07/03/16 21:55:59 0 BE:75335292-2BP(4)
日本と欧州・中東の城
主に封建領主の居館を兼ねた防御拠点。
日本は土塁や石垣、欧州・中東は石や煉瓦の城壁で囲われている。
中国・朝鮮の城
都市全体を城壁で囲んだもの。欧州や中東の都市もこの形態。
日本では石積み、煉瓦積みの技術が未発達のため城郭都市は発展しなかった。
このスレは広い意味での「城」を様々な角度から論じるアカデミックなスレッドです。
2:世界@名無史さん
07/03/16 22:01:20 0
2get
これはどう見てもおかしいだろ。 まず、主語が2。で動詞がget。
2が単数形だとしたら、getsにしないとおかしい上に、目的語がない。
直訳すると「2が得る」 何を得るんだよ!!!いいかげんにしろ。
それを言うなら
I get 2. だろ。しかも現在形だし。 過去形、いや現在完了形ぐらいまともに使ってくれよ。
I've got 2. 少しはましになって来たが、まだ気に入らない。その2だ。
いったいお前は何を手に入れたんだ?2という数字か? 違うだろ、手に入れたのは2番目のレスだろ。
どうも日本人は数詞と序数詞の区別がよく分かっていない節がある。
これらを踏まえて、正しくは
I've got the second responce of this thread.
ここでtheにも注目してもらいたい。このスレの2ってのは 特定の、このレスだけなんだから。だからaでも無冠詞でも なく、the second responceなんだ。
もう一度おさらいしてやる。
I've got the second responce of this thread.
3:世界@名無史さん
07/03/16 22:14:40 0
124 :2006/04/29(土) 23:56:51.16
古い紙コップ自販機ってコーラとコーヒーが混じってて不味いのが出てくる。
125 :2006/04/30(日) 00:02:55.33
コーヒーの素がきれてたんか知らんが、95%お湯のコーヒーが出てきたことが3回もある。なんで「売り切れ」になってないんだよ
129 :2006/04/30(日) 00:11:49.79
おれはコップもコーヒーも出たけど、コップがさかさまで出てきた事がある。
130 :2006/04/30(日) 00:11:49.82
コップが3つ重なってて、ちょっと得した気分を味わったことならある
139 :2006/04/30(日) 00:30:23.62
>>127
ジュース→コップ→氷の順で出てきたことあるよ
夜で売店閉まってたしサイフ忘れてちょうど100円とカードしか無かったので
氷食って帰った
4:世界@名無史さん
07/03/20 00:04:21 0
石垣って英語でstone wallなのな。
あれを「城壁」と思う日本人はいないだろうが。
土塁の表面に石を積んだだけだし
5:世界@名無史さん
07/03/20 00:30:19 0
>日本では石積み、煉瓦積みの技術が未発達のため城郭都市は発展しなかった。
異民族に攻め込まれる危険が無いから、城壁作る必要がなかっただけの話。
6:世界@名無史さん
07/03/20 11:26:06 0
あと、国内の治安の問題もあるかもね。
中国や欧州のように、都市と都市という点以外は、
全て異世界というような世界じゃね。
個人的に不思議なのは、欧州や中国の城は、
城塞都市から単なる軍事拠点に至るまで、
日本の郭のような縦深性がほとんどないこと。
一点を突破されたら終わりって防御かなり不利じゃない?
7:世界@名無史さん
07/03/20 11:29:16 0
あと、技術が未発達というが、
朝鮮や東欧の当時の技術水準で日本で同じものを作っても、
地震で一撃だと思うよ。
近代建築でも、韓国や東欧の耐震設計は異常に甘い。
8:世界@名無史さん
07/03/20 11:58:31 0
朝鮮征伐の際に日本が築城した俗に言う「倭城」の方が堅固なわけだが?
9:世界@名無史さん
07/03/20 15:37:26 0
>>8
逆に言うと、なんで中国や東欧では、
拠点(郭)を多数配置して縦深性をもたせた築城術が発達しなかったんだろう
縦深性と多数の拠点を用いた要塞は、
近代でその有効性が証明されているよね。
10:世界@名無史さん
07/03/21 03:10:38 0
戦国時代
一点を突破されたら、すぐに撤退
これ基本
11:世界@名無史さん
07/03/21 03:10:58 0
遊牧民相手の戦いが多かったことが何か影響しているだろうか?
12:世界@名無史さん
07/03/21 03:28:46 0
日本の戦国時代のお城といえば、多くの日本人は
江戸時代の城や、大阪城など例外的な城を思い浮かべる。
13:世界@名無史さん
07/03/21 13:27:15 0
>>12
例外じゃなくて集大成っていえよ
14:世界@名無史さん
07/03/21 18:48:12 0
でも大砲が主力となる時代には耐えられない代物。
もっとも大砲が主力となる時代は、幕末・明治に
持ち越されてしまうが。
15:世界@名無史さん
07/03/21 19:02:32 0
ヨーロッパは、都市城壁はあっても堀はあまりないよな。
16:世界@名無史さん
07/03/21 20:13:12 0
確かに、山城は大砲とかに強そうだな。
確かに集大成だが、やはり平和な時代の城なんだろうよ。
まだ戦乱残る安土城なんかは、山城としても特色が、
かなりのこっているよな。
17:世界@名無史さん
07/03/21 20:30:46 0
小田原城や大阪城には町を囲む城壁に近いものがあったけどね
秀吉も京都に城壁を作ったらしいし…
あと一応、名古屋城あたりは対大砲防御はしている。
一応だけどね
18:世界@名無史さん
07/03/21 21:12:23 0
>>15
城壁都市でも周囲に堀を巡らしているものはあるよ。
あと領主の居館(=城館)には普通に堀がある。
跳ね上げ橋は堀があるから必要だったんだよ。
日本では堀のない城郭はまずないが、逆に言えば
城壁(=土塁・石垣)だけでは攻撃に耐えられなかったということの証拠だろう。
あと、日本ではあんまり跳ね上げ橋ってないね。発明されなかった?
19:世界@名無史さん
07/03/21 21:33:28 0
>>18
跳ね上げ橋は江戸城にあるよ。小さいけど
多分、戦国以後に発明されたと思われる
20:世界@名無史さん
07/03/21 23:09:30 0
戦国~江戸初期までの城郭で近代戦でも要塞として機能しまくったのって
熊本城くらいか?加藤清正が偉大ということか
21:世界@名無史さん
07/03/22 05:01:22 0
>>20
そのくらいしかまともな近代戦を経験してないだろうが。
22:世界@名無史さん
07/03/22 06:31:14 0
幕末の時は大阪城も篭城すれば十分に耐えれたな
23:世界@名無史さん
07/03/22 15:20:47 0
つーか、
日本の城が大砲に弱いというのは、
城壁が垂直方向に聳え立っているという事から来る、
イギリス人のイメージ論なんじゃね?
より正確に言うと、垂直に聳え立つ「薄い」城壁が大砲に弱いのであって、
柔軟な土の土台に石垣を敷き詰めた日本式の石垣城が、
大砲に弱いとはちょっと思えない。
実際、砲撃を受けてもせいぜい穴が開くくらいで、
土台が崩壊しましたなんて話、聞いたことない。
勿論、上部構造物は弱いだろうけど。
24:世界@名無史さん
07/03/22 17:58:14 0
会津若松の鶴ヶ城は?
城下は炎上して、誤解した白虎隊が切腹したが、城は落ちていなかった。
25:世界@名無史さん
07/03/22 21:01:11 0
さすがに戦国を経験した奴らの城だから
戦闘に対してはかなり合理的な城だろう
26:世界@名無史さん
07/03/22 22:26:33 0
ヨーロッパの市壁って、防御用以外で、徴税、入市税
目的のものもあるよな。
27:世界@名無史さん
07/03/22 23:29:26 0
>>23
日本の城が砲に強ければ幕末に五稜郭とかの稜堡式城郭作る必要ないだろ。
西洋の城壁は薄いが高い。日本の石垣は分厚いが低い。
攻城戦で郭内にガンガン砲弾撃ち込まれるのは問題だろって事
28:世界@名無史さん
07/03/23 00:10:05 0
西洋の城塞といっても、大砲が投入される以前と以後では形状が違うよ
薄くて高い城壁は大砲以前
そういう城壁が大砲に崩されてから、低く厚く傾斜の付いた城塞に変わった
大砲の役目は、普通の力責めでは越えられない城壁を崩すこと
そこを突破口として歩兵を侵入させられる
大砲がなければ強化された城門なんかを攻めなければならなかった
29:世界@名無史さん
07/03/23 01:00:40 0
西洋や支那では、街全体を城壁で囲む。
日本の城は権力者の邸宅のみ堀と石垣で囲む。
日本の城では、民衆は小さな小競り合いでも家を焼かれる危険があるが、
逆にどこにでも好きなところへ逃げ失せてしまえる利点がある。
西洋や支那の城は、小さな小競り合いなら絶対安全。
しかし大規模な篭城戦になれば食糧が尽きて餓鬼道に墜ち、陥落すれば
権力者と運命を共にしなければいけない。
30:世界@名無史さん
07/03/23 01:28:27 0
西洋には馬出がないな
31:世界@名無史さん
07/03/23 06:06:12 0
アヘン戦争では清の城壁は大砲でも壊れなかったんじゃないか?
32:世界@名無史さん
07/03/23 07:51:38 0
>>27
>攻城戦で郭内にガンガン砲弾撃ち込まれるのは問題だろって事
それは西洋型の堡塁でも同じなのでは?
33:世界@名無史さん
07/03/23 11:07:22 0
>>30
馬出とはすなわち出郭のことと考えれば稜堡こそそれに相当するかと
URLリンク(www5a.biglobe.ne.jp)
>>32
城壁が高いといきなり打ち込まれることはないよな。
もちろん城壁を崩されると同じだけど
34:世界@名無史さん
07/03/23 15:45:18 0
ん?ちょっとまって。
西洋の要塞は、薄くて高い城壁型の城から、
低くて厚い稜堡型の近代要塞に進化したんだよね?
どちらの話をしているの?
ちなみに、ヴォーバン式近代要塞の代表例、
ブールタング要塞の上空写真は、堀があって郭があってカクカクしてて、
日本の石垣式平城と雰囲気そっくり。
35:世界@名無史さん
07/03/23 15:49:57 0
>>34
西洋では堀が基本になった近代の城とか要塞とか
でもドイツの電撃戦で要塞自体が時代遅れになった
航空機、戦車、歩兵の立体戦術が基本
36:世界@名無史さん
07/03/23 21:25:39 0
日本の石垣式平城に稜堡は無いんじゃない?
まあ馬出がその役目を担ったんだけども。
ただ城 casleという場合、稜堡式要塞はFortressであって
ちょっと「城」とは違う気がするな
37:世界@名無史さん
07/03/23 23:18:16 0
巨石がないのが決定的に影響してるだろうな
38:世界@名無史さん
07/03/24 01:00:16 0
グスクとチャシについては?
39:世界@名無史さん
07/03/24 22:15:38 0
西洋近代に、防御効果の高い城ってあったけか?
リバイバル様式の城とかを除いて
40:世界@名無史さん
07/03/25 09:03:18 0
>>39
大砲で要塞のような感じになった
41:世界@名無史さん
07/03/25 09:43:04 0
それは近代というよりルネサンス期に起こった変化では
42:世界@名無史さん
07/03/25 11:46:18 0
中世:梯子、攻城塔→城壁で防ごう
近世:鉄砲、大砲→稜堡で防ごう
近代:火力集中、爆撃→コンクリートと穴蔵で要塞化
しかし現代は応急築城材の発達により
築城は再び塁壁に変化しつつあると言う
43:世界@名無史さん
07/03/25 12:15:59 0
お堀が浅いと役にたたない
44:世界@名無史さん
07/03/25 13:21:03 0
>>43
堀を浅くして、槍が堀の底に届く距離にするのも手の一つ
45:世界@名無史さん
07/03/26 00:23:03 0
各国語版Wikipedia見れば分かるが、いわゆる英語の"castle"に相当するのって
欧州・中東のほかは日本にしかないのな。
これは封建領主がこれら以外の地域ではいなかったってことなのかな?
でも、たとえばムガール帝国には多くの藩王(マハラジャ)がいたみたいだけど彼らは城を
作らんかったのかいな?
46:世界@名無史さん
07/03/26 00:48:52 0
インドでは、確か平時用の宮殿と別に、戦時に立てこもる城砦を造ることが
多かったんじゃなかたっけか。
城郭都市の中に築いたか外かは詳しく分からずスマソ・・・
47:世界@名無史さん
07/03/26 00:57:51 0
Indian Castles 1206-1526: The Rise and Fall of the Delhi Sultanate
URLリンク(www.amazon.co.jp)
この本の冒頭にちらっと書いてたと思うんですが
イギリス支配時代の行政用語で城砦をみんなFortといってたそうです。
48:世界@名無史さん
07/03/26 07:14:06 0
現代のような空中戦が主体で要塞防御は意義があるんですか?
