07/08/15 14:02:39
>>673-674
URLリンク(www.kitanet.ne.jp)
これ読んだことあるかが結構重要だけど
「witness」目撃者・観賞者というのは、単純な認識論ではないんだよ
純粋な気づきであり、それが「真の自己」であっても「自我ではない」
増してや、人間の認識能力や、高次の観賞能力という見方はあってもその見方であるうちはそれではない。
サイコシンセシスがわかる人にはトランスパーソナルセルフって言った方がわかるかも
『典型的な考え方はこうである。私の意識は私の体のなか(ほとんどは頭のなか)にある
わたしの体はわたしの部屋にある。部屋は家のなかにある……。
これはエゴの見方からすれば事実であっても、真の「自己」の見方からすれば、まったく事実ではない。』
(ワンテイストより)
このウィルバーの発言からまんま誤解してしまいそうではあるけれど
『こうして、あなたは意識の源までさかのぼる。目撃者までさかのぼり、そこで安らぐ。
わたしは、客体でも、対象でも、感覚でも、思考でもない』
ともあるように
【「人間が左手領域を作った」という従来の哲学との混同だと思う。】
という考え方ですら当てはまらない。
『ただ存在するという事実だけを見据える事』が目撃者、観照者が示す意味であって
それが人間以前に存在した、存在していないというのは理知の眼による観察であって
純粋な観照である無選択な自覚には入らない。
『誰が分析的な概念そして全体論的な概念の両方に気づいているのでしょうか?
今この瞬間、あなたの中の誰が、あるいは何が、そうしたすべての理論に気づいているのでしょうか?
答えは、お分かりのように、この〈観照者〉の方向にあります。 そうしたすべての思想の目標の方向にあるのではありません。』
この言葉にもあるように哲学的認識という言葉ですら観賞者の方向でしかない
当然、【思想そのものが観賞者だということではなく】、【思想の原点が観賞者】って事
あなたが語っているレスそのものを否定しているのでなく
あなたが語っているそのものが観照者によるものであるということさえ包括しているものだって言ってわかるかな