【天照大神】東洋教学総合スレ0003【鬼子母神】at PHILO
【天照大神】東洋教学総合スレ0003【鬼子母神】 - 暇つぶし2ch2:井上筑後守
09/05/28 02:13:58 0
関連スレ:
東洋哲学専門
スレリンク(philo板)
【印度】インド哲学【サンスクリット・梵】
スレリンク(philo板)
【生死】日本陽明学 【超脱】
スレリンク(history板)
曹洞宗 統一スレッド
スレリンク(psy板)l50
☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート21
スレリンク(psy板)
アルトゥル・ショーペンハウアー 3
スレリンク(philo板)

3:考える名無しさん
09/05/28 07:45:31 0
【天】日本儒教(儒学)【地】
スレリンク(psy板)l50

儒教で
スレリンク(psy板)l50

【聖徳太子も】法華経こそ最高の教え【認めてた】
スレリンク(psy板)l50


4:考える名無しさん
09/05/28 17:24:29 0
大乗って本来の釈迦の教えじゃないでしょ

5:井上筑後守
09/05/28 18:42:50 0
春秋時代の中国に諸子百家が林立し、中でも孔子の興した儒家が白眉として持て囃されたように、
釈尊の活動時期頃のインドにも六師外道などの形で多くの宗教家が派生し、
中でも真俗二諦の中道を説く釈尊の教えが白眉として持て囃され、中国や日本にも導入された。
「孔子の教えこそは儒家の教えであり、孟子や朱子の教えは儒家の教えではない」
なんていう人間がいないのと同じように、龍樹や空海らの教えもまた仏教の教えではある。
個人ではなく系統こそを重視することが東洋教学に対する模範的な勉強姿勢となる。

6:井上筑後守
09/05/28 18:55:23 0
最も、儒家は世俗の教えであり、仏教は超俗の教えであるあたり、
儒家と仏教の間に何もかもの共通性を見出せるわけではない。
インドにおいて世俗性や家庭性を重視していたのは仏教よりもバラモン教のほうであり、
バラモン教以上に超俗を重視した仏教は中国でいえば道教格にあたる。

中国:儒家(世俗)⇔道家(超俗)
インド:バラモン教(世俗)⇔仏教(超俗)

という対応関係が存在し、白眉である教学の世俗超俗が中国とインドで
あべこべになっている。国全体でいえば中国のほうが世俗性を重視する面が強く、
インドのほうが超俗性を重視する面が強いために、このような結果を呈した。

バラモン教から聖典(ヴェーダやウパニシャッド)や聖伝(各種法典)を
受け継いでいるヒンズー教も、実は中国で言えば儒教格にあたる。
「道家よりも儒家を重視するんなら、インドでも仏教よりヒンズー教を重視するのか?」
と聞かれた、これも「いいえ」と答える。中国の世俗思想だからこそ
儒家を重視するのだし、インドの超俗宗教だからこそ仏教を重視する。
それぞれの国の特質に応じての臨機応変な長所の称賛が望まれる。

7:井上筑後守
09/05/28 19:29:41 0
一番尊重するインド宗教哲学が仏教ではあるにしても、
自分自身が聖道の仏教者としてやっていく気などは毛頭ない。
聖道仏教の基本たる出家第一主義は、儒家の三綱五常と致命的に衝突する。

仏教教学と儒家教学の実践を両立させることは、原理的に不可能なもの。
今の日本仏教なら僧侶の妻帯も許されているにしたって、
それは結局あくまで、誰も彼もが浄土門に流れてしまってるだけの話で、
空海や道元が活躍していた頃並みの本格的な聖道門のほうが滞っているだけだ。

浄土門以外の大乗仏教には、(厳格な)出家第一主義の復活を促す一方で、
自分自身は儒家教学に沿った士人大夫としての人生を目指していくもの。
それはインドで宗教で言えば、仏教者よりもバラモンやクシャトリヤの
生活規範に近似するものではあるが、別にヴェーダやウパニシャッドを生活の
拠り所にするわけではなく、昔からの日本人らしく四書五経らを参考にする。

とりあえず今度は「新儒学」こと朱子学の入門書である「近思録」に取り掛かる。
徳川幕府のご用達でもあった朱子学の基本中の基本文献、このハンドルには
まさに打ってつけの書物。仏教のほうが実践できないぶんだけ熱心に学び取る。

8:井上筑後守
09/05/28 21:11:23 0
出家第一主義が復活し、寺院の世襲制が廃止されたとて、
宗門の側が人材不足に悩むような必要はまずない。

今の世の中、今すぐにでも出家したほうがいいような奴らばかりだから。
重罰の科せられる主犯格や重大共犯格は別として、
全員に懲役刑を科してたら刑務所の収容員数を超えてしまうような
微罪の従犯格に対する便宜措置、聖道門での得度。

知識だけはある、ただ、善悪の分別も付かないままに働いてしまった、
九九を知らないままに高等代数学を勉強してしまったような奴ら。
教義上の知識を取り込むには差し障りはなく、むしろ有能ですらある。
ただ、その腐れきった根性を厳しい修行で叩き直すことが重大だ。
寺院から逃げ出さないよう刑務所並みの塀の増築が必要になったりな。

