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当時すでに左翼の重鎮であったであろう花田清輝との論争の論点というのは様々あったが、今日
の時点で未だに重要性を失わないと私などから思えるのは、政治における悪-秘密主義・前衛にお
ける階級構造・不信を禁ずる禁忌・犠牲-を目的の至上性ゆえに許容すべきか否か、という点であ
る。ことあるごとに花田は特に埴谷の言説にたいし「政治を知らないアマチュア」と形容していた。
《『浮雲』にくらべると、『永久革命者の悲哀』などはただただ甘いが上にも甘いというだけのことだ》
(「世の中に歎きあり」)
《平野謙 僕は埴谷の政治談は世間普通の政治談とはちがってると思ってますがね。
花田 それがアマチュアなんだよ。政治に対してアマチュアの人は、あれを政治談だと思っている
。あれを思想家の発言だと思っている。》(座談会「政治家と文学者」)
《-そうじゃないよ。既成のモラルを持ち出して、手段や動機の善悪を論ずるのは、愚の骨頂だと
いってるんだ。少なくとも新興階級に属する人間は、目的や結果を、なによりも重要視するね。か
れらもまた、モラルを持たないわけじゃない。しかし、かれらのモラルは、階級闘争の過程において
、次第につくりあげられてゆくのだ。》(「ホセの告白」)
さらに興味深いのは、階級についての花田の発言である。
《花田 階級性ってのはなくならないんじゃないの…。なかなかなくならない。
埴谷 それはもちろんなかなかなくならないんだ。
花田 革命が起こったってなくならないよ。
埴谷 なくならない証明がこれまでの革命に残念ながらあった。
花田 そういうことは、もう前から君と論争している時から問題なんだけれど、マルクス主義者な
らば、自明の理であるんだけれども(…)》(「政治家と文学者」)
前レスで書いたのが、《真理の標識は権力感情の上昇のうちにある。》としたニーチェであったが、
花田に象徴されるのはニヒリズムの完成としての政治意識、力の意識であって、埴谷や吉本は革命
の理念がそれに吸収される事態に異議申し立てしたと考える。