばれるまつろわぬものたちが治めていた東日本の支配がおぼつかないでいたが
その未発達とも未統治ともいえる東日本に先人がいなかったわけがなく、すんなりと住めるわけがない。
移住させたのは、蝦夷への技術貸与でもあったし、同時に蝦夷同士の絆につちこんだ楔でもあっただろう。
148:世界@名無史さん
09/06/21 00:34:54 0
>>147
帰化人が支配層をなしたというのはナンセンスな話だろうが、住民のほとんどが
帰化人という集落も当然あったように思われる。新撰姓氏録などによれば、畿内
でもそういう地域は少なくなかったようだ。天智天皇や天武天皇が、これからは
倭人も帰化人も「日本人」だということで、新しい国づくりをはじめた。そして、
長い年月をかけて日本人としてのアイデンティティがつくられるようになったん
だと思う。
149:世界@名無史さん
09/06/21 00:46:06 0
>>140
もちろんそりゃそうだが、日本府というか倭府の性格が変わってくる。
北九州の勢力にやらせたのか、あるいは大和南部の大伴氏にやらせたの
か。5世紀代の大和王権が強大な王権だったことは確かだが、6世紀に入っ
て継体・欽明の時期になると、磐井の乱あり、大伴金村の失脚ありで王
権が揺らぐ。そのあたりの微妙な変化も見逃さないようにしないと、緻密
な古代史像は描けない。
150:世界@名無史さん
09/06/21 00:53:36 0
>住民のほとんどが帰化人という集落も当然あったように思われる。
そらそうだろ(呆、初期は。
職能ってのは今みたいに生活と離れた技術ではない。
生活即ち職業という形態だったろうから、子供のころから弟子入りして
技術を磨き上げなきゃ行けない。
だから、その分、職能集団に血がまじるのに時間がかかるのは必然だよ。
151:世界@名無史さん
09/06/21 01:03:44 0
おそらくここで神経質になっている輩がいるのは
今現在、日本にいる外人をそのまま日本人と認められるかという視点だろうな。
そのときそのとき、はい今から日本人ねと決めて、過去の日本において平等精神が発揮されたことが
あったという事例にしたいのだろうが、おそらくちがうだろうな。
縄文系に約一千年をかけて弥生系が断続的にまじったことが知られているように
西日本に置いてさえ、当時の権力機構、あるいは土地民が今から平等ねと、友愛精神を発揮したという
事実は見られないだろうな。むしろ、当時の方が血縁を重視していた分、敵対意識は高かったろう。
わりと西日本に親和性があった渡来系も、職能を見込まれて誘われたとはいえ、
そのまま倭人の治める土地にきてすんなりというわけにはいかなかったろう。
152:世界@名無史さん
09/06/21 01:04:44 0
>帰化人という集落も当然あったように思われる。
>日本府というか倭府の性格が変わってくる。
>北九州の勢力にやらせたのか、あるいは大和南部の大伴氏にやらせたのか。
,.ィ , - 、._ 、
. ,イ/ l/  ̄ ̄`ヽ!__
ト/ |' { `ヽ. ,ヘ
N│ ヽ. ` ヽ /ヽ / ∨
N.ヽ.ヽ、 , } l\/ `′
. ヽヽ.\ ,.ィイハ | _|
ヾニー __ _ -=_彡ソノ u_\ヽ、 | \
.  ゙̄r=<‐モミ、ニr;==ェ;ュ<_ゞ-=7´ヽ > つまり、半島にあった任那日本府は倭人の入植した植民都市で、
. l  ̄リーh ` ー‐‐' l‐''´冫)'./ ∠__ 朝鮮半島のアイデンティティは北部の女真人を取り込んだ
゙iー- イ'__ ヽ、..___ノ トr‐' / 16世紀にできあがったものだったんだよ!!
l `___,.、 u ./│ /_
. ヽ. }z‐r--| / ト, | ,、
>、`ー-- ' ./ / |ヽ l/ ヽ ,ヘ
_,./| ヽ`ー--‐ _´.. ‐''´ ./ \、 \/ ヽ/
-‐ '''"  ̄ / :| ,ゝ=< / | `'''‐- 、.._
/ !./l;';';';';';';\ ./ │ _
_,> '´|l. ミ:ゝ、;';';_/,´\ ./|._ , --、 | i´!⌒!l r:,=i
. | |:.l. /';';';';';|= ヽ/:.| .|l⌒l lニ._ | ゙ー=':| |. L._」 ))
l. |:.:.l./';';';';';';'! /:.:.| i´|.ー‐' | / | |. ! l
. l. |:.:.:.!';';';';';';';'| /:.:.:.:!.|"'|. l' │-==:|. ! ==l ,.
153:世界@名無史さん
09/06/21 01:06:14 0
>わりと西日本に親和性があった渡来系も、職能を見込まれて誘われたとはいえ、
つ俘囚
154:世界@名無史さん
09/06/21 01:10:01 0
>>153
それもあるかもしれんが、それなら技術がきちんと伝えられる可能性が低い。
職能をもった血族集団ごとまねくわけだから、反乱でもされたら事だ。
加藤清正公のようにそれなりの礼をもって迎えたはずだろうな
そもそも百済は友好国だし。
155:世界@名無史さん
09/06/21 01:11:46 0
>>154
すまん、そういう意味じゃないんだ。
エゾの俘囚も同じ状況にあったと言いたかった。
156:世界@名無史さん
09/06/21 01:22:35 0
>>151
領域的支配が千年以上つづくなかでそれぞれ民族文化を発展させてきたうえに、
国籍法というものさえある現代と、領域的支配も民族文化も国籍という意識も
ほとんどなかった時代とを比較して、何か意味があるんだろうか?
つい何百年、あるいは何十年前ですら、後で振り返ってみれば現代の常識がま
るで通用しないという例に事欠かない気がする。
157:世界@名無史さん
09/06/21 01:22:48 0
すまん、よく意味が分からない。
蝦夷にも技術集団がいたのか?