9:井上筑後守
09/05/28 22:48:11 0
女であれば、微罪程度なら、優しい奥さんになることでも償われる。

マヌ法典での男尊女卑は、女ですら自主的に婦徳を具える
日本や中国の側からすれば酷烈に過ぎるように感じた。しかし、
コーカソイドの女は、あれ程にも締め付けないと暴れ回って仕方ない
のかもしれないとも思った。性欲のために何もかもを蔑ろにする禽獣。

あくまで基本の女性愛は、究極の婦徳を示したアマテラス神話に
依りたいもの。ただ、コーカソイド特有の性欲の蟲が湧き始めた
時には、必要悪としてのマヌ法典もまた参考にしていく所存。常に
日本の女としてのみ振る舞わんとする姿勢が、無駄な苦労を省く。

10:井上筑後守
09/05/30 19:30:19 0
困った。

疎かにしていいような話が一つとしてない、「近思録」には。
抽出して寸評しようにも、取捨選択のしようが全くと言っていいほどない。
全てを寸評してたんじゃもはや一冊の本になる。非常に困ったもん。

タチバナ教養文庫版の注釈者である湯浅幸孫氏の「朱子学は
宋代に完成しすぎて後代に発展の余地がなかった」という言も適当な
言ではないと分かる。孔子や孟子によって提示された普遍道徳学が
朱子らによって大成され、大幅な修正や変更もないままに今に至る。
陽明学が朱子学ほどの完成度を持たないのは、大塩平八郎の乱の
失敗などからも分かる通り。情に訴える甘さすらも排した宋学の精髄。

近思録だけでもすでに完璧であることは分かる。しかも朱子学にはまだ
「朱子語類」という膨大な文献群が控えている。まだ抄選しか読んだこと
がない。時代的には800年前という、新しすぎず古すぎない程度の産物。
近現代の日本人が大政奉還によって捨て去った東洋の精神学の首領、
再評価だなんてチャチなことはせず、これだけに専念する覚悟すらせよ。

11:井上筑後守
09/05/30 22:02:48 0
引用程度を躊躇してても仕方ないんで、
書くべきことを書くため程度に寸評していく。


「聖人は天地と其の徳を合わせ、日月と其の明を合わせ、四時と其の序を合わせ、
鬼神と其の吉凶を合わす。君子は之を修めて吉なり。小人は之に悖って凶なり」
(タチバナ教養文庫「近思録」一・一より)

天地の理を会得して徳を積むことは、気の屈伸(呼吸)としての鬼神との折り合わせとして
吉祥となることであり、君子聖人はこの吉祥こそを追及している。小人はこれを怠って
不吉に見舞われるし、悪人ともなればわざわざ鬼神との折り合わせに反発して大凶ともなる。

天地万物の中には自然も含まれる。むしろ自然のほうが人為などよりも遥かに大部分を占める。
その自然である部分を東洋人は基本、調和すべき仲間として捉え、極端な詮索は避けてきた。
しかし西洋人はその自然を征服の対象として捉え、壊しちゃ造りの実験場と化してしまった。
調和すればそれで吉祥であるはずの自然を無闇に侵害することで、不吉を超える大凶の限りを
尽くしてしまって、このまま行けば温暖化や食糧不足などによる破滅が見えきっている。

この大凶なる現状を、さらなる科学技術の発展によって乗り越えるか、それとも東洋流の
自然との調和に基づいて解消するか。結論を言えば、その両方ともが望まれる。
科学技術によって破壊し尽くしてきた程度に、科学技術によって問題を補修解消し、
壊した分だけ直すマッチポンプが済み切った先に、これ以上無駄な大凶破壊を行わない
自然との調和に基づいた文化文明の興隆が促される。江戸時代のような完璧エコ社会に。
勧善懲悪と断悪修善、悪いことをやめさせるまでと善いことだけをするまで、どちらもでいい。

12:井上筑後守
09/05/30 22:16:38 0
「仁は天下の公、善の元なり」
(同文庫「近思録」一・一一)

仁は「仁愛」とも言う通り、「愛」に比較的近い意味を持った理念。
ただ愛と違うのは、仁には天下を重んずる公共性が伴っていること。
天下国家を治めんとする正しさに基づいて人を愛する、それが仁。
誰か一人か数人程度を愛することは仁に値せず、仏教だけでなく儒家でも卑しまれる。
ただ仏教と違って、儒家は天下の理に沿うほどの愛は「善の元」として貴ぶ。
愛を場合によって貴ぶこともあれば卑しむこともある。殊更に愛執を卑しむ仏教と
比べて、儒家はまた別個の理解のための度量を要する。天下を重んずる大人としての。

13:井上筑後守
09/05/30 22:44:35 0
「人の性は本善なり。革む可からざるもの有るは何ぞや。曰く、其の性を語れば、
則ち皆な善なり。その才を語れば、則ち下愚の移らざるあり」
(同文庫「近思録」一・一四)