49:世界@名無史さん
07/03/26 07:27:05 0
例えばスイスのような、国土全体が要塞になってる国では、
航空攻撃どころか、核攻撃にも耐えると聞いているけど。
50:世界@名無史さん
07/03/27 07:35:47 0
スイスを攻める場合はどこから攻めればいいのか?
51:世界@名無史さん
07/03/28 01:50:06 0
攻めないで、包囲する。
52:世界@名無史さん
07/03/29 04:36:38 0
>>51
海上封鎖もあまり意味がないと結論が出てるし
スイスを包囲しても効果は薄いだろうな
53:世界@名無史さん
07/03/29 05:20:10 0
包囲戦でも殲滅戦でも費用対効果考えたら作戦を実行しにくい。
まして包囲戦なんてww2の独伊のような周り全て敵国でないと不可能で
しかも制圧してもアルプスの峠を得られなければ戦略的価値はない。
そうやって「攻め込まれない」工夫がなされているのがスイスの強さだなあ。
54:世界@名無史さん
07/03/29 21:12:09 0
ナポレオンに征服されたけどな、スイス。
55:世界@名無史さん
07/03/31 17:06:33 0
>>48
イラクの自衛隊やアメリカ軍の駐屯地は一種の要塞かも
56:世界@名無史さん
07/03/31 20:20:08 0
>>55
それは敵が空軍を持ってないしね
57:世界@名無史さん
07/03/31 23:21:52 0
幾何学的な城は、ルネサンス期に登場?
58:世界@名無史さん
07/04/01 01:05:44 0
>>57
城塞の形は大砲の発達史と関係が深い。
1453年に世界最大最強といわれたコンスターチノープルの3段の城壁が
オスマン・トルコ軍の大砲で陥落してから、幾何学模様の陸堡が多くなった。
それまでは敵兵が登れないように、城壁は高ければ良かったが、
大砲の登場で高い城壁が絶好の目標物になってしまって、
ぐっと低く、分厚く、堀が深く広く、死角がない幾何学模様の陸堡になった。
59:世界@名無史さん
07/04/01 22:29:36 0
垂直から斜めになったというのもある
垂直で薄い壁は衝撃をもろに受けるから
60:世界@名無史さん
07/04/04 03:44:32 0
市街を守る必要がそれ程無かったからじゃないの。
税収はあったにせよ、主な経済資源は鉱山や田畑に依存していた為
消費地に過ぎない城下町その他はそれ程守る必要性が無かったとか。
上で出てるけど、異民族相手じゃない分掠奪やらが少なかったせいもあるかもしれない。
とか言う今即興で考えた意見。
61:世界@名無史さん
07/04/04 13:39:27 0
>>60
逃げ口上が多すぎる上に散漫。再提出。
62:世界@名無史さん
07/04/08 16:54:27 0
【三重】製作19年、庭に1/23スケールのミニ「姫路城」完成 材料費約1800万円(画像あり)
スレリンク(newsplus板)l50
URLリンク(www.tv-aichi.co.jp)
URLリンク(www.amigo2.ne.jp)
URLリンク(www.amigo2.ne.jp)
URLリンク(www.amigo2.ne.jp)
63:世界@名無史さん
07/04/18 13:32:21 0
>>58
メフメト2世の頃のコンスタンティノープルの城壁って本当に最強なのかね。
建てたのが5世紀だから千年近く前のものだけど。
64:世界@名無史さん
07/04/18 15:42:03 0
イスラエルはイスラエル全体を囲うイスラエル要塞を建設中です。
65:世界@名無史さん
07/04/18 21:39:28 0
【三重地震】“江戸時代のは崩れず” 亀山城跡の石垣、崩れたのは昭和47年に修復した部分だけ
1 :ままかりφ ★ :2007/04/17(火) 19:47:25 ID:???0
三重県亀山市で15日に震度5強を観測した地震で、亀山城跡の石垣が
崩れた現場を専門家が調査したところ、30年余り前に比較的小さな石を
使って修復した部分だけが崩れていたことがわかりました。
15日の地震で亀山市では、亀山城跡の石垣が幅2メートル、高さ6メートルに
わたって崩れました。亀山市教育委員会の担当者と専門の業者あわせて4人が
17日、現場を訪れ、原因を調査しました。この石垣は、およそ400年前の
江戸時代に加工していない自然の石を積んで築かれたものですが、調査の結果、
石垣の崩れた部分は、昭和47年に修復した部分だったことがわかりました。
これに対し、400年前に石が積まれたままの場所はまったく壊れていませんでした。
調査の担当者によりますと、修復の際に、江戸時代に築かれたときと比べて
小さな石が使われたため、重さが足りず、土台の盛り土に石がしっかりと
食い込んでいなかったことが原因とみられるということです。
亀山市教育委員会まちなみ・文化財室の嶋村明彦室長は「貴重な文化財なので、
昔の石垣の積み方を踏まえて、工事方法を検討し復元していきたい」と話しています。
URLリンク(www.nhk.or.jp)
URLリンク(www.nhk.or.jp)
66:杜生さん
07/04/22 21:11:21 0
上の方のスレで日本の城の石垣は砲撃に弱いとか言ってる人がいますが、
日本の城の石垣は砲撃ぐらいじゃビクともしないですよ。
戊辰戦争の時に何百発という砲弾に晒された会津の鶴ヶ城の古写真など見ると
天守や櫓などの木造建造物は崩壊寸前ですけど、石垣は殆ど無傷です。
というか、現存している日本の城で石垣に砲撃による損傷が顕著な城なんて皆無に等しいですよ。
カノン砲の球弾なんかだと跳ね返してしまうぐらいです。
幕末、最新鋭だった薩長のアームストロング砲弾ですら殆ど無力化してしまう防御性能がありました。
67:世界@名無史さん
07/04/22 21:14:07 0
というか、石垣を大砲で打つ意味って何?
天守や櫓を崩せばいいんじゃね
68:世界@名無史さん
07/04/23 21:04:12 0
っていうか、大砲を城の中まで打ち込まれるようになったら終わりだろ。
69:世界@名無史さん
07/04/23 21:16:40 0
>>67
戦意喪失が狙いかな
大砲だけで城落とすのは難しい
歩兵による突撃が重要
70:世界@名無史さん
07/04/24 06:59:03 0
>>67
天守や櫓なんて城の防御では、補助的な意味しか無いから。
島原の乱で原城が幕府軍の大砲による攻撃に、かなり善戦したことを見ればわかる。
71:世界@名無史さん
07/04/24 13:50:06 0
攻略の際に大砲が必要になる城と
大砲が無くても攻略可能な城との間には越えられない壁がある。
72:世界@名無史さん
07/04/24 14:00:01 0
>>58
コンスタンティノープル陥落よりも、イタリア戦争のほうが直接的な原因じゃないか
シャルル8世あたりが大砲でイタリアの都市をガンガン落としていったので
それに対抗して土塁で補強していくうちに効果的な築城法を編み出していったという
イタリアで発達したからイタリア式築城術って言われるわけだし
73:世界@名無史さん
07/04/26 07:34:14 0
五稜郭って、19世紀中期なのにルイ14世時代の星型城郭なのは、時代遅れな気がするが。
74:世界@名無史さん
07/04/26 16:27:05 O
時代遅れだから函館(と五島)のみ作られた
75:世界@名無史さん
07/04/27 05:42:24 0
>>45
インド西部へ行くと巨大な城がいくつかあるよ。
ジャイサルメールとかジャイプルとか。
76:世界@名無史さん
07/04/27 23:34:28 0
>>75
どちらも「城塞都市」 (walled city)の類で封建領主の城 (castle) じゃないじゃん。
77:世界@名無史さん
07/04/28 09:14:08 0
>>73
ヨーロッパでもルイ14世時代から19世紀後半くらいまでは、
城郭・要塞の設計に大きな変化がなかったとか?
78:世界@名無史さん
07/04/28 10:46:52 0
>>77
単純にヨーロッパの技術>洋書を輸入>洋学者が習得
って過程のタイムラグじゃね?
79:世界@名無史さん
07/04/28 14:48:39 0
>>78
それもあるが、当時フランス人から築城の指導を受けたりもしていた
でもフランスはドイツで生まれた多角形型の要塞を採用するのに抵抗があったから
当時まだ稜堡式使ってたんだよ
普仏戦争でボコボコにされて目覚めるわけだが
80:世界@名無史さん
07/05/05 17:50:43 0
関連リンク
【土橋】中世の城に(;´Д`)ハァハァ汁2【虎口】
スレリンク(history板)
凸凸凸日本の城総合スレ凸凸凸Part9
スレリンク(history板)
熊本城の復元どう思います
スレリンク(sengoku板)
城址巡りの旅 其の弐
スレリンク(sengoku板)
◆◇◆ 安土城 ◆◇◆
スレリンク(sengoku板)
小田原城
スレリンク(sengoku板)
付け城について
スレリンク(sengoku板)
●失われた城を悼むスレッド●
スレリンク(sengoku板)
81:世界@名無史さん
07/05/20 02:09:55 0
「ベリー公のいとも豪華な時祷書」に描かれているソーミュール城に行ったことある人っています?
82:世界@名無史さん
07/05/20 08:15:45 0
e
83:世界@名無史さん
07/05/20 09:21:20 0
ない。ルーヴルとサンジェルマンアンレイとサンクルーとムードンとマルリーには行ったことあるけど
84:世界@名無史さん
07/05/22 08:55:36 0
「ヨーロッパの城と艦隊」って本がフランスの城に詳しいけど
訳が悪いせいか読んでてもさっぱり分からなかったりする。
85:世界@名無史さん
07/06/01 20:36:50 0
NEWS23「熊本城は、朝鮮人が作った」
1 :マンセー名無しさん:2007/05/29(火) 10:52:30 ID:MNzkCCwF
NEWS23の特集「日韓学生の交流」
韓国の学生が、熊本城を取材。
「韓国では、熊本城は、加藤清正が朝鮮から連れてきた朝鮮人らに作らせたと教わるのに日本人が何も知らないのに腹が立った。」と発言。
スレリンク(korea板)
86:世界@名無史さん
07/06/03 18:23:20 0
熊本城と朝鮮の人々の関わりを日本人は知っていますか?
URLリンク(uproda11.2ch-library.com)
私は朝鮮から連れて来られた人たちが熊本城を作ったと学びました
だからこのような気持ちになるんでしょう
URLリンク(uproda11.2ch-library.com)
87:世界@名無史さん
07/06/04 05:14:50 0
>>85-86
コピペするしか能がないのね。
88:世界@名無史さん
07/06/05 17:11:14 0
▁ ▂ ▃ ▅ ▆ ▇ 他にネタが無いんでしょう ▇ ▆ ▅ ▃ ▂ ▁
89:世界@名無史さん
07/06/06 23:34:16 0
コピペされると困る奴っているんだな。
90:世界@名無史さん
07/06/13 19:41:12 0
昔々、北ヨーロッパの人がアルプスを越えて地中海方面に出ようとすると、必ず通る
要衝の地にお城が3つ並んで建っています。3つ併せて世界遺産に登録されているの
で見に行ってきました。それはスイスのイタリア語圏であるティッチーノ地方の都市
ベリンゾーナにあります。ピッコロ城、グランデ城、サッソコルバロ城です。
ひとつひとつはそれほど大したものではありません。姫路城のほうがはるかに規模が
大きい。でも3つ並んで連携プレーをすると(昔はそういう戦い方をしていたそうな)、
たいした威力を発揮したのです。ひとつだけだとしょぼいが(犬山城か松本城程度)、
3つ合わせると素晴らしいという珍しい世界遺産の紹介でした。
91:世界@名無史さん
07/06/13 23:04:43 0
308 名前:名無し三等兵 投稿日:2007/05/30(水) 17:39:41 ???
ぶっちゃけた話、城壁を破壊出来るカタパルトなんて存在しない。
あくまで城内に石やらなんやらを投げ込む為の物。
辛うじて損傷出来るのはトレビュシェット位だ。
92:世界@名無史さん
07/06/14 03:25:38 0
>>89
そりゃ困るだろ
コピペだけされても会話にならないんだから
93:世界@名無史さん
07/06/15 16:35:07 0
真剣にコメントすれば会話になるけどな。
と、会話されると困る人にマジレス。
94:世界@名無史さん
07/06/15 17:51:59 0
>>85-86
>韓国では、熊本城は、加藤清正が朝鮮から連れてきた朝鮮人らに作らせた
これ根拠あんの?