158:世界@名無史さん
09/06/21 01:26:03 0
>>156
よく定義がわからないんだが、戸籍は律令のころにつくられてるし
国家概念も国名に現れているだろ
きちんと定義せずにしたり顔で語られてもどう反論すればいいかさえ不明なんだが。
159:世界@名無史さん
09/06/21 01:31:12 0
>>146
一応、地方官の成立をもって中央集権化といえるんじゃないだろうか。江戸時代
は基本的には地方分権スタイルだったが、「鉢植え大名」のケースなどでは中央
集権的システムも限定的に(譜代大名・旗本御家人に限って)採り入れられた制
度だったといえる。
古代日本に即していえば、国造制の解体と評造・郡司などの設定・官僚化が、中
央集権化ということではないか。
160:156
09/06/21 01:46:06 0
>>158
156は>>151の
>今現在、日本にいる外人をそのまま日本人と認められるかという視点
という言葉に対するコメントで、あなたに対する異論というわけではない。
「今現在、日本にいる外人をそのまま日本人と認められるかという視点」は
歴史を考える際、不要なのだと言いたい。むしろ、場合によっては有害でさ
えあると思う。縄文や弥生の話をしていたから、てっきり律令制以前の話だ
と誤解していた。すみませんでした。
161:世界@名無史さん
09/06/21 01:59:34 0
>「今現在、日本にいる外人をそのまま日本人と認められるかという視点」は
>歴史を考える際、不要なのだと言いたい。
それは君の論だろ、しかもなんの根拠もない。
先祖から連なる共同体への帰属意識のない集団がないとは言わんが、そもそも
そんな集団は歴史上、国家を失って記録も伝承も絶たれた集団か、商売人集団くらいだろう。
162:世界@名無史さん
09/06/21 02:53:16 0
根拠はすでに何度もいろんな人から述べられているんではないの? 現代を過去
に投影するのは間違いの元でしょ。そういう姿勢は歴史学の姿勢とは相容れない。
歴史は解釈学ではない。
163:世界@名無史さん
09/06/21 03:32:47 0
で、任那日本府あったわけ
164:世界@名無史さん
09/06/21 03:49:46 0
まずは「任那」について考えたほうがいいんじゃないの。
初出は広開土王碑文の「任那加羅」のようだけど、
『日本書紀』で用いられている「任那」とは指すものが
少々異なるようです。
165:世界@名無史さん
09/06/21 03:53:55 0
そりゃ時間が掛かるだろう
速攻でほとんどがモンゴル人の混血になった高麗とはまったく違ってな
166:世界@名無史さん
09/06/21 04:20:04 0
終わった話の巻き戻しが永遠続くスレだね。この話題に纏向のような
劇的な進展なんて期待出来ないわけだし考古学にも限界があるんじゃないか。
高句麗も中国もあったと言ってるのだからあったで良いんじゃない?
だから日本も変に気を使わないであったと言えば良い。で韓国だけが
無いって主張すれば良いだけじゃないかな。
167:世界@名無史さん
09/06/21 04:23:39 0
それと自国の歴史を否定したい日本人が理解出来ないよね。
ほんとお人よしでバカな日本人。それかいっそ竹島あげちゃう?
168:世界@名無史さん
09/06/21 04:35:38 0
∇どの国民が単一民族か
URLリンク(japan.donga.com)
医学的には、韓国人、タイワン人、日本人の中で日本人が最も単一民族に近い。
単一民族であることを誇る朝鮮民族は2番目、タイワン人は3番目に‘純粋な血統’である。
169:世界@名無史さん
09/06/21 04:51:45 0
>>166
考古学の面ではまだまだ期待できるんじゃないかな。
慶尚南道の咸安で『継体紀』に登場する「安羅の高堂」と思われる
遺跡が出てきたそうだし。
170:世界@名無史さん
09/06/21 05:18:24 0
那須の国造のイデは新羅の人だな
高麗神社の宮司の家系は百済出身だっけ?
支配層が半島出身者だった例
171:世界@名無史さん
09/06/21 05:34:19 0
宮司が支配者とはこれいかに!?
172:世界@名無史さん
09/06/21 05:37:52 O
百済王でも従五位上という下級貴族にすぎないのに
173:世界@名無史さん
09/06/21 05:40:04 0
>>170
神官はその土地の支配一族が代々受け継ぐものだからね。
高麗郡は完全に半島出身者の支配する土地だったのだろう。
174:世界@名無史さん
09/06/21 05:46:17 0
>神官はその土地の支配一族が代々受け継ぐものだからね。
そんな話きいたことがないよ
175:世界@名無史さん
09/06/21 05:51:02 0
日本文化を知らない>>174は、さては日本人じゃないな?
176:世界@名無史さん
09/06/21 05:54:06 0
へー、なら松陰神社を祭ってる宮司は長州藩主だったのか
177:世界@名無史さん
09/06/21 06:40:45 0
松蔭神社w
178:世界@名無史さん
09/06/21 06:53:23 0
反論ができないらしい
179:世界@名無史さん
09/06/21 07:14:18 0
>>151
> 今現在、日本にいる外人をそのまま日本人と認められるかという視点だろうな。
しかしまあ在日丸出しだなあんた。そんな国家が地球上にひとつでも存在しているのかよ。
本当にあつかましいことこの上ない。
180:世界@名無史さん
09/06/21 07:14:37 0
自信がないから連投する
181:世界@名無史さん
09/06/21 07:25:34 0
在日は思いこみと事実の区別がつかない生き物である by全斗煥
182:世界@名無史さん
09/06/21 07:59:13 0
元々済州島は州湖と呼ばれる三韓人とも朝鮮人とも扶余系諸族とも全く違う民族が住んでいた。
新羅建国神話に倭人が出てくる。
百済王族・高句麗王家が扶余系を名乗っている事実。扶余系と伽耶・新羅の弁韓・辰韓人は全く違う系統の民族。
朝鮮の本貫の中に中国人や日本人を祖とする本貫がかなりの数存在する事実。
183:世界@名無史さん
09/06/21 08:09:52 0
つまり半島においてはツングース系が支配民族で日本人は被支配民族
だから半島の人々は日本を見下す
184:世界@名無史さん
09/06/21 08:12:48 0
ツングース=ゲルマン
倭=スラブ
という感覚なんじゃないのかな?
185:世界@名無史さん
09/06/21 08:15:59 0
チョンの煽りが雑になってきた件
186:世界@名無史さん
09/06/21 08:16:15 0
ツングース=ゲルマン
倭=スラブ
中国=フランス
満州や東シベリア=ゲルマニア(ドイツ)
日本列島=ポーランド
こんな感覚だろう?
