08/10/04 23:17:17
プロテスタントのマドンナ、ことマリアンネとヴェーバーの間に、
性交渉が一度もなかったというのは本当なんですかね。
もしそれが事実で、またそれがマリアンネの何かの欠陥?によるものならば、
ウェーバーが若くて美人の教え子エルゼ・ヤッフェと不倫したのは無理もないと思うんだけど。
ピューリタンの羽入センセはそれが「許し難い」と、昔の少女漫画の登場人物みたいなことを
言うんですが。
867:Z
08/10/05 11:10:51
↑
クリューガー著『マックス・ウェーバーと妻マリアンネ~結婚生活の光と影』
には、性交渉が一度もなかったなどとは一言も書かれていません。
868:名無しさん@社会人
08/10/05 22:47:24
↑
A・ミッツマン『鉄の檻 マックス・ウェーバー 一つの人間劇』
に出ているらしい。もっとも羽入のトンデモ本にそう書いてあるだけで、
原本は見てないけど。
869:Z
08/10/05 22:58:55
↑かしかにミッツマンはそう書いている。但し、わずか半行ほど。勿論、はっきりは
書いていない。頼りない書き方だ。
870:Z
08/10/05 23:04:16
ミッツマンも書く以上、その根拠を明示すべきだった。
871:名無しさん@社会人
08/10/06 07:27:04
↑
根拠って、本人に聞け、とでも言うんですか…
872:名無しさん@社会人
08/10/06 08:34:41
悪魔の証明か…
873:名無しさん@社会人
08/10/08 10:48:58
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神も
世界では、あまり相手にされてないって聞いた
874:名無しさん@社会人
08/10/08 13:35:53
↑
相手にされてないと書く以上、その根拠を明示すべきだった。
875:名無しさん@社会人
08/10/09 02:50:55
↑
根拠って、本人に聞け、とでも言うんですか…
876:名無しさん@社会人
08/10/09 06:54:15
教え子との不倫って、さらに有名なのではハイデガーとハンナ・アーレントの例もあります。
まあ、ケンブリッジのホモグループより、男としては健全(?)だと思いますが…
877:名無しさん@社会人
08/10/09 12:55:48
最近、フランスでchristian jacq(小説家じゃなく社会学者の方ね)が
アレクサンドル・デュマ・フィスとヴェーバーとの関連性を指摘した。
ヴェーバーの筆致がデュマ・フィスの筆致と酷似、また、
両者がプロテスタントの研究に通じていたことが根拠らしいが・・・
どういなんだろ?
小説家と社会学者との関連って・・・
878:名無しさん@社会人
08/10/10 15:39:41
「アメリカ人」は読まない
ただ合衆国はWASPばかりではない
東海岸のユダヤ系は多少知っている
南部や中西部だと、一部のファンダメンタリストがチラ見
過剰な不買運動反消費運動でお祭り騒ぎ
西海岸は・・・
879:三郎
08/10/13 21:08:02
雀部幸隆『公共善の政治学―ウェーバー政治思想の原理論的再構成』
という本が出ている。
しかし、ヴェーバーの政治理論は、その中心的な部分において、
「公共善」の政治学として特徴づけることが可能であろうか。
「権力」とか、「支配」に焦点を合わせる政治理論は、
「公共善」の政治理論とは異質ではないだろうか。
むしろ、「支配の政治学」とでも呼ぶべきではないだろうか。
雀部の本は、ヴェーバーの政治学ではなくて、雀部ご本人の政治学が入っている。
880:名無しさん@社会人
08/10/17 23:31:24
>> 879
> 「権力」とか、「支配」に焦点を合わせる政治理論は、
>「公共善」の政治理論とは異質ではないだろうか。
何のこっちゃ。それこそこじつけでしょう。
ヴェーバーが権力志向が強いとか、教権支配主義者だとかいいたいのですか?