あるなら知りたいんだけど。
95:世界@名無史さん
07/06/15 20:04:33 0
>>94
ネタネタ
96:世界@名無史さん
07/06/16 02:06:20 0
俘虜が石を運んだとかそういう話だろう
97:世界@名無史さん
07/06/16 14:14:32 0
城郭都市として小田原を復活させて欲しい
98:世界@名無史さん
07/06/17 13:24:18 0
高天原を復活させて欲しい。
99:世界@名無史さん
07/06/17 23:24:14 0
北野武監督の「監督・ばんざい!」という映画が公開されてますが、
あの作品に出てくる城はどこの城なんでしょうか。
たけしが忍者役のところです。
ご覧になった方でご存知の方がいらっしゃれば教えて頂きたい。
100:世界@名無史さん
07/06/18 03:13:20 0
やっぱたけし城じゃないの? 緑山の。
101:世界@名無史さん
07/07/14 22:47:17 0
築2000年の城壁が倒壊―湖北省襄陽市【写真】
URLリンク(www.recordchina.co.jp)
2007年7月12日、湖北省襄陽市の城壁が倒壊した。
倒壊した城壁は襄陽公園に位置する。倒壊部分は長さ20m、高さ20mにわたる広大なもの。当日、現
地には大雨が降っており、城壁がゆるんだものとみられる。付近の娯楽施設が倒壊した城壁の下敷き
となった。周囲にいた市民の助けで、下敷きになった被害者はすぐに救出されたもよう。
襄陽市の城壁は漢代に築かれ、宋代に改築された長い歴史を誇る。「鉄作りの襄陽」と言われたほど
の強力な城壁として知られていた。しかし1993年以来、城壁は6度にわたり倒壊。2005年から補修工
事が始まっていた。(翻訳・編集/KT)
102:世界@名無史さん
07/07/14 22:51:48 0
>>101
崩れた城壁の写真では、中が版築土塁で表面が煉瓦で覆われた中国式城壁の構造がよく判る。
恐らく漢代では版築土塁のみで、煉瓦で覆われたのは宋代だと思う。
103:世界@名無史さん
07/07/16 01:28:45 0
>>101
城壁って土なんですか?
104:世界@名無史さん
07/07/16 02:51:09 0
>>103
城 = 土+成 = 土から成る
105:世界@名無史さん
07/07/16 03:48:10 0
>>104
イメージとして城壁は石だと思ってた
土の壁なのか
詳しいサイトありますか?
106:世界@名無史さん
07/07/18 18:49:39 0
ひょっとして建物も土ですか?
107:世界@名無史さん
07/07/23 02:30:30 0
>>105
URLリンク(ja.wikipedia.org)
あと(中国の)建物は土と石と木で出来ていると思う。
庶民の家は土壁で、皇城は石がメインかな。
108:世界@名無史さん
07/07/23 03:02:16 0
殷の時代に作られた、鄭州の城壁は土を搗き固めたもの。
時代が下って、秦代、漢代の万里の長城は、土を杵でつき固めたものだったんだよ。
さらに時代が下れば、「塼」という、薄いレンガのようなものを積み上げて
城壁を作った。
西洋は石の文化、支那は土の文化、日本は木の文化といわれる所以だ。
109:世界@名無史さん
07/07/23 15:18:32 0
>>107>>108
ありがとうございます
現代の三国志のイメージだと城は石造で凄い作りですが
実はかなりボロイんですね
110:世界@名無史さん
07/07/23 19:34:01 0
>現代の三国志のイメージだと城は石造で凄い作りですが
そうじゃなくて、ああいうのは版築の壁にレンガを貼り付けて強化したもの
111:世界@名無史さん
07/07/23 20:54:50 0
たとえ表面をレンガで補強したとて、中が土だったら
投石器で石ぶつけられたら崩れるだろーな。
112:世界@名無史さん
07/07/23 21:24:58 0
時代や規模にもよるがそうそう簡単には崩れないだろ
分厚く作ってあるからな
場合によっては高さより厚さのほうがあることも
砲弾に対しては、厚い土壁のほうが高い石壁よりはるかに耐久性があるしな
113:世界@名無史さん
07/07/24 03:03:19 0
>>109-110
実際の三国時代ではレンガは一般化してなくて、殆ど版築土塁の城壁だったよ。
三国志で城壁がレンガとして描かれてるのは
三国志演技が書かれたのが後のレンガ城壁が一般化した時代だった影響。
114:世界@名無史さん
07/07/24 06:00:48 0
目の細かい黄土を使った版築はかなり丈夫だしね。
115:世界@名無史さん
07/07/24 08:13:18 0
5世紀の統万城は「蒸土築城(詳細不明)」で、壁に鉄釘が一寸刺さると
職人は死刑になったそうだ。
116:世界@名無史さん
07/07/24 08:24:33 0
カクレンボツボツ怖いわー
石灰に水を加えて、そこに土を混ぜ合わせてつき固めたらしいよ
石灰と水が反応して熱がでるから土を蒸すといわれたんじゃないかという
現在は統万城の城壁をくりぬいて住居にしたりしてるらしいね
117:世界@名無史さん
07/07/24 09:54:44 0
>>116
NHKの「大黄河」でやっていたね。
118:世界@名無史さん
07/07/26 03:10:35 0
>>112
アヘン戦争のときのイギリス海軍による広東への艦砲射撃も
まったく効果が無かったしね
119:世界@名無史さん
07/07/26 08:57:56 0
そうなん?
清兵がイギリス艦に向けて「陰門陣」をやってたぐらいだから脅威ではあったのでは?
120:名無しさん@そうだ選挙に行こう
07/07/29 16:40:47 0
>>111
むしろ土を入れないと崩れるだろ
中の土が衝撃を吸収してくれないからな
121:世界@名無史さん
07/07/29 22:32:39 0
ロシアだと火器の時代になっても木造の要塞を建ててたらしいけど
木造の城壁の内部に土を入れたのが結構砲弾の衝撃を吸収できたとか。
122:世界@名無史さん
07/08/01 21:24:13 0
>>118
北京城や南京城の城壁は厚さ30mだからな。
シナ事変の時の大砲でもびくともしない。
123:世界@名無史さん
07/08/02 22:12:34 0
世界的にみれば日本ほど珍しい城もないんじゃない?
124:世界@名無史さん
07/08/02 22:27:29 0
>>123
どういう意味での城?
日本の城郭は
純軍事的な拠点としての「城」
要塞としての「城」
政庁としての「城」
の3つくらいに分類できるが、特に世界的にみても珍しくは無い。
125:世界@名無史さん
07/08/03 00:10:14 0
>>124
城の設計(縄張り)という意味でじゃないかな。
複数の曲輪(戦闘区画)からなる日本の城はやはり独特かと。
内城と外城からなるっていう世界の城の基本とはかなり異なると思う。
126:世界@名無史さん
07/08/03 23:32:35 0
ヨーロッパの城も曲輪があるぞ。
127:世界@名無史さん
07/08/04 00:05:57 0
>>125
> 内城と外城からなるっていう世界の城
都市と城塞が合体した形態のことを「世界の城」と言われても、
日本にはその種の城塞都市はなかったというだけで、世界の
城の主流がそうだというわけじゃないだろ。
128:世界@名無史さん
07/08/04 02:24:48 0
それはキャッスルとウォールドシティーの違いでは
日本やヨーロッパ、中近東に散在する、大小領主の邸宅と軍事拠点が一体になったのがいわゆる城
都市を城壁で囲んで内城をつけたのが城塞都市
129:世界@名無史さん
07/08/04 13:49:12 0
困ったことに、漢字の「城」の中国での元の意味は城郭都市なんだな。
いわゆる城は「塞」に近い
130:世界@名無史さん
07/08/04 14:01:51 0
「城」は城壁の意味で、それが転じて壁に囲まれた都市になったんじゃないの?
131:世界@名無史さん
07/08/05 03:25:26 0
中国の「塞」についての情報ない?
132:世界@名無史さん
07/08/05 17:53:31 0
「塞」については前漢時代の長城付近のウ壁の考古学的調査の成果が著しいとか
133:世界@名無史さん
07/08/08 15:11:38 0
>>129
でもスレタイは「日本のしろ、世界のしろ」と読むわけで、
「日本のcheng、世界のcheng」と読むわけではないだろうよw
「日本のジョー、世界のジョー」でもない。漫画かサッカー選手じゃないんだからw
両脇のタイトルは、「しろ」も"cheng"も一応含むという意味だろうけどね。
中国語のchengに対応する日本語は、
「惣構」「御土居」「曲輪内」で「しろ」という単語は出てこないからなあ。
他にも用語に混乱があるような気がする。
「外城」という単語も多義的だ。
欧州の外城のような、「惣構の外にはみ出た防御施設」を指すのか、
中国にあるような、はみでた第二市街地そのものを指すのか。
134:世界@名無史さん
07/08/09 02:16:33 0
アヘン戦争の虎門塞ってどんなもん?
135:世界@名無史さん
07/08/10 17:14:13 0
ドイツの古城街道とかの映像を見ていると、わずかな間隔であまりに多くの城が出てきて、
この封建体制を打破するのは本当に大変だっただろうなあ、と、ちょっと気が遠くなる思いがした。
戦国時代までの日本も似たようなものだったのだろうな。そこから考えると徳川幕府の一国一城令は偉大だと思った。
136:世界@名無史さん
07/08/11 03:21:29 0
ナポレオン戦争前の南西ドイツ
URLリンク(www.lib.utexas.edu)
これだけ土地が細分化されてたら城が多いのは当たり前
137:世界@名無史さん
07/08/11 03:22:51 0
近畿地方に藩が200個くらいあったら城がいっぱいあったと思われ
138:世界@名無史さん
07/08/21 20:40:44 0
今話題の南京城の城壁はだれからだれを守るためにあんなに大きい
のつくったの?
139:世界@名無史さん
07/08/21 21:15:13 0
>>137
江戸期は大名はともかく、小名は城は作れなかったはずだが。
140:世界@名無史さん
07/08/21 21:39:31 0
>>65 江戸城の石垣を修復しているのを見ると怖くなる、
昔の石垣は横から見ると綺麗な放物線なのに、
今修復した結果は中央部が少し膨らんでいる、
修復した箇所は地震で崩れる可能性が高い。
141:世界@名無史さん
07/08/21 22:51:23 0
>>140
あれは時間がたつに連れて自重で落ち込むものなのだが。
142:世界@名無史さん
07/09/03 03:08:16 0
ドイツ語では中世の要塞風の城を"Burg"、近世の宮殿風のを"Schloss"というと
手元の独和辞典にあるが、都市の名前についてる「ブルク」はありゃなんなのかね?
Burg=城塞都市のことなら中国風に都市名に「~城」って付くのは理解できるんだけど。
143:世界@名無史さん
07/09/03 08:56:10 0
ドイツの城も元々は壁で囲んだだけの場所だったからでは?
後になってベルクフリート(天守閣)などが建てられた。
144:世界@名無史さん
07/09/03 13:14:59 0
英語ではBurgは都市の意味だね。ピッツバーグの「バーグ(burg)」とか。
元々はゲルマン古語で砦の意味だったのが領主の城館を意味するようになり
その周囲に町が出来たので城郭都市をも意味するようになった?
英語ではロマンス語のcastleが入ってきて、それが城を意味するようになったので
burgが限定的な意味(都市)で使われるようになったんだろう。
145:世界@名無史さん
07/09/03 14:43:15 0
広島城の城壁は、原爆でゆがんでしまいました。
146:世界@名無史さん
07/09/03 14:45:11 0
374 名前:本当にあった怖い名無し[ sage] 投稿日:2007/09/03(月) 08:56:31 ID:YGyIpqyZ0
寛さん殿下の本にも、
「京の御所には海外の城にあるような塀がない。
民を搾取していないので民から襲撃される恐れがないため、
高い塀は不要。そこが海外の王族と違う」
というようなことが書いてあった。
図書館で読んで手許にないので、うろ覚え。
375 名前:本当にあった怖い名無し[sage] 投稿日:2007/09/03(月) 09:45:49 ID:mme81Tvu0
権力をもって民を抑える方式の君主だったら、色んな意味でこれはない
URLリンク(www.yuko2ch.net)
権力と権威の区別がつかない奴は>>373のようなことを理解する受け皿を
持ってないから、いまいち的外れな天皇批評になっちゃうんだろうね
376 名前:本当にあった怖い名無し[sage] 投稿日:2007/09/03(月) 14:28:56 ID:kcVzS0me0
>>374
亡くなられた喜久子妃も同じことを仰っていた。高松宮殿下のお話で、
「京都御所にはお堀がないの。でも1000年も続いたと仰るのよ。」
などと仰った。
Youtubeでこのインタビューを観たので探したが、すでになかった。
147:世界@名無史さん
07/09/03 20:18:24 0
異民族とか異教徒がいないってほうが大きいんじゃないかな
話の通じない相手はどうしようもないからなあ
148:世界@名無史さん
07/09/03 21:41:59 0
平和ボケと石材不足かねぇ
武家が作った都市も江戸・大阪が建都されるまでは鎌倉みたく天然の要害に建てて
平地に城壁や堀を設ける労を払わなかった(払えなかった)訳だし
149:世界@名無史さん
07/09/04 10:03:16 0
そもそも平安遷都と山背→山城への改称は桓武帝が葛野郡を天下の要害と見たからだろ。
御所が1000年もったのは早々に権威だけの存在になったからかも。
150:世界@名無史さん
07/09/06 20:32:39 0
異民族や異教徒がいないにしては、日本の城郭は異常に発展したと思うよ。
151:世界@名無史さん
07/09/21 21:18:03 0
城塞都市といえば、日本の城の総構えもシティーウォールと似たようなものではある。
まあ既出だが。
152:世界@名無史さん
07/09/21 23:17:17 0
よくシティーウォールは対異民族戦があるから世界で作られて
日本では異民族戦があんまり無かったから発展しなかったっていうけど違う気がする。
中国の城塞都市が、単に対異民族戦のために作られた訳じゃないし
古代ギリシャだって、主にギリシャ人同士の戦争に備えて作られたんじゃないの?