ポーランドも中世は軍事・政治・文化が強くて領内のゲルマン人を支配していたし
ゲルマン人の移民も受け入れたから、うまく符合する
ツングース系は満州にせよモンゴルのハルハにせよ高句麗にせよ、民族的性格が強いしな
187:世界@名無史さん
09/06/21 08:21:45 0
古墳など倭人の文化が半島の一部にあるのも
現在のドイツ領内にもエルベ川までスラブ人の文化があって
オボトリト族など強力なスラブ人がいた
半島の倭人と同じようなものだろ
半島から倭人の勢力がなくなった経緯も神聖ローマ帝国の拡大でスラブ人の勢力がなくなった過程に似ている
188:世界@名無史さん
09/06/21 08:25:35 0
ヒトラーはスラブ人で先祖はポーランド人なのを思い出した
189:世界@名無史さん
09/06/21 08:30:05 0
それについては聞いたことがあるが、ヒトラーはポーランド人じゃなくてウクライナ人
190:世界@名無史さん
09/06/21 09:05:22 0
中世高麗の郷歌が、朝鮮語で解読できない
新羅人は朝鮮人の先祖ではない
191:世界@名無史さん
09/06/21 09:27:00 0
ヒトラーの父は、氏族だけ見ればチェック人だよ。「ボヘミアンの
伍長」という蔑称はここから来てる。ただ、オーストリアでは
都市住人でドイツ語話者でそこに定職があれば、基本的に
ドイツ人を自称する。
192:世界@名無史さん
09/06/21 09:56:37 0
ヒトラーの父、アロイスの父親は分かってないでしょ。ヒードラーって
言う苗字は継父の苗字だし、血のつながりがあった訳ではない。
いずれにせよ、近代的多民族国家では自認してる民族が所属民族
としか言いようがないと思う。
193:世界@名無史さん
09/06/21 10:09:03 0
>>164
「任那」と「加羅」「伽耶」「駕洛」「狗邪」とは起源がまったく違う語だよね。
後者「カラ」「カヤ」「クヤ」は同源のように思える。語源は中国語の「韓(カ
ン、カラ)」ではないだろうか。地域的には弁辰、いまの慶尚南道を中心とする
地域を指す場合が多いようだ。全羅南道方面まで含む用例はあるんだろうか。
「韓」は本来、広く「三韓」を指したのだろうから、「加羅」「伽耶」「駕洛」
「狗邪」は「倭国にとって至近で古くから知られた韓」あるいは「新羅にも百済
にも服属しない韓地」ということなのだろうか。
いっぽうの「任那」はどういう意味なのだろう。「ニンナ」と読ませると、朝鮮
語では「王者の土地」というような意味になるのだそうだ。
194:世界@名無史さん
09/06/21 10:10:50 0
向こうの人たちってDNA鑑定とかまったく知らないらしいね
日本も調査結果が出るたびに違う結果が出るので信用は無いけど
195:194
09/06/21 10:11:34 0
向こうの人たちっていうのは欧州のひとたちってことです
196:世界@名無史さん
09/06/21 10:46:10 0
栄山江流域が任那4県だとすると、任那=金官加羅国だとする見解はくずれることに
なるな。
197:世界@名無史さん
09/06/21 11:38:35 0
>>183
ていうかお前は半島の被支配民族だろ
こっちは列島の支配民族だぜ
198:世界@名無史さん
09/06/21 12:39:14 0
「任那加羅」=「金官加羅」なのではないだろうか。単に「任那」と称する例のほか、
「任那加羅」という用法もある。これは元来、別モノじゃないかな?
199:世界@名無史さん
09/06/22 07:34:55 0
DNA鑑定のせいで無実な人が有罪判決を受け、17年半も冤罪に苦しんだ事件があったな。
200:世界@名無史さん
09/06/22 08:08:48 0
>>193
「カラ」「カヤ」の語源ですが、山尾幸久氏は弁韓、弁辰の「弁」に
注目していますね。冠のひとつである弁の古い訓が"kal"なのだそうで、
「カラ」はこれに由来するのではないかと。
その範囲ですが、『三国遺事』五伽耶条では、阿羅伽耶、古寧伽耶、
大伽耶、星山伽耶、小伽耶が挙げられ、金官伽耶と合わせて六国の
「伽耶」があったとされます。また同条では金官、古寧、非火、阿羅、
星山の五つが挙げられてもいます。武田幸男氏、田中俊明氏の比定に
よると、金官伽耶は金海、阿羅伽耶は咸安、古寧伽耶は咸昌、大伽耶
は高霊、星山伽耶は星州、小伽耶は固城となるようです。
むろん、五国ないし六国の伽耶というのは、『三国遺事』が編纂された
高麗時代の認識に過ぎません。『日本書紀』や『三国史記』には、
加耶の国々として他にもたくさんの国名が見え、合わせて大小二十
前後の国家群であり、それらが慶尚南道全域と慶尚北道の一部を
含めた範囲に収まることは確かなようです。つまり全羅南道はほとんど
入らない。
「任那」については、これまた山尾氏の説ですが、「ミマナ」は
n、m の子音交替と開音節化による日本での慣用の読みであって、
元来「任那」は古い朝鮮語の"nimnʌj"の当て字らしいとの事。
"nim"は「前」、"nʌj"は「浦」「港」の意になるそうで、これを漢訳
すると、金海の古名のひとつ「臨海」になるとの事。金海の地名
そのものが「金官」と「臨海」を合わせたものとする鮎貝房之進氏の
見解も参考になるようです。
また、伝承上の始祖首露王の后が到着した港が「主浦村」と
呼ばれており、この「主浦」は金海の南にある港で、やはり
"nimnʌj"の当て字と考えられるとしています。
201:世界@名無史さん
09/06/22 11:44:30 0
>>191
ちがうよ!
ヒトラーは先祖がウクライナからボヘミアにやってきたスラブ人
だからウクライナ人が正しいよ!
202:世界@名無史さん
09/06/22 19:54:23 0
>>200
栄山江流域の前方後円墳が集中する領域が任那4県だとすると、さまざまなことが
矛盾なく解ける気がするんだが。任那が金官加羅などに限定した狭い領域だとする
と、「任那復興」とか「任那4県割譲」とかをどうとらえたらよいのか、わからな
くなってくる。かえって、権珠賢の説の方がうなづけるんだけどな。「任那」が倭
と高句麗による他称だということから、何か演繹されることがあるのではないだ
ろうか。
203:世界@名無史さん
09/06/22 20:45:48 0
韓国=空国(むなくに)=辛国=加羅国=カラクニ
カラとは(親族)ウカラ、(同胞)ハラカラ、(同族)ヤカラの事
(体,身体)カラダ、(身柄)ミガラ、(輩)トモガラ、も同意。
「兄弟」・・アニオト(異母兄弟の時)ハラカラ(同母兄弟)
「族」・・・ウカラ (血の繋がりが濃い親戚)ヤカラ(一族、同族まで一般)
元々同族の意味で「カラ」と発音してた処に「韓」の字を当てたものだから
近世韓国人が2000年前の三韓を同民族と勘違いしてしまった。
この論理で行くと中国春秋「韓」と同じ字の「韓」だから同族と勘違いする
のと同じである。
近世韓国人は後期高句麗軍、モンゴル軍、の半島南征時に先兵として
ついて来た満州地域の邑婁族(ユウロウ)と思われる(文化が同じ)。
204:世界@名無史さん
09/06/22 22:22:33 0
>>201
それって、母方のこと?父方については、>>192が言ってる
ように不明なんだけど。
205:世界@名無史さん
09/06/22 22:36:26 0
>>203
>元々同族の意味で「カラ」と発音してた処に「韓」の字を当てた
「韓」の字を当てたのは中国人なんでしょうか? 同族の意味の「カラ」は朝鮮語ですか?
