09/12/03 23:29:35 0
>>155 理由が正否→理由の正否
ついでに
>>153-163
>>155がそのままあてはまる
「裁量」は「殺していいかいけないか」にかかっている
「裁量」が「殺す側(殺そうとしている側)」にかかるなら、最初から殺しについて判断してもしなくてもよく、
「殺す側」が恣意的に理由を設定すればそれが理由になると言っているだけになる
加害者に殺されそうな被害者がいるとする
加害者に殺されそうな被害者は殺さないでくれと被害を受ける直前に加害者に言った
加害者は無視した
その場合、加害者は無視すれば、被害者側の事情はなかったことになるとはいえない
事情があるなら「お願い」の形をとろうと、「命令」しようと、事後に殺人罪の適用の趣旨になろうと、
「殺してはいけない」とする理由があることになる
根本的に強制力のある「理由」を観念してそれを求める(理由は言葉だからありえないという結論が最初から出ている問い)とか、
強制力が備わらなければ理由を認めない(頭のおかしな人間に理由を認めさせなければ理由はない、は明らかにおかしい)
という議論がおかしい
社会性を問いの自明の前提として含めるのもおかしい
「~はいけない」は、明らかに個人的に理解し言うことができるし、実際そのように使われている
「社会」を実在的に捉えて、それが乱れるといった議論を、殺人に付随する一般的な事情を無視する論者が行うのも奇妙
「社会」を個人の集まりと考えたときに、その「社会」を成り立たせている一人一人の判断を観念することは容易にできる
(「国民」は一人一人投票する)。それを認めさえすれば、「~はいけない」理由が、一人一人の理解にかかる問題だと
認めるしかないはずなのに、それは無視して「社会」のような集団的表象を自明視するのは矛盾した態度だ