ようは戦争が激化して略奪や虐殺なんかの乱暴狼藉行為が横行すると
そういった行為から都市や集落の住民の生命と財産を守るためで
その乱暴狼藉行為を行うのが異民族か同一民族かはあんまり関係ないんじゃないの?
あるていど異民族の場合のほうがより激しくなりやすいかもしれないけど。
日本の場合も中国史書に倭国の大乱とか書かれてる弥生時代の日本の集落も環濠化されてて
吉野ヶ里遺跡が日本100名城の一つとして登録されてるぐらいだしw
中世になって戦いが日常化してくると、また集落が環濠化されるようになる。
京都の町も秀吉の御土居以前から環濠化されてたそうだ。
153:世界@名無史さん
07/09/22 08:53:47 0
日本の場合、「城塞都市が無かった」のではなく「城塞都市が発達しなかった」。
既に他の人が言っているように、シティーウォールのようなものは
環濠や総構えなど日本にもある。
しかし日本の場合、平野が少なく地形が起伏に富む自然の地形がそのまま利用できる事、
さらに戦争といっても、当時の日本全体の人口がもともと少なかった為に、
大軍に攻められるという機会自体少なかった為にそれほど発達しなかったんだと思う。
日本の国土自体は回りは海だし、大陸側から攻められた事はほんの数度しかない。
それに対し、平地が多く、しかも他国と陸続きの国では容易に大軍に攻められる
機会も多い国では、自国民、或いは領民を守る為に強固な人工の防壁が必要になる。
日本でもある程度強固な総構えが発達し始めたのも、日本の人口がある程度増え、
大軍に攻められる恐れのあった戦国後期から江戸初期にかけての時期だし。
ところで総構えも城塞都市の形態の一つとすると
東京も城塞都市であるのを知っている人はどれくらいいるんだろう?
URLリンク(ja.wikipedia.org)
154:世界@名無史さん
07/09/22 13:35:25 0
>>153
>当時の日本全体の人口がもともと少なかった為に、
ヨーロッパの大国より日本のほうが人口多かったけど。
>大軍に攻められるという機会自体少なかった為にそれほど発達しなかったんだと思う。
ヨーロッパの戦争より大軍を動員して戦争が行われてたけど。
>日本の国土自体は回りは海だし
イギリスも回りが海だけど、シティーウォールは作られた。
>大陸側から攻められた事はほんの数度しかない。
大陸側から攻められるか国内の戦争かはあんまり関係ないよ。
>平地が多く、しかも他国と陸続きの国では容易に大軍に攻められる
ヨーロッパは割と山が多いし、中世の戦争の動員兵力は少ない。2,3万も動員されれば多いほう。
それでもシティーウォールは作られた。
>日本でもある程度強固な総構えが発達し始めたのも、日本の人口がある程度増え、
中世の日本ですでに都市や集落が環濠化されてたし、もっと前の弥生時代だって環濠化されてたってば。
155:世界@名無史さん
07/09/22 14:06:54 0
城
URLリンク(ja.wikipedia.org)
城郭都市
URLリンク(ja.wikipedia.org)
総構
URLリンク(ja.wikipedia.org)
環濠集落
URLリンク(ja.wikipedia.org)
156:世界@名無史さん
07/09/22 14:22:06 0
Chinese castle vs Japanese castle
URLリンク(www.chinese-forums.com)
157:世界@名無史さん
07/09/23 05:19:37 0
日本の城も戦時には周辺住民収容してたし
158:世界@名無史さん
07/09/23 16:13:00 0
クレしん映画でもそんな描写があったね
アッパレ戦国~は中々考証ができてる名作だからなあ
159:世界@名無史さん
07/09/28 23:53:50 0
ルクセンブルクは西のジブラルタルと呼ばれるほどの城塞都市だった。
谷に囲まれた天然の要害をいかして要塞化。
160:世界@名無史さん
07/09/29 16:34:55 0
中国の城壁は土製だけど、ああいうのって、雨で侵食されないの?
岡山県の鬼ヶ城の土壁は雨で溶け始めてるように見えたけど。
161:世界@名無史さん
07/09/30 13:44:57 0
戦国時代の秦の首都カンヨウには城壁が無かったよ
関谷狭という天然の要害に守られていたから
162:世界@名無史さん
07/09/30 15:27:44 0
>>160も指摘しているけど、
日本は都市を防衛するために城壁が発達しなかったのは、
地質によるものだろう。
大陸(中国)の地質は基本的にアルカリ性、
日本の地質は基本的に酸性、
アルカリ性の場合は雨に溶けにくく、雨で侵食はあまりされない。
酸性の場合は、その逆で侵食されやすい。
だから、大陸は版築で土塁を築いて恒久的な城壁にできる。
日本は酸性のために耐久性は低いので、都市を防衛するためには、
堀や濠が合理的になってくる。
結論としては、防衛施設として大陸は城壁、日本は堀や濠ってことだけである。
163:世界@名無史さん
07/09/30 15:39:26 0
また、日本にも版築の土塁があるが、
水城などの古代の土塁はともかくとして、
中世以後の土塁は、大陸(中国)の比して傾斜が緩い、
それは先述の酸性のために侵食されやすいためでもある。
だから、態と芝生をはったりするなど工夫がなされている。
(大陸でも欧州であれば、ローマ時代の土塁は日本の土塁と似たような傾斜で
残っている。)
また、中国でも、春秋戦国時代においては、必ずしも版築の土塁の城壁で都市を囲んでいたわけではなく、
その地方の気候風土に合わせて木の柵であったり、堀であったりする場合も多々ある。
諸国が長城を築城をしていたが、そういった木の柵であったり、堀であったりする場合もあるので、
文字通りの城壁ではなかった。
また、都市を城壁で囲むのが広まったのは、明代以後に磚(レンガ)の性能が向上し、
硬く丈夫なものが開発されたためである。
164:世界@名無史さん
07/09/30 16:01:43 0
あの有名な後北条氏の小田原城って、城下町まですべてを含んで強固な
城塞だったから「天下の名城」とか言われていた気がするが。
165:世界@名無史さん
07/09/30 17:14:08 0
あのさー 釣りかなんか知らないけどさー
版築では雨による侵食で恒久性が無いから
城壁が磚(レンガ)で覆われるよになったわけでねー
それにアルカリ性が雨に強く、酸性が雨に弱いってほんとかー
ヨーロッパなんかはアルカリ性の大理石の建物や彫刻が酸性雨で溶けて困ってるくらいでね。
166:世界@名無史さん
07/09/30 17:18:44 0
>>162
>結論としては、防衛施設として大陸は城壁、日本は堀や濠ってことだけである。
中国だって堀はある。紫禁城の周りも堀で囲まれてたはず。
日本の惣構も堀を掘ったらその土をつき固めて土塁にしてたから、殆どの場合
堀と土塁はセットで存在する。(ただし現存するところは少ない)
167:世界@名無史さん
07/09/30 17:34:51 0
>>162は「中国に堀はない」「紫禁城の周りは堀で囲まれていない」とは一言も言っていない。
168:世界@名無史さん
07/09/30 17:53:39 0
日本でシティーウォールが発達しなかった理由としては、平野が少なく地形が複雑だった事が
大きいのだろうな。ドイツでものライン川沿いのいわゆる古城街道にある城は、みんな言ってみれば日本式だね。
日本でも戦国期の小田原城のほかに、八王子城もいわゆるシティーウォールだったらしい。
広い関東平野故か?
169:世界@名無史さん
07/09/30 17:56:52 0
>>167
>>162は>>163で、
>中国でも、春秋戦国時代においては、必ずしも版築の土塁の城壁で都市を囲んでいたわけではなく、
>その地方の気候風土に合わせて木の柵であったり、堀であったりする場合も多々ある。
と述べているしなw
>>166は日本語読解力無しw
170:世界@名無史さん
07/09/30 18:50:07 0
>>168
でも逆に場所によっては京都や鎌倉みたいな天然の要害を見つけやすいって事でもあるからね
平地に城を築く考え方は桃山時代以降でわりと遅いけど、それでさえ城壁ではなく堀だったもんねぇ
171:世界@名無史さん
07/09/30 19:08:57 0
>>170
日本は川が多いから、すぐ水の引ける堀を造るほうが簡単で合理的だね。それに
戦国末期には大筒が発展してて、城壁があまり意味を持たなくなったってのもあるのでしょうな。
大阪の陣でも堀ばかり注目されてて、城壁にはほとんど関心が無い。
172:世界@名無史さん
07/09/30 19:12:38 0
>>170-171
それと>>162の言うように、日本の風土から
城壁は向かない面もあるだろうね。
ただ近代戦における野砲対策は、五稜郭のように、
土塁で衝撃を吸収する方が効果的なんだが。
(煉瓦や石垣だとすぐに破壊される)
またその場合土塁は壁のように垂直(中国などの城壁も厳密には垂直ではないが)
に近くする必要もない。
173:世界@名無史さん
07/09/30 19:19:37 0
>>172
野砲対策は日本の場合、城壁の変わりに石垣がになっていたのでは?
近世に入ると日本の城の石垣は高く、巨大になるね。
174:世界@名無史さん
07/09/30 19:22:34 0
>>173
欧州では、石やレンガ造りの城壁は
大砲の出現普及とともに少なくなって、
逆に土塁が増えてきている。
また、幕末に江戸城を見た外国人使節の軍人は、
銃撃対策は万全で効果的だが、大砲対策は全くなされていないと
指摘されている。
175:世界@名無史さん
07/09/30 23:50:06 0
シティウォールってのは基本的には対異民族用だからな。
下手すると皆殺しだが
日本の戦争は権力者と権力者の問題ばっかなので住人はどっちが勝とうとあまり関係ない。
176:世界@名無史さん
07/10/01 00:01:03 0
>>174
戦国や江戸初期と幕末じゃ、大砲の性能自体が全然違うだろ。
177:世界@名無史さん
07/10/01 00:07:01 0
大和朝廷の時代に築かれた日本の城は、朝鮮式で、ある部分は石を積上げ、
ある部分は版築で土塁を築いて山の頂をぐるっと囲む形になっていた。
もし、版築が日本で有効だったら、大和朝廷の時代からシティウォールが発展していっただろう。
しかしそうはならなかった。
年数がたつと版築は多雨の日本では溶けてしまって、石積みの部分しか残らなかった。
再建すればいいのだけど、統一政権だった大和朝廷だからできたことであったし、
唐が攻めてくる危機感があったから金と労力かけてやらざるをえなかったのであって、
戦国時代のような内乱状態ではどの豪族も版築をする財力も気力もなかった。
山を削って柵を立てるほうが遥に手軽にできるし、維持費もかからないから
みんなその方法で城をつくった。
戦国時代中期になると、六角氏の観音寺城みたいに近江の石積み職人に城の石積みを
やらせる体系ができてきた。最初は観音寺城みたいに従来の山城に石垣を埋めるに過ぎなかったが、
織田、豊臣が全国統一すると、全国に平地に石積みの城を作らせた。これは戦争用ではなく
あくまで平地の経済拠点において威勢を誇るためのものだから、シティウォールにする
必要がない。
それが今日まで残ってるということではないだろうか。
イギリスも山城から発展したっぽくね?
