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最近気付いたことがあって。サルトルの晩年のインタビューで「70歳の自画像」というのがあるん
ですが、そこでサルトルはこんなことを言っている。
《わたしは、透明さがどんな場合にも秘密に取ってかわるべきだと考える。そして二人の人間が、誰
に対してももう秘密を持たぬがゆえに、主観的な生が客観的な生と同じく全面的に差し出され呈示
されるがゆえに、お互いに秘密を持たなくなる日、そういう日を私はかなりはっきりと思い描くこ
とができる。》
《真の社会的な和合が打ち立てられるためには、一人の人間がその隣人にたいして全的にそっくり
存在すること、その隣人の方もこの人間にたいして全的にそっくり存在することが必要だ。》
ここでのサルトルとよく似た発言を実は吉本もまたしている。蓮実重彦との対談の席上、自身に
とっての文学の意味について、吉本が喋る場面がある。吉本はこう語っている。
《根底的にいえば、行為する自分があると、自分というのは、体験的にいえば、そのモチーフが決し
て人からわかられたり正解されたためしがない。人は喋ることによっても行為することによって
も了解不可能だ。しかし、理解せしめられたことはないというこ、あるいはそれをもっと敷衍化し
て言えば、人間と言うのは、他者というものを理解することができないんじゃないかという一種の
不可能性の予感みたいなものをどこかで突き破りたい、どこかでそれを解消したいというモチー
フがあって、それで書く人、読む人が文学というものに近づいて行くんじゃないか。》
つまり吉本においても、サルトルと同様に、人間同士が互いに遮蔽されずに全体として存在して
いること、一個の全体性として理解していることは、思索の根本モチーフとして存在している。吉本における有の理解
というのが、互いに全的に存在すること、理解されて有るにあるのは、明らかなことだろう。人間が
他人にとって秘密ではない、そのような社会をめがけていることは明らかなことである。