【天照大神】東洋教学総合スレ0003【鬼子母神】at PHILO
【天照大神】東洋教学総合スレ0003【鬼子母神】 - 暇つぶし2ch99:井上筑後守
09/06/15 12:33:31 0
ヒーローに嫉妬ややっかみを当てこするなんて、日本人にとっちゃ堕落以外の何ものでもない。
何百億と制作費を投じた大スペクタクル映画でも、シナリオがそうなだけでゴミも同然になる。
武家装束に陣笠に十手に捕縛のお縄だけでも、最高の勧善懲悪劇はつくり上げられるのに、
わざわざつまらないシナリオをあてこすって、コストパフォーマンスを地に落としてやがる。
そういうムダが日本人は嫌いだから。弱虫は弱虫同士で、好色一代ものか曽根崎心中でも
やってなさいってこった。町衆文化もあるにはあるが、それは勧善懲悪とは全くの別物だから。
英雄と悲劇を混同する古代ギリシャ以来の悪癖を、日本に持ち込むのはやめてもらおう。

100:考える名無しさん
09/06/15 14:40:47 O
元祖裸族!
ギリシャ人♪

101:考える名無しさん
09/06/15 14:45:58 0
>>98>>99
確かにそうなんだよね。
正義であるのに、こんなにまで虐げられる主人公や何かの物語、ドラマ、を見る層ってのは、
だいたいが俗臭にまみれている。
ただ、人情ものというくくりでその物語を見ると、系譜は江戸時代までさかのぼるし、
儒教ともつながってくる。
儒教の事は、そんなに勉強した訳じゃないんだけど。
それでも、儒教自体がルサンチマンの産物だ、という説もあるくらいなんだよ。
実際どうなんだろうね。
井上筑後守さんの文章からはそんな気配は感じ取れないけど。

102:考える名無しさん
09/06/15 14:53:30 O
やまねのきもちヤットコム

103:考える名無しさん
09/06/15 14:54:29 O
ヤクザのあやまちズットコウ

104:井上筑後守
09/06/15 15:14:50 O
「儒教がルサンチマンの産物だ」なんてのは、
「日本人とユダヤ人は似ている」ってぐらいのトンデモ意見だ。

そりゃあ、目と耳と鼻の穴と手足を二つずつ持っていて、
二本脚で歩く程度には似てらあ。

現実を見定めた意見と、ただそうであって欲しいというだけの願望とを
混同するのはいい加減やめろってこった。

105:考える名無しさん
09/06/15 15:24:22 0
トンデモかねえ。
まあ、
>二本脚で歩く程度には似てらあ。

>いい加減やめろってこった。
会話して↑こういうの読みたかっただけなんだけどね^^
かぶりつきで読ませてもらいました。どうもどうも。

106:井上筑後守
09/06/15 18:11:07 0
町衆文化は、士農工商でいえば「工商」にあたる、儒家教学上の被差別階級でこそ
発達していったもの。儒家に近似するどころか、反発することで興隆したとすら言える。
その精神的な支柱になっているのも、開祖からして幕府に楯突いて罰せられた日蓮宗あたり。
同じく開祖が罰せられたにしても、別にお上に楯突いたからなわけでもない浄土教と比べても、
妬みやっかみを当てこするような陰湿さが比較的多めなもの。もちろん日本国内での話で
あって、どこもかしこも善良さに対してこそ積極的である、日本の中ではむしろ必要悪だったほう。
創価学会員が普通の日本人と比べて浮いてるのからも分かるとおり、変則的な存在に過ぎない。

107:考える名無しさん
09/06/16 00:22:07 O
付いて来られない小人の多さと、付いて行かなきゃならない偉人の多さと、
両者を繋ぎ止めようとするともがらの少なさとに感服する。

誰にでもできるのに誰もしようとしない、そのせいで誰にもできないことをやる、
中正の堅持者としての冥利に尽きる、今の自分のありのままの姿。

大して美しくもないが、極端に醜くもない、その有り様も含めての中正。
カッコいいとか美しいというよりは、微妙不可思議な仏像の造形にも沿う、
よく分からない変なもの、外見がそうであることと引き換えに中正であるものの冥利に尽きる。

108:考える名無しさん
09/06/17 00:43:55 0
構造であるものは全てだが、構造でしかないものは
ほんの一部分の落人でしかない。よかったな。

109:井上筑後守
09/06/18 22:32:17 0
「夫れ人の心正しく意識なれば、乃ち能く中正の道を極めて、充実光輝あらん。
若し心に比しむ所あらば、義の不可なるを以て之を決す。」
(同文庫「近思録」五・七より)
「『他山の石、以て玉を攻く可し』を解す。(中略)譬えば君子と小人処るが如し。
小人に侵陵せ為れば、則ち修省畏避し、心を動かし性を忍えて、増益予防す。
此くの如くなれば便ち道理出来たらん」
(同文庫「近思録」五・一五より)

君子が小人と親しむことは、中正を欠く愚行となるから、「残念ながらダメです」と断れ。
然れども、どうしても付き合いを強制される以上は、小人ごときに対して自省を期待するのではなく、
明らかな小人から君子への不当な侵害である場合だろうとも、君子の側が自主的にその経験を
自己研鑽の道具として活用せよ。他山の石で玉を磨けという「詩経」の言葉もそういった意味を持つから。

「下学して上達す」という論語の言葉を、あまり上等でない問題から学んでいくと考えるなら、目に余るような
小人凶族の暴挙も、戦乱期における、ある種の「下学」として、一つの上達の道という風に考えられるのかもしれない。
とはいえそれは決して模範的な見習い対象としてではなく、完全なる反面教師、悪例としての意味である。
戦乱状態の春秋時代に、武術ばかりに頼らない文治を目指した孔子の興した儒教が、漢や江戸といった泰平の時代の
御用学として大いにその真価を発揮した。孔子の著作と言われる「春秋」などを読んでも、戦乱期における人間の
生き様から、孔子もまた生き残りの法則としての道徳と、自滅の法則としての不徳(犯罪)との違いを見定めていた。

110:井上筑後守
09/06/18 22:34:18 0
「徳」とは、分かりやすく言えば「善悪二元論を超えた一元論における善」であるといえる。
「善」という呼び方は、「悪」という闇に対する光としての比較概念でしかなく、真に悪を打ち滅ぼして
善こそを打ち立てようとする人間は、もはや善を善と呼んではならず、徳とのみ呼ばなければならない。

特に状態程度を指定しない、単なる善であれば「徳」、悪を懲らし善を勧む積極的な善であれば「道徳」、
悪を断ち尽くし善のみを修める、消極的ではあるものの完全に純粋なる善であれば「聖徳」などと呼ぶことが勧められる。

儒家でも道家でもよく使われていて、仏教でも釈迦が「大徳婆伽婆」などと称されたりもする(「教行信証」など)。
東洋の聖賢が当たり前のように使いこなしているにも関わらず、その本意がなかなか読み取りにくい「徳」という
言葉の意味を(辞書で引いても数多くの意味が載っている)、善悪でいえば善であり、しかももはや悪との傍観的な
比較すら捨て去っている、実践突入型の正善であると捉えたなら、場合分けによらず何時如何なる状況によっても
通用する普遍的な教学を、東洋の先人たちが積み重ねてきたことに気付くことだろう。

111:井上筑後守
09/06/18 22:54:00 0
「己れを罪し躬を責むること無かる可からず。
然れども亦た当に長く留めて心胸に在りて悔と為すべからず」
(同文庫「近思録」五・二三より)

常に自省の念を持ち続けることが肝要であるけれども、
いつまでもクヨクヨして心疾と化すような偏屈も禁物である。

適度な運動は身体の壮健を促進するよい負荷となるけれども、過剰な運動は却って故障を招く原因となる、その
内心版とでも言うべき格言で、適度な自省が人格の向上を促す一方で、過度な自省は自虐と化してしまうという中正論。
国家神道で大日本帝国を称した明治以降戦前までの日本人が、自省を欠いた極端な自尊に走った一方で、
敗戦後は一気に、微塵の自尊心もない自虐一辺倒と化してしまった。どちらも中正を欠いた極端志向でしかなく、
「今が自虐的だから今度は戦前の自尊主義に戻れ」ってのもおかしな話で、自省と自尊の釣り合いを十分に取れていた
明治以前にまで戻ることが一番望ましい。自尊の躁、自虐の鬱、適度な自省が双極性障害を全面的に解消さす。

(根拠のない)自尊をアングロサクソン、(根拠のありすぎる)自虐をゲルマンに役割分担させきっている
白系アーリア人の慢性精神異常も、過不足のない自省によってこそ治療される。ニュートンとゲーテ両者への処方箋だ。

112:井上筑後守
09/06/18 23:22:26 0
「欲する所は必ずしも沈溺せず。只だ向かう所あるは便ち是れ欲なり」
(同文庫「近思録」五・二四より)

欲望も適度であれば溺れ去ることもないんだが、
我を忘れてしまってまでの好き好みは問題である。

金も物も、ある程度有為な文化文明に興じる人間である以上、捨て切れはしないんだが、
「物流のためにある」という金の本質的意義や、「人間自身の豊かさのためにある」という物の本質的意義を
覚悟した上で金や物に接するのと、そうでないのとでは非常な落差を生ずる。人間の命を直接左右する食や、
さらにその食以上に人間の積極的な生存を司る善良さ、善悪二元論を乗り越えた所にある善良さとしての徳を
「金や物よりも本質的に貴いものである」とわきまえられることで、人間はどこまでも限り無く厳密に生の楽しみを謳歌する。

実際の社会において金を司る商民、物を司る工民、食を司る農民、徳を司る士人を、優先する順番に配した「士農工商」。
徳や食の本質的意義が著しく軽視される近現代においても、結局は徳や食が生産するものを、物や金が消費することで
人類はこれまでにも生き延びられてきている。物や金が徳や食を食わせてるのではなく、徳や食が物や金を食わせてやってる。

四民平等でもはや存在しないものとすらされてしまっている、工民や商民の上に立つ、永劫普遍の優位者たる
士人や農民としての自認者が未だにどこかに実在してくださっていることで、初めてまだ地球人類は生き延びられている。
徳や食があるだけでも人間は生きられるが、物や金があるだけでは人間は生きられない。一ヶ月もしない内に全員餓死する。
とわの昔、宇宙開闢から現代に至り、しかも未来永劫に至るまで、真の支配者が交替することなどは決してないのだ。

113:考える名無しさん
09/06/19 01:22:32 0
このスレは原典に自説(注釈)を書き込むスレですか?

114:考える名無しさん
09/06/19 09:13:26 0
くせになる文章だのう。

115:井上筑後守
09/06/20 20:53:55 0
「舜の四凶を誅するが如き、怒り四凶に在り、舜何ぞ与らん。
蓋し是の人怒る可きの事あるに因りて之を怒る。聖人の心本と怒りなし。
譬えば明鏡の如し。好き物来る時は便ち是の悪しきを見る。鏡何ぞ嘗て好悪あらん」
(同文庫「近思録」五・二七より)

古の賢王舜が、四凶を誅罰する時に怒ったとて、確かに相手どもに紛れもない罪があったのであって、
そのように実在する罪悪に応じて聖人は怒りもするし、同じく実在する盛徳に応じて機嫌良くなりもする。
少しだって聖人の側に私心があってそうなるのではなく、あたかも鏡に諸物が映り込むようにそうなる。

怒りこれ即ち悪の根源として、完全に断ち切ることこそが「聖」であると仏教などでは考えられる。
私娼をアガメムノンに掠め取られて、怒って戦線を離脱したアキレスの「イリアス」中の振る舞いなどからも、
私情にかられて怒り狂うのは愚かしいことだと分かるのだけども、憎悪などによって外物に囚われる煩悩を
社会人までが完全解脱するわけにも行かず、結局はアキレスの如き愚行に走って、不誠実故の戦局の悪化にも加担する。

そのどちらでもなく。煩悩の赴くままに怒り狂うでも、煩悩も怒りも捨て去るのでもなく、煩悩だけを捨てて
公務のための怒りだけを残す。事実として罪悪が極重である現実社会に、渦中の世俗者として対応する上で、
怒り狂って罪人どもと同じ穴の狢と化すことを避け、かといって何もかもを許し尽くす白痴となることもない、
情勢の大局を見計らって、それでもいけないものに対してこそ怒り、自己を律する上での「主流の感情の流れ」を
その怒りに沿わせていくようにする。公的な喜怒哀楽が主流となることにより、私的な喜怒哀楽が自然と
すぼまる一方で、一般人から敬遠されてしまいかねないような、超俗の聖人然とした無感情となることも避ける。

一般人と同等かそれ以上に感情的であって、しかもその感情が公共性にも沿っているという、正義の味方の基本要件。
泣いたり笑ったりもあった上で、しかも善いってのが、他者の信奉心をくすぐる義人の有り様となる。

116:井上筑後守
09/06/20 21:05:17 0
>>113
特にそうと決めてはいないけども、ただ私見だけを適当に
述べるよりは、原典を参照しながらのほうが高級感も漂う。

東洋教学は、典拠もはっきりしないようなそぞろごとの多弁は
言行不一致を招く忌まれるべき行為とされる。勉強は推奨されるし、
物書きもちゃんと典拠に沿ったものであれば容認される。

宋代以降の中国や日本に、目立った儒家教学の発展がほとんど
ないのも、原典にしっかりと倣っていた証拠でこそあるのであって、
批判どころか評価の理由にすらなるもの。先人に無駄な楯突きを
することなく堅実な勉学に励んで、大変よくできましたといったもん。

もちろんこれは、丸々そのままの体得こそが最高であるという程にも
完璧である学問を勉強する場合の話。精神病患者の思いつきみたいな
劣等な学問を丸写しで勉強したところで、そのまま病気が移るだけだ。
健康で優良な人間を育てるための学問をしっかり学ぶ。それが一番だ。

117:井上筑後守
09/06/20 21:32:44 0
「聖人は己れの感を責むるや多きに処り、人の応を責むるや少なきに処る」
(同文庫「近思録」五・二九)

聖人はできる限り人から多くのことを学び取ろうとするが、
他者を相手にした自論の展開はなるべく控えめにしておく。

典拠も示さないような適当な暴論の羅列こそは、聖人の控えるべき最たるものといえる。
とにかく自分の意見で、相手を征服して支配下におきたいという僭越さこそは小人の所有物で、
聖人はむしろ誰しもの意見を取り入れつつ、また誰しもにとって納得のいくような最小公倍数的意見、
もしくは最大公約数的意見の精練に励む。総論も各論もまとまった完成品となす職人精神。