178:世界@名無史さん
07/10/01 02:44:51 0
京御土居はシティウォールだ
URLリンク(ja.wikipedia.org)
鎌倉も周囲の山が切り岸で塁壁化されて町全体が囲まれていた。
179:世界@名無史さん
07/10/01 07:45:07 0
>>178
御土居はシティウォールにしては不自然な点がある。
・都市の入り口(京の七口)には虎口など軍事目的の機能が施されていない。(他の総構では入り口に虎口を施すのが普通。)
・土塁の上には竹が植えられ、上部の移動や視界が阻害され武者走りとしての機能が欠落している。
・当時の都市部よりも広い範囲を土塁で囲んであり農村部まで含まれている。
といった点がある。
軍事目的よりも洪水対策の堤防などの目的で築造されたとも考えられる。
180:世界@名無史さん
07/10/01 08:25:50 0
>>174
しかし、幕末から西南戦争にかけても、
砲撃で石垣が破壊されたという話は聞かない。
基本、日本の石垣は土塁構造に表面を石で覆ったものだ。
欧州や中国のような、
表面から構造材まで全て割れやすいレンガや石で造られたものとは、
根本的に違う。
例え鉄甲弾でも表面が貫通して、中の土にのめり込むだけだろう。
勿論、上部構造物は違うよ。
大砲対策は全くなされていないというのは、
石垣ではなく上部構造物の事だろう。
181:世界@名無史さん
07/10/01 08:29:41 0
×鉄甲弾
○徹甲弾
182:世界@名無史さん
07/10/01 08:30:22 0
>>177
源平合戦の時代の阿津賀志山防塁は版築で造られていたよ
183:世界@名無史さん
07/10/01 14:56:35 0
>>180
中国の城壁も版築で固めた土の表面をレンガで覆った構造。
だから、明末期の李時成軍は、まず兵士が城壁まで走っていってレンガを引き抜いて帰り、
ある程度の穴があいたらそこから土を掘り出して、最後に中の柱に綱を結び付けて大勢で
引っ張るという方法で、城壁を崩していた。
184:世界@名無史さん
07/10/01 16:24:40 0
>>179
それウィキペディアに書いてることだけど
ウィキペディアを読むときは、こうゆう妥当性がない内容は無視したほうがいいよ。
185:世界@名無史さん
07/10/01 17:46:27 0
>>180
砲撃で戊辰戦争でどの城の石垣も破壊されているのだが、
欧州も中国も城壁の内部は土塁。
内部まで煉瓦や石ではない。
186:世界@名無史さん
07/10/01 17:46:58 0
あるなしをどうやって判断するんだよw
187:世界@名無史さん
07/10/01 18:04:19 0
というか、日本の石垣は切岸に石で表面を覆って施したものか、
堀の護岸として表面を石で覆って施したものが大半だけどな。
勿論、日本の石垣は土塁に石で表面を覆ったものもあるが、
メインは前者の二つ。
明代の万里の長城も日本でいう切岸にで表面を磚(レンガ)で覆う工法で
築造されたらしいが、一見すると分らない。
(日本の城の場合、城壁の内側は本来の高台のままで同じ高さか、
高低差ある場合は、雁木にしている場合が多い。)
188:世界@名無史さん
07/10/01 18:26:49 0
ネタばっかりでなく
真面目に語れよ
189:世界@名無史さん
07/10/01 20:25:17 0
>>184
妥当性がないとする根拠は?
詳細に述べよ。
190:世界@名無史さん
07/10/01 23:56:06 0
>>189
>>191-194あたりにウィキペディアの文章に反論する形で書く。
191:御土居は防御目的の施設1
07/10/01 23:57:25 0
>御土居の囲む範囲は当時の市街地に比べ極めて広く、西部や北部においては第2次世界大戦後まで農地が広が
>っていた場所すらある。このため御土居の全長は長くなり、防衛に必要な兵力が多くなる。
中国の北京城や唐代の長安城の城壁範囲はもっと広いが、城壁が防御目的であったことは確実である。よって北京城より狭い京都御土居の範囲が広いといって防御機能を否定する意見には妥当性がない。
各地の城下町の惣構内部で第2次世界大戦後まで農地が広がっていた例があり、
京都の御土居がそれらの例と同様に農地が広がっていても特に不自然なことではない。
豊臣時代、特に聚楽第が存在した時期は洛中に大量の兵力が存在しており、広い京都の御土居を守備することは可能である。
192:御土居は防御目的の施設2
07/10/01 23:59:39 0
>御土居の上に竹が植えられていたため視界が遮られ、また兵士が御土居の上を移動することが難しい。通常
>防壁上に作られるような櫓などもない。
雨による侵食から土塁を保護するためには何らかの樹木が茂っているほうが好ましく、実際に各地の城の惣構えや主郭の土塁部分でも各種の樹木が植えられている。
富田林・寺内町の土塁にも竹が植えられていた。
URLリンク(www5d.biglobe.ne.jp)
これは和歌山城の模型だが土塁部分に樹木が植わっているのが判る。
URLリンク(www.wakanoura.net)
京都御土居に竹が植えられていることは何ら不自然ではない。
この時代の竹は様々な形で利用される有用な資源であり、戦時においても伐採して外側に倒せば逆茂木になって敵の侵入を防ぐことに寄与する。
また防弾用の竹束にするなど竹は利用価値が高い。
平時、戦時、共にに利用価値が高い資源を確保するために御土居の空間を利用したとしても何ら不自然ではない。
有事に兵士が移動する最上部だけ竹が生え茂らないように伐採しておけば移動も問題にはならない。
各地の城の惣構の殆どは出入り口の櫓門を除けば櫓は築かれないほうが通例である。京都の御土居でも櫓が築かれていないことは、不自然ではない。むしろ通例通りといえる。
193:御土居は防御目的の施設3
07/10/02 00:02:35 0
>絵図によれば、御土居の出入口には何の障害物もなく、当時の城郭で用いられたような侵入者を防ぐ構造が
>見られない。
京都御土居に関する豊臣時代の絵図は残っておらず、残っているのは江戸時代のものである。政治権力の中核地であった豊臣時代と江戸時代では京都状況は大きく異なっている。江戸時代の絵図をもって創建当初の防御の可否を論じることは適当ではない。
創建当初、京都御土居の意義は、日本の政治権力の中核である京都を守ることであり、また聚楽第の外郭防御線としての役割である。したがって聚楽第が破却された1595年以後になると御土居の防壁としての意義は低下する。
もっとも聚楽第の破却以後も聚楽第に替わって隣接する伏見城が政治権力の中心であった時期はまだ京都の政治的意義は保っていたかもしれない。
しかし特に絵図が描かれた江戸時代には政治権力の中心が江戸の移るとともに、平和な時代であり、京都御土居の存在意義はさらに低下する。その証明として実際に御土居が各所で取り壊されている。
江戸時代の絵図の出入口に侵入者を防ぐ構造が見られなかったとしても、豊臣秀吉による当初の築造の目的が防御であったことを否定することはできない。
194:世界@名無史さん
07/10/02 00:03:10 0
戦国末期以降の日本の城の本質は、堀、土塁と石垣だよ。
木造や漆喰の壁だの矢倉だの天守だのは添え物というか、
防御にあたってのメインの構造物ではない。
堀や石垣の土木工事は城普請で、武士も鍬やモッコを担ぐ
が、上部の建築物は作事で職人の仕事になるのが基本。
西南戦争の時点で、熊本城は火災で建築物の大半を失った
が、砲を持つ西郷軍の攻撃に耐え、落城しなかった。
195:御土居は防御目的の施設4
07/10/02 00:04:36 0
江戸時代になると京都に駐留する京都所司代など幕府の兵力規模は僅かなものとなっており、もはや広い御土居を守り切ることはできず御土居は意味を成さなくなった。同様の事は大坂城についても言える。
豊臣時代の大坂城に広い総構えが存在したが、江戸時代の大坂城には総構えが作られなかった。
京都・大坂、共に守る兵力規模が変化し、政治的意義が変化しているのである。
御土居が防御の目的を失ったのは江戸時代か、早くとも聚楽第破却後であり、少なくとも豊臣秀吉による創建当初は防御が主目的であった事は間違いないだろう。
196:世界@名無史さん
07/10/02 02:13:28 0
>>185
>欧州も中国も城壁の内部は土塁
コンスタンティノープルの城壁の内部は煉瓦片などを混ぜた石灰モルタルですが。
197:世界@名無史さん
07/10/02 08:32:54 0
>>191
>よって北京城より狭い京都御土居の範囲が広いといって防御機能を否定する意見には妥当性がない。
北京城より狭いかどうかは論点になっていない。
>京都の御土居がそれらの例と同様に農地が広がっていても特に不自然なことではない。
当時の京を考えても農村まで含まれている。
>豊臣時代、特に聚楽第が存在した時期は洛中に大量の兵力が存在しており、広い京都の御土居を守備することは可能である。
聚楽第で集中して防御も出来、洛中の寺院も要塞化しており陣城のように扱える。
わざわ御土居を築造する必要性がない。
>雨による侵食から土塁を保護するためには何らかの樹木が茂っているほうが好ましく、実際に各地の城の惣構えや主郭の土塁部分でも各種の樹木が植えられている。
その場合は、上記で既に指摘されているが、樹木ではなく芝生で表面を保護している。
また、土塁の斜面を滑りやすくするために滑りやすい草を植えたりするのが通常。
また、富田林の土塁に関しては、土塁に竹を植えたとは述べられていない、
土塁と竹と並列して述べられていることから、別の防護の施設と通常読み取られる。
また、逆茂木にするなら、土塁の上部にはしない、土塁の「麓」か斜面にするもの。
>有事に兵士が移動する最上部だけ竹が生え茂らないように伐採しておけば移動も問題にはならない。
京の御土居には上部も竹で覆われており、武者走りが存在しない。
>各地の城の惣構の殆どは出入り口の櫓門を除けば櫓は築かれないほうが通例である。京都の御土居でも櫓が築かれていないことは、不自然ではない。むしろ通例通りといえる。
京の御土居には櫓の遺構がまだ発見されていない。
発見されて無い以上、無いと判断するしかない。
また、御土居の出入り口には総構にもある筈の虎口など防護施設がなされていない。
周辺の総構の山科を囲んだ土塁には、出入り口には必ず虎口などがなされている。
198:世界@名無史さん
07/10/02 08:37:41 0
>江戸時代の絵図の出入口に侵入者を防ぐ構造が見られなかったとしても、豊臣秀吉による当初の築造の目的が防御であったことを否定することはできない。
総構である根拠に全くならない。出入り口の遺構は残っており、
それを考察しても虎口などがなされていない。
そもそもそのような構造がなければ、総構としての機能はなくなり、
そのような大規模な土木工事をするくらになら、既存の寺社を
あらためて要塞化をして整理する方が合理的。
>豊臣時代の大坂城に広い総構えが存在したが、江戸時代の大坂城には総構えが作られなかった。
京都・大坂、共に守る兵力規模が変化し、政治的意義が変化しているのである。
江戸時代には変容したところで、豊臣時代の御土居が総構であることの根拠とは全く関係がない。
江戸時代に政治的意義が変化しても、豊臣時代の御土居が総構でなかったとしても全く問題がないからである。
199:世界@名無史さん
07/10/02 17:23:59 0
>>196
ビザンツ帝国の城壁はセメント、コンクリート製の城壁も少なからずあるよ。
しかし、一部の城壁を言っても説得力がない。
ヨーロッパの城壁は基本的に土塁に煉瓦張りが多い。
200:世界@名無史さん
07/10/02 17:41:53 0
200get!
201:御土居は防御目的の施設 ◆LC7P44pfbg
07/10/02 19:56:33 0
>>197
>北京城より狭いかどうかは論点になっていない。
? 御土居が広すぎるって理由で防御目的じゃないって言ってるんだから
それならもっと広い北京城の城壁は防御目的あってはいけないって事になるじゃないか。
>当時の京を考えても農村まで含まれている。
それがどうした? 他の総構えでも農村含んでる場合もあるぞ。
農村含んだ総構えは防御目的じゃないってか?
>聚楽第で集中して防御も出来、洛中の寺院も要塞化しており陣城のように扱える。
わざわ御土居を築造する必要性がない。
総構えの存在意義そのもを否定する理屈だな。
その理屈だと他の城でも総構えは存在しないってことになるぞ。
それじゃ戦いが起こると権力者や侍が生き残っても町が破壊されるじゃないか。
202:御土居は防御目的の施設 ◆LC7P44pfbg
07/10/02 19:57:32 0
>>197
>その場合は、上記で既に指摘されているが、樹木ではなく芝生で表面を保護している。
>また、土塁の斜面を滑りやすくするために滑りやすい草を植えたりするのが通常。
>また、富田林の土塁に関しては、土塁に竹を植えたとは述べられていない、
>土塁と竹と並列して述べられていることから、別の防護の施設と通常読み取られる。
>また、逆茂木にするなら、土塁の上部にはしない、土塁の「麓」か斜面にするもの。
お前は土塁を知らなさすぎ。富田林の竹が土塁と別だなんて苦し紛れなこと言いすぎ。
例に挙げた2点はほんの一例に過ぎない。お前は今から城巡りの旅に出るべきだ。
近世の石垣の城でも土塁部分がある所も多い。そこを見て来い。
和歌山や富田林と同様に多くの場合樹木が植わってるから。
もう一点だけ例示。土塁部分を良く見てね。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
203:御土居は防御目的の施設 ◆LC7P44pfbg
07/10/02 19:58:48 0
>>197
>京の御土居には上部も竹で覆われており、武者走りが存在しない。
竹の凄まじい増殖力をお前は知らなさすぎ。
環境問題にも関心を持つべきだ。竹の増殖・侵食が環境問題になってるくらいだから。
土塁の「上部」に植えようが「麓」に植えようが、竹ってのはすぐに増殖して生えてなかった部分にも進出するんだよ。
人の通行が出来ないほど密生してるなら、有事に備えて事前に伐採するか、有事になってから伐採するか、どちらかになるだろう。
>京の御土居には櫓の遺構がまだ発見されていない。
>発見されて無い以上、無いと判断するしかない。
だから何? 他の城の総構えでも櫓は殆ど無いと既に述べているが?
他の城の総構えも櫓がないから防御目的じゃないってか?
204:御土居は防御目的の施設 ◆LC7P44pfbg
07/10/02 19:59:27 0
>>197
>また、御土居の出入り口には総構にもある筈の虎口など防護施設がなされていない。
>周辺の総構の山科を囲んだ土塁には、出入り口には必ず虎口などがなされている。
>>198
>総構である根拠に全くならない。出入り口の遺構は残っており、
>それを考察しても虎口などがなされていない。
>そもそもそのような構造がなければ、総構としての機能はなくなり、
虎口っていうのを桝形や馬出しのようなものが備わった堅固な物をいってるのかな。
でも総構えの出入り口は割と簡単な門だけで済ませてるところも多いよ。
それに江戸の総構えだって殆ど軍事的な用をなさず、単なる出入り口にすぎないところもある。でも江戸の総構えが防御目的じゃなったなんて言ったら笑われるよ。
>そのような大規模な土木工事をするくらになら、既存の寺社を
>あらためて要塞化をして整理する方が合理的。
応仁の乱の被害を少しは考えてみてください。
町衆のことも少しは考えてあげてください。
205:御土居は防御目的の施設 ◆LC7P44pfbg
07/10/02 20:00:17 0
>>198
>江戸時代には変容したところで、豊臣時代の御土居が総構であることの根拠とは全く関係がない。
>江戸時代に政治的意義が変化しても、豊臣時代の御土居が総構でなかったとしても全く問題がないからである。
豊臣時代の御土居が町を守る施設でないなら一体何?
単なる水害対策の堤防?
同時代の小田原や大坂や伏見などの状況をみると
この時代は町を堀と塁壁で防御するのが流行りとなっている。
その流れからして防御目的じゃないなんていうのは不自然すぎる。
206:世界@名無史さん
07/10/03 02:39:53 0
>>197
ちょっと横レス。
横レスになるので、>>191からの議論とは完全にはかみ合わないが。
まず、シティーウォールの中にかなり広大な田畑・農村部が含まれるのは、
世界中でごくありふれたこと。というのは、城壁は簡単には伸縮不可能だが、
都市は、社会情勢により、そんなことはおかまいなく急激に膨張したりするので、
計画的な都市壁建設の場合、大抵はかなりの余裕を持って建設される。
台湾の台北の都市壁など、市街地で一杯になったのは蒋介石統治下。
それから、見逃されがちだが、織豊政権期の京都では、
戦国時代に築かれた上京・下京の、真正のシティーウォールといえる惣構が
統一政権により破却されるようになっていた。
その機能的代替として、御土居が建設されたと考えるのはごく自然なこと。
上京、下京、禁裏前町などからなるモザイク状の中世都市が、
統一された「都市・京都」に統合されるのだという、秀吉の都市計画を
誰の目にも明らかに示すための建築物として「統一惣構」が造られたのだと考えられる。
シンボル的な意義もあるが、あくまで惣構は惣構。つまりシティーウォール。
西欧の都市壁にしても、とりわけ首都のそれは多分に象徴的な意義がある。
207:世界@名無史さん
07/10/03 03:13:50 0
付け足すと、戦国時代、土一揆やら武将の軍勢やらに頻繁に晒されて、
自らの力で惣構を建設した特に下京の町衆にとっては、
統一政権が出てきて、
「おまえら、今日から惣構破却汁」と言われても、普通は納得できない。
いくら「刀狩をしたから大丈夫」「俺が守る。寺を塞にするから無問題」と言われても
富を握る都市民として、防御本能が働いて心理的に抵抗するのは当然のこと。
その状況で、京都を改造するという政策意志を持った秀吉が、
巨大な「京都統一惣構」を築くことは、まったく当然のことだろう。
江戸の御朱引のような抽象的な線引きだけで、
俺は江戸っ子だとホルホルできるような天下泰平の社会状況ではない。
>>205
それは実は微妙だよね。織田豊臣徳川(および彼らの家臣)の、
便宜的に「愛知系武将」と呼ぶことにするが、彼らは、惣構に関しては、
城の縄張りに際して微妙な中間的な立場だからね。
信長は、全面惣構は嫌がる傾向がある。
家康や譜代は、武家地だけ厳密に囲み、町方地域は外に出すのが基本。
秀吉は、微妙にふらふらしていて、囲む場合もあれば、
重要な家臣居住域だけしか囲まない場合(秀吉期の大坂など)もある。
208:世界@名無史さん
07/10/03 08:49:25 0
>>201
>それならもっと広い北京城の城壁は防御目的あってはいけないって事になるじゃないか。
?。広いかどうかの論点は、当時の都市部だけでなく農村部も含まれているかどうかどうかの点だ。
ただの「広さ」を論点にしていない。
>農村含んだ総構えは防御目的じゃないってか?
農村部を含んだ総構はない。
>それじゃ戦いが起こると権力者や侍が生き残っても町が破壊されるじゃないか。
時と場合と状況で、総構にして面で防御した方が良いか、寺院を要塞化して点で防御した方が良いが分かれる。
当時から洛中の寺院は要塞化しており、そのまま点で防御した方が効率的。
必ずしも総構が効率的な状況とは限らない。
寺院を要塞化をしたわけではないが、近江は総構にせずに、各地に砦を築き点で防御している。
>お前は土塁を知らなさすぎ。富田林の竹が土塁と別だなんて苦し紛れなこと言いすぎ。
土塁と樹木と一緒だと、苦し紛れなこと言いすぎ。
土塁のことを全く理解してはいない。
また現在ある復元土塁や残存土塁や模型も考証がしっかりしたものとは限らない。
土塁は多くの場合、表面を防護するために芝生など草を貼るが、樹木は植えない。
残存土塁が樹木が生い茂っているのは、管理されず放置されていたから。
残存土塁が当時を伺わせるとは限らない。
209:世界@名無史さん
07/10/03 08:56:08 0
>土塁の「上部」に植えようが「麓」に植えようが、竹ってのはすぐに増殖して生えてなかった部分にも進出するんだよ。
だから、土塁に竹なんて植えないのが普通。
せめて麓に植えて、繁殖したら伐採するかのどちら。
そもそもそれくらいのことは池沼でなければ分るものであり、
説明はわざわざしない。
>他の城の総構えも櫓がないから防御目的じゃないってか?
櫓がある場合が多い。また櫓がなくても、出入り口に虎口など施されているのが通常。
>でも総構えの出入り口は割と簡単な門だけで済ませてるところも多いよ。
そんなところはない。虎口の代わりに総構の水堀に出入り口のところの橋を
木製にして有事に簡単に焼き払われるようにしている。
寄せ手を守り手側が意図した侵攻路に誘導するように縄張りを張るのが通常。
意図した侵攻路以外は侵攻できないように木製にして焼き払えるようにするのが普通。
>応仁の乱の被害を少しは考えてみてください。
町衆のことも少しは考えてあげてください。
軍事面と費用対効果面を少しは考えてみてください。
210:世界@名無史さん
07/10/03 08:59:02 0
>豊臣時代の御土居が町を守る施設でないなら一体何?
不明。当時の総構からして先述の通り構造が不自然。
物流の統制目的で、出入り口を限定したかもしれないし、
洪水対策かもしれない。
もっとも、今後の発掘如何で櫓の遺構が現れたり、虎口の遺構が現れたりすれば、
総構説も裏打ちはされるだろうが、現時点では仮説は立てられてもなんとも言えない。
211:世界@名無史さん
07/10/03 09:09:20 0
>>206
実際には農村部は含まれないのが現状。
そんな実例は僅か。
そもそも城壁を移動、修築するのは高コストであり、
都市域を制限する意味が合いもあるので、
特に欧州では余程の軍事上要衝で都市城壁が要求される場合でなければ、
城壁は廃れて行ったりしている。
秀吉の都市計画と総構との関連性は全くない。
当時として象徴として考えられていた傾向を示すものもない。
軍事上要衝であれば、洛中では寺院を要塞化すれば済むもので、
大坂など台地など高台を利用して総構を建造したり、
東京のように川や運河を利用して堀で総構を建造できる余地は少ない。
事実、江戸時代の二条城もさほど軍事面を考慮した縄張りになっていない。
>富を握る都市民として、防御本能が働いて心理的に抵抗するのは当然のこと。
都市民が防御本能働いたからといって、総構とはならない。
堺のように環濠が施されていて総構にはなっているが、
補助的なもので、軍事的な後ろ盾を常に考えておかなければならない。
堺ならば、三好氏など。
都市民の真骨頂はそういった後ろ盾を財力を駆使して生き延びた権謀術数。
212:世界@名無史さん
07/10/03 13:03:26 0
和歌山城の総構は、主な防御機能の施設は川を利用した堀だろう。
土塁は内側で補助的なものだろうな。
そもそも復元模型も江戸時代のものを想定しているならば、
太平の世なので管理せずに荒れるに任せて木が生い茂っただけかもしれない。
実際そのような土塁も多いし。
幾年か経てば潅木くらいは荒地で生い茂るし。
もっとも、総構の土塁を臨戦態勢で常に維持管理すると莫大なコストが掛かるだろうし。
213:世界@名無史さん
07/10/03 19:20:23 0
御土居が防御目的じゃないって言ってる人は釣り師、ネタ師の類で、
本人もホントは防御のためと思ってるだろ。
まぁ適当に釣られてあげてもいいけど。
214:世界@名無史さん
07/10/03 20:17:49 0
御土居が防御目的だって言ってる人は釣り師、ネタ師の類で、
本人もホントは防御のためと思っていないだろ。
まぁ適当に釣られてあげてもいいけど。
215:世界@名無史さん
07/10/03 20:43:07 0
まあ確かに、今時御土居が防御目的だなんて言っている奴初めてみたよw
216:世界@名無史さん
07/10/03 21:42:33 0
>>211
おまえ、実際のヨーロッパの城壁都市の古地図や絵図を見たこと無いだろw
日本の社会科地図帳にのっているストラスブールのような、特殊な例しか頭に無いようだなw
1576年のアーヘン、1538年のバーゼル、1567年のブリュッセル、1571年のケルン、
そして極めつけは1569年のローマ。どれもこれも都市城壁の中にかなり広大な農地がある。
ローマに至っては、城壁の中で市街地は半分にも満たない。
さすがに欧州の都市でもローマは特殊だが、まさに当時の京都と
比較するにふさわしいのが当時のローマといえるだろう。
古代の都市領域の記憶が残っていて、それをなぞるように市域が区切られている。
御土居も、平安京左京の記憶と、室町時代の北辺に伸びる上京の意識が、
さらに大きく囲われる形で御土居の区画となっている。
217:世界@名無史さん
07/10/03 21:56:47 0
それに、おまえは寺寺寺寺寺寺寺寺言っているが、
武家にとっての砦としての寺と、中世町衆にとっての寺は意義が全く違うんだが。
武家にとって守るべきものは城の本丸。極端な話、ここさえ守れればいい。
だから、寺や町家や武家屋敷でさえ、極論すれば塹壕のようなもので、
敵にとって少しでも邪魔になればいい。邪魔物は重層的なほうが効果的なので、
一点で破られれば終わる壁や堀よりも、寺の敷地のほうが有効だ。
だが、
町衆にとって、守られるべきは、まず各々の自宅と倉と財産。
しかも町衆は一人ではないし、下々が犠牲になれば済むピラミッド組織でもない。
惣構の中にある寺社は、寺内町でなく京都であっても、例えば革堂や六角堂のように
有事の際に集まり、軍議や抵抗の拠点となる最終防衛拠点。
仮に寺だけ守られても、肝心の町家群がアボンしてしまっては、町衆にとっては全く無意味。
だから、「寺を沢山まわりに配置したので、柔構造で守られますよ」と言われても、
「守る」という定義が武将と町衆で異なるのだから、安心などできるはずがない。
218:世界@名無史さん
07/10/03 23:45:25 0
難攻不落すぎる城郭模型
リアルすぎる模型で定評のある小林工芸から、9月下旬に発売予定なのがこちらの「姫路城」。
部品の総点数は約1864点。
木製・金属製部品を合わせた総重量は実に約9キロ! 完成までの参考時間が約250~300時間というのもうなずける重厚さです。
石垣には「木質粘土」、屋根瓦には「神代タモ材」を使用。
よく分からないですが、すくなくとも住んでいる部屋で使われている素材よりも高級な気がします。
気になるお値段は、13万6500円です。姫路城の他にも、金閣寺や平等院鳳凰堂なども。
内部に安置されている仏像まで、ちゃんと入っていますよ。
URLリンク(www.gizmodo.jp)
URLリンク(www.xn--yetq6bz6p0j2a.com)
■ 1/100 姫路城
・木製部品 約1700点
・金属部品 ソフトメタル 71点
・エッチング(銅板) 93点
・総点数 約1,864点
・重さ 約9kg
・特徴
・一番の特徴は石垣の質感を「木質粘土」で表現し、子供から大人まで誰でも簡単に、
楽しんで石垣を積み上げる事が出来ます。(昔の職人が築いた石垣を想像しながら築いて下さい。)
・屋根瓦は「神代タモ材」を使用し「神代」のいぶし銀の様な色が瓦の重量感を醸し出しています。
・大天守閣、渡櫓、西・乾・東の小天守閣、水の一門~六門、「へ」の門、台所、地階まで忠実に再現しています。
小林工芸
URLリンク(www.xn--yetq6bz6p0j2a.com)
219:御土居は防御目的の施設 ◆LC7P44pfbg
07/10/04 00:05:11 0
御土居が広すぎるから防御目的じゃないって?