人は誰しもが性善ではあるが、才覚によって善悪上下が分かれる。性懲りもなく悪いことをしよう
とする愚かしさは、根本の部分からの人間としての本性には根ざさない「構造」でしかない。
思考の技巧を凝らそうとする戯れは、始めから人間としての正しい活動を為そうとする性質
には基づいていない。ただ無駄なことをしでかす才覚のウレシ具合のみがそれを為そうとする。

天才は人間性が馬鹿になっている所で生まれやすい。ゆだやみたいな。人間性を確保した上で
しかも天才である空海や道元とは全く格が違う。天才にとってこそわきまえられにくいのが善悪だ。

14:考える名無しさん
09/05/30 23:36:19 O
甘利斐前上(あまりびぜんのかみ)

15:考える名無しさん
09/05/31 00:08:28 O
六十四卦暗記してますか?

16:考える名無しさん
09/05/31 21:03:02 0
古事記日本書紀等以外で
神道を勉強するのに良い本ありますか?

17:井上筑後守
09/05/31 21:48:44 0
記紀は教派神道の根本的な拠り所であると同時に、日本国史の冒頭でもある。
延喜式や交替式のような規範集も入っている国史大系が、実は全て「神典」と呼ぶに値するもの。
吾妻鏡や延喜式を愛読していた家康公などは、徳川実紀に基づいて名を連ねることとなった。
日本史上において真に主導的な役割を担った人間は誰でも、後代において神道の継承者とされ得る。
国家神道として国際社会に打って出た前科によって見えにくくなっている、日本国の正統としての神道。
多くの国民が今でも何気なく大金の寄進をしたりしている、国内における最もな信頼性の本源。

とはいえもちろん、日本国史は儒家や仏教の影響も大きく受けてきているので、
何もない所から生まれたにしてはあまりにも精緻過ぎる場面の多い国史の内実を、
(先人もそうしてきたように)儒家や仏教の教学を参考にして学び取ることもまた望ましい。
聖徳太子の十七条憲法もまた、全くのオリジナルとしてではなく、儒家思想と仏教哲学の絶妙な
折衷である点にこそ意義があるので、儒家や仏教の純粋教学を学ぶことで、ただ凄い人扱いされている
だけでしかない聖徳太子の、内奥にまで遡った別の意味での凄さを計り知ることができるようになる。

神道の底抜けな信頼性の根拠を知るためには、最新の考古学資料にも頼る必要がある。
古典文献としては千数百年前程度の、さして古くもない記紀を教義的な拠り所としている神道が、
実は一万六千年~三千年前の縄文時代からの伝統に深く根ざしているものであることなど、
字面だけでは計り知れない即物的な側面における神道の奥義が垣間見られることとなる。
口伝ばかりでほとんど文章としての伝承を遺してくれなかった神道の真義に到達するためには、
学び取ろうとする側にもまた不誠実さを捨て去った、きめ細やかな内心からの正念が不可欠となる。

18:考える名無しさん
09/05/31 22:26:45 0
>>17
ありがとうございます
少しづつでも読んでいこうと思います

19:考える名無しさん
09/06/01 00:43:04 0
貝原益軒の養生訓って読みましたか?


20:考える名無しさん
09/06/01 01:58:04 O
貝原さんて何を意味してるんかいなあ?草間さん同様わからないなあ。金貸しは人間の背中を追いかけて人の裏しかみないし下しかわからな。そうすると日蓮だね

21:井上筑後守
09/06/01 22:26:34 0
>>19-20
養生訓はまだ読んでないけども、儒者が書いたからには、儒学に悖るようなことは
書いてないだろう。ただ研究するだけの学者ではなく、実践まで持っていく儒者ならば。
宋代以降に儒学が革新的な発展を見せた痕跡はないので、後代にも十分に教学が
継承されていたかどうかを確かめる資料として考えればいいだろう。宋代から現代までの
間だけでなく、春秋戦国時代の興隆期から宋代の中興期までにも、あまり儒家の革新的
な発展は見られない。仏教などと比べても、儒家は頗る変革に対して保守的な教学。
今度変革が起こるのも千年後ぐらいだと思っていたほうが、楯突くことへの諦めは付く。
近現代の金満主義の喧騒も、儒家にとっての中だるみである時期の暇つぶしだと思えば。

支配道徳である儒学を重んじた武家階級とはまた別に、四民制では下半分にあたる
「工商」によって形作られた町衆文化というのがまた別にあって、井原西鶴の好色物や
近松門左衛門の心中物など、武家階級の男らしさや礼儀正しさとはまた別の潮流を
作り出している。女々しく放蕩や悲劇にも奔るあたり、西洋文学にも近似しているし、
日本画のような、宗教性とあまり密接でない芸術作品も町人階級によって形作られた。
武家社会だろうとも、今の世の中で持て囃されているような小人文化がある程度は
認められていたのであって、そのような階層の人々に支持されていた日蓮宗も、
カルト化しない程度であれば全否定するわけにはいかないものでもある。
武家と農家の下に置かれる制約の下での、無難な放蕩ならば許してやるもの。

