09/10/24 21:23:05 0
(>>776-777続き)
現在では、「人を殺してはいけない」という判断と「道徳」「倫理」といった語は、一般的な言語使用上きわめて関連づけられやすい環境に
あるため、「なぜ人を殺してはいけないのか?」を考えるときに、それらの語が直ちに連想されやすいが、論理的に問いに答えるという
基本に立ち返るなら、その答えがどのようなものであるかは、「殺人」という語で指し示される対象、判断対象をどう把握すれば適当か
という問題がもっとも重要である。
「道徳」「倫理」という語は、規範を提示された側としての主体性をさらに(特に理由もなく)連想させる傾きがある。このスレであれこれ
議論されている難しさは、その連想を判断対象との関連で理由づけられるか検討せずに、無批判に受け入れるところから来ている。
主体的に殺人を捉えることは、殺人という現象が客体に危害を加える面を含むことを形式的に取りこぼす。最初から最後まで、殺人と
いう語で指し示される問題を正しく判断しようと心がけているなら、そのようなことは起こらないはずなのだが、途中で「伝統的な」連想に
影響されてしまった人は、「主体的」な議論をしてしまう。問題は、徹頭徹尾論理的に問題を考えられるかに尽きている。