そのような、誰しものためになる意見を精製し、所有した人間は、誰しものためであるが故に
自分自身の利益も疎かにしない一方で、同時に誰しもの利益にもなる公共性の体現者となる。
これが、儒家で言う所の「聖人」。仏教だと衆生の救済は大乗でしか約束されていないので、少し事情が異なる。
大乗に限れば仏教も同じく、自利と利他との両立を修行によって体得する。儒家こそは、自他の利益を
2500年以上の昔から育み続けてきた張本人であって、大乗仏教も歴史的にはこれに後続しているもの。
中国は儒家が国学だったし、日本もインドより中国のほうが近くにある関係で、潜在的に
仏教よりも儒家を身近なものと考える風潮があって、小乗より後輩である大乗仏教が、儒家や神道を
より近親の教学とする中国人や日本人にとっては受け入れやすかった。今でも特にその部分に
変更の必要性は見受けられない。小乗仏教も今まで通り東南アジアあたりで頑張っててもらえれば。

118:井上筑後守
09/06/20 22:03:18 0
「思叔僕夫を詬詈す。尹川曰く、何ぞ心を動かし性を忍びざると。思叔慙謝す」
(同文庫「近思録」五・三一)

思叔が怒って僕夫を罵倒した時に、尹川は「なぜ心を奮い立たせて
耐え忍ばないのか」と注意した。それを聞いて思叔は反省したという。

怒りを堪えることが、乱心を鎮めるどころか、さらに奮い立たせることでこそ嗜まれるという逆説。
これも「主流の感情の流れ」が、世間一般への普遍的な識見に基づいていて、私情に基づいて怒ってしまった
場合などに、主流の側の感情を奮い立たせることで、私情の怒りを萎縮させようとする場合にこそ有意であること。

人間が公私の分別を十分にわきまえて、その分別を積極的に活用しようとする時、
そうでない場合と比べて真逆の選択肢すら提示されることがよくある。怒りを静めるために却って心を
奮い立たせたりする。だから、公私をわきまえた大人と、小人の言動がことごとく噛み合わなくなったりもする。

大まかな概観を汲み取って、それに沿わんとする大人と、概観も汲み取れず好き勝手やろうとする小人と。
分別が向こう側まで貫通しているか、それとも止まり穴にとどまっているかで、致命的に言行が逆転する。
言行が向こう側の道理に通じている大人、止まり穴で跳ね返って全部自業自得と化してしまっている小人。
本当に大まかな概観を完全に把握してしまう思い切りのよさが大人にはあり、小人にはない。
後一歩という所でいつも小人は寸止めに終り、煩悩界への退却に甘んじざるを得ない。
そのさらに向こう側、警察署の入り口をくぐった向こう側にある、道理に通じた大人の領域、
やることなすこと大体は的中するめでたい領域に、勇気を持って突き抜けていくがいい。

119:井上筑後守
09/06/20 22:54:36 0
「不仁を悪めば、是れ不善未だ嘗て知らずんばあらず。徒だ仁を好むのみにて不仁を悪まざれば、
則ち習いて察らかならず、行いて著らかならざらん。是の故に徒善は未だ必ずしも義を尽くさず、
徒是は未だ必ずしも仁を尽くさず。仁を好みて不仁を悪み、然して後仁義の道を尽くさん」
(同文庫「近思録」五・三五)

善を好むだけではなく、悪を憎まなければ道理の十分な把握は覚束ない。
善たる仁と悪たる不仁への適切な好悪の配分により、仁義の道も尽くされることとなる。

やはり儒家は、仏教などと比べて感情的な面が多く見受けられる。空海の十住心論でいえば
愚童持斎心、十段階中の二段階目にしかならない、感情の横溢が少しとして戒められていない領域。
ただ、感情がうまく使いこなされる。善を愛し悪を憎む、善悪好悪の順不同な連動が極めつけられることにより、
感情の横溢が悪を懲らし善を勧む、どこまでも限りなく厳密に後味の悪さを残さない爽快さだけで埋め尽くされる。

善を嫌い悪を好んだ状態で、感情をどこまでも放蕩させた結果、人間は精神病にもなる。
もちろんそこまで転倒しきった価値観の堅持も容易ではなく、ゆだや人ぐらいしかそこまでキメちゃいない。
大体は、善悪好悪の順不同な連動が不全状態と化してしまうことにより、善悪みそくそとなって、
善を嫌い悪を好んだという確固たる自覚もないままに徐々に精神を蝕まれ、死よりも苦しい悪の人生に赴く。
仏教はそれを感情の捨離によって解消しようと目論むが、儒家は感情の破棄ではなく、
善悪好悪の順不同の徹底の下での、主流の感情のさらなる横溢によってこそ解消しようとする。
仏教の解消手段が理念的なら、儒家の解消手段は実践的、前者が理論的で後者が技巧的とも言える。

儒家と仏教の両立を、十七条憲法下で図ってきた日本人としての立場からすれば、
誰しもに絶対にどちらかだけを選取しろなどと強要する必要もないように思う。
儒家に付こうが、仏教に付こうが、両者の二股だろうが極端な問題は生じない。
悪より善を優先するという面においては、両教学は確かに共通しているものだから。

120:井上筑後守
09/06/21 21:09:33 0
「病みて牀に臥し、之を庸医に委ぬるは、之を不慈不孝に比す。
親に事うつもの亦た医を知らざる可からず」
(同文庫「近思録」六・一四)

親が病に臥しているのを医者に任せっきりにしたりするのは不孝になる。
介護すらできるだけ自分でやれという慈しみに溢れた格言。

六・一六では「乳母を雇うこともなるべく避けて、どうしても必要になるのなら
二人以上を雇って、乳母自身の子供を蔑ろにさせないよう便宜を図れ」という話も載せられている。

第六章の「斉家之道(家道)篇」は、全面的に繊細な家内事が提示され、中国人の孝行主義の磐石さが垣間見られる。
これが日本だと少し変わって、親孝行はもちろん重視されるが、家事は女が主導権を握る所が少し中国とは違う。
「男子厨房に入らず(荘子)」ともある通り、中国でも些細な家事は女の仕事という考え方があるが、
日本では家計も妻がやりくりしたりして、「女即ち家」という程にも、主婦と家との同一化が進んでいる。
亭主はやっぱり夫であるにしろ、妻は主であることを主張するまでもなく家の一部である、家の中枢、家の神さんであるという、
母体と家財とを分け隔てなく捉える主婦信仰が息づいている。だから日本人としてみれば、男として家内の問題に
口出しし過ぎる中国人の姿勢は少し違和感があるんだが、それにしたって言ってることは確かに正しい。
ルソーの「エミール」みたいに、粘土をこねて人型でも作るかのような傍観的子育てを提示するでもなく、
一家全体の体裁を踏まえた上での育児こそが表される。そのほうが子供にとっても負担が少なくて済むもの。
家全体の体裁に基づいて厳しい教育を受けるのならば、「あなたにだけは成功してもらいたいの」みたいな、
全ての重荷を押し付けられて勉強をさせられる場合よりも厳しくたって構わないぐらい。そのせいで厳しいのならば、
子供だってそうそうにはグレるわけにもいかなくなる。自分一人のためだけの勉強ではないとわきまえるから。

121:井上筑後守
09/06/21 21:10:18 0
夫や妻や子供や祖父母らがまとまって家族となり、近所付き合いや村よりも小規模かつ磐石な人間関係が整えられる。
さらにそこから村や町や市や国や地球へと関係を広げていく。取っ掛かりとしての人間関係が、磐石な家族であるか否かが、
それ以上に大規模な人間関係に進んでいく場合にも、磐石たることの材料となる。本物の家族からこそ始まる社会。
天下の本は国であり、国の本は家であり、家の本が人である(孟子)。どれ一つとして抜かすことはできない段階性といえる。

122:井上筑後守
09/06/21 22:07:07 0
「伊川先生曰く、賢者下に在り、豈に自ら進んで以て君に求む可けんや。苟し自ら之を求むれば、
必ず能く信用せらるるの理なし。古人の必ず人君敬を致し礼を尽くすを待ちて後に往く所以は、
自ら尊大為らんと欲するに非ず。蓋し其の徳を尊び道を楽しむの心是くの如くならざれば、
与に為す有るに足らざればなり」
(同文庫「近思録」七・一)
「君子の時を需つや、安静にして自ら守る。志に須つ有りと雖も、恬然として将に身を終えんと
するが若し。乃ち能く常を用うるなり。進まずと雖も志に動くものは、其の常に安んずる能わず」
(同文庫「近思録」七・二)

賢者は自ら君主に仕えたいなどと乞い求めるべきでなく、君主の側からの敬意や礼節を尽くした
招き入れがあって初めて仕官に応じるべきである。もちろんそれは決して自分が尊大でありたいからではなく、
そうでない限りは信用の伴った充実した仕事ができないからだ。
敬意と礼節の伴った、相応な招き入れがあった場合こそが君子にとっての「時」でもあり、
それまでは、賢者たる君子は息を殺しての平穏無事を保つ。例えその時が来なかろうとも、
そのまま平気で人生を終えんかの如く。これもまた平常心を保つための正しい心がけである。
仕官ができないから辛い辛いと憂えたり、逆に仕官が決まったからといって有頂天になって浮かれたりでは、
碌な仕事もできないのが目に見えているから、雇われる雇われないの左右に関わらず、毅然としていることが最善である。

123:井上筑後守
09/06/21 22:07:51 0
「六韜」の仮託対象でもある名軍師太公望を雇い入れる時、文王は太公望がやっている釣りが終わるのを
じっと待ち続けていたという伝説もある。しかも太公望は、曲がっていない真っ直ぐな釣り針を、水中に投入することもなく
水面上にぶら下げっぱなしだったともいう。それでいて太公望は、文王の子である武王を補佐するなどして、
暴君紂王の支配する殷帝国の放伐に貢献したという。雇い主と雇われる師との間に、仕事をうまくいかせる意気投合が
必要となり、そのための取っ掛かりとして、雇う瞬間の敬意や礼節が重んじられる。取っ掛かりもうまくいかなかったような
雇用関係が、少しだって途中からうまくいきだすような保証はなく、始めから意気投合していた場合ほどの成功は見込めない。

当たり前のように今の世の中の雇用人事は、判子を捺して採用みたいな「契約」が常套手段とされている。
面接だなんだで適合性を査定した所で、結局最後は契約するか否かが問題とされるのだし、動物か物品のオークションみたいな
試験だ面接だで人事をまかなうのは、雇う側と雇われる側、どちらもが誠意を欠いた機械的事務関係だけでの満足にとどまる。
そのような人事だけでほとんどの仕事が済まされるサラリーマン社会は、それによって成し遂げられることもまた限られている。
金融や物品の運用規模を膨れ上げさせることはできたって、道徳を嗜むことはもちろん、飢餓人口を減らすことだってできない。
劣悪でない善良な人間性(徳性)を磨き上げることにより、概ね何もかもが平穏無事に繁栄するめでたい世の中は、
事務処理でしかないような雇用関係で達成できるようなものでは決してなく、敬意や礼節の十二分に伴った雇用関係、
契約よりも誓約を、寓意よりも誠意を優先した関係性の下での仕事によってこそ叶えられる。ちょうど太公望と文王の関係のような。

124:考える名無しさん
09/06/24 18:11:00 O
「万物一体の仁」についての見解をお聞かせください。

125:井上筑後守
09/06/25 21:16:37 0
>>124
万物斉同は中国思想宗教の基底理念だ。何もかもが結局は一つの法則にまとまるとする
陰陽五行は、それだけでも陰陽家という形で独立的な潮流を生み出してはいるものの、
儒家や道家にも易を通じて連綿と受け継がれて行き、それぞれの潮流ならではの実践を伴う。
道家はよく言われる「無為自然」の境地への帰趨。道を人工ではなく自然の中に求める。
儒家はその逆の「有為人工」への挑戦。世俗社会に突入して行って、正義を貫く壮健さに長けている。
法務や戦闘などの一定事物の研究に徹している、法家や兵家だと表向きの陰陽からの影響は薄まるが、
法家を重んじた始皇帝も焚書坑儒の際、易経だけは焚書の対象としなかったなど、
どうしても捨てきることの出来ない現実の道理法則として一目を置いていた所はやはりある。

>>95の近思録からの引用でも分かる通り、人間はある程度仁義を尽くせば何事に対しても
大まかを把捉してしまえるだけの才能を備えている。物の道理を十中八九見通した大人の知見を
初めて文書化したのが易であり、その記述内容に沿うならば、百発百中とまではいかなくとも、
大間違いの重犯罪にはならない程度の庸徳を嗜むことができるようになる。人間が思索を凝らす場合の
セットがある程度揃っているという点では中国思想とギリシャ思想も近似するが、現実世界の基本法則たる
陰陽五行への把捉が備わっていたか否かが両者では大きく異なり、それにより正義や道徳を基底的に
具えられたか、犯罪へと走ってしまったかにも大きく分かれた。万物の大まかな概観を把捉することにより、
自分自身までもがその内側においていかに振る舞うべきであるかを恒常的に納得し続ける大人しさ。
縄文土器から文明を始めているか、ピラミッドからしか始められなかったかの違いと同じで、
実相への忠実さにおいて持つものと持たざるものとの間の決定的な落差を生み出し続けて来ている。

126:井上筑後守
09/06/25 22:24:36 0
「大人は否の時に於いて、其の正節を守りて、小人の群類に雑乱せられず。身は否と雖も道の亨るなり」
(同文庫「近思録」七・五)

活躍する機会がないからって、士人大夫が小人の仲間入りをすることなどは決してなく、
道を守り通すことで、万物を大まかに把捉し、其の内側での自らの適切な振る舞い方をも養っておく。

純粋な陰陽家であれば、天地万物の道理の捉え方はもっぱら易占に限るんだが、儒家であれば易経以外の四書四経等、
現実の事例に対する施し方を具体的に示した多くの参考書に頼ることができるし、道家にも色々な専門学がある。
易占の際、50本の筮竹の内、1本だけを取り出して使わずにおく、この一本の太極が陰陽五行思想であるとするなら、
実際に占った際に結果を示してくれる49本の筮竹が儒家や道家などの諸子百家であると考えてもらえればいい。