高天神城攻防戦において、徳川方の付け城に対して、武田方が総攻撃をかけ玉砕している。
この時、徳川方の付け城は堀と土塁で築かれており、土塁1間
(1.8メートル)につき侍一人づつ配備されていた。『三河物語』
つまり土塁1間につき侍一人で防御可能なのである。
京都御土居の総延長は22.5km。
計算では12500人あれば防御可能となる。
豊臣政権の聚楽第存在期間、京都は強大な統一政権の中枢であり、
市中には12500人を軽く超える何倍もの駐留兵力が存在し、
御土居は十分に防御可能だった。
御土居が広すぎて守れないなどということは、少なくとも聚楽第
存在期間(つまり御土居建設期)ではあり得ないことだ。
220:御土居は防御目的の施設 ◆LC7P44pfbg
07/10/04 00:06:05 0
竹が植わってるから防御目的じゃないって?
城郭関連の本を読むと「蔀」と呼ばれて城外から城内を見通され
るのを防ぐために樹木が植えられていたとある。
当時、攻城戦では攻撃側が高楼を築いたり土を盛って築山を築いて、
高所から城内を掃射し、無力化して突入する方法がよく取られていた。
竹木による「蔀」はこうした攻城戦法を防ぐ有効な手段となる。
実際に竹林や森林に入って外を見てみると判る。外からは竹林や森林
の内部は極めて見えにくい。しかし、意外と竹林や森林の中から外は
見えてしまうのだ。
最近の戦争のおけるゲリラ戦でも、ゲリラが森に潜んで待ち伏せし、
外に接近した敵部隊に打撃を与えるといった戦法がしばしば取られている。
こうした戦法が成功するのは、外からは竹林や森林の内部は極めて見
えにくい。しかし、意外と竹林や森林の中から外は見えてしまう
という性質のためである。
竹木の植樹による「蔀」は城内側から城外側を見通す妨げとなるよりも、
むしろ城外側から城内側を見通す妨げとなるのだ。
竹木の土塁への植樹は、土塁を森林化するものであり、これは土塁に
拠って守備する側にメリットをもたらすものとなる。
221:御土居は防御目的の施設 ◆LC7P44pfbg
07/10/04 00:08:01 0
例えば郡山城総構西部の土塁には松が植えられ並木を形成していた。
44 大織冠馬場筋【武家地 8】
URLリンク(www4.kcn.ne.jp)
◆御土居(おどえ/訛)の松
図中に見える御土居には城郭西部総構の植え物として“御土居の松”
が植えられていた。郡山のシンボルとして歴史上や景 観・風致の上か
ら総構を取り巻く松の木は広く市民に愛されていたのである。
48 大織冠馬場通【武家地 12】
URLリンク(www4.kcn.ne.jp)
往時の外堀は幅7間から13間、土 居の高さは3間から3間半で、また
、延宝の図(前出/1678-9)に見る大織冠地区の土居一帯には松の木が
植栽されて並木 を形成していた。「大和名所図会」(寛政3年(1791)刊)
に紹介されている“大織冠松”はこの辺りにあった名所と推察され、郡 山
城総構のなかでも大織冠丘陵と松並木の景観はことに雄大無比を誇っていた
のである。
たとえ自然発生により木が生え始めたケースがあるとしても、
それはなにも怠慢で伐採しなかったのではなく、意図的に残されたのだ。
京都の御土居に竹が植えられたことは防御側を有利にするものであり、
御土居の目的が防御でることを否定する理由には全くなら無い。
222:御土居は防御目的の施設 ◆LC7P44pfbg
07/10/04 00:15:30 0
櫓がないから防御目的じゃないって?
絵図によれば、御土居の出入口には何の障害物もなく、当時の城郭で用いられたような侵入者を防ぐ構造が見られないから防御目的じゃないって?
URLリンク(rarebook.ndl.go.jp)
ここの6 和州郡山城図を見ろ。総構に櫓なんて全く無い。
江戸時代に描かれた絵図を見る限り、郡山城総構には計8口が在る。そのうち出入口に門があるのは東から南にかけての3口だけで、残る5口に障害物も侵入者を防ぐ構造も見られない。
(恐らく江戸時代でも簡易な木戸はあったと思う。また増田長盛が郡山惣構を築いたときには門もあったと思う。大坂の陣で郡山城下が炎上したときに焼け落ちてその後再建されなかったと見ている。)
同様に江戸時代に描かれた京都御土居絵図の出入口がないからって、それが御土居が防御目的じゃなかったことにはならん。
223:御土居は防御目的の施設 ◆LC7P44pfbg
07/10/04 00:16:11 0
御土居は費用対効果が悪いとか、寺社を拠点化したほうがいいとか言うが
本当にそうなら秀吉はそうしただろう。でもそんな風にはしなかったね。
費用対効果が悪いもなにも御土居を実際につくちゃった訳だし。
寺社は防御拠点化するどころか解体・移転して鴨川御土居沿いにズラーと壁状に並べたよな。(寺町)
だいたい、秀吉は高松城や太田城のような攻城戦のたびに水攻め用の
堤防を築いたり、小牧のような野戦で大規模な長塁を築いたりしている。
秀吉は攻城戦や野戦といった一時的な意味しか持たないものに莫大な予算を費やしている。
それを考えると、一度作れば恒久的な効果が見込める御土居の建設がそれほど費用対効果が悪いとは思えない。
224:世界@名無史さん
07/10/04 04:29:17 0
>>198
>総構である根拠に全くならない。出入り口の遺構は残っており、
>それを考察しても虎口などがなされていない。
テメー何出鱈目言ってんだ!
>築造期の御土居堀については不明な点が多い。
>(中略)
>十口の位置すら不明である。
URLリンク(homepage2.nifty.com)
225:世界@名無史さん
07/10/04 09:05:22 0
>>216
それらの地域は都市部だけ。
農村部はごく僅か。
>>217
まったく軍事上の考察が分ってないようだ。
寺に立て篭もってれば済む話だ。
そもそも拠点防護の戦術をお前は分っていない。
他は焼き払われようが関係がない。
守る定義も、基本的に武将と町衆と同じ。
>>219
>御土居が広すぎるから防御目的じゃないって?
誰もそんなことを言っていない。
農村部まで含まれているという指摘はあっても。
>竹が植わってるから防御目的じゃないって?
土塁でも、衾土塁というものがある。
しかし、これは虎口などに使用されたり、主郭にもちいられるなど限定的である。
そもそも、総構には衾土塁は必要がないし、そのような目的の土塁は使用されていない。
>例えば郡山城総構西部の土塁には松が植えられ並木を形成していた。
自然発生のものであったり、>>212氏の理由(コスト面)であったりもする。
しかも、郡山城総構は基本的に水堀で囲んでいるもので、
土塁は補助的なものである。
226:世界@名無史さん
07/10/04 09:08:07 0
>櫓がないから防御目的じゃないって?
>>209参照。櫓がなければ他の施設がある。
>一度作れば恒久的な効果が見込める御土居の建設がそれほど費用対効果が悪いとは思えない
日本の土塁は風雨に荒らされやすい。
また、芝生など貼ればある程度防護できるが、木が生えたりなど
維持するためのコストがある。
高松城や太田城のような攻城戦で応急的一時的に作るものであれば、
維持や補修のコストは度外視してもさほど関係がないだろう。
恒久的な総構にするならば、比べ物にならない維持補修コストがかかる。
>>224
誰も、すべての出入り口が完全に発掘検証済みとは言っていない。
>>210参照。
そもそも史学で「ない」を証明する必要がないわけだから、
出入り口に虎口など防護施設が「ある」というのならば、
発掘等で証明する必要がある。
227:世界@名無史さん
07/10/04 13:12:27 0
御土居防御機能肯定厨には、歴史や軍事の知識以前に
日本語の読解力が無いと思われる。
228:世界@名無史さん
07/10/04 19:16:23 0
端からみてると何か水掛け論になってますよ。
そもそも御土居の建造理由は色々あったんでしょ。
その理由の一つに防御目的はあったかもしれないし無かったかもしれない。
現時点で資料が十分に発見されてない以上、全く「防御目的は無い」とも言い切れないし、
「防御目的(のみ)だ」とも言い切れない、というのは双方分かってて議論してるんだろうけど。
正直、昔から議論されているような「熊本城や姫路城のような複雑な縄張りと、
名古屋城のような単純だけれども大軍が篭れる縄張りとどちらが防御能力が高い?」という
机上の議論を見ているよう。
229:世界@名無史さん
07/10/04 20:15:48 0
>>228
そうかもね。ただ防御目的肯定厨の方は、
江戸時代以後の総構の状況を例等に出しているから、
根拠にもなっていないとは思うがな。
江戸時代なら、>>212さんの言うように荒れるに任せたりすることもあって、
樹木など生えていても不思議じゃないし、
景観のために並木を植えたりすることもあったろう。
まあ、だから直接の遺構発掘など史料が出てこない限り意味が無いと思う。
>「熊本城や姫路城のような複雑な縄張りと、
名古屋城のような単純だけれども大軍が篭れる縄張りとどちらが防御能力が高い?」
前者だろうな。効率的に篭城出来、敵を消耗させていくにはその方が城として妥当。
ただ、大軍があって篭城が出来ればいいものではない。
少数の動員で篭城できれば、それに越したことはない。
230:世界@名無史さん
07/10/04 20:44:44 0
>>229
>前者だろうな。効率的に篭城出来、敵を消耗させていくにはその方が城として妥当。
江戸時代の軍学者はそう見ていたらしいが、近年の研究ではそうも言い切れないらしい。
そもそも当時の設計者が想定した攻城戦の形態や防御思想の違いが縄張りに現れているんだろうけれど。
231:世界@名無史さん
07/10/04 20:51:01 0
>>230
欧州でも基本的に、江戸時代の軍学者と同じ様な縄張り思想だったが。
しかし、欧州では野砲の脅威への対策は考えられてあるが。
232:世界@名無史さん
07/10/04 20:55:23 0
名古屋城は中核の、予定されていた総構え建造が豊臣氏の滅亡により中止された、言わば「未完成の城」だから、
総構えとして完成された姫路城より大軍も篭れないような気が・・・
233:世界@名無史さん
07/10/04 21:08:24 0
>>225
厳密に言うと、衾土塁と言う表現じゃなく蔀土塁だけどな。
確かに、周囲を囲む土塁に蔀土塁としての機能があり、
肝心の出入り口を虎口にして蔀土塁の要素をも含む土塁がなければ本末転倒だが。
(蔀土塁にしたところで、武者走があるのは常だから、
蔀土塁だから木が生い茂って武者走がなくてもよいということにはならないが。)
234:230
07/10/04 21:13:27 0
>>231-232
wikipediaよりコピペ
名古屋城の縄張は、それぞれの郭が長方形で直線の城壁が多く、角が直角で単純なつくりである。
したがって、姫路城のような複雑かつ屈曲の多い構造を好む江戸時代の軍学者には好まれず、
ある軍学者は実際に「縄張宜しからず」と酷評した。
しかし、現代の城郭研究者からは、次のような意見がみられる。
すなわち、名古屋城が築城された江戸時代初期は攻城戦術・技術が成熟しきっていた時期である。
その時点で、徳川氏が大坂方面に対する東海道防衛の最大拠点として位置づけられる名古屋城を、
あえてこのような縄張にしたことを考慮すべきである。
当時の名古屋城の築城思想が、篭城戦時の防衛の戦略・戦術をどのように企図し、
あるべき篭城戦をどのようにとらえていたかを分析し、判断の材料に加えなければ、
縄張の良否を簡単に断言することはできない、という。
235:230
07/10/04 21:15:07 0
構造は典型的な梯郭式平城で、本丸を中心として南東を二の丸、南西を西丸(にしのまる)、
北西を御深井丸(おふけまる)が取り囲んでいる。さらに南から東にかけて三の丸が囲む。
本丸の三つの虎口のうち南の大手口と二の丸側の搦手口の2箇所には、
堀の内側に二重の城門で構成される桝形があり、堀の外側に大きな馬出しがあって入口を二重に固めていた。
桝形内では通路を屈曲させ、周りを多聞櫓で囲んで通過を困難にしている。
外の郭から土橋を通って馬出しに入る通路には障害となる直線状の小石垣があり、
本丸に背を向けないと通れないようになっていた(西丸側の小石垣は撤去され堀も埋められている)。
馬出しの配置も巧みであって、一部の郭を占領されても本丸には容易に進入できない優れた構造になっている。
また、ある虎口を攻めようとすると、別の虎口から出撃して撃退できるようになっている。
西と北は水堀(現存)及び低湿地によって防御された。南と東は広大な三の丸が二の丸と西丸を取り巻き、
その外側の幅の広い空堀(一部現存)や水堀に守られた外郭を構成した。
さらにその外側には、総構え(そうがまえ)または総曲輪と呼ばれる城と城下町を包み込んでしまう郭も計画されていた。
西は今の枇杷島橋(名古屋市西区枇杷島付近)、南は古渡旧城下(名古屋市中区橘付近)、
東は今の矢田川橋(名古屋市東区矢田町付近)に及ぶ広大な面積をもつはずだったが、
大坂夏の陣が終わると建設は中止になった。これは名古屋築城の目的を如実に物語っている。
まあ実際どうなのかは軍事ヲタじゃないから知らんが。
236:世界@名無史さん
07/10/04 21:58:48 0
>>225
秀吉が集めた東京極(現寺町)にずらりと並ぶ寺に、町衆が立て篭もって、
四条室町や新町方面の旧下京を守れるとでも?