22:井上筑後守
09/06/01 23:02:18 0
貞観政要、呻吟語、宇下人言、日暮硯・・・
今では「リーダーのバイブル」なんて触れ回りと共に、「経営者必読の書」などと
謳われることもある為政者の書。文章をドグマ化させてしまう「バイブル」という比喩
も編纂者の意図に沿わないし、何よりも「経営者」に参考にされることが心外だろう。

上記の書物などはあくまで、資本主義社会ではなく封建主義社会での帝王学書。
士農優先工商劣後が、隅々まで風潮として行き渡っていた時代の産物だから、
いかに財界権力を抑えつつ世の中をうまく治めるかを学ぶ時にこそ真価を発揮する。
今のような資産家即ち支配者状態の世の中では、真価が発揮できないだけでなく、
曲解されて不公平な為政の参考にすらされかねない。支配者が資産家でもあるという
前提が、根本的に江戸時代までの東洋の為政者の意向に真っ向から反している。

資産家は別にいてもいい。江戸時代にも三井や住友のような富豪は存在していた。
ただ、それは決して為政者ではなく、町衆という身分相応の立場における成功者に
すぎなかった。商工階級が支配階級とも化す僭越、あたかも洪水に何もかもが呑み
込まれているかの如く。洪水のさ中に自分らだけが乗る箱舟などを作るのではなく、
洪水を根本からせき止める治水事業こそが必要とされる。商工業の適度な抑制が。

23:井上筑後守
09/06/02 13:16:46 O
GMも破綻したしな。

(精神や生命とは逆という意味での)物質の氾濫を思う存分に野放しにする時代から、
うまく塞き止めて適度に制御する時代への転換期に差し掛かっている。
そのためにこそ、人間の本性としての精神を重んずる東洋教学の適用が望まれる。

物質の制御のために唯物主義を用いたんでは、マルで氷でダムを築き上げる
ようなもので、氷解温度を持つ物質の洪水などに耐えられたもんじゃない。
土砂やコンクリートのような、物質たる水とは別個の組成を持つ固体に相当する精神が
完全な治水を達成する一方で、適度な放水の制御機能をも兼ねるもの。

江戸時代に興された三井や住友が、現代でも一流の資本グループとして通用していることからも
精神を上とし物質を下とする序列機構が、決して物質文化の発展を停止させるものではないことが分かる。

「鬼平」でも25両(約125万円)の包金(通称切り餅)がバシバシと使われてたりする。
あぶく銭を伴わない即物経済では、あの時代も結構裕福な時代だったようなんで、心配はいらない。
安心して後は任せなさい。

24:考える名無しさん
09/06/02 17:37:11 0
中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し
中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し
中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し
中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し
中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し
中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し
中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し
中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し
中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し
中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し
中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し
中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し
中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し
中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し
中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し
中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し
中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し
中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し
中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し
中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し
中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し
中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し中出し

25:考える名無しさん
09/06/02 18:14:32 0
ピュッピュッピュッつつ

26:考える名無しさん
09/06/02 22:22:03 O
たった一つだけの地球。たった一度きりの受精。

直後に受精膜が張り巡らされて、侵害も離脱も不可能な、完結した命の胎動が始まる。

母なる太陽の光に照らされて、これからもスクスクと成長し続ける、地球人類という子供。
むしろこれからこそ、立派な一体の人間としての自覚を持った成長が始まる。
そこかしこで殺し合いの火花を散らしていた、個体としての意思の覚束ない肉塊であったのが
受精による独立生命体としての胎動の開始により、一律した考えを持つ立派な人間として成長していく。


※ 易経やデメーテル神話では、大地のほうを母と見なしているが、
これは天(太陽)こそを母と見なすアマテラス神話に比べれば時代遅れ。
太陽を母と見なし、地上の山や海を山幸海幸といった子供たちの活動場所と見なすことで、
地上の統一を十分に俯瞰する余裕ができ、本当に地球人類社会が統一された場合に
何千年も前からその感覚を日本人に先取りさせておく役割を果たしてきた。
日出ずる処の者としての威厳は、実は地球人類の統一にまで及んでいた。

27:考える名無しさん
09/06/02 23:10:03 O
地球人類社会という天下が、受精(玉を噛み噛み)によって統一された瞬間から、
母たる女は地母神から太陽神へと格上げされる。

子供を戦地にやって殺させてしまうような悲劇を払拭し、
まとまった生命体としての人類を天上から照らし出す、無量光明の慈母となる。

今はまだ日本人しか把握できていない、地球人類社会という大和社会の一体感、
日本全国並みに人類社会が和合できたなら、自ずと母たる女は
全世界における最高太陽神としての地位を確立する。

陰陽斯開から陰陽完結へ。
人類の文化文明を、まさに陰に陽に統率してきた陰陽五行が、
陰性の代表たる女までをも太陽と化してしまうことにより、
完全陽性社会としての地球人類社会を完成させてここに終わる。