陰陽五行は、現実の問題に対する直接的な帰納対象としては抽象的還元的に過ぎる所があり、世の中全体を動かすような
非常に大きな問題に当てはめる場合に、多少有効になったりする程度。ただ、直接的に陰陽五行を用いずとも、陰陽五行を
基底理念とした思考というのが多くの場面において有効となり、世俗の徳治なら儒家、軍事なら兵家、法務なら法家、
超俗なら道家といった風に、場面場面における、天地万物の大まかを把捉した思想哲学宗教が中国において派生してきた。

儒家や兵家だと徳川家康とか武田信玄とかいった風に、それらを実践した伝説的かつ現実的な大人物がいるのに対し、
陰陽家となると役行者とか安倍晴明とか、急に呪術的でいかがわしい人間ばかりが名を残しているようにも思える。
儒家も兵家も含めて、中国思想で陰陽五行に影響を受けていないものなんて一つもないんだけども、旧態依然の陰陽だけに
止まる場合と、より実践的な儒家や兵家に進んだ場合とで、相当な温度差が生まれてきているのも確かなことだ。

呪術や迷信をあまり好まない自分みたいな人間であれば、むしろ儒家のような世俗道徳の実践者のほうにこそ
陰陽五行の実践者としても、より正統性を見出したりもする。占いではなく基底理念として陰陽五行を用いる人々のほうに。
基底理念としての万物斉同、陰陽五行の実践に対するもっと積極的な研究や評価がなされてもいい頃かと思われる。

127:井上筑後守
09/06/25 22:54:13 0
「その力に資りてその有を利とせざれば、則ち能く人の勢を忘る」
(同文庫「近思録」七・三七)

相手の権力や利得におもねっているようでは、
その勢いばかりに囚われて、本当に親しく交わることなどできない。

世俗道徳の実践者である以上、儒家が金や力を完全否定することはない。ただ劣後する。
適量を超えた金や力は、それらを手に入れるために蓄積した罪悪が祟って自滅をも引き起こしてしまう。
だからどちらかといえば疎かにしがちな徳や食を優先して、貪りに陥ってしまいがちな金や(力の拠り所となる)物を劣後する。
それを前提として人とも付き合う。徳や食を優先し、金や物は否定はしないにしろ劣後する相手同士で付き合う。
それが日本では武家階級となり、「花は桜木、人は武士」とも言われるほどに、人間の鑑として謳われてもいたわけだ。

大小二本の刀を差す点から、武士は軍事偏重者であるかのように勘違いされることも多いようではあるものの、
武家の始まり、源平の時代から日本刀っていうのは戦時の主力兵器ではなく、弓矢や槍や鉄砲で殺し回った後に
最低限の武装として携帯しておくものであったわけ。平時の文治社会においても、「主力兵器」は四書五経のような
権威文書であり、打ち首から斬り捨て御免、自らの不手際による切腹までの、刑罰処理の道具として日本刀も機能した。

そのような文武両道の鑑としての武士の立ち居振る舞いの美しさからも、士農工商が遵守されざるを得なくなった所があり、
金の持ち主である商民や、物的力の創造者たる工民が(その小ざかしさの甚だしさすらをも取り押さえられて)劣後されざるを
得なくなった所以でもある。文武両道の徳治は、いかなる商工の華美よりも上の正しさ真さ楽さ楽しさをもたらすものである。
後代の人々の実践によって上の記述が証明されてもいる。本当に親しく交われる人間関係の重畳さの数多い提示によって。

128:井上筑後守
09/06/25 23:18:36 0
「人多く貧賤に安んずと言う。その実只だ是れ計窮まり力屈し、才短く営画すること
能わざるのみ。若し稍や動かし得ば、恐らく未だ肯て之に安んぜざらん。
須是ず誠に義理の利欲より楽しきを知れば、乃ち能くせん」
(同文庫「近思録」七・三八)

貧乏なほうが幸せだなんてのは、大体がそうでしかいられないが故の負け惜しみでしかなく、
目の前に金が転がってくればあっという間にそっちのほうに転んじまうのが関の山だ。
利欲を貪るよりも、義理人情に厚いことのほうが本当に面白いのだと分かった時に、初めて貧富貴賎などにも動じなくなる。

「武士は食わねど高楊枝」という、やせ我慢の代名詞としてよく用いられる言葉、
武士の正学たる朱子学が実は、ただの貧乏故のやせ我慢などは否認している。そんなものに大した価値はないと。
利得や権力の貪りを超えた所にある、義理人情の楽しさを知覚できた時にこそ、本当に利得や権力に囚われない知見が養われる。
天地万物を大まかに把捉した時、初めて利得や権力よりも、義理や人情のほうが普遍性を具えていることに気付く。
把捉対象が万物に至らない場合も、形而上の夢想によって、万物を大幅に脱線してしまっている場合にもそうだとは分からない。
現実に実在する天地万物の道理に忠実であることにより、義理や人情を利得や権力よりも優先することが、普遍的に
面白いのだと初めて分かる。天地万物ってのは意外と微妙な概念である。概念として捉えるなら微妙で特殊なものではあるものの、
現実の切実な事物として捉えるなら、天地万物こそはどこまでも有機的で滞りがなく朗らかであり、故に楽しく面白く、
天地万物以内や以外であるものは、極端に無機的で滞りばかりで後ろめたく、故に苦しくてつまらない。
ある程度は格物致知や窮理の経験があって初めて分かる、天地万物であるものと、必ずしもそうではないものとの違い。
年食ってるから分かるってわけでもなく、適当な考察の研鑽があって初めて分かる。現実と概念、切実と妄想の真贋。
真贋の鑑定士を目指したわけでもないような人間は、専門家の言う事にでも従っておくのが一番だし、無難だといえる。

129:考える名無しさん
09/06/26 07:32:29 0
やっぱりなあ。本にもそう書いてあったのか。
これが儒教の本質だよね

130:考える名無しさん
09/06/26 08:18:26 0
長文が多いスレッドだよなあ

131:考える名無しさん
09/06/29 01:36:26 P
長文は読んでない。

132:考える名無しさん
09/06/29 09:46:41 0
それだけ差が開いていく。

133:考える名無しさん
09/06/30 00:15:36 O
真剣に書いているのがわかるしオレは読んでいるよ。

134:考える名無しさん
09/07/01 17:08:29 0
井上さんは旅行にでも行ってるの?

135:井上筑後守
09/07/01 18:07:52 0
今な、ちょっと別の作業をしていて、文筆までなかなか手が回らないんだ。

もちろん金になることじゃなく、ここで書いていることにも関係のあること。
金融物質主義者に適当な慎罰を与える作業。そのうちここでも発表する。
もちろん手があいたら今までどおり書いていく。近思録もまだ半分を過ぎた所。
熱心であることと気長であることの両立が、大人の本分の一つでもあるから。

136:井上筑後守
09/07/02 22:42:38 0
「天理の正を得て、人倫の至を極むるは、堯舜の道なり。その私心を用い、仁義の偏に依るは、霸者の事なり。
王道は砥の如し、人情に本づき、礼儀に出づ。大路を履んで行くが若く、復た囘曲するなし。霸者は曲径の中に
崎嶇反則して、卒に与て堯舜の道に入る可からず。故に誠心にして王たらば、則ち王たり。之を仮りて霸たらば、
則ち霸たり。二者その路同じからず。その初めを審にするに在るのみ」(同文庫「近思録」八・二より)

天下の道理に素直に即す正しさを持ち、人倫の極みたらんとすることが古の聖王の道、王道であり、
私心に囚われて偽者の仁義を標榜するヤクザは覇道にあたる。王者は砥石のごとく平坦であり、人情や礼儀を重んじ、
必要もなく裏道回りなどをしない堂々たるあり方に徹する。覇者はその逆で、複雑怪奇に入り組んだ迷路へと入り込み、
安んじようのない多動性障害と化して、王道に決して達することができない。至心に王者たろうとするものこそは
王者となり、王者のフリした姑息者はどこまでも覇者に止まる。両者は全く別物であり、首尾一貫して別路を辿る。

王者と覇者とが別物だっていうことが今の世の中ではほとんど認知されていないし、認知された所で「多少違う程度」に
思われている場合が多い。しかし、両者はただ別物なだけでなく、互いに相反するものですらある。正当で誠意的で道徳的な
あり方を堅持したままに、王者たらんとするものが王者となるのに対し、不当で寓意的で犯罪的なあり方にまでも手を
付けつつ王者たらんとするものは、真の王者になれることはなく、どこまでいっても偽者の王者、覇者に止まる。
覇者であるからには天下の泰平を維持することもできず、下民を虐げつつの遊蕩などにも耽って自滅を招く。
突発的な暴力の備蓄度では王者を上回ることすらあろうとも、社会統治を蔑ろにしてまで自分勝手に走るあり方が、
どうしたって支配者としての程度の低さの原因となる。

137:井上筑後守
09/07/02 22:43:42 0
覇者として天下統一を為した後で、王者へと移行することもできないのかと考えたくもなるが、どうも無理なよう。
覇道の限りを尽くした始皇帝や信長や秀吉が一代限りの隆盛で衰亡し、武力を抑えつつ王道に徹した劉邦や家康が
長期政権の樹立を成功させた。ああだこうだと理論で説明する以前に、歴史が王道と覇道の個別性を物語っている。

王道の堅持と覇道の拡大とでは、全く別個の素養が必要となり、少しも両方の素養に互換性がない。覇道を拡大させる
能力が王道の堅持にも用いられることは不可能だし、その逆もまた然り。強いて言えば、王者のほうは堕落することで
覇者としてもある程度成功できる余地があるが、覇者としてよりも王者としてのほうが自分の能力を最大限に発揮できる上、
事後の展開も有利に働くんだから、王者の素養の持ち主でいて、わざわざ覇者になりたいだなんて思うことはない。
逆に覇者はなりたくても王者にはなれない。そこが覇者よりも王者が優位である所以と言え、孟子が王道を覇道の
上に置いたのも、その辺りの優劣に基づく。荀子や韓非子のような反対者もある一方で、やはり孟子のほうが一段上にいて、
孔子に準ずる亜聖として扱われる。優劣という点でどこまでも順列は順当であり続ける。論及対象であれ論者自身であれ。

138:考える名無しさん
09/07/05 06:14:26 0
金融関係の人はw 
インテリヤクザとか警察とつながってるからあんま深入りしない方良いよ?
そんなんに関わってる時点でこの人も危ないのかと思う。
スレは面白いけどね

139:井上筑後守
09/07/05 08:41:55 0
関わってるんじゃなくて、徹底的な無関係を決め込んでいる。
そんなものなんぞなくても人間は生きていける、
むしろそのほうが有益にすら生きていけることの実践的実証。

鬼平ですら投機で予算を増やしたというから、
全く関わらないってのも潔癖に過ぎる生き方だとも思う。
ただ、今の金融物質主義があまりにも悪質に過ぎるから、
それに応じて一時的に完全なる無視を決め込む。
士農工商の序列が徹底されるまでの便宜措置である。

140:井上筑後守
09/07/05 11:06:54 O
今の警察でも、上司から部下への訓示として漢文が用いられたりするという。
それでいて権力犯罪者を黙認していたりもする、それもある意味予想の範囲内のことだ。

別に江戸時代にも、火盗改含む警察組織が最高機関だったわけじゃない。
その上に多くの目附役がいて、さらにその上に松平定信公のような名君がいたわけだ。

あまりにも潔癖すぎて、方々から辟易の声が上がった程の賢君が。
その部分が今は定信公ではなく田沼と化していて、
士農工商の箍が外れてしまっているぶん、昔よりもひどい。

支配階級であるものの腐敗の是正は、本質的には如来のような絶対者が司り、
実質的な刑事のみを鬼平のような警察身分が担当する。

中間管理職に徹することで、警察教学としての儒家も本領を発揮するものだから、
政変への直接的な関与などは考えなくていい。逮捕できる時に逮捕すれば、それで。

141:考える名無しさん
09/07/05 19:51:30 O
一即多、多即一ということを言葉の上ではなく、実践の上で体得しなければ、
自分自身のために生きることも、全体のためにも生きることも難しいだろう。

142:井上筑後守
09/07/05 23:09:08 0
うまくいく時だけ取って付けたようにうまくいき、うまくいかない時はてこでもうまくいかないような、
そんな作為の塊のような人生を送らされ続けている近現代の大部分の一般人に
天地自然の道理を捉え、我が物とするかのような生き様は、遥か彼方の御伽噺にも等しい。

人間の恣意によって司られている事物が、ありのままの自然よりも普遍的であるなんてことが
あるはずがなく、例え幾何学的に普遍的だとかいった所で、風化や劣化の存在する現実の世界で
最後には崩れ落ちて跡形もなくなる運命にある。ただ自然に則して最善を尽くすことのみが
普遍的であり、有為であれ無為であれ、人間の文化文明の普遍性もそこにこそ極まる。

いい加減自然に逆らったり、自然を無視したりすることをやめて、自然に則して
文化文明を発展させていく方向性への修正が必要な時期となっている。
別に原始時代に還ったりするのではなく、自然に則す範囲で高度な文化文明も形作っていく。
そのためにはまず天地自然の道理を素直に受け入れて、無理のない生き方を覚える必要がある。

何もかもをするのも、全く何もしないのも、どちらも人間としての自然な生き方に沿っておらず、
適度な活動によって無理を最小限に抑える、素直な生き方の取戻しが誰しもに付与されてみよ。
恣意の独り歩きを抑え、悪すぎたり善すぎたりすることのない汎用的な生き方を取り戻してみろ。

143:考える名無しさん
09/07/05 23:12:29 O
万物一体の仁、帰太虚、事事むげ、重々無尽、即身成仏、みんなドラッグで体験できますよね

144:井上筑後守
09/07/05 23:18:41 0
しらふで体得できればそれに越したことはなかろう。
副作用で自殺級の苦痛を味わわされるようなこともないんだから。

145:考える名無しさん
09/07/05 23:33:48 O
薬を買うための代金を強奪したりする必要もない。

コストパフォーマンスが段違いなのが、正統教学と、薬やカルトとの最もな差異だ。
地球上の資源を八割以上独占したって、やっぱりカルトはどこか辛いんだ。
あたかも海水で喉を潤そうとするかのような徒労、
根幹中の根幹の言動規範であるカルト教義の適切な廃棄によってのみ払拭される。
人類社会の表舞台から当分の間は去る覚悟とも共に。

