10/03/28 01:15:09 0
不変な規模での単純再生産は抽象でしかない。よってユートピアの不可能性をあそこでは言いた
かった、というのが花田がのちに書いたことで、スガもそれを踏襲している。しかしそれにしては
花田はここで、《このような表式をはっきり意識している人々》に感情移入し過ぎている。《彼らの
思い描いているユートピアは、倫理的=社会的な、いわば精神的ユートピアとでも称すべきもので
あった。おそらくそれは、彼らが整然たる再生産過程の進行を妨げるレッセ・フェール(自由放任
主義)の弊害を痛感し、自然的=技術的な、物質的ユートピアとは反対のものに憧れているためで
あろう。》としてますが、これは花田自身の志向と同一なわけです。別の場所で花田は書いている。
《組織する力としての理知は、本来、自然を変革する、人間に特有な労働の所産であり、今日の段階
におけるがごとく、必ずしも選ばれた人間にのみ属するものではなかったが、マニュファクチュア
以来、理知はブルジョアジーの側に移行しており、人民の側には、一般に、自然成長性のみが目立つ
にいたった。したがって、現在、我々の周囲のエリートに課せられた任務は、あらゆる領域において
、様々な角度から、反自然的傾向のいかなるものであるかを明らかにし、理知を人民の手に奪還す
ることである。》(「目の鱗」)
花田における自然成長性への否定性と、強固な統制による再生産概念は明らかで、「ユートピアの
誕生」で何故単純再生産がユートピアの条件として出てきたのか、というのも、それが現実的か否
かは問題ではなく、花田における上記イデオロギー的志向の一環として出てきたとみるべきだろ
う。で、そのイデオロギー的側面で、花田はファシズムへの転向がコミュニズムの棄教を意味しな
いと考えたわけで、まさにそこが吉本が指摘した花田の問題点だった。そこを読まなければあの
論争は読めないのと同じでしょう。