28:井上筑後守
09/06/04 20:25:39 0
例えば、蒸し暑い真夏の炎天下に吹く風は、熱気を冷ます、善い風。
逆に、肌寒い真冬の寒空に吹き付ける風は、余計に寒くなる、悪い風。

特に気温や湿度には何の変哲もない春や秋にでも、
肌を軽く撫でる程度のそよ風は、風流で心地よい、善い風。
洗濯物や屋根瓦を吹き飛ばすような暴風は、迷惑な、悪い風。

気温や湿度も何の変哲もない時期の、風量もそよ風とも暴風とも
言い切れない、どうとも言えないような中途半端な風こそは、無記の風。
人間にとって善くも悪くもない、ただの風。故に無記の風。

無記の風だろうとも、病原菌や塵埃を吹き運んできて、人々を病気に
罹らせるような場合もある。だからってこの風が無記でない、悪い風に
なるのではなく、病原菌や塵埃といった悪を内包した、有覆無記の風となる。
風であることとはまた別のこととして、善悪への差し障りを呈する、有覆無記。
もちろん、病原菌も塵埃も一切内包していないような無記の風は、無覆無記。

29:井上筑後守
09/06/04 20:46:16 0
上記の「風」に基づく善悪無記の区別でいえば、
寒空に吹き付けたり、洗濯物や屋根瓦を吹き飛ばすような寒風暴風は、
典型的な悪人の所業に例えられうる。他者を直接傷つけたり殺めたりする、
分かりやすい犯罪はこのような、風が風であることにより悪い場合に比肩される。

ただ、風が風であることによっては何ら悪い原因にはなっていない場合、
無記である風がさらに病原菌や塵埃を吹き運んできた場合には、
当該の風は有覆無記となる。この、有覆無記の風にあたるような人間、
自分自身では何も悪いことをした覚えはないのに、教育などによって自然と
劣悪な言動に走ってしまったり、犯罪者に金を貢ぐような仕事に就いてしまったりする。
これがいま極めて多い類の人種。身に何の覚えもないのに、知らず知らずの内に
(自分とはまた別の)悪に加担してしまっている、有覆無記の人間が、今の
世の中において「真っ当な労働者」扱いされているほぼ全ての人間を占める。

権力犯罪者やヤクザは本より悪人である。有覆無記ですらない、ただの悪人。
しかしそのような、病原菌や塵埃に値するような悪と、自分たちは全く別個の存在である
という自負から(あながちそれも全くの間違いではない)、無記の風にあたる
多くの一般市民が、無意識の内に病原菌や塵埃を含有させられることで、
悪を撒き散らす助けをしてしまう、有覆無記の風と化してしまっている。

30:井上筑後守
09/06/04 21:05:20 0
さらに言えば、「風」という例えは、孫子の「風林火山」の比喩からも分かるとおり、
「行動的な人間」の有り様として扱われることが多い。

風が強いということは、蒸し暑い炎天下などには心地よい、善いものとなるが、
真冬の寒風であったり、物を吹き飛ばすような暴風である場合には悪い風となる。
そしてもちろん、病原菌や塵埃を媒介する場合にも、より強いほうが有覆無記の
風としての度合いが強くなる。悪を内包する無意識従犯の風。風が風であること
によって悪いか悪くないかは別として、寒風と暴雨と病原菌や塵埃を内包する場合と、
いずれもが被害者である人間の側からすれば悪いこととなる。あたかも風が強い
ことと同じように、人間が行動的であることにも、必ずしも善い結果をもたらしはしない
根拠がこれほどにも揃っている。にもかかわらず今の人間は誰しも無駄に行動的だ。
あたかも炎天下に暑熱を冷ましてあげようとするような、善い結果をもたらすことを
確信した上での行動などは皆無なのに、とにかく何でも行動に移す。寒風だろうが
暴風だろうが病原菌や塵埃を媒介しようが、とにかく吹き荒れる、ADHDという強風。
むしろ吹かないほうが善かったり、あるいはそよ風のように優しく吹き付けることで
雰囲気を和ませたりのほうが、ずっとマシではあるんだが、強風であることばかりに
こだわる現世の悪癖に囚われて、誰しもが有害無益な吹き付けをやめられないでいる。

人間は必ずしも「風」である必要すらない。「林」のように潜むことも、「火」のように
侵すことも、そして「山」のように動かないことも、いずれもが臨機応変な人間の有り様。
戦国最強の武将だった武田信玄も掲げていた風林火山。家康公も三方々原の戦いでの
惨敗以来、参考とし続けることで戦国の最終勝利者となり得た。有り難い教えである。

31:井上筑後守
09/06/04 21:09:58 0
>>30訂正:
×寒風と暴雨と病原菌や塵埃を内包する場合と、
○寒風と暴風と病原菌や塵埃を内包する場合と、

32:考える名無しさん
09/06/05 13:31:10 0
風林火山の「林」と「山」ってダブってない?w

33:井上筑後守
09/06/05 15:37:42 O
隠れ潜んでたって、裏でコソコソといらんこと策謀しまくるような奴らもいる。
逆に何の臆面もなく街中を歩き回ってた所で、結局は何もしていない殿様もいる。
前者は人前で出来ないような後ろめたいことをやっているからこそ隠れるしかなく、
後者はそんなことは一切やってないからこそどこにも隠れたりする必要がない。
全地域全方面における汎用性を尽くせば、山のように動かないことのほうが
遥かに出し惜しみなく公開できる度合いが高く、逆に風のように
ビュウビュウと動き回ることのほうが、色々と方々で問題を起こして
隠蔽せざるを得ない部分を作ってしまう割合が大きい。

「孫子」はあくまで道徳書ではなく兵法書だから、
戦乱状態における勝ち抜きの法則を羅列しているだけ。
戦乱を必要としない平時には却って不必要な疑獄を呈するような要素も含んでいる。
兵法では戦国一を誇った武田家も、最後には亡ばざるを得なくなったのは、
権謀術数に入れ込みすぎる軍学の偏重による所が大きい。
人間的な交渉の余地のないただの戦好きは、勝頼と、その騎馬軍を葬った
信長との代で終わったんだ。

34:井上筑後守
09/06/05 17:05:01 0
犯罪者は、宇宙の真理にも天下の道理にも背いているが故に、孤独だ。
宇宙や天地を形作る、ありとあらゆるものが自分の敵となるから、
自己愛と、自分の仲間内の友愛だけでしか孤独を紛らわせられない。

でも道徳者は、宇宙の真理や天下の道理に則しているが故に、全く孤独でない。
宇宙や天地を形作る、ありとあらゆるものが自分の味方だから、
自己愛もいらなければ、仲間内だけでの友愛なども全くいらない。

一時的に犯罪者同士の仲間内のほうが名目上は多くなり、道徳者のほうは
少なくなったり、あるいはいても分裂させられたりしたところで、結局は
宇宙の真理や天下の道理に則している側のほうが、普遍的かつ圧倒的な
多数派だから、いつかは形勢を逆転できるだなんてことも決してない。

宇宙の真理や天下の道理を敵に回している者は、目の前の人間としての
相手だけでなく、自分たち以外のありとあらゆる全ての存在が敵である。
人間が必ずしもそうであるのではなく、おまえらが特例的にそうなだけだ。
人間であろうとも道理や真理に則すことは全く可能で、むしろそのほうが普通だ。
今の地球上でも47億人程度はできていて、あとの20億人ができてないだけだ。

35:考える名無しさん
09/06/06 01:25:39 0
養生訓は未だ読んでらっしゃら無かったのですか
私は実際に実践しているのですが体の調子は良いですよ
文も平易で読み易かったです
岩波文庫版だと和俗童子訓と言うのも収録されているのですが
其処に書かれている読書法・読書論も為に成りました

36:考える名無しさん
09/06/06 11:53:41 0
思い邪なし。

37:井上筑後守
09/06/06 22:21:09 0
詐欺同然の金の流れに携わっている商工民の分際で、
高潔な士人大夫と対等に渡り合おうだなんて時点ですでに無理がある。
つまらない悪の苦しみの内側でしか生きられないその無様さを
せいぜい恥ずかしみつつ、平身低頭額づきつつの救済を乞い求めるか、
もしくは今まで通り、開き直っての放蕩無頼三昧を貫き通すか。

手前勝手の因果応報で、極重に苦しんでるのを見物してるのも楽しいし、
泣く泣く泣き付いてきて、必死のお助けを乞い求めてくるのもまた楽しい。

どっちに転んだって楽しいし、転ばなくたって別につまらなくはならない。
憎らしさ極まって暗殺でも企てようとて、無辜の市民に手をかけたんじゃ、
無辜の市民の「人権」を保障することで、利権の収奪をごまかしてきた
自分たちの大義名分が根本から崩れ落ちて、実質上と名目上との両面に
おいての、押しも押されもせぬ犯罪集団への「成り上がり」が決定する。
(表向きの罪状を徹底隠蔽する犯罪集団はテロリストよりもタチが悪い)

38:井上筑後守
09/06/06 22:22:41 0
自滅が必定であるプライドの保全と、プライドを捨てきった延命の志願と、
人類史上「最悪」の権力犯罪集団がいずれを選択するのかが見もの。

犯罪集団が「最大」や「最強」や「最高」であることには何の意味もない。
それらは無辜の市民からの借り物でしかない上、奪い奪われるという依存
非依存の関係上、殲滅戦においては犯罪集団が負けて無辜の市民が勝つ
構図が定まっている。犯罪者が専らであるのはあくまで最悪であることのみ。

自分も別に特攻玉砕兵士の末裔ではない、屈辱の十字架を背負わされつつ
生き延びてきた者の子孫なんで、延命が選ばれたからとて他人事でもない。
本当に潔く死ぬよりは、辱められつつも生き伸びることを選んだ者同士、
複製故の演技を一枚噛ませつつの、額づかせになることはわきまえている。
あくまで額づかせであることには変わりはないがな。平身低頭の乞い求めには。

39:井上筑後守
09/06/06 22:37:50 0
国敗れて山河あり。英仏亡んで宝物返還さる。
始めから他人のふんどしでしか相撲を取ってこなかった連中が
反則負けを喫し、世界中がロンパリの曇り空から日本晴れへと大転換。
人生楽もあれば苦もある。だから基本的にぐらいはいつもみんな楽しかれ。

40:井上筑後守
09/06/07 08:23:16 0
所詮は商売。そこが限界。命を投げ出してかかる者と比べて詰めの甘さが残る。
命を粗末にするという意味ではなく、最善を尽くすという意味での。

本気を出している47億人と、決して出せない20億人。
大人である47億人と、幼稚園児同然の20億人。
数を稼ぐことで、却って深刻となった生活力の有無の断絶。

ゴチャゴチャと汚い柄の付いたTシャツから、真っ白いムスリムの宗教衣へ。
無駄なことをさせない矯正としては、一日五回の礼拝もなかなか実用的かもな。

41:考える名無しさん
09/06/07 14:21:11 0
もう誰も見てないスレww

42:考える名無しさん
09/06/07 14:37:27 0
独りを慎む。

43:考える名無しさん
09/06/07 16:56:57 0
無意味スレ

44:井上筑後守
09/06/07 19:17:31 0
「公は則ち一、私は則ち万殊。人の心の同じからざること面の如きは、只だ是れ私心」
(タチバナ教養文庫「近思録」一・二七より)

天下の道理に則した公共性ともなれば、必ずたった一つなのであり、にもかかわらず
ギャーコラギャーコラと烏合の衆のごとくわめき回る奴らがいるのは、全部私情の行き過ぎのせいだってんだ。
私利私欲私益私情、とにかく自分が自分がのミーイズムで、混沌なる論争のための論争を作り出して
それでよしとする、3+3は7か8かを言い争う世界。そういう場所に公共性の把持者は踏み入らない。
3+3=6の如き当たり前の道理を補足して、その堅持だけに特化する以上は、私情同士での
争いになど踏み入らず、烏合の衆どもがどうしようもなくなって、助けを願ってきた時に、
その態度の従順さ粗雑さ如何によって、救いの手を差し伸べてあげたりあげなかったりする。

仲良く喧嘩する要領の、おっさん同士での甘噛み友愛関係などには与することなく、
ただ独り高潔さを保つことによって、自ずから満足となる。ただあるがままで完成しており、
もちろん実用も可能な名刀のごとき人間こそは模範的な儒者である。地上の聖賢たる。

45:井上筑後守
09/06/07 19:18:42 0
「无妄之を誠と謂う。欺かざるは其の次なり」
(同文庫「近思録」一・三〇)

妄念妄言妄動を排すことが誠意的であることの基本であり、嘘を言わないなんてのはそのついでのこと。
不誠実な寓意の中には、他者を欺くのと同然ではあるものの、それを糾弾して問いただしたりしたなら
「それはこれこれこういう意味ですので、別に欺いたわけではありませんが?」と、うまいこと逃げ道を
用意している場合などがあり、虚言かどうかで糾弾しきれない場合などがある。複雑怪奇な契約書や
理論書を持ち出してきて被害者を煙に巻いて、うろたえている隙に利益をせしめたりなんてのも詐欺師の
常套手段。こういった虚言かどうかが明確にしにくい詐欺師の詭弁も、妄念や妄言や妄動であるという
不誠実の条件を満たしていることは一見して明白なので、「おまえの言動は見るからに不誠実だから
取り合わない」とつっぱねりゃあよろしい。いかなる理論的虚飾によっても不誠実さは取り繕えないから。
契約が正しいか間違っているか以前に、誠意的か寓意的かから取捨選択の対象としていくがよい。

46:井上筑後守
09/06/07 19:21:26 0
「性は則ち理なり。天下の理、其の自る所を原ぬるに、未だ不善有らず。喜怒哀楽の
未だ発せざる、何ぞ嘗て善ならざらん。発して節に中らば、則ち往くとして善ならざるなし。
発して節に中らず、然して後に不善を為す。故に凡そ善悪を言えば、皆な善を先にし悪を
後にす。吉凶を言えば、皆な吉を先にし凶を後にす。是非を言えば、皆な是を先にし非を後にす」
(同文庫「近思録」一・三七)