146:考える名無しさん
09/07/06 00:02:05 O
うーん
大麻より肉食の方がカルトだとおもうんだけどね~

147:考える名無しさん
09/07/06 00:05:13 O
デモクラシーもカルトだよ

148:考える名無しさん
09/07/06 00:14:37 O
易やコトダマやシンクロニシティや宇宙人やサイ科学などを安易にカルトだと決めつけるのは
やはり 体験 したことがないんだと思うよ~
そういう偏見を育てた教育自体が カルトだよ~
容易に情報は漏れないけど各国政府や軍も血眼になって研究してるよ~
東洋教学は古神道や密教や易や気功やチベット医学などもあるんだよ~

149:井上筑後守
09/07/06 00:40:21 0
何をもってカルトとし、何をもって正統とするかという点には、
個々人で多くの見解の別れがあるかと思われる。
創価とかオウムとか、カルトであることが確定している部類に関しては意見が一致しようとも、
中には曖昧な段階のものも多いし、カルトなのに一般には正統扱いされているものもある。

ただ、ここで自分が「カルトである」と定義しているのは、「犯罪を正当化する宗教や学術」
のことで、逆に「正統である」と定義しているのは、「道徳を堅持する宗教や学術」のことだ。
さらに犯罪とは、単なる実定法違反に止まらず、他者の利権を収奪して自分が生き延びるという、
犯罪の本質である共食いの要件を少なからず満たしている事物のことであり、逆に道徳とは、
そのような犯罪をなさずさせず、なされたものには適切な慎罰を与える一概な善良さのことであり、
この定義だけに依るならば、犯罪でないものが道徳であり、道徳に反するものが犯罪であるという
相反定理が成り立つ。故に犯罪を正当化する宗教や学術はカルトであって正統ではなく、
道徳を堅持する宗教や学問はカルトでなく正統であるという相反定理もまた連動して成り立つ。

これはあくまで、自分自身の個人的な言葉の定義。正統とかカルトとか道徳とか犯罪とかいった
言葉を別のニュアンスで用いることは方々で見受けられる。別に一つの言葉に一つの意味のみが
備わっているとは限らなく、定義を狭めて論議をなすことは、ただ語意の錯綜による誤解を防ぐ
ことを目的とするから。定義の曖昧な言葉での散漫な論議をできる限り排さんがためのもの。

150:井上筑後守
09/07/06 01:17:15 O
オウムが日本人の脳裏に深く焼き付けたな、
「犯罪を正当化するのがカルト」だと、一連の反社会行動によって。

外国での扱いはともかく、日本でなら「カルト」は
犯罪を正当化する宗教や学術を指す言葉として、概ね通用する。
例え和製外国語としてだろうとも。

古めかしい「邪教」なんて言葉よりも、今はこのほうが分かりやすいだろ。
「元来日本にはなかったもの」という意味も込めて、
外国語をそのままあてがっといたほうが適当なところだ。

カルト集団が根絶されれば、「カルト」という言葉ごと
この日本から消え去ればいいわけだから。

151:考える名無しさん
09/07/06 01:44:44 O
三島由紀夫事件や空海が帰国早めたのや大塩平八郎の乱や中江藤樹の脱藩なども犯罪だけどね~

152:井上筑後守
09/07/06 02:30:13 O
犯罪の本質が共食いであるのは、共食いこそは種族としての
人類の破滅に直結する、想定し得る限りで最低最悪の事態だからだ。

法律を守ることが道徳で、破ることが犯罪だという考えは、
どちらかといえば犯罪の側にとって有利であり、道徳の側にとって不利に働くもの。
「強盗殺人をしなければ罰する」という悪法ですら、一応は想定し得る。
道徳違反である共食いや、それに準ずる行為が犯罪であるという完全な定義からすれば、
法律を守るか破るかという基準はワンクッションもツークッションも置いていて、
上記のような誤った作為すら介在してしまいかねない。

人間は最善を尽くせば必ず道徳を守るし、最悪を尽くせば犯罪に走る。
法律を守るか否かという作為的な基準よりも、そのほうが人間の本性に即しているから。
一概に善であるものは徳となり、一概に悪であるものは罪となり、
単なる日和見が法律となる。罪を犯させて罰を科すマッチポンプにすらなってしまう、
犯罪律の部分集合としての実定法律。2500年前に儒家などはそれを卒業していた
というのに、いつの時代も相変わらず衆生は同じ過ちを繰り返す。
子産が仕方なく犯した過ちを、何べんも。

153:考える名無しさん
09/07/06 04:50:16 0
カルトを根絶やしにする事は出来ないんだから、
時間をかけて感化させてしまえばいいんだよ。
それに、宗教法人にも税金をかけて、管理下に置けば良い。

154:井上筑後守
09/07/06 09:41:30 0
感化するためには、いつまでも隠蔽したままにしておくわけにもいくまい。
人類史上未曾有の奇禍である、最低最悪かつ最大級のカルトが、
未だに正統な宗教の一つ扱いされて野放しになっている事態を、そのままにしてはおけない。

ユダヤやプロテスタントの一部がカルトであることは今さら指摘するまでもないが、
教義の内実を東洋教学などと比較しつつ厳密に鑑みる限り、本義からしてカルトである
聖書教が全体的に犯罪の正当化を内在していることがどうしても否めず、伝統宗教として
それなりの体裁を保っているカトリックや正教にまで、>>149の定義に基づいたカルトの烙印は
及ぶこととなる。あくまで「主張」ではなく「事実」として、犯罪の正当化を完全に根絶している
四書五経や仏典などと比べれば、聖書の内容が犯罪を正当化する寓意に満ち溢れている
ことを断定せざるを得ない、残念ながらそうせざるを得ないことを消極的にでも明示する。

155:井上筑後守
09/07/06 09:42:18 0
デシメーション(計画的自殺)などのかつての悪習を見る限り、聖書教が単独で
健全な社会を育むことが不可能であるのは、旧来からの普遍的な事実であり、
仏教やゾロアスター教と聖書教の混交宗教であるマニ教教徒だったアウグスチヌスらによって
自殺が禁止されたりすることで、初めて今までも社会的宗教としての体裁を保ててきた。

それでもやっぱり聖書圏という文化圏総力を挙げての、外界に対する犯罪的侵略行為は
収まらず、民主主義や共産主義や独裁主義などの脱宗教型のイデオロギーや、科学技術の
発展までをも促しながら、それでも潜在的な聖書主義者であるが故の、権力犯罪の正当化は
払拭できず、パレスチナにもイラクにもアフガンにも侵攻し、アフリカなどに餓死者も生んでいる。

犯罪を正当化した上で治療しようとするマッチポンプではなく、元からなくそうとする道徳意識、
犯罪なんてないほうが楽しいのだという聖徳意識の育成などによって、カルトを即座に根絶
させるとまではいかずとも、軽減させる。カルトへの集中的な攻撃ではなく、道徳や聖徳を希求
する正統教学の、カルトに対する優位を明示することによって、必然的にカルト災禍をすぼませる。
正統派だけの独裁と化してカルトを廃絶するなんてのは、カトリックと異端派みたいな「カルト同士」
の間にこそあったもので、本物の正統とカルトなら、大人と子供のように余裕をもって付き合える。
全く段階の違う宗教や学術であるもの同士、長幼の序を誤りすらしなければ、うまいくはずだ。

156:考える名無しさん
09/07/06 10:23:19 O
>>143
薬物によって一時的にわかった気分になるのと、
日々の中で着実に体得していくのとではまるで違う。
大麻にしても、今では大学生も遊び感覚でやって一時的に平和な気分になっていて本当にくだらない。
そして大麻は不良少年には覚醒剤への入口にもなっている。
要するに大麻自体は害が低いのだけども、
それから派生する害悪は実はかなり大きいのだ。
だからこそ大麻を軽く考えるのは止めたほうがいい。

157:井上筑後守
09/07/06 11:18:43 0
薬物やカルト教義による疑似体験では、言動の徳性が伴っていない。
むしろ犯罪含みの遊蕩と化していて、正統教学の修学による体得とでは
言動の徳性の有無という面で、相反した結果をすら招いてしまっている。

精神と肉体が結局は不可分であるように、内心と言動もまた不可分なもので、
言動が犯罪でしかない内心の陶酔は、内心だけで見てもやはり、言動上の
道徳を堅持した内心と何かが違っている。安定度も違うし、質の高さも違う。

道徳の堅持や聖徳の追求によって得られる内心の安楽や楽しさは、
薬物やカルト教義による陶酔とはやはり根本的に違っていて、普遍的に
見れば前者のほうが後者よりも楽で楽しい。極端な躁鬱への双極化ではなく、
純善による純粋な安楽や楽しさ、そこにのみある随一の楽々が確かにある。

158:考える名無しさん
09/07/06 11:19:47 O
ラスタファリーやサドゥに言ってくださいよん

159:考える名無しさん
09/07/06 11:30:28 O
大麻はアマテラスのよりしろじゃなかったっけ?
縄文遺跡からも大麻の種が見つかってる
戦後生まれの大麻取締法とプロパガンダが数千年にわたる民族的な信仰と智恵に勝るとは思えないなぁ

160:考える名無しさん
09/07/06 11:39:44 0
大麻即ち乱用薬物かね? 窪塚くん。

注連縄に使われるのは藁縄が一般的だが、縄として使うなら麻縄も大して変わらんだろ。
悪用できるものを悪用せず、縄文土器のような善用に徹するのが日本人の美学だ。
古代エジプトよりも10000年前からの、規矩準縄の正当ないし不不当利用。

161:井上筑後守
09/07/06 14:40:54 0
縄文土器は世界最古の「文明」であって、「文化」ではない。

数万年前の、壁画や彫刻の遺跡が欧州などで見つかっているし、
近ごろは骨を使った笛なんてのも発見されている。
そして何より「石器」が人類文化の起源であり、
石器時代の黒曜石などの加工から、武家社会における刀剣崇拝に至るまで、
これまた日本で一貫して尊ばれてきた、単純な器物の崇高なる扱い。

もちろんこの面(文化)でまで、日本のウリジナルを主張するつもりなどは毛頭なく、
ただ縄文土器のほうが世界最古の「文明」であることについてのみ確言しておく。
文明の根幹である規矩準縄の内の一つである縄、その縄の積極的な活用。
あたかもそれが、奴隷拘束や巨大建築の設計施工に用いられる可能性を
見越していたかのような、縄目文様の土器へのあてがい。素朴で小規模で
あることが、奴隷拘束や巨大建築のための悪用の大規模さと比較して、
かえって平穏さを帯びていて好ましい。大したことないからこそ素晴らしい、
人類初の文明、縄文文明。小学校の工作あたりからみんなでやり直す手だて。

162:考える名無しさん
09/07/06 17:10:45 O
日本の太古神代は現代人の想像以上に高い精神性を持っていたとおもうんですが
専門家のかた教えて下さい

163:考える名無しさん
09/07/06 18:36:37 0
>本義からしてカルトである 聖書教が全体的に犯罪の正当化を内在していることがどうしても否めず、

キリスト教自体が犯罪誘発性を備えてるって、聖書の一体どこの章よ?
具体的に指摘しないと全然説得力ないよね?引用しなよ。ここだと。
聖書はレトリックだらけだから、曲解しようと思えばいくらでも出来るから、
「ここを俺はこう読んだ」ってのはなしだよ?
聖書の解釈の中に犯罪誘発性があるとしたら、それは誰のものだという事になるし。

そもそもは、キリストというひとがこんな生き方をしました、こんな事を言いました、
それだけの記録書でしょう?
本義と言えば、「この人キリストは偉い人」それだけでしょ?


164:井上筑後守
09/07/06 19:13:41 0
URLリンク(bbs77.meiwasuisan.com)
このまんまだ。

人間の生贄の正当化、食人の正当化、共食いの正当化、犯罪の正当化。

「礼記」や「左伝」でも、殷紂や宋公による食人や人間の生け贄の
記述があり(前スレの74や、前々スレの431や432を参照)、
そのような反道徳的行為、本質的犯罪行為に手を出したことが祟って、
殷紂は武王に滅ぼされ、宋公は成王に完敗して配下に落ちた。

四書五経にも同じようなことが書かれた上で、「不吉な悪例」として説明されている。
しかもこっちはかなり正確な史実。共食いなんかに手を出す人間はダメになって
当然だという現実を冷酷に指摘している。でも福音書は違って、共食いである食人、
人間の生け贄に祭り上げられたイエスが、刑死してしかも復活するという
フ ィ ク シ ョ ン によって共食いを正当化し、信者に共食いを本質とする
犯罪を推進するようけしかけることとなっている。

多少読み方を変えたりした所で、当にズバリと明示しようとしていることが
共食いの正当化、人間の生け贄の正当化なわけだから、それを信じたことによる
罪悪の積み重ねのカルマから逃れることなど、そうそうにできたもんではない。
信じることをやめようとしたところで、現実の行動が重大な犯罪行為と化しているから、
なくなく強制的に信じ続けさせられる破目となる。いつまで経っても逃れられない因縁。

犯罪の正当化の不可能性(人間の生け贄の復活の不可能性)を受け入れた上で、
相応の罰にも服する勇気、聖書なんかのどこを読んだってそんなものは載ってない。
聖書五経や仏典や神典に頼らない限りは、いつまでも罪悪の辛苦の内側にいる。

165:井上筑後守
09/07/06 19:33:22 0
×聖書五経
○四書五経

166:考える名無しさん
09/07/06 19:44:14 0
ベラスケスの磔刑はキリストを最大限美化したけど、それだけの話だよ。
美しい罪人だった、ということを表現した訳だ。

当時のローマでは反逆罪で逮捕されて死刑になった、それだけだよ?
はりつけは罪を犯すとこうなるという見せしめだけど、
神への生け贄じゃない。
やっぱり拡大解釈してるじゃん。

167:考える名無しさん
09/07/06 19:53:34 0
そうそう。追加。
生け贄にされたのはキリストじゃなくて、
貼付けにされたキリストに捧げられた子羊だよ。
キリストの側近が捧げた。
だから子羊の肉は外人がクリスマスに食べるんだよ。
人間が羊を食べて共食いになるの?おかしいでしょ

168:井上筑後守
09/07/06 20:09:28 0
刑死後に復活して神の国へと昇天したんだろ? 
散々そう書いてあるだろ? 新約の中に。

旧約のほうは、本尊のエホバが覗き趣味な所が犯罪だな。
「犯罪の核」とまでは言わないが、相手が同意もしていないのに続ける
執拗な盗聴や盗撮は、相手の怒りを最大級に膨れ上がらせる所が、
また別の犯罪の本質的側面を現しているといっていい。

犯罪加害の本質、イエスの磔刑のほうは犯罪被害の本質。
旧約による犯罪加害の正当化と、新約による犯罪被害の正当化とが
あいまって、犯罪全体を正当化して推進する地獄絵図の出来上がり。
新約クライマックスの、ヨハネ黙示録の阿鼻叫喚さも有名なもの。

169:考える名無しさん
09/07/06 20:23:14 0
>刑死後に復活して神の国へと昇天したんだろ? 
違う違う、復活だのは弟子の幻視だってのは、聖書読む時の約束事になってる。

それに何?エホバが覗き趣味・・・?w
真理の深みを覗きたいってのが覗き趣味で犯罪なら、
井上さんの写経だって何のつもりなの?
犯罪を追求して正したいってのは、
覗き的な行為とエゴの発動、自己正当化なしには出来ないじゃん。

170:考える名無しさん
09/07/06 20:35:36 0
関連してる問題がもうひとつ。
金融業者に関わりになりたくないのに向こうから関わってくる、
なんて、アコムなんかには縁のない人間には信じられない発言してたよね?
金融業者なんて、金を借りる以外では普通関わらない。
知り合いが金融業者なら、発生する問題に関しては常識でスルーだ。
つまり井上さんが悪徳系金融業者にひっかかってるってことになるけど、
ない金を捏造しようとしてるのは犯罪じゃないの?
ヒットラーの贋札なんか、大犯罪だよね?

171:井上筑後守
09/07/06 21:23:39 0
東洋教学の学者や宗教家は、基本、正典の裏読みや斜め読みをしたりはしない。
書いてあることがそのまま正当で誠意的で道徳的だから、そのありのままの内容
を体得しようと心がける。けれども聖書主義者は、正典である聖書に対してから
裏読みや斜め読みを心がけ、色々と屁理屈を唱えつつ、実際にやってることは
犯罪の正当化と推進、聖書に書かれてあることそのままの実践となっている。

正典に書かれてあることをそのまま実践することには変わりないが、
道徳の堅持という困難な実践を何とか為そうとするのと、やってしまえばたやすい
犯罪という実践を理由付けつつ結局はしてしまうのとが、東洋教学と聖書主義とでは
全く異なる。難行と易行に根本的な言動規範が分かれていて、それでいて
東洋の易行たる念仏宗で「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」ときた。

実は難行よりも易行のほうが現実的には辛く苦しかったのだという、事実の露呈。
行業が少なからず、易行である犯罪含みであることこそは、人間の辛苦の根源だった。
URLリンク(bbs77.meiwasuisan.com)
どう見たって辛く苦しそうなその姿、易行たる犯罪の正当化、だから辛く苦しい。
逆なようでいて実はそうだった。悪いことなんかするよりもしないでいるほうが楽だという
あられもない真理。何もしない楽々さURLリンク(sekaisanpo.jp)

172:井上筑後守
09/07/06 21:51:15 0
道徳と真理って、同じ段階の言葉ではないんだな。

道徳にも真理があれば、犯罪にも真理がある。
論語レベルだと極めて素朴な提示に止まっていた儒家の人間道徳が、
朱子学などまで行けば、相当に深遠な道徳真理へと昇華されていった。

聖書主義も同じだ。真理の探究であるには違いないが、ただそれが
犯罪の真理である。人間が罪を犯すことによって到達する真理だ。
聖書圏で派生した哲学や科学もその内に入る。

儒家も聖書主義も、世俗道徳とか犯罪推進とかいった、ある種の人間の行動を
伴った真理探究、俗諦の思想宗教であるのに対し、仏教は人間の行動を
徹底的に抑え付けた上での真理探究、真諦や真俗二諦の思想宗教にあたる。

真理の教学といえば一にも二にも仏教。儒家の本分は道徳堅持だし、
聖書教の本分は犯罪推進。真理という観点で究極的でありたくば仏者であれ。
犯罪である盗聴や盗撮には基づかない衆生の傍観、ストイックな自己探求
による真諦への到達。真理こそを掴み取りたければ、結局はそこに帰着する。

173:井上筑後守
09/07/06 22:32:32 0
>>162
専門家ではないが、古事記の神代篇は相当に読み潰してるほう。

縄文土器の工作規模の小ささを見ても分かるとおり、
太古の日本人はとにかく「平穏無事」」だった。最小限の言動で
最大級の結果を得る御得志向。ズルとすら言ってしまいたいほどの。

記紀神代篇にも、とてつもなく大きな事件とかが書いてあるわけではなく、
出産とか、夫の仕事場での大活躍とかの、どこにでもある一方で、
そのせいで重要さが蔑ろにされやすい事物を丹念に評価している。

文献としての記紀は、コーランとほぼ同時期という、「古代文献」の
最々終段階に位置するもの。それ以前が古代で、それ以降が人間自身
の主導的な発展に転換した、転換点あたりに生まれた、古くて新しい古典。
ただ、その精神は縄文時代や石器時代から連綿と受け継がれていて、
古代文献としては最後輩に位置する代わり、太古の人類文化文明の
卒がない、罪も他愛もないあり方を自然な形で記したものとなっている。

日本に限らず、地球上いたる所で太古の人類ってのはあんな感じだった。
それがピラミッドとか奴隷制とかを創り始めたせいで、色々と面倒なことに
なり始めた。ホッブズやロックやルソーが言ってた「自然状態」が、
一番マシなルソーの推定以上に純然不悪に満ちていたことの証拠。
人間が性悪ではなく性善であることの証拠。記紀にしろ縄文土器にしろ。

174:考える名無しさん
09/07/06 22:33:17 O
簡単に言えば、万物一体の仁の世界観と、
万物の外に全てを超越した神をおく世界観では相互理解は難しい。
なんか善い方法でもあればいいんだけどね

175:井上筑後守
09/07/06 22:45:18 0
イスラムと東洋教学は、そこまで衝突しない。
超越神だからこそ、人間の感覚程度で全把握するのは不可能であるとするイスラムとは。

人間自身の勝手な恣意を超越神に仮託しようとするからこそ、聖書教と東洋教学とは相容れない。
恣意が万物の外側に飛び出るはずなどがなく、ただそれは万物の内側だけでの誤謬に
止まっているから。万物の正しさたる仁と、万物に基づく誤謬とが相容れないのは、別段不可解なことでもない。

仏教も「三千大千世界」という形で、この世界の外側にも通用する真理を提示しようとする。
ただそれはちっとも恣意に基づいておらず、(楽なものを善い、苦しいものを悪いとするとかの)
人間自身の思考形式の原理を突くことにより、思考である以上はどこの世界に行ってもそうであらざるを得ない
本質的な定義を取り扱っている。だから仏教の真理は本当に三千大千世界で通用するものとなっている。
それ以上還元しようのない自我の根幹へと到達して無我と化す、牆壁瓦礫ですらある仏性である。

176:考える名無しさん
09/07/06 23:13:09 O
そう。
東洋教学では超越神などないとすればいいんだけど、
超越神を奉る彼らは無茶苦茶に喧嘩が強いんだよ(笑)
井上さん、どうすればいい?

177:井上筑後守
09/07/06 23:21:16 0
あんまりいい言葉ではないが、正統な仏教を誰しもにとっての「金科玉条」
とすることが、道徳教学である儒家と、犯罪カルトである聖書主義のような、
互いに相反する思想宗教の間接的な相互理解に繋がるだろう。

悪人正機でもって、道徳と犯罪の勝負で道徳側に軍配を上げたのも、浄土教含む仏教サイド。
少しもえこひいきなどをしたのではなく、善悪苦楽の根本真理をゴロリと投げ出したことで
自然と道徳を犯罪の上に置かせることとなった。真理を提示しただけのごく公正な審判、
その仏教が道徳者側犯罪者側、立場の違いを超えての尊崇の対象となれば、一対一では
取り付く島のない道徳者と犯罪者なども、ワンクッションを置いた穏便な関係を育める。

法律のワンクッションでは犯罪者ばかりに有利に働き、道徳者には不利に働くが、
正統な仏法がワンクッションであるなら、双方にとって平等な傍観者となってくれる。
難行だが本質的に楽々である道徳、本質的に辛苦だが易行である犯罪、
互い違いに優位性が肯定されて、ちょうどいい具合となる可能性がある、と思う。

自分は分からない。仏教は専門でない上、修行によって奥義を体得しようだなんて気もないから。
自分とは別の仏教の専門家を介することで、犯罪主義者との付き合いももうちょっと
穏便に済ませられるようになる、かもしれない。池田大作みたいな仏教もどきじゃダメだ。
本物の正統な仏法の体得者、坊さんでなけりゃあ、そんな大役は務まりゃあしない。

儒家にも聖書教にも一目置かせていられるほどの人々、思い当たりがないこともないが、
自分から先に仲人をお願いするのは気が引ける。ちゃんとした坊さんが仲人であるんなら
結婚してやってもいいという、意思表示だけしておいて、あとは機が熟すのをじっと待っている。

身分不相応に活動しすぎな仏教勢力と、同じく分不相応に動かなすぎな潜在的儒家勢力である
自分との交替が促される。大作よりはまだ若いし、カルトでもない。あいつを捨ててこっちに来い。

178:ネオマトリクス
09/07/06 23:36:38 0
重要なのは
『三次元空間座標を移動する素粒子の運動はフラクタル的に∞通り』
だという事です。つまり、
『人間の狂信する宗教(という物理現象)』
も、全ては素粒子の運動なので、まあ何でも成立すると。
どれも何でもアリ。無限通り。
宗教の定義よりも
URLリンク(www.youtube.com)
の方がよほど真理に近い。なんせ
『宗教という記号も、人間という物質の運動も、
 ∞通りある通りのうちの数種』
なので、フラクタル的に運動は無限通りのうちの一種が選択される。

∞通りのうちの、一種の選択。これが
『人類史・万人の行動・宗教観』の正体ですぞ?
人間の狂信する記号も図形も宗教的物理的運動も
『無限通りのフラクタルの一種』でしょうね。OK?

179:井上筑後守
09/07/06 23:46:17 0
無限通りの選択肢を全把捉する以前に、人間は死ぬから。
寿命であれ、夭折であれ、刑死であれ。

その内側で最善を尽くそうとすることが、無限の選択肢の可能性に煩わされて
存命中の行業が最低最悪と化すのと比べて、マシであることは当然のことであるといえる。

仏教は人間の思考の原理を把捉する。いくら無限の選択肢が広がっていても、
それを把捉しようとする人間の思考はいつだって正統な仏法に基づいている。

だからいつだって仏教に基づいて善いとされたものは楽で、悪いとされたものは辛い。
悪いものばかり執拗に追い求めている聖書主義が、小細工で楽になるだなんてことは、
あえて悪いものを選び取ろうとする聖書主義者自身の自業自得によって閉ざされている。

無限の選択肢も、それを享受しようとする人間自身の自業自得の前では無力と化す。

180:井上筑後守
09/07/06 23:59:57 0
フラクラルは1000年以上の昔から東洋では尊崇されてきたんだがな。曼荼羅という形で。

「大まかに把捉する」限りでは、西洋教学の重大要素は全て大昔に
東洋教学によって把捉されている。フラクタル含む非線形方程式は、最原初の微分要素
を持たない無限次元系だから、いかなる大規模コンピューターによっても把捉しきれることはない。
ただ「フラクタルみたいなものがある」ということが分かっていたことだけで、
大まかを把捉するという東洋教学の本分は達成されており、どうせ把捉しきれることのない
フラクタルに対する把捉の仕方としては、むしろより適切なものですらあった。今の西洋以上に。

曼荼羅を尊崇対象とするのは、主に仏教の密教系。本当のことを言えば、地獄や鬼畜といった
三悪趣をも把捉対象とする全方位型の完全仏教。今の聖書主義者が蠢いている三悪趣も
知った上で劣後しているつわもの中のつわものたち。聖書圏すら自分たちの一部としている。

181:ネオマトリクス
09/07/07 00:13:42 0
>>179-180
>仏教は人間の思考の原理を把捉する
快苦こそが根源では?∞通り存在する快苦のうち、何通りかが今、存在し、
『快を感じ苦を感じない為』のみに変化(思考・行動)する。

>仏教に基づいて善いとされたものは楽で、悪いとされたものは辛い
無執着無影響ですね。よって、常識や本能の洗脳から解放され、
普遍的な感覚を感じるべきでは?例えば、夕陽を見て美を感じるなら
万物を見て美を感じれば、普遍的。

>フラクラルは1000年以上の昔から東洋では尊崇されてきたんだがな
貴殿や私の記号自体もフラクタルの一種でしょう。よって
『∞年の前から、∞通りの記号の配列の一種として、
 俺や貴殿のこの文章が存在していた』
訳でしょう、厳密には。つまりこれは俺が打った文章というか
『∞年の前から、∞通りの記号の配列の一種として存在していたのが選択された』
だけであって、仏教の教義もそうでは?

で・・徹底した無執着や普遍性だと、仮説ですが、
どの感覚からでも快を感じられるような方法、要は
物理的現象に作用し快苦をコントロールするのではなく
赤でも青でも音でも熱でも、全ての感覚で快を感じられるように、
感覚の研究をすべきではないでしょうか?

182:井上筑後守
09/07/07 00:20:29 0
コストパフォーマンスが悪すぎる。

お念仏でも唱えてたほうがよっぽど楽で、しかもタダだ。
なもあみだぶnamoamidabu、みんなで唱えてろ。

183:井上筑後守
09/07/07 13:19:09 O
麻薬は三悪趣でしか認められないが、酒は三善趣でも認められる。
人道である儒家も節度を保った酒宴を認めるし、天道であるヒンズー教や神道にも
神酒(みき、ソーマ)信仰があり、悪い酒と善い酒とを選別する取り決めが
「マヌ法典」などにも出てくる。

仏教は認めない。飲酒を殺生や偸盗とも同等の大罪とする(「大智度論」など参照)。
酒飲む坊主なんてそこら中に見られるが、あれも本来は破戒行の内。
本当に戒律に従うなら、飲酒も肉食も妻帯も全ていけないことになる、イスラムよりも厳しい法度。
だからこそ本物の仏教ならば、三善趣と三悪趣を合わせた六道全体を傍観できる素養を持つ。
とにかく徹底的に何もしないウルトラニート、だからこそ全てを俯瞰し、根本真理にも到達できる。

自分のことじゃない。飲酒も肉食もやってるし、妻も娶る予定。
六道全体を俯瞰する素養などには欠けていて、ただ三善趣の内側での振る舞いに徹するのみ。

六道全体の外側に身を置いて公正な審判に徹する人々、科学者でも裁判官でもなく、本物の仏教僧侶。
浄土教だと「戒律なんか守れない」って始めから音を上げてるから、
仏教であるには違いなくとも、少し意味合いが変わってくるが。

184:ネオマトリクス
09/07/07 19:17:43 0
>>177
>池田大作みたいな仏教もどきじゃダメだ。
別に私は所属しておりませんが、定義次第では徹底した仏教では?

つまり
『日本人の狂信する常識も、宗教の一種』
なので、それなら
『日本の中で最大規模の原理主義的な宗教』
を崇めるのも面白いと思う。つまり
『常識教』という宗教に対抗できるから。

世間が常識を崇めるなら、それも一種の狂信なので、
池田大作を常識のように狂信するのも、定義次第ではおかしくない事で、
常識に対抗できる狂信で極めて面白いと思う。

なので、格差社会では、負け組が勝ち組に馬鹿にされない方法として、
池田大作を常識のように崇め、その集団に所属するのも
なかなかアリじゃないですか?少なくとも、その集団では
勝ち組負け組は常識教ほど煩くは無いと思う。

185:井上筑後守
09/07/07 20:58:40 0
わざわざ肯定してあげなくたって、
今まさに「庶民の帝王」だから。あのじじいは。

大手メディアも乗っ取って、アホな芸能で一億総白痴化にも貢献してらあ。
仏教だろうが神道だろうが、カルトであればやることは大して変わらなくなり、
カルトの親玉な聖書主義へと近似していく。戦前は国家神道、戦後は創価、
「近代化」の名の下に聖書主義を取り入れざるを得なくなったに応じて、
仕方なく正統派もトカゲの尻尾的なカルトを派生してしまっているわけだ。

186:ネオマトリクス
09/07/07 23:15:00 0
>>185
>大手メディアも乗っ取って、アホな芸能で一億総白痴化
白痴化ですって?それは
『低年収やブサイクなどと負け組を定義し嘲笑う常識』の方がよほどそうでは?
一応、というかおそらく、創価内では
常識で定義されるところの勝ち負けは無いでしょう。

つまりカルトってのも定義であり、別に貴殿がカルトと定義しようが
一部の負け組にとっては、簡単に仲間を作れる楽園では?
少なくとも創価に入ってれば、創価のリア充には馬鹿にされ難いと思う。

>戦前は国家神道、戦後は創価
神道と創価では世間への影響が全く別では?
神道=ベースはおとぎ話 創価=ベースが哲学、理屈に沿った苦の削除

あと思うのですが、創価がカルトなら、外国人からすれば
日本のクリスマスや神社のお参りもカルトでは?
要は、負け組にとって役立つので、別にカルトと定義しなくても
一つの『日本の文化』で成立すると思う。
カルトってのは言ったモノ勝ちで定義次第で∞通り。OK?

187:井上筑後守
09/07/07 23:26:12 0
ここで言ってるカルトの定義は>>149に書いてある通り。
近現代に蔓延する邪教の意。

別に無理にこの定義に従えとは言わん。
ただ、この定義に沿わない限りは話が噛み合わなくなるだけだ。
複数人数間での議論が有意義であるためには、数多ある
一つの言葉への定義を、あえて統一する必要がある。
たった一つの超越神のみに帰依するなどよりも、遥かに重要なことだ。

唯一神に帰依したって信者間での分裂は起こるが、
定義を引き締められた言葉での思考を持ち寄る人間間に分裂はない。
自分勝手な定義を黙認し続ける所にこそ近現代の錯綜の真因がある。

188:考える名無しさん
09/07/08 05:45:03 0
昔の中国人てなんであんなに偉大なのに
今はあんななの?

189:考える名無しさん
09/07/08 06:54:04 0
>>169>>170への回答はないの?

190:井上筑後守
09/07/08 12:57:07 0
>>188
偉大な部分と愚劣な部分と、昔から両方ある。
食人の暴君殷紂、元祖焚書始皇帝、凌遅刑に人豚に纏足、
やばい部分は聖書圏並みかそれ以上にやばくて、
それとはまた別に賢聖がいる、陰陽の調和が成っている。

愚劣な部分が隆盛している時期には、君子士人は
無闇に社会的な活動を心がけず、自学自省に特化する。
今もどこかにいるはずなんだが、いるにしたって徹底的な
安静を決め込んでいる。伏龍と昇龍のめりはりを付けて。

191:井上筑後守
09/07/08 12:57:56 0
>>169
犯罪をしないという道徳を堅持することによって得られる真理もあれば、
覗きのような犯罪を推進することによって得られる真理もある。
いずれであれ社会的な活動によって得られる真理、俗諦には違いなく、
社会活動から隔絶した所で得られる根本真理、真諦に比べれば
真理としての純度が劣るというのは、>>172にも書いたとおり。

毒をもって毒を制す、犯罪によって犯罪を取り締まろうとする考え、
火盗改とか、今の警察の公安とかにもある程度はあるが、
必要もなくなされる積極的な犯罪を打ち滅ぼした以上は、
自分自身は犯罪をやめるという誓約があって初めて正当となる。

必要もないのに積極的に犯罪を働く側に付いてしまったんじゃ、
もはやただの犯罪者であり、罪を犯させて罰を科すマッチポンプともなる。
清濁併せ呑むはずだったのがみそくそになって、善いか悪いかで
言った場合に悪くなる。頂点の支配者だろうとも、積極的に犯罪を
嗜好すればそうなる。たとい地位が高すぎて取り締まれる人間が
いなくなろうとも、悪いことをして苦しむ自業自得からだけは逃れられず。

192:井上筑後守
09/07/08 12:59:48 0
>>170
言ってることの意味がよく分からない。
博打などをけしかけて間接的に借金を強要するのは、悪徳金融などにはよくあること。
借金だけでなく博打にも手を出さなくて、初めて連中との無関係を決め込める。
もちろん自分はどちらにも手を出してはいない。自業自得システムに一切を手を出していない。
それでもいちいち関わってこようとするんだから、もはや強盗にも等しい奴らだ。

個々人による偽札作りが大罪であるのももちろんだが、
社会全体が偽札同然のあぶく銭で動いている今の世の中全体が犯罪同然と化している。
地球資源の八割以上を独占している中で、「先進国」だけで適当にやっているマネーゲーム、
関わらなければ死ぬなんてこともないし、関わったからより楽しく生きられるなんてこともない。
金単体での信用や価値はとっくの昔に地に落ちている一方で、食糧やモノといった
人間生活にとって必要不可欠だったり、重要だったりする存在までもが金で動かされている、
だからどうしても金を無視しきることもできない。一万円の投機で一億円にでも
なるような金で、おにぎり一つや卵一個も取り引きされる。生活のために使われる金と
遊びのために使われる金との温度差が開きすぎて、結局はこれが地球上の
飢餓人口を増やす原因ともなってしまっている。

食のために使われる金、モノのために使われる金、金のために使われる金とを
単位から分断して、それぞれ同士の両替に一定の制限をかけるなどの便宜があればいい。
金融主義者どもは全員ペリカででも遊んでて、地下帝国から一切出てこなくなけりゃいい。

193:井上筑後守
09/07/08 18:59:30 0
道徳的な俗諦を希求した儒家が、約5000年前(伏羲が「易」を編纂したとされる時期)から
2300年前(四書五経中最新の「孟子」「礼記」「左伝」などが編纂された時期)あたりまでに成立し、
超俗の真諦を希求した仏教が、約3200年前(「リグ・ヴェーダ」における閻魔神話など)から
1800年前(龍樹菩薩や大乗仏典の大成時期)あたりまでに成立し、犯罪的な俗諦を選取した
聖書教が、約2600年前(バビロン捕囚期に怨み節の旧約編纂開始)から1900年前(キリストの
でっち上げによる新約の編纂完了)あたりまでに成立した。

成立時期でいえば、道徳的俗諦を専門とする儒家が第一子の長男で、超俗的真諦および
真俗二諦を専門とする仏教が第二子の次男(ただし完成時期は遅れる)で、犯罪的俗諦を
専門とする聖書教が第三子の妹うさぎ。ただし本当はオカマちゃんの三男。

真理としてみれば仏教が最高であるものの、成立時期では若干儒家のほうが早い。
儒家が易経詩経書経といった古来の文献を正典とするのに対し、仏教は古代バラモン教典である
ヴェーダやウパニシャッドを継承しない上、最大級の聖典である大乗仏典の成立が、小乗仏典は愚か、
聖書よりも成立が遅れる。歴史的に見れば仏教は決して「最年長の先輩」であるというわけではなく、
だからこそ永久不変の根本真理の把捉にも特化されている。歴史とすら無縁である真理の把捉者。

194:考える名無しさん
09/07/09 04:56:45 0
万葉集はお読みになったかな?

195:考える名無しさん
09/07/09 05:36:06 0
>>191
抽象性にひいちゃったようだけど、主語は?
覗き、毒を盛って毒を制すつもりがくそみそテクニックっていうのは、
文脈上エホバが覗き、くそみそをやっているとして、
それは具体的にエホバ教の行為のどの部分を指してるの?

>>192
なんだ、債権者だとかいうから借金でもあるのかと思った。違うのかな?
金融業者を遠巻きに眺めながら何か言う事も出来なくはないからな。

>もちろん自分はどちらにも手を出してはいない。
>自業自得システムに一切を手を出していない。

おいおい、2ちゃんが「自己責任の掲示板」要するに自業自得の場所と言われてるのは聞いた事あるよな?w
犯罪者の温床で、たびたび警察の取り締まりの対象になってる事も?
狂信者のたまりばだからな。井上さんは、そういう人を、ここで観察してる訳か?
それで宗教性とむすびつけて糾弾していると。

196:井上筑後守
09/07/09 08:22:28 O
>>194
残念ながらまだですわ。家に何冊も蔵書があるのに。
権力犯罪黙認状態な現代に、平穏な古文を読む気にはなかなかなれなくて。

>>195
みそかくそかで言えば、旧約はみそでもみそくそでもなく、純粋なくそだ。
酒飢薔薇がマスコミにあてた挑戦状を書いてた時の心理状態あたりに比肩されるもの。
やってることはただの犯罪加害でしかないんだが、エホバだかバモイドオキ神だか知らない
脳内超越神への依存によって、少しも罪の意識を自覚できなくなっている。
結局人間が故意の犯罪加害をなす時にはあのような、何らかの犯罪の正当化が脳内で働いていて、
だから結局は自他共に害悪ばかりしかもたらさない犯罪加害を為す過ちを犯してしまうという、
心理面における犯罪加害の原理を如実に提示しているのが、旧約の特質だ。

2chの自業自得なんて、「愚かなこと書いて恥ずかしい」ぐらいのことでしかないはずだ。本来は。
こんなとこに書こうが書くまいが、犯罪者は犯罪者として犯罪に手を出していただろうし、
加藤のようにブログで犯行前の心境を露呈していた場合もある。

もちろん「投稿者をストーキングして逐一監視下に置きます」だなんて書き込み規約にも書いてなく、
そんなだったら初めから書いてないし、それでもやってたとすれば、やってたほうが一方的な加害者となる。
相手の許可も得ず強制的になされる監視、全く人を信じてないその姿勢が、却って被害者の怒りを煽り、
罪を犯してやろうというような「毒食わば皿」意識をも催させる。監視者のほうも根本的な道義性を
欠いているから、「同じ穴の狢」と化そうとしている被害者をうまくなだめることもできず、
却って「罪を犯させて罰を科すマッチポンプ」の材料をでっち上げられると意気揚々ともなる。
そういう姿勢が全体的に、必要もない不義に満ちており、道徳か犯罪かで言えば、
完全に犯罪の側に身を堕す結果となっている。バモイドオキ神に奉仕してるつもりな酒鬼薔薇となっている。

毒を以て毒を制してるつもりになっている、害悪の「元凶」。
全体を俯瞰してみれば、最低最悪の重犯罪者は外でもない、自分たち自身こそのみであるという
本当の現実認識、状況把握に欠けているアホの所業。
犯罪者ってのはいつだってどこかが抜けているのだという証拠だ。

197:井上筑後守
09/07/09 08:53:51 0
どちらかといえば、宗教性は「最低限」に止めおいている。
最低限に止めるということは、捨て去るということではなく、必要な限りにおいて甘受するという意。
現実的に幼稚さや恐怖もある程度は初期的に帯びている人間が、成熟した大人として振る舞うためには、
宗教とまでは行かない教学、戒律とまではいかない礼儀、信仰とまではいかない敬意などが必須なのであり、
それらまでをもカルトの狂信とみそくそにしてかなぐり捨てたんじゃ、人間は餓鬼になる。

内心においても外面の言動においても、大人しい余裕に欠けたクソガキになる。50歳でも60歳でも、
儒家や神道のような伝統教学に裏打ちされた仁義礼節を尊ばないことには、いつまでも餓鬼であり続ける。
地獄や畜生と共に三悪趣の中に入れられる餓鬼。非宗教・無信仰のつもりでいて、実はただの餓鬼、
伝統教学を捨て去って「近代化」とやらを為してきた、近現代の人類のほとんどが餓鬼と化していて、
知らず知らずのうちに畜生天使と地獄悪魔の対決に翻弄させられる破目となっている。

人間としての中庸さには全く欠いている餓鬼道、道徳ぐらいは堅持しようという大人しさを
意図的に趣向して、儒家などの司る人道ぐらいにまでは昇格しない限り、いつまでも餓鬼でいる。
今の世の中、なんとなく適当に暮らしているだけで真っ当な人間になれるだなんて思ってたら、大間違い。
そこら中に愚民白痴化のサブリミナル効果は働いていて、自然としてれば却って餓鬼になって
しまうように工作されている。今日もテレビじゃ創価タレントどもがくだらない芸を見せ続けている。
安心すべきでない現状を安心する以上に、普遍的な道徳に安住するそれ以上の安心を得よ。

198:前スレから転載
09/07/09 08:56:21 0
【現代版十住心論】

(↓住心)       (↓代表的な教学)                      (↓本家「十住心論」での心識)

犯罪加害住心第一:ユダヤ、プロテスタントの心識(地獄道に相当) ─┐
犯罪被害住心第二:聖書教末端被害教徒の心識(餓鬼道に相当)   ├─ 異生羝羊心
犯罪加害被害住心第三:正教、カトリックの心識(畜生道に相当) ─┘

犯罪防止住心第四:イスラム、戦国期の武士の心識(修羅道に相当) -┐
道徳保全住心第五:儒家、泰平期の武士の心識(人道に相当) ──┴─ 愚童持斎心
道徳向上住心第六:神道、道家、インド教の心識(天道に相当) ─── 嬰童無畏心

聖徳入道住心第七:声聞乗 ────────── 唯蘊無我心
聖徳確信住心第八:縁覚乗 ────────── 抜業因種心
聖徳頒布住心第九:菩薩乗 ────────── 他縁大乗心、覚心不生心
聖徳究明住心第十:一仏乗 ────────── 一道無為心、極無自性心、秘密荘厳心

199:井上筑後守
09/07/09 19:24:23 0
カトリック、プロテスタント、その他非聖書圏の被害者などの分け隔てなく、
末端被害教徒である聖書教徒が「犯罪被害住心」の餓鬼であり、
正教やカトリックの上位信仰者が「犯罪加害被害住心」の畜生であるという点が、
少し分かりにくいけども、非常に重要な部分だ。

犯罪加害の正当化の教科書である旧約だけを信仰するユダヤや、
そのユダヤと裏で癒着しているキリスト教派であるプロテスタントが
「犯罪加害住心」であるが故に地獄だってのは、聖書の本質(犯罪の正当化)を汲み取った上で考えてみれば
まだ分かりやすいとこだが、そのユダヤやプロテスタントと対立関係にあるはずのカトリックや正教が
「犯罪加害原理主義」の逆である「犯罪被害原理主義」に基づいているのかといえば、実はそんなことがない。

キリスト教ってのは、新旧約聖書両方を信仰する宗教。イエスの磔刑による犯罪被害の正当化を
教科書化した新約を主要な正典とする一方で、犯罪加害の教科書である旧約もまた、それに準ずる正典とする。
犯罪被害を正当化した新約だけを信仰したんじゃ、「右の頬を打たれれば、左の頬も差し出せ」の要領で、
本当に一方的な犯罪被害者でしかい続けることができなくなる。それじゃあちっとも信じることに
「うまみ」が見出せないから、やっぱり正統派のキリスト教であるはずのカトリックや正教でも旧約を信仰する。

200:井上筑後守
09/07/09 19:26:36 0
ローマ法王も裏で幼女の妾を囲っていやがる。
ユダヤやプロテスタントが確信的に犯罪加害を嗜好する一方で、カトリックや正教は
犯罪被害も肯定しつつ、結局は犯罪加害による利益の収奪にもある程度乗り出している。
いずれも犯罪加害を正当化しているのには違いなく、ただ正教やカトリックの場合は犯罪被害も
同時に正当化する、そこが確信的な悪霊悪魔であるユダヤやプロテスタントと比べて、
正教やカトリックが白痴天使と見なされる所以。ドストエフスキーやダン・ブラウンなどによって。

ただ、上に書いたような宗教的な話ってのは、特に「信仰が厚い」とされる「宗教的優等生」に限っての話。
聖書圏の内側でも、誰しもがそこまで聖書主義を“敬虔”に信仰しているわけではなく、
多くの人々が何となく聖書教に随順する程度に止まっている。それらの人間こそは、
ユダヤやプロテスタントの優等生みたく犯罪加害主義に染まりきっているわけでもなく、
正教やカトリックの狂信者みたく犯罪加害被害を同時に肯定するような白痴状態とも化せず、
「犯罪被害原理主義」に服せられている。犯罪被害の正当化である新約のみへの信仰を強制されている。

URLリンク(contest.thinkquest.jp)
総人口で言いえば6億人程度、中国やインドの半分前後に止まるサハラ以南アフリカが、
人口比率的に見ても突出して飢餓人口が多く、餓死者数や所得の低さでも突出している。
このサハラ以南アフリカのほとんどの国が、五割以上の聖書主義者を擁する聖書圏。
今でも続々と餓死し続けている、中南部アフリカの女子供たち、彼らこそは典型的な聖書教末端被害教徒。

十分な教育も受けられず、読み書きもできないままに何となくキリスト教を信仰させられて、
十字架におっさんがはりつけられてる像を見て、「ああ、これが偉い人なんだ」と思い込み、
自分も同じように苦しい苦しい人生を送ろうと心がけ、タダ同然の賃金で希少資源などを採掘しては
上位の聖書教徒に貢ぎ、それを糧にして犯罪加害原理主義者ないし犯罪加害被害原理主義者である
上位聖書教徒たちは大もうけして、世界の支配者をも気取り始める。

201:井上筑後守
09/07/09 19:28:13 0
そういう犯罪被害主義の信仰によって、上位聖書教徒への貢ぎ物を強要されている「純粋新約信仰者」ってのが、
聖書教末端被害教徒のこと。聖書なんか一度も読んだことない日本の下層階級の兄ちゃんが、
ロザリオにピアスにドクロのシルバーアクセで気取ってたりする。ああいうのはみんな末端被害教徒なのであって、
別段宗教的に敬虔であろうともしないことが、そのまま犯罪加害原理主義者である旧約信仰者への貢ぎ物となっている。

それはものすごく愚かなことで、自分から好き好んで利益を収奪されて嬉しがってる、馬鹿者のクソ餓鬼なわけだけども、
ただ、有罪なわけではない。どんなに面白がってロザリオだのなんだのの聖書主義への服従告白アイテムを
身に付けたりしたところで、それらはあくまで新約信仰、犯罪被害主義信仰に止まっている。

犯罪被害者となることが偉いという、どうしようもないような詐欺に遭ってる点、すこぶるアホな人間ではあるものの、
それはあくまで被害者としてだから、加害者と違って有罪であることはない。新約だけでなく旧約も信仰する、
あるいは旧約だけを信仰するといった、犯罪加害の正当化を確信的に信仰し、それを実践することで被害者から
利益をせしめてきた、上位聖書教徒こそは有罪に値する。カトリックプロテスタント正教ユダヤいずれにも関わらず、
旧約をも信仰することによって、実地に犯罪加害をなしてきてしまった人間こそは有罪であり、そうでなければ無罪。

202:井上筑後守
09/07/09 19:30:22 0
意識的無意識的にであれ、新約のみの信仰に止まり、加害者たちに利益を収奪されていくのを認めきっている
末端被害教徒たちについては、コーランを始めとするイスラム教義に基づく洗脳解除、さらにはインドや中国などを
発祥とする優良な東洋教学に基づいた学習治療があてがわれて然るべき。犯罪加害者ではないので刑罰は必要ない。

それとはまた別に、新約だけでなく旧約も信仰してしまったり、旧約だけを信仰してしまったりしたことによって、
犯罪加害の正当化や推進にも手を出してしまった上位聖書教徒に対しては、洗脳解除や学習治療だけでなく
(むしろそれら以上に)、実地の刑罰をも必要とする。服役であれ、極刑であれ、罪に対する罰は厳然たる。

近い将来、「聖書圏」なんてものはなくなって、インドや中国やアラブなどから教育者が派遣されつつ、人工的に改善
されなおしていく、実験地域へと今の聖書圏が化すことになるだろう。そうでなければ破滅して人類全体が亡ぶしかない。

非聖書圏は何も変わる必要はない。根本になっている教学が正当かつ正統なものであり、作り変えるどころか保全を
心がけるべきものですらあるから、まったく単体での改変は要しない。ただ、中国の共産主義だとか日本の資本主義だとか、
聖書圏に強要されて泣く泣く受け入れてしまった聖書圏特有のイデオロギーなどは、非聖書圏だろうとも破棄して、
それなりの復調を目指す必要がある。だから結局人類社会全体がある程度は変わっていく。聖書圏は刷新されて、
非聖書圏は元に戻る。資源の分配もあんまり偏らない、適当な世の中へと戻っていく。東洋主導の言い方でいえば。

203:信濃川
09/07/09 19:51:58 O
蔵のつく名字でしょ?俺のあっちがその名字だけどあれがコード0音大、財閥、殺意、ランクB。で逆に足利ヤマンバ家系があるわけだがw

204:信濃川
09/07/09 20:13:25 O
村田兆治が広島出身ということはあるが遠州の紅林がいてこそ光があった。ともあれ村田兆治は福島別れだな

205:考える名無しさん
09/07/09 22:01:11 0
こんな板哲学じゃない・。みんなしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねおれはさる。

206:考える名無しさん
09/07/09 22:51:03 O
モンキー

207:考える名無しさん
09/07/10 05:44:04 0
たしかに哲学のスレではないな

208:考える名無しさん
09/07/10 05:52:42 0
>>196
>結局人間が故意の犯罪加害をなす時にはあのような、何らかの犯罪の正当化が脳内で働いていて、
>だから結局は自他共に害悪ばかりしかもたらさない犯罪加害を為す過ちを犯してしまうという、
>心理面における犯罪加害の原理を如実に提示しているのが、旧約の特質だ。
まあね。確かにあれは犯罪者心理と似てる。
ただ、宗教が病人や犯罪者の妄想と区別されるのは、一定以上の人間がそれに賛同するかどうか、
何人以上の人間がこれこれこういう確立した立場の人間が賛同しているなら、よしとしましょう、
そういう側面がある。
旧約は、壮大な愛、ほどこしについての記録書でもあるから。善として見れる部分もある。
だから、一概にくそとは言い切れないんだよ。
聖書を曲解して犯罪を起こす人間がくそというだけ。

209:考える名無しさん
09/07/10 06:12:15 O
易の六十四卦くらいは暗記しましょう
志ある皆さま、ともに絶学を継いでまいりましょう

210:井上筑後守
09/07/10 11:59:31 0
>>208
曲解ではない。愛だ平和だともっともらしい理屈を付けつつも、
結局は地球上の資源を八割以上も独占する権力犯罪に手を出している
聖書圏の人間の行業全体が、極めて模範的な聖書主義の実践となっている。

愛としてみれば、聖書の提示する隣人愛や友愛は、天地万物の公共性に基づいた
儒家の仁愛はおろか、万物を無差別に愛する墨家の博愛志向にも劣る。
気の合った仲間内だけで犯罪加害を共謀して、外界から利権を収奪することを
正当化する、最も程度の低い類の愛。誓約ではなく契約に基づく悪魔の愛。

平和のほうも、「剣をもたらすために来た」イエスが罰されるとかの、銃刀法の起源。
江戸時代には武家階級が帯刀を許された一方で、警察組織である奉行所や火盗改
は十手やさすまたのような軽微な武具での取り締まりを要求されていた。それで
ちゃんと江戸の治安は守られていた(鍵をかける戸締りが必要のないほどに)。

今は逆で、ナイフ一本でも持ち歩くことが許されない一方、警察官たち自身は
拳銃のような殺傷能力を持つ武器を携帯している。警察身分のほうが一般の武士
よりも弱小な武具で取り締まりを済ませてたのとは裏腹に、今の警察は一般市民
よりも強大な武器を持つことで市民を強制的な支配下においている。支配者が
必要以上の暴力を備蓄することで市民を完全に抑え付ける、程度の低い治安維持、
平和の維持が聖書教によってもたらされたもの。権力者が重大犯罪に手を出した
ところで少しも市民の側がそれを強制排除できる機会を持たない、不健全な社会。

銃砲刀剣の所持がある程度許されているアメリカなども、一般市民が所持を許されて
いる武器よりも遥かに強大な兵器を支配階級が備蓄することで同じ様相を呈している。
権力者が民衆の反抗を恐れて極端な軍事備蓄に回る、最悪のコストパフォーマンス
をもたらす、臆病さだけが取り柄の平和。人間はある程度は争おうとする生き物である
ということを見越した上で、定寸の日本刀程度の最低限かつ有効な武装の内側でほぼ
全ての争いを解決していた江戸時代のほうが、結果的には遥かに平和な時代だった。

211:井上筑後守
09/07/10 12:21:23 0
「十人殺せば殺人鬼、十万人殺せば大英雄」のチャップリンの喜劇用語を
そのまま真に受けて、数をこなした権力犯罪を正当化し続ける隣人愛主義者ども。

2300年前の昔から孟子などがそれを認めていない。
人を殺すのに刃物を以ってすることも、悪政を以ってすることも全く変わりなく、
等分に戒められて然るべきだと「孟子」第一巻四節などにも書いてあるとおり。

群れをなした途端に無責任な暴徒と化すのは、何より本人たち自身が小人であるからで、
君子士人であれば、たとえ大勢の中に入って政治手腕を振るおうとも、誰しもにとって
利益をもたらす公共性の維持を心がける。努力すらすれば誰にでもなれる境地。

最初からその選択肢をかなぐり捨てて、「みんなで世界を侵略しようぜ」状態な、
個々人から集団にいたる西洋人の行業の余すことなき愚かしさその全てが、
「孟子」よりも成立の遅い聖書の記述に基づいてこそなされてきたもの。

まさにこれこそはオカマちゃん妹うさぎな所以。ぴょんぴょんプリプリどんだけー、な。

212:井上筑後守
09/07/10 12:35:46 0
近現代に旧来の聖書教を改善する目的で創作されたはずの
西洋特有の哲学だ科学だ政治学だ経済学だイデオロギーだも、
その全てが地球人類社会全体の福利厚生を考える上では、全くの無価値と化す。

今だって地球上の資源の八割以上を独占することによって成り立っている上位聖書圏。
そのような利益の不当な独占を前提とした上で取りまとめられている社会、
消極的な活動が人類のためにならないとも、積極的な活動が人類のためになるとも言えない。

また個々人の生活を見てみたところで、一つ一つの労働が「人間が生きる」という
切実な目的に沿っている場合が極めて少なく、一生懸命田畑を耕して食糧を生産することも
労働になれば、違法カジノの支配人になることもまた一種の労働として扱われる。

