何故、人を殺してはいけないのか?PartⅢat PHILO
何故、人を殺してはいけないのか?PartⅢ - 暇つぶし2ch25:考える名無しさん
09/10/26 23:19:09 0
新参者の糞コテGENだろ

26:ザイン
09/10/26 23:26:12 O
22
対話は言葉の世界の住人にしかできないこと
本と対話し、理論と対話する

ねらーとは対話しない
それが俺のスタンス

27:考える名無しさん
09/10/26 23:56:42 0
>>22
「人は殺さなければいけない」んじゃ対話もクソもないよなw

28:考える名無しさん
09/10/27 00:40:20 0
子供が、
「あの子、気に入らないから(不愉快だから)殴った」時、
その行為が、なぜいけないのかを諭さねばならないだろう。
この時、どのような「理」を持ってくるか?
これの相似形として、
誰かが、
「アイツが気に入らないから(不愉快だから)殺した」時、
その行為が、なぜいけないのかを諭さねばならないだろう。
この時、どのような「理」を持ってくるか?
誰かが(或る組織(或いは国)が)、
「あの人物が発展、解放の妨げとなっているから殺した」時、
その行為が、なぜいけないのかを(国際)世論として糾さねばならないだろう。
この時、どのような「理」を持ってくるか?

29:ろくじゅうきゅう
09/10/27 01:22:28 0
>>18
何だよ、伝説かいw 今、海外連ドラ鑑賞で忙しいんだ。


30:考える名無しさん
09/10/27 01:55:13 0
何だい、海外連ドラって
「奥様は魔女」かい?

31:考える名無しさん
09/10/27 01:59:40 O
功利主義や英米倫理学って心底呆れませんか?
なぜ未だに功利主義が人気なのか理解に苦しみます。

『倫理』とは、客観的な判断を指します。
つまり「みんなが正しいと思える考え」です。

しかし、客観とは何なのか?
功利主義や英米倫理学や一般人は「主観的ではない視点」だとしていますが
これは大きな間違いです。

フッサールは「客観とは、主観の集合である」という結論に至ります。
つまりA君、Bさん、C先生・・・etcならこう考えるだろう、という主観の中の他人の主観の集まりを客観だと結論付けたのです。

このことを踏まえた上で、「より正確な客観的な判断」を行うためにはどうすればいいか?
ハーバーマスは「客観が主観の集合ならば、主観の集合を広げること(主観を増やす、繋げること)が、より正確な客観的な判断には必要だ」と考えたのです。
主観の集合(客観)、つまり私の中のみんながこう考えるだろうと推測される判断が倫理なのだと考えたのです。

32:考える名無しさん
09/10/27 02:28:42 0
>>31
要するに、
(倫理における)>「客観とは、主観の集合である」
>このことを踏まえた上で、「より正確な客観的な判断」を行うためにはどうすればいいか?
>「客観が主観の集合ならば、主観の集合を広げること(主観を増やす、繋げること)が、より正確な客観的な判断には必要だ」

ということですね。

そこで質問です。

「主観の集合を広げる」のは時間的、空間的に広げれば広げるほど客観に近づくのですか?



33:考える名無しさん
09/10/27 02:30:31 O
以上の客観論は小学生ですら、薄々直感的に感じていることでしょうが、
功利主義と英米倫理学は客観を「主観に基づかない、公理から導きだされた判断」と考えるのです。

これはフレーゲから始まる論理実証主義と同じ考えで
「命題の真偽は認識論(主観の哲学)とは関係なく、公理体系から真偽を導出できる」
これはドゥオーキンやホーリズムなど論理実証主義に限らず、多くの論者や主義が採用する考えなのですが

ウィトゲンシュタインはこれを「『林檎は赤い』という文は全ての人間がいなくなったと仮定しても、真偽があるのか?」と主観(視点)に基づかない真偽を退けています。
人間が色盲の人だけになれば『林檎は赤い』という文は偽になるように、真偽は認識(主観)に依存するのです。