206:世界@名無史さん
09/06/23 04:23:15 0
>>202
いや、やはり同時代史料である広開土王碑文や『宋書』に
みられる狭義の「任那」こそが本来の姿だったのではないか
と思います。
すなわち、「任那」はもともと「金官加耶」のことであり、任那の語
が慣用されるうちにその範囲が拡大していったのではないかと。
その拡大の背景には、倭独自の「任那=官家」観、ないしは
「天下」概念が関わっているように思われます。
『日本書紀』における「任那」の範囲はいかにも伸縮自在で
捉えがたいものがありますが、最も狭義の用例としては、
敏達朝の「任那の調」記事が注目されます。
敏達4年4月に新羅、任那(新羅に併合済み)、百済の三国に
使者が遣わされ、6月に新羅からの進調がなされていますが、
「并せて多多羅、須奈羅、和陀、発鬼四邑の調進る」とあり、
新羅自体の調に加え、任那の調が進上されたことが分かります。
つまり、これら四邑こそが本来の任那、広開土王碑文にいう
任那加羅であったわけです。
207:世界@名無史さん
09/06/23 05:04:28 0
この四邑については、継体23年4月条注に、新羅軍に抄掠された
金官、背伐、安多、委陀(一本に多多羅、須奈羅、和多、費智)
の四村として見え、推古8年2月条にも、任那奪還のために攻勢
をかけた倭に対し新羅から割譲された城として出てきます。
『継体紀』の四村、『敏達紀』の四邑、『推古紀』の四城の
対応関係は、朝鮮史学者末松保和氏によって以下のとおり
考証されています。
継体23年注 安多 金官 背伐 委陀
同上(一本) 多多羅 須奈羅 費智 和多
敏達4年 多多羅 須奈羅 発鬼 和陀
推古8年 多多羅 素奈羅 弗知鬼 委陀
特に邑名として金官が挙げられていることに注目されます。
須奈羅(素奈羅)も金の国の意であり、金官に通じるとの事。
金官国とか金官伽耶という国名は金官(須奈羅、素奈羅)が
首邑となったことで称せられたものであることは明らかです。
四邑の比定については異論異説あるようですが、それらが
洛東江口に展開し、任那すなわち金官国を構成している点に
ついては大方一致をみているようです。
ただ、田中俊明氏は四邑の中に任那の名が見えないこと、
及び大成洞古墳群の造営が5世紀前半に中断することに
注目して、元来金官国を構成する邑村として任那があったが、
勢力を失った、あるいは首邑の地位が金官に取って代わられ、
国の名も金官を冠すようになったという説を唱えています。
しかし、私は上述の任那を臨海の別名とする山尾説のほうに
説得力を感じます。四邑の中でもとりわけ委陀=和多=和陀
(わた、わだ)は朝鮮語の海洋"pada"に通じ、臨海に結びつくと。
多大浦に比定される多多羅でも良さそうではありますが。
208:世界@名無史さん
09/06/23 10:21:34 0
>>206
>すなわち、「任那」はもともと「金官加耶」のことであり、任那の語
>が慣用されるうちにその範囲が拡大していったのではないかと。その
>拡大の背景には、倭独自の「任那=官家」観、ないしは「天下」概念
>が関わっているように思われます。
なるほど。前段部分については、一定の根拠・説得力がありそうですね。
後段部分はどうですか? 倭独自の「任那=官家」観、ないしは「天下」
概念 … というのは専門外の人間からすれば、少しわかりにくいです。
よろしければ、詳しく御解説ください。
209:世界@名無史さん
09/06/23 10:41:48 0
任那を奴(那)国に任せた加羅地方と解釈すれば
時々刻々と任那の領域は変化したであろう。
210:世界@名無史さん
09/06/23 10:42:53 0
表意か表音かで意味は違ってくる那。
211:世界@名無史さん
09/06/23 19:13:09 0
知らなかったけど、古田武彦の一連の著作は
あ の 朝 日 新 聞 社 出 版
だったんだな(笑) いやマジで驚いたよ~!
212:世界@名無史さん
09/06/24 00:58:54 0
>>139
卑弥呼や推古天皇なんか、どうよ?
王権は保持しながら、摂政であり大臣である一族の男に実務を丸投げしている。
女でも、摂政の立場で、長く実務を執り行った神功皇后の例もあるし。
213:世界@名無史さん
09/06/24 05:51:34 0
>>208
分かりにくくてすみません。
こちらも別に専門でも何でもないのですが、浅学を省みず…
自国を中心とする「天下」意識ないし中華意識の芽生えは倭国だけでなく、
高句麗、百済、新羅などにも同様に指摘される事実ですが、倭国のそれは
出土鉄剣銘や海外史料で裏付けられるように、そこそこ本格的なものであり、
その成立により、加耶諸国のみならず百済や新羅をも「官家」とみなす認識
が生じたと考えられます。「官家」はこの場合、藩属国や貢納国の意味であり、
後世の用字であろう「官家」とするよりも「ミヤケ」としたほうが相応しいのかも
しれません。
しかしながら、実際の半島諸国は、倭の「天下」意識や「ミヤケ」の論理
をある程度受け入れつつも、逆にそれを利用して勢力拡大を図るという
面従腹背を演じるありさまでした。倭に最も近しい加耶諸国でさえ、
金官や安羅のある南部はともかくとしても、北部においては大加羅(伴跛)
のように堂々倭と干戈を交える国すらありました。
そもそも「任那」の呼称は、金官国を指すものであり、大きく広く考えても、
金官周辺の加耶南部を指すものに過ぎなかったはずですが、そんな「任那」
の呼称が加耶全体の総称とされたのは、上述のような状況にありながらも、
「せめて加耶くらいは任那(金官)のように忠実で従順なミヤケであれ」
という倭の切なる願望が反映されたためではなかったでしょうか。つまり、
加耶諸国を「任那」と総称することには、倭国は忠実なミヤケを従えている
という体裁を整える意味があったと思うのです。
214:世界@名無史さん
09/06/24 09:48:08 0
なぜ在日韓国人は韓国に受け入れてもらえないの? 2
スレリンク(korea板)
世界は韓国をどう見ているか知りたい
スレリンク(korea板)
215:世界@名無史さん
09/06/24 22:03:41 0
>>この関連性はなんだ?
歴代君主―(春秋.呉クレ、句麗に音が近い)司馬遷の史記「呉太伯世家」
1,寿夢―(第19代、寿夢じゅぼう王、扶余系、高句麗、始祖,朱蒙に音が近い)
2,諸樊
3,余祭―(百済の王姓余と関連か?王子.余豊璋)
4,余昧―(百済の王姓余と関連か?)
