何故、人を殺してはいけないのか?PartⅡat PHILO
何故、人を殺してはいけないのか?PartⅡ - 暇つぶし2ch786:考える名無しさん
09/10/24 21:53:07 0
>>780訂正 3行目の「その答えがどのようなものであるかは、」は削ります。

>>781
上でも問題になっているようだが、「自然主義的誤謬」はさまざまな解釈によって意義が揺れる語なので、あまり使わないほうがいい。
この場での「自然主義的誤謬」論者の言い分は、「~である」(事実)から「~べき」(当為)は導けない、というだけだ。>680
そして、その議論は>776-777>780で批判している通り、きわめて単純な誤解だ。

>>782
君の挙げている例から殺人について議論することは、「1~4のような無関連な例による問題のすりかえ」、「周縁的な事実」を判断対象と
誤解している点で、完全に誤っている。776以下で書いたとおり、「自然主義的誤謬」を使う、という事態は、価値判断を事実について行う
ことに論理必然的に伴う。殺人についていえば、当然、殺人という語で指し示される現象について判断すべきだ。君の議論は、論理必然
的に判断対象とすべき要素を除外して、判断対象について判断せよ、と言っているようなものだ※

  ※実際には、損得勘定のようなものの言い方で、価値判断を行っているのだが、君はそれを「価値判断」だと認めないという「戦略」を
   とるのだろうが。

念のために個別に答えると、「環境問題・国際紛争など現代の複雑な問題に応対するためには一人の脳では足りません。したがって、
我々は助けあう必要があります」は、確かに説得力があるが、個々の殺人という現象とは全く違うレベルの判断だし、損得勘定は、
「主体」から見た「周縁的な事実」に関する判断だ。

例えば財産目的で殺人をするときに、私は殺人自体について判断するが、君の議論だと、財産目的でも法律に殺人罪が規定されており、
つかまった場合大損するから殺してはいけない(つかまる恐れがないなら、殺してはいけない理由はない)という議論になるだろう。それは
倫理的に誤っているか、という問題と無関係に(というより、それ以前に)「論理的に」「判断対象を」誤っている。殺人(誰かが殺されること)
の是非を議論するときに、別の誰かが困るかどうかを判断するのは、明らかに論理的におかしい。殺人の是非に関する判断に全くなって
いないからだ。

>>783
だいたい伝わってる感じだが微妙に違う…。


次ページ
続きを表示
1を表示
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch