09/07/18 01:23:49 0
群像新人賞受賞した、東浩紀と中原昌也を並べて論じた評論、読んだ人います?
あれかなり面白かったというか、痒いところに手が届くというか、良かったですね。
東浩紀の主張はソルジェニーツィン試論のころから実は一貫していて、それは確率の(偶然性の)位相という考えにおいてだと指摘した後、
日本の批評と文学がおちいっている二重の罠あるいはダブルバインドを示す。即ち、
それらある種の伝達(例えば批評、文学)を、判断基準に主眼を置いて形式化すると、それによって他者との極限的状況での伝達(確率的な位相の困難)を回避してしまうこと(古典主義的批評or文学の不可能性)、
あるいはそれを知ってテクストをそれ自体の詩的強度あるいは、確率的無秩序に直接さらすようなことをしても、テクストは否定神学的閉鎖性に帰着してしまうこと(ロマン主義的批評or文学の不可能性)
を指摘する。さらにこのダブルバインドを(おそらくは)引き受け、今も書き続けている東浩紀の立ち位置を、
一見それとは関係のなさそうな中原昌也の小説のあり方を巡って説明しようと試み、
「点滅……」の(言説を前述のダブルバインドにおいて)操作され/それに気付き/それに対し半分拘束された状態での抵抗を試みる人物のあり方を
いわばそのモデルとして提出する。明快に書き連ねられた論理的文章の中の一読ではわからない論理の軋みを発信し、受信するあり方を模索する人として、
中原と東の二人を挙げるという形になっている。これは結構アクロバティックなやり方ですが、
この人はそれをきちんと成功させている。(それに僕の頭の中ではこの話は浅田彰が東浩紀を「スノッブに対するシニック」であるとしたのと繋がる気がしました。
この人がこの評論で捉えようとしている呪いとしての批評或いは文学の姿は、シニシスト分裂し、再帰的に自己言及する、あの果ての無い饒舌の感覚と確実に対応している。)
おすすめですね。
あと坂上さんが小説部門で最終まで残ってたのにも驚きました。
なんかゲーム表現を基軸にして美術家を目指す人(なんか黒瀬さんみたいですね)の話らしいです。
加藤典洋以外みんな褒めてましたね。ぜひ読みたかったな。
ていうかこれらの話題も、このスレだと、もう既出かもしれませんが。