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私の8・15<1>葛根廟事件 戦争はもうたくさん 母は頭に銃弾を浴びていました
川内光雄さん―連載 20050719付 西日本新聞朝刊掲載
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あの日、一九四五年八月十四日のことは、思い出したくありません。思い出すたび、
そのむごさ、怖さ、残虐さに体が震えるのです。小学校一年生、七歳だった私の目の前で
母が銃殺され、妹とはぐれ、満州(現・中国東北部)の地で、戦争孤児となった日だからです。
「葛根廟(かつこんびよう)事件」といいます。満州の「葛根廟」で、在留邦人千数百人が
ソ連軍戦車隊に襲われ、千人以上が惨殺された事件です。戦車は午前十一時すぎ、
満州・興安街から戦禍を逃れて、集団で避難する途中だった私たちに襲いかかりました。
狂ったようなエンジン音と機銃掃射でした。みんな泣き叫びながら逃げまどいました。
ばたばたと人が銃弾に倒れ、戦車にひき殺された人もいました。
私は、当時三十二歳だった母に抱かれ、大きな溝に転がり込むように逃げました。左肩に
銃弾を受け、「痛い」と振り向いたとき、すでに母は頭に銃弾を浴びていました。
「おかあさーん」「おかあさーん」と母の体を夢中で揺すりました。母は、ばったりと倒れました。
背中にすがりつき、わんわん泣きました。妹ともはぐれました。父の行方も避難前から
分かりませんでした。
一晩中、母の遺体の横で、泣き明かしました。私と同じく親を失って泣いていた子どもも
たくさんいました。狂ったように、わが子を捜す親もいました。その傍らで、負傷した多くの
人が、絞り出すような声をあげて、手りゅう弾や短刀で自決してゆきました。
翌朝、「おかあさん、さよなら」と手を合わせて、私は生きるために荒野を歩き始めました。
親を亡くした子ども五、六人が一緒でした。途中、川にさしかかり、川を渡り終えたとき、
私は、肩の傷の痛みで失神し、気がつくと一人になっていました。そのとき、中国人にカマで
脅かされ、着ていたものを取られ、もう歩く気力も生きる力もなくすわり込みました。