労働が個々人や人類社会にとっての切実な利益目的であるか否かという面において、
今の「先進国」における労働の大部分がみそくそと化しており、利益独占型部落社会の
運営のために捏造された哲学科学政治学経済学などを研究することもまた、くその内に入る。

違法カジノの支配人とも大して変わらない、利益独占型部落社会での学術関係者。
四書五経も仏典も隅っこに置いといて、スミスだヘーゲルだマルクスだばかり研究してる奴ら。
そいつら全員違法賭博容疑で逮捕だ。上位聖書教徒と同じく、
権力犯罪加害への加担によって食ってる奴らだ。

213:井上筑後守
09/07/10 12:55:48 0
>>209
易の注釈書や解説書で良質なものがあれば、教えていただければ幸いです。
六十四卦暗記とまではいきませんが、本田済氏注釈の「易」は読みました。
こんな難解な量子宇宙哲学の書物が、人類最古級の古典であるというのが、驚愕ものですな。
4、5000年前のエジプトやバビロニアの古典なんて、小学生の作文みたいなものばかりなのに。
「占い」というレッテルに基づく過小評価を払拭して、もっと読み直されて然るべきなのは確かかと。

214:井上筑後守
09/07/10 13:35:31 O
直江兼続の「愛」って前立にあしらわれた兜が、近ごろ面白がられて取り沙汰されるだろ?
あれも本当は儒家の仁愛や仏教の慈愛こそをあらわしているわけで、
歌舞伎町のホストクラブの看板の「愛」なんかとは、全く意味が違うわけだ。

ホストクラブの「愛」に近いのが、聖書のほうの「愛」だ。
旧約にも「神殿男妾」なんてものが出てくらあ。
気に入ったホストに貢ぎ通して、底の抜けたズボンのポケットに手を入れて
ホストの一物をニギニギしながら飲み交わしてやがる、オカマちゃん妹うさぎだ。

歌舞伎町や二丁目から出てくんなってんだ。

215:井上筑後守
09/07/10 13:53:05 O
×神殿男妾
○神殿男娼

衆道(男色)は昔の日本などにもあったが、そんなものに宗教性や学術的価値など一切認めちゃいなかった。
ただそんな奴らは「陰間者(かげまもの)」として、一般に揶揄されていたばかりのことだ。
重要視してないから持ち上げもせず、無理に取り締まろうともしない。

何か重大なことだと勘違いしている奴らこそが、執拗に面白がったり、その反動で厳禁したりする。
肯定的であれ否定的であれ、そういうものを正典にまで載せたことが、
著者や儲の品性の下劣さをあらわしてんだ。エロ本なら構わなくとも、正典なら問題アリなことだ。
時と場合とを逸脱しているから。

216:考える名無しさん
09/07/11 08:07:27 0
井上筑後守

↑これはなんと読むのですか??

217:考える名無しさん
09/07/11 12:18:10 0
いのうえちくごのかみじゃないのか?
九州北部だと思うが。
つーかいつまでカオスな議論する気なんだw

218:井上筑後守
09/07/11 17:24:14 0
カオスではなく、弘法大師の十住心論体系に裏付けられた、極めて秩序立てられた議論だ。

どうせ純粋な東洋教学だけの話をしても、自分を含む堕落しきった現代人たちが
江戸時代以前の先人たちに敵うはずはないんだから、堕落の根源である西洋教学との比較で
話におまけを付けていくぐらいしか、別段新しく見るべき部分はない。

>>198の現代版十住心論も、上位の住心ほど重点的に論及している本家十住心論のほうが
これより優秀なのは決まりきってるわけで、異生羝羊心である聖書主義なんか卒業しきって
どんどん上へ上へと上っていく段階になれば、自ずと道を逸れた話も減っていく。
それに連れて勉学者たち自身の程度も高まっていくわけだ。徐々にではあるが。

219:井上筑後守
09/07/13 22:13:59 0
坊さんや警察組織も含め、誰しもがあまりにも罪悪の黙認へと堕落しきってしまっている時代、
例え今すぐに改善されていく方向転換がなされようとも、本当に復調できるのはまだまだ先の話。

東洋教学の実践までもが復元されること、近現代の文化文明構築のいずれよりも困難なものとなるが、
ただ元々のままに復元するのは、それはそれで東洋教学の意向に必ずしも沿っていないことになる。
臨機応変もまた東洋教学のいち本分。地獄餓鬼畜生の三悪趣があまりにも増大し過ぎている
今という時代に合わせて、昔ならそれほど重要視されていなかった部分を活用してみる手もある。

たとえば「孟子」。孔子が人倫の帝王として君臨し、その言行録である「論語」などに基づいて、
今でも多大なる評価が寄せられているのは皆知るところだが、それに比べて孟子の評価や知名度は低い。
ところがその孟子の言行録である「孟子」こそは、性善説惻隠の情易姓革命禅譲放伐王道覇道規矩準縄、
儒家教学上の重要概念のオンパレードで、人間道徳の基本中の基本ばかりを述べている「論語」と
比べても、学術的な程度が遥かに高く、職人技とでも呼ぶべき精緻さに満ち溢れている。

220:井上筑後守
09/07/13 22:15:17 0
同じことが釈迦に対する龍樹などに関しても言えるし、もうちょっと時代が下れば、法然に対する親鸞、
栄西に対する道元などの、教学の実践的活用までもが期待される。浄土宗や臨済宗が昔から代表的な
大乗仏教として崇められてきた一方、浄土真宗や曹洞宗はまだまだ伸び代のある、手付かずの宗派。
それどころか大乗仏教全体が、世界的に評価をされているようでいて実はされておらず、小乗仏教からの
流用でしかない部分の教学が評価されるに止まっている場合がほとんど。無我の境地や悪業からの解脱
なんてのは、本来小乗で済まされるもの。唯識も中観も法華も華厳も密教も、それだからこその特質が
評価されるまでにはまだ至っていない。だからこそ創価みたいなエセ仏教が蔓延ってしまったりもしている。

孟子も龍樹も親鸞も道元も、教学の内実が究めて機能的で、ただ尊崇するだけにとどまらない、
学術的な研究対象としての価値が高い点が共通する。かといって今の洋学者風情の、敬意もへったくれも
あったもんじゃない餓鬼同然の研究姿勢ではなく、限り無い尊崇を伴いつつの、冷静な研究こそが望ましい。
孔子や釈迦や法然や栄西が円熟の境地にある一方で、弟子や後輩に甘んじつつ縁の下の力持ちである、
いまだ十分な理解の届いていない人々。いずれをも尊崇しつつ、後者の重点的研究によって理解を補完する。

221:井上筑後守
09/07/14 03:46:25 O
大乗仏教の側からすれば、小乗仏教は大乗仏教の一部となる。
原始経典も「阿含部経典」として、さほど重視はされないにしろ大蔵経の中に入れられるし、
鑑真和尚が日本に持ち込んだ律宗も、上座部と同等の戒律集となっている(「八宗綱要」などを参照)。

あくまで小乗の自利に利他を上乗せするのが大乗の姿勢。
だから会三帰一などもあるにしろ、基本は小乗を排斥せず、ただ大乗と比べた場合に劣後する。
逆に小乗は大乗を認めない。本来の釈迦の教えをねじ曲げたものとして排斥する。

確かに「荘厳さ」という点で、大乗仏教は元来の仏教の素朴さを大きく逸脱していて、
バラモン階級だった龍樹菩薩らの器用な作り込みの手が加わっていることが明らか。
じゃあそれらの荘厳によって、仏教の本義までもがねじ曲げられているのかと言えば、
正統な宗門に限って言えばそんなことは決してない。カルトはともかく。

断悪修善という仏教の本義に基づいて、あらゆる大乗の正統教義が律されており、
真宗の悪人正機ですらがそのご他聞に漏れない。非常に分かりやすい反面、
言動はおろか考察においてすら疎かにしてしまいがちな、断悪修善という理念。
あえて確約することで得られる人間の思考規範や言動規範、それが仏教。
そうでありさえすれば何でも仏教であり、そうでなければ何も仏教でない。

実際に人間が全人生を託して実践するのは極めて困難ながらも、
最終的に目指すべき到達点として、いつでも心の片隅に置いておくがいい。
坊さんや敬虔な在家信者でなくとも、煎じ詰めればどうしたって従わざるを得ない
人間の思考や言動の真理として、半ば警戒的にだろうとも意識しておけばいい。
善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや、を。

222:考える名無しさん
09/07/16 14:27:03 0
シェイクスピア最高!!

223:考える名無しさん
09/07/16 15:03:18 0
病院で暗記でもしてなさい。
「レインマン」のレイモンドのように。

224:考える名無しさん
09/07/16 17:23:14 0
やっぱやめとけ。病状が悪化するから。

退院後の現実復帰に備えて、カーリダーサにしとけ。
たとえ文面上はつまらなくても、現実で実践すれば
こっちのほうが絶対に楽しいから。

あと、吉川英治の「牢獄の花嫁」もな。

225:考える名無しさん
09/07/16 17:53:08 0
シャイクスピアのソネット美しいお^ω^


226:考える名無しさん
09/07/16 19:25:08 0
妄想はいつでも貴女の頭の中に。

現実の行動に移した時点で犯罪。

227:ネオマトリクス
09/07/18 17:09:40 0
>井上筑後守様
しかし、貴殿の存じ上げる事も
『執着しまくってて』「何かに影響されまくってる」ので、
原始仏教的な根源的な
『苦痛を減らす』という目標に反しておられませぬか?

善悪は∞通りでしょう。価値も品性も。
かような事を
『洗脳され狂信して定義づける』ことが、苦に繋がるのでは?

糞味噌一緒の通り、善悪とかはどうでもいいのでは?
『苦痛か否か』が重要で。

とりあえず私は、人間=化学反応と感じまして、
品性・醜美・性・感情といった類を克服しましたぞ?

あと極論で貴殿の論も崩壊しまする。
例えば私は、品性を追求し日常会話も無表情機械的で、
極端な善に走って、幼少期の頃殴った人に毎日祈ってるし。
下らぬ話よ

228:井上筑後守
09/07/18 19:39:25 0
苦楽は分かるだろう。よっぽどのキチガイでもない限り、大体が苦楽の受容については一致する。
ただ、善悪は誰にでも分かるわけじゃない。苦楽と厳格に連動している普遍的かつ根源的な善悪、
それが分かるのが真の大人で、分からずに右往左往するのがガキだ。

なにが善でなにが悪かと言われても、それは全く時と場合によるんで、具体的には示しにくい。
「犯罪者の逮捕」ですら、悪法に基づく不当逮捕なんかによって不善化されてしまうことがある。
全く同じ事物が時と場合によって善となったり悪となったりする。分析的には全くつかみ所のない
善悪を全身全霊を以って把捉し、善を拾い悪を避ける、苦しくなくて楽しい人生を送れるようになる。

それは事実可能なことで、そうなるまでには相当な努力も必要なものの、なれればこの上なくマシだ。
いかなる科学的考察などを踏まえるよりも無理がなく、宗教的狂信などを踏まえるよりも無理がない。

人間として苦しくなく楽であるための、最も直接的かつ普遍的な手段、罪福異熟の道理に基づく根源的
な善悪の把捉と、その適切な処理。適切な処理とは、断悪修善だったり、勧善懲悪だったりのこと。
楽である善や、苦である悪を把捉したわけだから、当然のこととして善を優先し悪を劣後する。
そうでない、錯綜した善悪であれば話はまた変わってくる。最も、もうそんな話に関わりたくもないが。

229:考える名無しさん
09/07/18 20:34:54 0
私は究極的には善悪は存在しないと思います。
戦争や暴力を行使する相対的に余剰エネルギーをピラミッド建設とか万里の長城を建設するとか経済を度外視した
超国家的NWOによる建設プロジェクトに託すしか平和はありえないと思います。不可能ではありますが。

230:考える名無しさん
09/07/18 20:55:00 0
それは現世の人々に対するアピールはなく、未来の人々に対する壮大な「芸術品」と位置づけられるべき建造物であります。
永劫回帰の宇宙におけるある到達点を建設するのであります。
その建造物に携わる労務者以外の人々は農作物を育てる人々のみであります。
唯一のエネルギー源である太陽の恵みから頂いた食物を食って、ひたすら巨大建造物を造り続ける。
夜は夜の営みをひたすら続ける。不可能ではありますが。

231:井上筑後守
09/07/18 20:55:23 0
善悪が存在しないのではなく、善悪とはまた別に善悪でないものが存在する。
釈迦が「取るに足らない」として無記答とした形而上的概念論、これをそのまま「無記」という。
科学も数学も無記の内に入り、善悪とは無関係だからそれだけで良くも悪くもなりはしないが、
善用されることによって無害な無覆無記となり、悪用されることによって有害な有覆無記となる。

西洋型の、文化性に欠ける金融物質主義的文明が、科学や数学の活用によって成り立っているのは
重ねて言うまでもないことだろうが、中でも科学や数学を暴力に活用することが有害であり、
巨大インフラに活用することが無害だと>>229は言いたいんだろうが、自分に言わせればどちらも有覆無記。

支配者の悪念に民衆が振り回されて、必要もないような重労働に駆り出されて死傷したりもする。
インフラの土方もそうならば、戦争の場合の歩兵などもそう。結局莫大な無記構造に隷従させられて
不自由で平和でない生活を送らされることには変わりなく、過剰な無記構造全体が本当はないほうがいいもの。

232:井上筑後守
09/07/18 20:56:39 0
巨大なビルだとか橋だとかによって楽しんだりしてるようでいて、楽しんでいる時にはまた別の
何らかの善かるべきところがある。巨大な無記に、ほんの少し善の花を添えて楽しませたりする。
本当は無記なしで善だけであっても楽しい。支配者の悪念を排した善であるぶんだけ、より楽しい。

善でも悪でもないが故に、それ単体では本当は楽しくも辛くもない無記という不純物を一切排して、
純粋な楽しさの源である、純粋な善だけを抽出したのが仏教。その善の世俗における積極的な活用法を
抽出したのが儒教。だから数珠や十手程度の些少な物品だけで、巨大なビルや橋よりも遥かに
楽で楽しい体験をさせてくれたりもする。何もしないから辛くなかったり、凶悪犯罪者が正当な警察力に
よって逮捕されるから楽しかったりする。人間の楽さ楽しさの精髄を精選しているのが東洋教学。
だから無記である科学や数学を全くと言っていいほど介しない。にもかかわらずではなくだからこそ楽で楽しい。


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