雀部氏の本では、ヴェーバーの政治学がアリストテレス以来の西洋の伝統の国家学にのっとっていて、
公共善を志向するものだと、いう指摘をしているもので、別に雀部氏による偏向した解釈とは私は思いません。
881:名無しさん@社会人
08/10/18 01:11:30
Zさんはどこへ?
882:名無しさん@社会人
08/10/18 09:55:27
Tさんにイジメられてどっかでいじけてるんでしょ
883:三郎
08/10/19 01:13:40
>ヴェーバーが権力志向が強いとか、教権支配主義者だとかいいたいのですか?
別に、そんなこと言いたくないです。
そんなことにはまったく関心はありません。
ヴェーバーの政治理論を瞥見すると、
権力、そして権力のひとつのあり方である支配に強い関心がある、
ということが見て取れる。
そして、これは政治的なものの核心をついているというか、
政治のもっとも重要な部分に眼を向けている、ということで
素晴らしいということであります。
>ヴェーバーの政治学がアリストテレス以来の西洋の伝統の国家学にのっとっていて、
>公共善を志向するものだと
これってどういうことなんでしょうか。
そういうことに何か、価値があるのでしょうか。
884:名無しさん@社会人
08/10/19 13:12:40
>>883
雀部氏の本は、W・J・モムゼンのヴェーバー批判、
つまりある意味でのドイツ的な自虐史観に基づくウェーバー批判を再批判したものです。
モムゼンの批判は、「ヴェーバーは民主主義者ではなかったため、ワイマール共和国の初期において
欠陥をもった大統領制を提唱する一人となり、のちにナチスの権力独占に道を用意した」
というものです。
この批判によって、「ヴェーバーの政治学」を語ることが長い間ある意味タブー視の
ような状態になっていたものを、雀部氏は、ヴェーバーの政治学はアリストテレス以来の
公共善を志向するまっとうなものであり、モムゼンの批判は的外れである、と
いうものです。
ウェーバーの支配の正当性に関する議論は「経済と社会」の中で、
合理化の発展に進展して共同体とその支配・権力形態がどう変化していくか
ということに関連づけて述べられているものと私は思っています。
なのでそこだけ取りだして「政治学」とする議論には私は賛成できません。
885:三郎
08/10/21 00:44:01
>884
モムゼンのヴェーバー批判?
そんなに問題なんでしょうか。
わたしは、モムゼンに対するヴェーバー擁護という特殊な
文脈には興味はありません。
たいして意味があるとは思えないのです。
わたしは、ヴェーバーの政治学は、「公共善」の政治学とは思えないと言っているだけなんです。
886:三郎
08/10/21 00:44:55
フランスの政治学者モーリス・デュヴェルジェは、
「政治は『ヤヌスの双頭神』である」と書いています。
……その2つの頭(顔)とは、
〈力・支配・闘争〉の顔
〈統合・公共善・調和〉の顔
……です。
デュヴェルジェは、この2つの顔をもつのが政治であり、2つをともに押さえておく必要があるというのです。
(しかし、「2つ」だけではなく「多数」の顔がある、という議論もできるわけで、
そういうこという人もいる。たとえば、ビル・ジョーンズ。)
ヴェーバーも政治のいくつもの「顔」に目を配っていると言えるんでしょうけど、
彼が注視しているのは、あくまでも〈力・支配・闘争〉の顔の方なんですね。
ご存知のように、『職業としての政治』のなかで、政治を権力闘争、権力の分配をめぐる活動として規定していましたね。統合とか調整とか、ましてや善の実現とかいう見方ではありません。
また国家についても同様です。
国家を善や倫理や理性によって規定するようなことは一切ありません。
乾いた手つきで、ザッハリッヒに国家の「暴力」性をトロツキーの名を挙げながら、強調していました。
これらはヴェーバーは、その政治についての基本的な観点において、
「公共善」的な見方を積極的に退けているということです。
ヴェーバーの政治論に価値があるとすれば、
こういった政治的リアリズム部分だと言えます。