5,僚
6,闔閭―(コウリョ、高麗、句麗、に音が近い)
闔閭の弟、夫概の後裔夫余を氏の説有り
風俗通に[呉公子夫概奔楚、余子在呉者、因以為氏焉]
7,夫差―(夫概、夫余氏と関連か?)
216:世界@名無史さん
09/06/24 22:04:41 0
司馬遷の史記「呉太伯世家」(紀元前585年頃 - 紀元前473年)【天皇紀2600年に近い?】
[魏略]の逸文注1)の【その旧語を聞くに、自ら太伯のすえという】
晋朝注2)の史書[晋書][梁書]の倭人伝中の【自ら太伯の後と謂う】
呉は西暦前473年に滅亡。越は呉の後を追い都を山東半島の根本の琅邪(徐福の出地)
に移します。しかしこの越も西暦前334年に楚に滅ぼされます。
*この頃より九州北部「吉武高木遺跡」に三種の神器を持った王が現る。
*始皇帝本紀には「楚国、越国を滅ぼす」、始皇帝の『越絶書』には
「外越と内越がある」と書いてある。内越とは中国大陸にいる越で、
外越は会稽の東海の彼方にいる越で、交流を絶つべしと命ずる。
217:世界@名無史さん
09/06/24 23:33:57 0
>>213
なるほど。いや、お詳しい。かなり御専門に研究された方のように思えます。
貴兄は「任那4県」はどのあたりだと考えますか? また、「日本府」の所在
地は?
わたし自身は、あまり根拠がないのですが、ここでの議論も踏まえると、日本
府(倭府)は安羅にあったのではないかと思います。ただし、「任那4県」とは
栄山江流域の前方後円墳の集中分布域と考えると、年代的にも、百済王権の有
り様から考えても、矛盾がない。整合性という点でいうと、地理的なブレに難が
あると思っていました。貴兄のお考えを援用すると、もしかしたら解決できるか
も?と期待してしまいます。
加羅は、百済・新羅の間に位置し、両国に抵抗しながら生き残りをかけていた小
国の集合であり、この地域に対する倭の関心の深さと積極姿勢は倭の五王の対
南朝外交にもみられるとおりなわけですが、6世紀にはいって加羅諸国をめぐって
百済と新羅が激化すると、安羅の地に、倭国から派遣された豪族を中核とする軍
事・外交的機能を備えた政治集団が組織された、それが倭府ではないかと思いま
す。倭府は、統治機構としての実態はほとんどなく、その活動も短期間で常設的
なものではなかったと思いますが、中央貴族や渡来人も加わっているところをみ
ると、北九州の豪族だけに全面的に委任されたものではなく、やはり倭王もいく
らかは関わったものではなかったかと思います。ただし、「応神五世孫」の継体
の王権は、倭王の王権としては基礎が弱くなってしまったために強大な力で直接
コントロールするまでには至らなかった。5世紀代にくらべれば半島へのプレゼ
ンスはやはり後退していたんだろうと思います。
百済・新羅の激しい抗争に直面した加羅諸国は、倭府に対し、調停的役割を期待し
たのではないでしょうか。
218:世界@名無史さん
09/06/25 01:54:27 0
参考にするのは勝手だが、どうせ換骨奪胎するのだろうから
みんなそんなに核心部分を話さないと思うよ。
在日が見ているせいか、チョン系メディアがたまに2chの反応で
日本の世論を論じたり、2chに書いてあったことを参考にしたような
社説を出しているから、どうせ他国の情報機関もチェックしていることでしょう。
あまり核心は話さないというのが暗黙の了解です。
219:世界@名無史さん
09/06/25 07:11:49 0
神社信仰は中国江南地方を発祥地とするアジア南方の亜熱帯系照葉樹林文化に
付随する習俗であるが、日本列島の風土に適合して独自の発展をとげて、今日見
るような日本特有の荘厳さおよび優雅さを備えて洗練され現代日本人の生活に密
着した神道となった。冷涼な温帯にあって南方文化の希薄な朝鮮半島に神道お
よび神社の起源を求めるのは誤りである。また、神道が中国の道教から派生した
という説もあるが、むしろ神道、道教ともにアジア南方の古代原始信仰に起源を発
すると解すべきである。また、日本の神社・神社信仰で特筆すべきことは、日本に
おいて発生したものということではなく、朝鮮、中国など近隣諸国に例を見ないほど
独特の形式にまで分化した点である。
URLリンク(www2.odn.ne.jp)
220:世界@名無史さん
09/06/25 13:45:07 0
>>219
神懸りのほうはどんなんだろうか?
シャーマニズムはむしろ寒い国のほうが多いような気がするのだが
特に女のシャーマニズムは
南方のほうもユタとかいるみたいだが、
北方のほうの神懸りは怖いと言うか、近づくのも怖い神懸りは
北のほうが多いような気がするのだが、
221:世界@名無史さん
09/06/25 21:03:07 0
>>217
御説のとおり、「任那四県」は、前方後円墳の分布からして、栄山江流域
あるいは広くみて全羅南道一帯に存在したと思われますが、「四県」それぞれの
比定となると、見解がかなり分かれており、容易には見定めがたい状況です。
田中俊明氏の整理によると以下の二説が対立しています。
【末松保和説】
哆唎 栄山江東岸 武珍(光州)、月奈(霊巌)、丘斯珍兮(珍原)
裟陀 求礼 『新増東国與地勝覧』求礼県古跡条の「沙等村部曲(又は沙図)」
牟婁 栄山江西岸 武尸伊(霊光)、毛良夫里(高敞)、勿阿兮(務安)
※以下、面倒なので「哆唎」はなるべく「多利」で代用します。
【全栄来説】
上多利・下多利 麗水半島(古名猿村)、突山島(突山)
裟陀 順天(沙平)
牟婁 光陽(馬老)
末松説は「四県」の位置を全羅南道一帯に広げて考え、全栄来説は
それを否定する形で全羅南道東南部に限定しているとの事。
222:世界@名無史さん
09/06/25 21:12:51 0
田中氏自身は末松説を継受しつつも、前方後円墳の分布を重視し、
「裟陀」に関しては、蟾津江流域の求礼ではなく、沙乃浦のある咸平
や沙島という郡名の残る茂長を想定しています。
【田中俊明説】
上多利 霊厳
下多利 光州
裟陀 咸平、茂長
牟婁 霊光、務安
ただ、田中説でちょっと解せないのは、上多利を霊厳(霊岩)に
比定していることです。霊厳は確かに栄山江東岸地域だけれども、
河口に程近い下流域です。「上」多利なのですから、普通に考えて
栄山江の上流域にあると思うのですが。
また、「多利」については別の見解もあります。『雄略紀』には
「日本旧記に云はく」として「久麻那利は、任那国の下哆呼唎県の別邑なり」
とあります。かつて鮎貝房之進氏は「久麻那利」を熊津(公州)、
「下多呼利」を「下多利」にあたるとみて、「多利」の地を熊津に
隣接する錦江の上流、全羅北道の東北部から忠清南道の
東南部にわたる地域と比定しましたが、これには従えません。
『日本書紀』において、「多利」以下の「四県」が「任那」であり
かつ「県」であると記述されるのは、前方後円墳の築造にみられる
倭との強固な結びつきが背景にあるためと考えるべきであり、
上下「多利」は全羅南道とりわけ栄山江流域にあったと思うのです。
223:世界@名無史さん
09/06/26 06:58:04 0
ETV特集
日本と朝鮮半島2000年(3)
仏教伝来~渡来人がもたらした飛鳥文化~
6月28日(日)
午後10時00分~11時30分
224:世界@名無史さん
09/06/26 07:20:38 0
NHKは偏向反日報道機関だからなあ
225:世界@名無史さん
09/06/26 11:36:48 0
>>221>>222
丁寧な御教示痛み入ります。全羅道地方に集中分布する前方後円墳については、國學院の
このサイトが詳しいので、ざっと見てみました。
URLリンク(21coe.kokugakuin.ac.jp)
任那4県の比定については、韓国人学者も参加していたのは少し意外でした。末松・田中
氏による比定の根拠は純文献的なものなんでしょうが、古墳分布から考慮していく方法も
アリなんじゃないか?と素人考えながら感じました。
龍頭里古墳は海南に所在するみたいなので、13基の前方後円墳の所在地は次のとおりとな
るようです。
*霊岩1、海南2(羅州の南)
*霊光1、咸平3(羅州の北、黄海沿岸)
*光州3(羅州の北、栄山江下流)
*潭陽2(羅州の北、栄山江のやや上流)
*高敞1(霊光・咸平の北、全羅北道)
このように4~5にグルーピングして比定の作業を進めていってもよいんじゃないかな?と
思うんですが、いかがなものでしょうか。
226:世界@名無史さん
09/06/26 14:21:11 0
>>反日サヨチョングループ(キムチ臭い詐欺家族ぐるみ)
反日偏向番組「シリーズ・JAPANデビュー」のディレクター、濱崎憲一は
NHK【死ぬ死ぬ詐欺】「さくらちゃんを救う会」のメンバーだった。
さくらちゃんを救う会とは1億7,000万を集め・・・
URLリンク(gline.zapto.org)
【父親】高橋昌廣 「ハングル講座」プロデューサー
スレリンク(news4plus板)
【母親】上田和子 文化福祉番組部ディレクター(代表:倉森京子の友人)
URLリンク(www.sakurahelp.com)
【代表】永田浩三 「従軍慰安婦裁判」番組プロデューサー
スレリンク(newsplus板)
【代表】倉森京子 「新日曜美術館」プロデューサー
(09年4月リニューアル 司会:姜尚中)
URLリンク(scratchpad.wikia.com)
URLリンク(www.nhk.or.jp)
【委員】首藤圭子 「新日曜美術館・姜尚中 私とデューラー」ディレクター
URLリンク(scratchpad.wikia.com)
【委員】塩田純 「日中戦争~なぜ戦争は拡大したか~」プロデューサー
URLリンク(www.geocities.jp)
【委員】濱崎憲一 「シリーズ・JAPANデビュー」ディレクター ←★
【よびかけ人】石坂啓 マンガ家・「週刊金曜日」編集委員
URLリンク(www.sakurahelp.com)
★台湾人のおじいさんたちを反日番組に利用!
「シリーズJAPANデビュー」への抗議は濱崎ディレクターに!
227:世界@名無史さん
09/06/27 05:09:58 0
>>225
朴天秀氏の研究をもとに適当に分けてみたら、五つのグループに
なりました。
河川の支流、平野ごとのあくまで大雑把なグルーピングです。
本来は古墳の規格や副葬品の傾向なども含めて判断するのが
王道なんでしょうけど、門外漢にはこれ以上は無理です。今後の
研究進展に期待するほかありませんね。( )内は前方後円墳を
含まない古墳群の数です。
光州、潭陽 5(2) 栄山江上流西岸
霊岩、羅州潘南 1(2) 栄山江下流東岸
咸平 3(2) 栄山江下流西岸
霊光、高敞 2(2) 全南北部黄海沿岸
海南 2(2) 海南半島
光州と潭陽をまとめて栄山江上流西岸グループとしてしまいましたが、
ここが五つの前方後円墳と二つの在地系古墳群を擁する最大勢力、
「四県」の筆頭に挙げられる「上哆唎」ではないかと。いちおう上流域
でもありますし。対して「下哆唎」は「国守穂積臣」がいたところですから、
倭国との連絡が取りやすい下流域、霊岩(霊厳)あたりにあったので
はないでしょうか。
228:世界@名無史さん
09/06/27 06:37:57 0
ところで、>>221-222で書くべきでしたが、末松保和氏が武珍(光州)や
月奈(霊厳)を「哆唎(タリ)」の地であると比定したのは、「珍」や「月」の
字訓に拠るようです(ようですというのは、末松氏の論著は未読のため)。
新羅語の訓では、「珍」を[tor](または[tol] )といい、また「月」も[tor]
[tar] [tur]といったそうです。岩波文庫版『日本書紀』には、『神功紀』に
みえる「波珍干岐(はとりかんき)」の「珍」の訓に始まって、そのあたり
が解説されていますので、詳しくはそちらをどうぞ。
「珍」の訓が「タリ」に近いといえば、全羅北道にも、東南部に難珍阿
(鎮安郡)、馬突=馬珍(馬霊面)などの地名もあり、地名だけで見る
ならば、こちらも捨てがたい。例えば、鎮安や馬突を北の「タリ」
すなわち「上哆唎」、光州や霊厳のほうは南の「タリ」、「下哆唎」に
比定するとか。「四県」の次に乙文(南原)へ進出する百済のルートを
考えればそのほうが状況に合うかもしれず…。むろん考古学的な
検討を経なければ難しいでしょうが。
それにしても、「哆唎」については、上下ある広大な(と考えられる)
地域なのですから、正直もう少し手掛かりがないものかと思います。
『魏志』の馬韓条に列挙される国々をみると、「○離国」というのは
沢山あるのですが、「タリ」に相当しそうなものはない。「牟婁」に
比定できそうな「咨離牟盧国」「牟盧卑離国」はあるというのに。
「卑離国」「支侵国」「萬盧国」「辟卑離国」など、『日本書紀』や
『南斉書』にみえる百済地名に比定されうるものもあるので、
馬韓条の記述はけっこう信頼できると思うんですけどね。
まあ、このあたりはのめり込みすぎると、かえって袋小路に
入ってしまいますが。
229:世界@名無史さん
09/06/28 07:52:44 0
>>227>>228
適切なグルーピングありがとうございました。比定に関しては、魏志倭人伝
の倭の諸国も同じ問題をかかえていますね。おっしゃる通り、袋小路に陥る
可能性はあります。とはいえ、「一支国」原の辻遺跡のように、文献と考古
資料が整合してくると、今度は、それが何より当該時代の指標となるくらい、
強い力を発揮しますね。遺跡だけ、文献だけだと弱いが、両方かみあうと強
い。比定の作業は、その準備としてはやはり重要だろうと思います。あくま
で仮説であり、試論であることさえ、わきまえていれば、ということだろう
と思います。
光州・潭陽がざっとみて、「任那四県」の筆頭「上哆唎」というのは、おそ
らくそうだろうと思います。それ以外をどうあてはめていくのか。5つのグ
ループを四県にまとめてしまうのか、まとめるとすると、どうまとめるのか。
また、無理にまとめないなら、収まらない1地域についてどうとらえるのか。
さまざまな問題が派生してきますね。それはそれで楽しい。
國學院のURLを読む限りでは、倭人の影響が墳形のみならず副葬品の面でも
かなり強いことが読み取れました。貝釧まで出ていたとはちょっと驚きです。
230:世界@名無史さん
09/06/28 18:48:24 0
宣伝だよ~!
