06/08/08 21:51:29
いつもM(特に女)と話すときに感じる言葉の通じなさ。
だが今回その事について考えてみることで多少得る所があった。
自我は意識(認識)の中で社会性を獲得するパイプだ。
自己は、感情(喜怒哀楽)・決断(意志)・嫉妬(執着)など、
理の働かない部分だ。人は決断する時、最終的には理ではなく自己が決意する。
自我は、自己から離れて自己を見るもう一人の自分だ。
そして、超自我はその全体を審判する自分の中の他者だ。
言葉は自我の中にある。超自我は言葉そのものだ。
したがって、自分の中の審判者(超自我)は言葉によって可変だろう。
言葉は、おそろしく重要だ。
Mに対する言葉の通じなさは、その言葉が自我・超自我に向けて発せられた時、特に強くなる。
自我がゆがんでいるか、未発達なのか。いずれにしても理の部分が素通りされ、
直接自己を揺さぶる部分(非難・命令)だけが甘受される。
あるいはそう解釈しなおされてしまう。このため通じていない感触にむなしさを覚える。
この通じない感を感じる女がプロ言うところの「隠れM」なのか。
ま、この部分は一般論にはならない…
通じない感はそれこそ俺の「自己」だけが感じる個人的ないらだち・感触だから。