何故、人を殺してはいけないのか?2at PHILO
何故、人を殺してはいけないのか?2 - 暇つぶし2ch960:考える名無しさん
09/10/13 18:19:28 0
私が存在する理由がないからといって、私が消えるわけではないように
「人を殺してはいけない」に対して根拠がないからといって、「人を殺してはいけない」という倫理が消えるわけではない。

「神が世界をつくったのだから、全てのものには目的や理由がある」
だから「人を殺してはいけない」ことにも目的や理由があるはず!!と問わずにいられないのは西洋哲学の悪い癖で
ハイデガーには、そうした西洋哲学や目的論の悪い癖がありますよ、とレヴィナスは批判している(うろ覚え)


961:考える名無しさん
09/10/13 18:20:21 0
「私が存在する理由」とかも分析的に様々な答えは出せますけど、全てこじ付けです。
サルトルが主張したように、理由よりも私が存在することから理由探しがスタートするように
「人を殺してはいけない」という倫理がまず前提にあって、そこからスタートして根拠を探すわけでしょう。

× A  だから  「人を殺してはいけない」
○ 「人を殺してはいけない」  なぜなら A だからである。

倫理はこうした形になるよ!とレヴィナスは指摘するが私には決定的だと思う。


962:考える名無しさん
09/10/13 18:21:03 0
「存在は本質に先立つ」
私が存在する理由より私が存在していることが先立つというサルトルの科白のように
「人を殺してはいけない」は「なぜ人を殺してはいけないのか?」に先立つそうです。


963:考える名無しさん
09/10/13 20:32:19 0
先立つて何?

964:考える名無しさん
09/10/13 23:28:20 0
先に死ぬこと!

965:ろくじゅうきゅう
09/10/14 02:34:46 0
>>962
そうなの? その問いが立つには「殺人」がそのまた先にあったという事
になるよね。
それから失念しがちなのが「殺人」の「人」の定義。

966:考える名無しさん
09/10/18 00:06:11 0
違うスレにも書いたけど


この世界にアプリオリに規定される「価値観」はない。
なぜなら「価値観」そのものがアポステリオリであるから。
価値観とは言葉の問題である。ならば、言葉の問題になるものは同時因果的に存在する。
全と一、善と悪。こういったものは全て同時因果的に存在するということである。
何故、同時因果となるかというと、言葉の絶対性質的にAを規定すればnonAが存在してしまうから
結局のところ、A,B(=nonA)が存在してしまう。
だが、その存在はもともとは共相依性概念の表象であるから、個人の言葉によって左右される。
また自我の数だけ左右されると同時にそこに時空(時と場所)の問題も絡んでくる。戦争の例などが有名である。
故に、一概には何が良い。何が悪いとは言えない。なぜならば物事の背後は空(絶対無)であるから。
絶対無とは絶対有でもある。枠内の枠外。枠外の枠内。偶然の必然。必然の偶然。
この絶対無と絶対有の弁証法的一般者(共相依性概念、空)を分けるのが言葉である。
ここでいう言葉とは純粋にロゴスとしてではなく論理空間である。
言葉とは極大性を持つからこそ、論理空間の全てを表現できる。故に、言葉≒論理空間といえる。
純粋にロゴス(人間"のみ"が持つ神性)と表現しない理由は動物にも論理空間は存在するから。
ロゴスという表現はキリスト教的価値観の色合いが強くなる故、あえて論理空間とする。

続く

967:考える名無しさん
09/10/18 00:11:47 0

簡潔に言ってしまえば、言葉以前の世界(絶対有にして絶対無の純アプリオリの世界)では何者も何かを規定しない。
故に人を殺してはいけない理由はない、生きている理由も存在しなければ、生きなきゃいけない理由も存在しない。

ミクロの世界(量子論的)では音も色も熱も存在しない。感性は存在しない。なぜならば、ミクロとは感性の成分そのものだから。
感性とはマクロの存在でしか存在しえない。認識もしかり。人間、生物はマクロの世界に存在する。
故に、エントロピー(無秩序さ)が極小の存在であると言える。だからこそ秩序に価値観を求める。
認識とはマクロ的存在の自己と非自己の関係性にしか存在しえない。唯心論、唯物論を超えた唯識論である。
自分の認識そのものは否定できない。故に自我の数だけ認識(=論理空間=自我)が存在する。

確かにアプリオリにはしてはならないことはない。
だが、人間はマクロの世界に生きている故に、マクロ的価値観(社会的道徳、社会的倫理)を求めるのは正常である。
故にアプリオリ的に殺人を悪だと(人をころしてはいけないと)考えることは正しい。

最根本的に「いけない」という理由はない。けれども人間として生きてきた以上「いけない」と考えるのは正常である。
また、自我は多様である。故に、自己の決断は何者も規制できない。故に、人を殺してもよい。
しかし、人を殺した時点で人間としては異常である(と言える)。


968:考える名無しさん
09/10/26 02:30:10 0
おわり

969:考える名無しさん
09/10/26 03:56:58 O
終わらない

970:考える名無しさん
09/10/26 11:55:51 O
柔らかいおっぱい

971:考える名無しさん
09/10/26 13:40:11 O
どうせ胸は変わらんだろ

972:考える名無しさん
09/10/26 22:55:50 0
この世界にアプリオリに規定される「価値観」はない。
なぜなら「価値観」そのものがアポステリオリであるから。
価値観とは言葉の問題である。ならば、言葉の問題になるものは同時因果的に存在する。
全と一、善と悪。こういったものは全て同時因果的に存在するということである。
何故、同時因果となるかというと、言葉の絶対性質的にAを規定すればnonAが存在してしまうから
結局のところ、A,B(=nonA)が存在してしまう。
だが、その存在はもともとは共相依性概念の表象であるから、個人の言葉によって左右される。
また自我の数だけ左右されると同時にそこに時空(時と場所)の問題も絡んでくる。戦争の例などが有名である。
故に、一概には何が良い。何が悪いとは言えない。なぜならば物事の背後は空(絶対無)であるから。
絶対無とは絶対有でもある。枠内の枠外。枠外の枠内。偶然の必然。必然の偶然。
この絶対無と絶対有の弁証法的一般者(共相依性概念、空)を分けるのが言葉である。
ここでいう言葉とは純粋にロゴスとしてではなく論理空間である。
言葉とは極大性を持つからこそ、論理空間の全てを表現できる。故に、言葉≒論理空間といえる。
純粋にロゴス(人間"のみ"が持つ神性)と表現しない理由は動物にも論理空間は存在するから。
ロゴスという表現はキリスト教的価値観の色合いが強くなる故、あえて論理空間とする。

続く

973:考える名無しさん
09/11/05 00:42:48 0
逆に
「人を殺してよい場合とはどういう場合か」
のほうが話が面白くなると思う


974:考える名無しさん
09/11/05 03:39:25 O
正当防衛ですよ
見てたでしょ?

975:考える名無しさん
09/11/05 21:09:46 0
ヒント:正当とはなにか?

976:考える名無しさん
09/11/06 00:04:33 0
>>973
ある人を殺さないとそれより多くの人が死ぬことが明らかな場合

977:考える名無しさん
09/11/06 20:55:19 0
>>976
数で負けてたら死ぬしかないのかw

978:考える名無しさん
09/11/07 02:35:52 O
格ゲー五神(提唱者ヌキ)
 ウメハラ、ヌキ、ハイタニ、ときど、sako

格ゲー器用系七英雄(提唱者ときど)
 sako、にが、ロン毛、RX、ふーど、コモダブランカ、金デヴ

格ゲー女神
 ちむちむ、杏野はるな

979:考える名無しさん
09/11/12 02:42:54 0
>>976
「臓器くじ」は肯定か

980:考える名無しさん
09/11/13 09:18:53 O
イエスキリストのファンが多いから


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