ETV特集 日本と朝鮮半島2000年(3) 仏教伝来~渡来人がもたらした飛鳥文化~
今晩 6月28日(日) 午後10時00分~11時30分
231:ty270410
09/06/28 22:53:47 0
>>227
5グループ分けはすばらしいですね!
末松保和さんは「三国史記 地理志」の古地名から比定しておられます.
多利
武珍(光州):mu-tar,月奈(霊岩):tar-na,
丘斯珍兮(長城県珍原):珍はtarまたはtor
沙陀
東国輿地勝覧の求礼県古跡に「沙等村(或は云う沙図)」
牟婁
武尸伊(霊光):mu-r-i,毛良夫里(高敞):mo-ra-pu-ri,
勿阿兮(咸平県務安):mur-a-xoi
以上のように比定しておられます.
(末松保和:『任那興亡史』1956年,吉川弘文館,118頁~123頁
さて,現在は考古学的に>>227さんの5グループを念頭におきながら
地名比定を再度行うべき時期だと私は思います.
沙陀に関する一私案を述べてみましょう.
東国輿地勝覧の海南県条に「玉山廃県,古之沙羅郷」という記載が
あります.ですから沙陀は「海南」に比定できそうです.
232:世界@名無史さん
09/06/29 08:07:25 0
白村江と栄山江の位置関係を考えると、白村江が百済救援戦争の決戦地になった
理由がよくわかる気がしますね。白村江以南を確保できれば、栄山江流域には倭
人の勢力がかつてあったため百済復興の拠点を形成しやすい。そういう読みが、
天智天皇らを中心とする当時のヤマト王権にはあったんでしょうね。
233:世界@名無史さん
09/06/29 14:58:11 0
前方後円墳は、全羅南道を主とする、特に栄山江流域に密に分布していて、倭系の
豪族の存在を示唆するものだが、横穴墓はどうなんだろうか。これは、倭の五王の
勢威のさかんだった5世紀中葉から後葉にかけて九州地方北東域で出現して日本列島
各地で盛行した倭独自の横穴系墓制とみられてきたわけなんだが、韓国忠清南道の
公州や扶餘でも相次いで発見され、日本列島それも東九州のものと近似することが
わかってきたわけなのだが。ここは、百済にとっては辺境地帯ではなく、むしろ本
丸にあたるわけで、別の考察が必要なのではないか。
234:世界@名無史さん
09/06/29 15:30:22 0
>>227>>231
任那4県 … 上哆唎、下哆唎、裟陀、牟婁。
そして、>>227さんのグルーピングは、
*光州、潭陽 5(2) 栄山江上流西岸
*霊岩、羅州潘南 1(2) 栄山江下流東岸
*咸平 3(2) 栄山江下流西岸
*霊光、高敞 2(2) 全南北部黄海沿岸
*海南 2(2) 海南半島
ということですね。
このグルーピングをもとにして、検討していくと、
*光州、潭陽=上哆唎(>>227さん) … 五つの前方後円墳と二つの在地系
古墳群を擁する最大勢力「四県」の筆頭であり、栄山江の上流域に立地する
ところから。
*霊岩、羅州潘南=下哆唎(>>227さん) … 栄山江下流にあたり、「国守
穂積臣」がいたという記録から、倭国との連絡が取りやすい位置を想定して。
これについては、>>231さんの掲げてくださった末松説の
*多利 … 武珍(光州):mu-tar,月奈(霊岩):tar-na, 丘斯珍兮(長城県
珍原):珍はtarまたはtor
で補強されます。さらに、
*海南=裟陀(>>231さん) … 東国輿地勝覧の海南県条に「玉山廃県,古之
沙羅郷」、同じく東国輿地勝覧の求礼県古跡に「沙等村(或は云う沙図)」
の記載あり。
さらに、末松説で>>227・>>231両氏の御紹介によれば、
*霊光、高敞=牟婁 … 武尸伊(霊光):mu-r-i,
毛良夫里(高敞):mo-ra-pu-ri,勿阿兮(咸平県務安):mur-a-xoi
ということですね。
235:234
09/06/29 15:31:55 0
(234つづき)
この比定によって、前方後円墳の分布と日本書紀記載の「任那4県」がピッ
タリ重なることになりますね。素晴らしい。
のこった「咸平」をどうとらえるか。同じ栄山江下流域ということで、「下
哆唎」に含めるのか。
田中説では「裟陀」に含めていますが、現代の全羅南道の地図をみると、咸
平郡と霊光郡は隣接しているので、「牟婁」に含める見解もありえると思う
のですが、どうでしょうか。
236:ty270410
09/06/29 22:27:35 0
>>235
>田中説では「裟陀」に含めていますが、現代の全羅南道の地図をみると、
>咸平郡と霊光郡は隣接しているので、「牟婁」に含める見解もありえると
>思うのですが、どうでしょうか。
「牟婁」に含めることに賛成です.
これで,任那四県の地図を前方後円墳の所在を含めて描けるように
なりましたね!
237:ty270410
09/06/29 22:43:28 0
475年の百済の一時的滅亡の影響は大きいのではないかと思います.