後から回りこまれて終わりだw
城と言う「点」を守るためならば、都市壁は実は必ずしも要らないというのが、
織田信長以来の、上で言う「愛知系武将」の考え方。
徳川家康などは、名古屋城の「幻の惣構」などという話を除けば
江戸にしても基本的には、町方は構の外に出してしまっている。
秀吉も、大坂城惣構では平野町は当初から構の外だ。
だが、町という「面」を防衛する必要がある中世町衆にとっては、
防御線としての「囲み」は極めて重要。
だから、下京にしても寺内町にしても、堀や塁でぐるりと囲まれることになった。
御土居の目的は聚楽第や禁裏防衛というより、京都市域の防衛と考えるのが妥当。
市域の防衛である以上、むしろ逆に純然たるシティーウォールということになる。
まあ1580年代には、多分にシンボル的な意義になっていただろうけどな。
237:世界@名無史さん
07/10/05 07:43:23 0
>>236
まったく防護というものを理解していないな。
後から回りこまれても問題ない。
町衆本人達が助かればいいこと。
そもそも町衆は、権謀術数を第一に防護を考えるもので、
環濠や土塁などはその補助的機能にしかならない。
四条室町や新町方面はほったらかしにしても、
一時的に町衆当人が立て篭もって助かればいいこと。
面で防護するか点で防護するから、地形・情勢など相応に
比較して判断するもの。適当な要塞として使える寺院があればそれで
点で防護するれば済む話。
238:世界@名無史さん
07/10/05 07:47:51 0
>>234-235
名古屋城は総構などは未完成のまま放棄されれいるので、
なんとも言えないが。
名古屋城そのものは、横矢など射掛ける構造にはあまりなっていないのが気がかりだ。
しかし、>>234-235にあるように詳細に検討すれば複雑な縄張りにもなっているので、
効率的な篭城を考慮に入れていたものであると考えられる。
239:世界@名無史さん
07/10/05 08:36:43 0
>>237
秀吉は寺に軍事的要素を持たせたくないから寺院を強制移転させたのではなかったか?
240:世界@名無史さん
07/10/05 19:10:26 0
>>239
全てというわけではないだろう。
事実全て移転は無理だろうし。
浄土真宗の庇護とかあるから、
勢力としては、寺院も手向かわない限りは認めたのでは?
241:世界@名無史さん
07/10/06 00:05:07 0
本能寺は意外と防御能力があったというのが最近発見されたな
242:世界@名無史さん
07/10/06 08:40:24 0
>>241
確か、以前に室町(戦国以後)の公家の邸宅が城塞化していたというような論文を
読んだ気がする。(日本歴史だったかな?雑誌は。)
だから、わざわざ御土居なんてつくる必要があったかどうか疑問だが。
243:世界@名無史さん
07/10/14 11:24:15 0
御土居はどちらかというと「上京と下京に別れた京の町さえも統一した」という、
豊臣秀吉の天下統一の象徴、或いは力の誇示の為に作られたのが本当の目的のような気がするが。
「防御」や「堤防」の意味合いは、あったとしても「ついで」じゃない?
244:世界@名無史さん
07/10/14 12:06:14 0
話をぶった切って悪いが、欧州の大陸の古い町に行くと(特に北イタリアとか)、
現代の近代的な町を歩いていても昔の城郭都市時代が想像できて楽しい
ごちゃごちゃしてた町並みが大きな道を横切るといきなり綺麗な近代的な
区画になると、「ああ、今の道が昔の城壁跡地か」とか、鉄道とかバスの
ターミナルが明らかに昔の門と付属する要塞後に作られていたり。
地図見ているだけでも結構浮かんでくるので楽しい。歩くともっと面白いけど。
城塞とか言っても、そういうので現在の区画にも残っているようなのは
中世じゃなくて砲戦が主体になって以降の要塞都市のものだけど
逆に古い町でそういう痕跡(円環道路とそれに付随する大きな広場)がないと、
ああ中世以降は完全に没落したんだなとか
日本でも現在の大きな国道の横を走るやけに由緒ありげな家が並ぶ
細い道とか(昔の本街道)、そういうのに気がつくと妙に嬉しい
245:世界@名無史さん
07/10/14 13:23:53 O
う~ん、東京で江戸城総構跡沿いに張り巡らされた首都高や通りを走っている時に
見附跡などの石垣や土塁を見つけた時のような感覚?
246:世界@名無史さん
07/10/15 00:43:29 0
飯田橋の端の横にある石垣は当時のもの?
いやに綺麗な石組みだが。
247:世界@名無史さん
07/10/16 00:30:54 0
>>246
江戸城牛込見附跡の事?
補修はしてあるかも知れないが、
一応は当時のもののようだけど・・・。
248:世界@名無史さん
07/10/16 01:24:43 0
>>247
なんと!
江戸城を再現してみると、東京はものすごくかっこよくなるかもしれない・・・
249:世界@名無史さん
07/10/16 07:24:48 0
>>248
東京駅八重洲口あたり?の堀も埋め立てられているから完全復活はどうかね・・・
250:世界@名無史さん
07/10/17 15:15:23 0
再現しなくても見附跡の石垣は他にも結構残ってるね。
見附以外はほとんど土塁だったんだろうから
飯田橋や四谷周辺は意外と当時の面影が残ってるかも。
251:世界@名無史さん
07/10/17 18:47:39 0
ご参考
旅の記録「江戸」
URLリンク(blogs.dion.ne.jp)
江戸城外郭跡
URLリンク(www5d.biglobe.ne.jp)
江戸城史跡めぐり
URLリンク(homepage2.nifty.com)
江戸城城郭
URLリンク(www.viva-edo.com)
252:世界@名無史さん
07/10/17 21:17:04 0
最も面影が残ってないのは
南の幸橋御門から虎ノ門通って溜池まで辺りかな。
今は全て埋め立てられてしまってる。
この辺りは石垣だったんだけど。
石垣にしたのは地形が平坦で高低差が少なくて防御が弱かったから、その分
石垣で固めて堅固にしたんどろうけど。
253:世界@名無史さん
07/10/18 00:31:56 0
江戸城の天守閣ってのはとても美しかったそうだね。家光のころの江戸っ子は
それはそれは自慢にしたとか。
254:世界@名無史さん
07/10/18 22:11:17 0
誰に?
外部の人間との交流が盛んだったのか?
255:世界@名無史さん
07/10/29 17:01:07 0
上方衆にじゃない?
ところで江戸城外郭は確かにすばらしい縄張りだが
19世紀に来日した英外交官のオールコックが「大君の都」で記すところでは
英国の軍人が江戸を観察したところ、3日もあれば占領できる、と答えたそうな。
やはり260年も同じ国防体制じゃ刃が立つわけ無いわね
256:世界@名無史さん
07/10/29 17:27:47 0
むしろ3日も持つのに驚き
257:世界@名無史さん
07/10/29 17:51:10 0
>>255
外郭については同じく惣構えのある会津若松城も戊辰戦争の際
まだ近代戦に慣れているとは言えない新政府軍に簡単に突破されてるな。
江戸城程の巨大城郭だと守る側の兵力にもよるだろうけど、
当時の海外の勢力に攻められれば、近代戦に対する対策のされていない
外郭はあの当時でも簡単に突破されてしまっただろう事は間違いない。
258:世界@名無史さん
07/10/29 17:54:04 0
じゃあ函館の五稜郭は簡単に突破できる?
259:世界@名無史さん
07/10/29 18:05:11 0
>>258
五稜郭は外郭ないじゃん。
ていうのは置いといてもあの当時既に時代遅れ。
260:世界@名無史さん
07/10/29 21:08:58 0
よく考えたら五稜郭より会津若松城のほうが長く持ちこたえたんだな。
261:世界@名無史さん
07/10/29 21:26:33 0
会津若松城の場合、降伏せざるを得なかった大きな理由が兵糧不足、
トイレ不足、戦死者の処理だったらしいしね。
開城直前は城内の衛生状態が相当悪かったらしい。
考えてみると、日本の城って長期篭城には向いていないかもしれないかな?
城塞都市の場合、城の敷地の中に田畑を含める事で兵糧の心配も少なくなる?
日本の場合総構えを持っている城でも外郭は内郭である本城と比較すると守りが薄く、
例え外郭の中に田畑があってもそれは攻城側に簡単に占領されてしまい、
兵糧の問題が発生しやすい?
262:世界@名無史さん
07/10/29 23:04:41 0
1人が1年間籠城するとして必要な米は1石。
1石の米を作るのに1反(991.74平米)必要だから1万の将兵が籠城するのに
必要な耕地面積は991.74×10,000=9,917,400平米 すなわち東京ドーム763個分。
小田原城外郭が9kmあったということで郭内の想定面積は6,449,044平米だから
城内すべてを耕地にまわしても城兵を養うのは困難と言うことになる。
実際には城兵以外の住民もいるから1万人ではきかないだろう。
そもそも耕地があっても戦時下ではまともに耕作できる保証はないし、
耕作できても収穫が年1回だからそれまでに飢えてしまっては元も子もない。
結論としては中国でも日本でも籠城するときは穀物倉などが確保できた状態
じゃないととても長期の籠城には耐えられなかっただろう。
付け加えれば平安城内部には耕地があったが、近世城郭の外郭は
家臣団と都市防備が主目的であり、耕地はないか、あっても雀の涙。
263:世界@名無史さん
07/10/30 00:04:59 0
>>261
会津若松城降伏の最大の理由は、他の奥羽諸藩が降伏して孤立無援となってしまって
勝利の可能性がなくなったから。
そのうえ先に降伏した奥羽諸藩が逆に降伏の説得に来たりしてたくらい。
264:世界@名無史さん
07/11/03 10:48:15 0
援軍の見込みの無い籠城戦なんか無意味だからな。
そこが西南戦争で攻囲戦を耐え抜いた熊本城との違い。
265:世界@名無史さん
07/11/05 02:03:05 0
城の写真ではなく城の模型を集めたサイトか本はりますか?
266:世界@名無史さん
07/11/05 08:12:00 O
はってください
267:世界@名無史さん
07/11/05 08:46:12 0
日本の城は中国のロケット兵器で火を点けられたら終了
URLリンク(hk.youtube.com)
URLリンク(hk.youtube.com)
URLリンク(hk.youtube.com)
URLリンク(hk.youtube.com)
URLリンク(hk.youtube.com)
近代以前の日本人は最後までロケットは使わなかったな
268:世界@名無史さん
07/11/05 08:48:35 0
城好きならドイツのザクセン州にあるケーニッヒシュタイン城と、
ポーランドのポモージェ州にあるマルボルク城を見て来い。行って損はしない。
269:世界@名無史さん
07/11/05 09:40:12 0
五稜郭って西洋式の城郭って点ばかりが強調されてるけど、
ああいう星型の要塞って、ルイ14世時代からあったんでしょ。
19世紀中頃では思い切り時代遅れのようでは・・・
270:世界@名無史さん
07/11/05 10:26:12 0
>>267
文禄・慶長の役で明軍は大量の火器を朝鮮に持ち込んだけど、日本式の城を攻め落とす
ことはできなかったよ。
>>269
五稜郭のデザインは接近戦を想定していたらしい。
同時期に函館湾の守りとして弁天台場も建設されてるけど、こちらは同じ西洋式の城郭
でも多角形デザインの要塞。
品川の御台場とかと同じタイプ。
271:世界@名無史さん
07/11/05 15:31:03 0
>>270
大量じゃないよ。当時の大砲やカチューシャ型ロケットランチャーなどは動かすのが大変だからそんなに持ってこない。
272:世界@名無史さん
07/11/05 16:57:34 0
>>271
それじゃあ戦争で役に立たないじゃん・・・
273:世界@名無史さん
07/11/05 19:12:04 0
>>267
>>257-264で思い出したけど、
戊辰の会津戦争ではアームストロング砲ばかりではなく
「焼玉」と呼ばれる一種の焼夷弾のようなものが多量に打ち込まれ、
城内では消火に必死だったらしい。
274:世界@名無史さん
07/11/06 01:03:01 0
>>267
戦国時代に大火矢という噴射式のロケット武器があったけど
信管がない時代だから、ロケット花火のように飛ぶだけ。
心理的な意味しかなかった。
蒙古の「てっほう」は手榴弾だから、大した距離は飛ばないし、
投げかえされる事もある。攻城にさほどの威力はない。
手榴弾のような迫撃砲系の武器は、
平地での歩兵戦・騎兵戦に威力を発揮する。