本題ですか「なぜ人を殺してはいけないのか?」
この問いに答えるには、ここまでに説明したように
英米倫理学や功利主義、つまり認識論に基づかない、換言すれば認識を越えた「神の目」を前提にしている刑而上学(空想)であって間違っており、

認識論(主観の哲学)、つまり主観を構成、つまり現象学、
つまりフッサールを踏まえる必要があります。

34:考える名無しさん
09/10/27 02:57:34 O
>>32
必要な空間:外部者に寛大なコミュニティ
必要な時間:他人(他の主観)との会話に要するに時間


このような要素、つまり主観を広げるための条件、環境を用意・整えることこそ「倫理の進歩」と呼べるもので
それが倫理学の役割だとフッサールの見解を踏まえたハーバーマスは主張します。


ハーバーマスは古いように感じるかもしれませんが
英米倫理学や功利主義のような『フッサール以前』の主観・認識に基づかない神のような超越者を前提にしているプラトンからの古い伝統を抜け出せておらず
ハイデガーが「英米哲学は地に足がついていない」と掃き捨てた頃から進歩していませんので

倫理学を勉強し始める人は、本当に新しい倫理学、
つまりハーバーマスの倫理学とフッサールの主観哲学を学ぶことをお薦めします。

35:考える名無しさん
09/10/27 03:06:34 0
>>31-34
ピクセル君、痛々しい自演乙

36:考える名無しさん
09/10/27 03:10:41 0
>認識論(主観の哲学)、つまり主観を構成、つまり現象学、
>つまりフッサールを踏まえる必要があります。

かなり無理してるなww

37:考える名無しさん
09/10/27 03:15:57 0
自演でも何でもいいから、おかしい点を指摘しろよ。

38:考える名無しさん
09/10/27 03:19:18 O
>>31-34
以上に対して有力な反論は"客観的に"ないと思うので
以下、功利主義や英米倫理学、つまり『フッサール以前』の倫理学は論じるに値しません

39:考える名無しさん
09/10/27 03:27:28 0
ぴかぁ~・kyrie系だね、これは

40:考える名無しさん
09/10/27 10:31:10 O
>>33
本題の答えを示して欲しいのだが。

41:考える名無しさん
09/10/27 15:33:21 O
ダメなもんはダメでいいんじゃないか?

42:考える名無しさん
09/10/27 15:57:14 0
>>41
あれこれ言っても、結局はそこに行き着くんだよな。
「みんながダメだと言ってるから、ダメなものはダメ」
これが最終結論。

43:考える名無しさん
09/10/27 16:58:40 0
倫理というのはどんな形であれ命令になる。
「人助けは良いことである」という倫理は「人助けをしろ」という命令になる。
また命令は相手の自由を縮小(拘束)するこであり、それは社会システム論では権力と呼ばれる。

倫理=命令=自由の縮小=権力

スポーツという力の世界で観念的な理論は全く無意義であるように
倫理の世界もまた権力の世界なら観念的な議論は全く無意義に思われる。

・スポーツの世界: Aという選手は、良い選手か? (Aは強い力を有するか?)
・倫理の世界: Bは良いことか? (Bは強い力(自由の拘束力)を有するか?)

このように倫理はスポーツと同じように考えられるべきでは?
これをスレタイに当てはめ「なぜ”人を殺してはいけない”という命令は強い権力を有するのか?」という形で語るべきではないでしょうか?

44:考える名無しさん
09/10/27 17:24:03 0
>>43
いや、
「なぜ《それ》が、《命令》でなければならないのか?」、理由が示されていない。
「なぜ《それ》は、(行政的な言葉を使えば)《努力義務・注意義務》では足りないのか?」
理由が示されていない。
「《それ》は、《命令》である」という前提からスタートしてしまっていいものだろうか。

理由なんかない。
『「いけない」と言われる事柄は、悠久の昔から、人類誕生以前から「いけない」ことであった』
というのが、このスレ的(或いは哲学的)答えなんだろうか・・・。

45:考える名無しさん
09/10/27 18:21:32 0
つまり、このスレのやりとりで明らかになったのは
スレ主がバカでガキだと言うこと。


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