475年以前の百済は現在のソウル,京畿道を中心とする勢力でした.
475年の滅亡の後,百済の王族,貴族,士族階級の人々が大挙して
南方へ逃れたことは容易に想像できます.
その流れの一部が東九州へ及んだであろうことも類推できるでしょう.
この後,公州や扶余に本拠を置く再興百済の後方援助する基地となったのが,
任那四県だったのではないでしょうか?
武寧王以降になると高句麗の圧力を受けた百済はさらに南下を続け,
慕韓(全羅北道)を併合し,任那を侵略したに違いないと思います.
この頃は,史上に現れない高句麗・百済・倭をめぐる壮大な事件が
あったのではないか?と私は想像しています.
238:世界@名無史さん
09/06/29 22:45:36 0
賑やかになってきましたね。
ところで、栄山江流域関連の論著にいくつか目を通したところ、
恥ずかしながら、>>227の案に若干修正すべき点が出てきました。
まず、光州、潭陽の古墳群を栄山江上流西岸部としたのですが、
これは単に栄山江上流域としたほうがよさそうです。
たしかに、光州広域市光山区月桂洞の長鼓村1号墳・2号墳、
同区明花洞の花洞古墳の前方後円墳3基は栄山江上流西岸に
あるのですが、潭陽郡聲月里の月田古墳、潭陽古城里1号墳の
前方後円墳2基はそれぞれ栄山江の東岸と最上流の水源地帯
にあり、栄山江西岸とは言えません。訂正いたします。
ただ、栄山江東岸の大きな平野部である光州広域市の中心部に
古墳が全く出ていないのが気になるんですよね。古墳の分布を
栄山江西岸に偏るとみたのはそれもあります。
後に武珍州が設置されるこの地が無人の地だったとは考え難いし、
開発で破壊されてしまっただけかもしれませんが。
あるいはすでに百済の郡府(面中王、面中侯の府?)のような
ものが進出していたため、在地勢力または倭人が古墳を築く
ことができなかったとか…
239:世界@名無史さん
09/06/29 22:48:19 0
>>229
貝釧は海南月松里造山古墳ですよね。柳沢一男氏によると、
ここの横穴式石室は栄山江流域では早期に出現したもので、
北部九州型。福岡県の番塚古墳のそれとよく似ており、
ほぼ同規模だそうです。
>>231
引用有難うございます。末松氏の『任那興亡史』は一度目を
通さなくてはと思ってるのですが、なかなか手に入らなくて。
>>235
咸平郡と霊光郡はたしかに隣接しているのですが、
蘆嶺山脈で隔てられているので、別々の地域と考えました。
ただ、牟婁(むろ)という音からは、古い朝鮮語と思われる
「むれ(山)」が連想され、地勢的にはどちらも当てはまる
ような気はしますね。
240:世界@名無史さん
09/06/30 12:02:17 0
>>238
難しいところですね。土取りや農地開発などのために削平されてしまったのかも
しれません。前方後円墳以外の型式の墳墓なら検出されているんでしょうか。そ
れにもよると思いますが。。。
241:世界@名無史さん
09/07/01 15:59:23 0
前方後円墳による任那四県の比定について上記の流れを見ていましたが、
ちょっと気になる点があったので書かせてもらいます。
>>234
>倭国との連絡が取りやすい位置を想定して。
「オコシタリ」「オロシタリ」ですよね。多利の上と下は逆の可能性もあるのでは?
>>239
>古い朝鮮語と思われる
>「むれ(山)」が連想され、
日本書紀にも出てきますが、使い分けされている理由が説明できていないので
「古い朝鮮語」とするのはどうでしょうか。「ムレ」は上代語の可能性もあると思います。
が、脱線案件と思われますので、これ以上はやめておきます。
242:世界@名無史さん
09/07/01 22:47:25 0
>>241
上・下は河川の上流、下流に対応すると考えました。
岩波文庫版『日本書紀』の解説によると、上をオコシ、
下をアロシ、またはアルシとよむのは古代朝鮮語を写した
もの。シは助辞、アロは前・下・南などを意味する朝鮮語、
オコは肩の意から、前に対する背後とか、上・北などを
あらわす古語であろう。日本語のオロ(降下)、オコ(上起)
と同源か、との事です。金官国をさす南加羅(アリヒシノカラ)
のアリヒも南の意で、アロ、アルに通ずるようです。
河川流域の地名に上下が冠されるのは、半島ではよく見られた
ことのようで、上己文(上奇物)などの例が挙げられます。
「ムレ」については、『日本書紀』では半島での用例にほぼ
限られるようなので、朝鮮語と考えました。『欽明紀』の
函山城(カンムレノサシ)、阿羅波斯山(アラハシムレ)、
居曾山(コソムレ)や、『神功紀』の辟支山(ヘキノムレ)、
古沙山(コサノムレ)、谷那鐵山(コクナノカネムレ)、
山鐵(ムレノカネ)などの用例がありますね。
むろん、上代日本語の可能性もありましょうが、管見の限り
では日本の山についてはヤマと訓まれているようです。
243:ty270410
09/07/01 23:57:01 0
百済語については次のサイトが参考になります.
ただし,スパイウェアなどが付いている可能性がありますので,防御手段を
講じてから,ご利用ください.
URLリンク(pds9.egloos.com)
244:世界@名無史さん
09/07/02 00:17:11 0
引き続き>>227の修正をば。
>>227では、前方後円墳の数から光州、潭陽地域(上哆唎に比定)
を栄山江流域の最大勢力と短絡的に考えてしまったのですが、
古墳の副葬品の内容から、むしろ中下流域(下哆唎に比定)、
羅州(百済の発羅郡)の潘南古墳群や伏岩里古墳群を中核とする
一帯のほうを栄山江流域の代表的勢力とする見方もあることを
知りました。
伏岩里の方は下流西岸にあるので、別グループに勘定していた
のですが、栄山江を挟みつつも同じ羅州地域として潘南と一緒に
考えることにします。ちなみに、両古墳群に前方後円墳はなく、
この一帯には羅州市南方の霊厳郡泰澗里にチャラボン古墳1基
があるのみです。
>>243
ご紹介有難うございます。
是非活用させていただきます。
245:世界@名無史さん
09/07/02 00:43:49 0
>>240
在地系の古墳についても目立ったものは見つかっていないようです。
今後の発掘調査を待つべきなのかもしれませんが。
武珍において在地系古墳も前方後円墳もつくられなかったとすれば、
5世紀末に百済王が王侯を封じた「面中」を武珍に比定する見解が
あるので、王侯ないしその派遣官がいた可能性もありうるかなと。
東城王20年(498)に武珍州へ親征が行われたという『三国史記』
百済本紀の記述とも符合するようですし。