非常に有名な朱子の常套句「性即(則)理」の原典。情念(喜怒哀楽)の発現する以前の、
中正の保たれた状態における人間の本性は善である。情念の発した後にも、節度を保って礼儀正しく
していれば善のままでいられるんだが、節度を超えて、感情の起伏を無闇に増大さすウレシと化して
しまえば、悪になる。小学低学年ぐらいまでの子供はみんなそうで、感情を押し殺せずに全身全霊を
尽くしての喧嘩なんかもしまくるもんだが、まだ身体能力が低いから、めったに致命傷にまでは至らない。
でも、大人が全力で喧嘩なんかすれば、あっという間に殺し合いに発展する。腕力だけでなく武力
などにまで頼り始めて、社会を巻き込んでの陰惨な戦乱へと発展してしまったりもする。
それらも全て、情念の節度を保てない人間としての未熟さから来ているものだから、感情の発する手前の、
当然のこととして善いものであった前提としての人間の本性に立ち返り、感情の焼け付きを抑えた
思考や言動にのみ終始する。さすれば人間は自然と善くなるし、吉祥となるし、是となる。
前提としての善さや吉祥さや是から踏み外された所にこそ、悪さや不吉さや非があるものなので、
踏み外しといた言い訳で「これこそは俺の道だ」なんて開き直るのもバカバカしい。前提である本性を
見定めているか見失ってしまっているか、詰まる所そこにしか人間の有り様は還元され得ないものだから。

47:井上筑後守
09/06/07 19:32:02 0
近ごろ体調不良で寸評が滞っていた。

原典も参照せずに、ただ言いたいことを適当に言ってるほうが簡単に書ける。
近現代の「純文学」だなんだもみんなそうで、資本主義社会での
あぶく銭を膨れ上がらせるタネとして盛大に利用されてる。

そういうものはもういらない。全く新しいものを創り出しているようでいて、
実は昔の説話の劣化コピーでしかないような小人の戯れ言、小説。
書くのも簡単だが、書く所からすでに過去の記憶を消費してるだけで、何も生産していない。
真の生産はむしろ、原典を引用しつつの付言などの中にこそ見受けられるもの。
原典と比しておかしかったりすりゃすぐに分かるから、劣化コピーなんかもできない。
古の聖賢の言などを参考にする以上は、完コピの上で乗り越えることが鉄則であり、
原典を疎かにするような不誠実さはすぐにはねられる。そこにこそ誰しもが戻るべきもの。
撰述、引用が基本である東洋教学の誠実なペースに戻っていくことだ。

48:井上筑後守
09/06/07 20:51:58 0
「性は天より出で、才は気より出づ。気清ければ則ち才清く、気濁れば則ち才濁る。
才は則ち善有り不善有るも、性は則ち不善無し」
(同文庫「近思録」一・三九)

>>13に共通する、性と才を(天)理と気とに分ける見方。性は性だけなら天の道理に
基づくものの、人間にはもちろん才もあって、清浄な本来のままの才覚は善となるものの、
粗野な情報にかき乱されて濁り腐れば悪となる。今の学力テストやIQテストによって長短が
褒貶される才覚ってのは、むしろ後者のほう。濁って悪くなってりゃなってるほどいいとされる。
もちろん学力テストなどの中には古文や漢文もあったりするから、全てが濁悪だなんてことも
言えないが、少なくとも清濁併せ呑んだ才覚が求められるし、さらにはみそくその才覚までもが
進路によっては求められたりもする。清浄な才覚、古文や漢文の善さこそが分かる才覚と、
悪巧みにも使われる濁った才覚とは明確に分別して、できることなら清浄な才覚を伸ばすことを
目指すべきだし、汚濁の才覚は決して積極的に求めたりはせず、最低限の甘受に止めるか、
もうすかっりやめちまうかしたほうがいいわけだ。地球人類みんなにとってそうであることだ。
性は理であり才には清濁ある、天下たるこの地球上どこに行っても厳密に通用する道理だ。

49:井上筑後守
09/06/07 20:54:49 0
「性は万物の一源、我の私するを得る有るに非ず。惟だ大人のみ能く其の道を尽くすと為す。
是の故に立てば必ず倶に立ち、知れば必ず周く知り、愛すれば必ず兼ね愛し、成れば独り成らず。
彼の自ら蔽塞して吾が理に順うことを知らざる者は、則ち亦た之を如何ともするなし」
(同文庫「近思録」一・四六)

大人は情念の焼け付きや才覚の濁り腐りを抑え止めて、万物の本源たる性理の道に則る。
独走にも偏知にも偏愛にも独り勝ちにも与せず、並走全知兼愛共成を心がける。この逆がまあ、
小人の典型的な有り様で、行き過ぎた情念や濁りきった才覚ばかりに引きずられて、処置不能な
様相を呈する。さらに救いようのないのは、どこぞやの心理学者あたりが、前者のような
性理に則った大人を「内向型」と呼び、後者の情念や濁才に塗れた小人を「外向型」と呼んだり
して、明確に救いようの有無という点で開きのある大人と小人とを、ひとしなみに扱う風潮を
作ろうとしたりする。解析学の微分積分とも並んで、価値のあるものとないものとを理論で混同する
みそくそ処理の深刻例と化している。だから儒学や朱子学を心理学などのペースで研究するのは
禁物で、必ず儒学は儒学のペースで、朱子学は朱子学のペースでこそ勉学研鑽せねばならない。
異学異見を混ぜ込んで純良な学問の足を引っ張るような真似をしてはいけない。勉強するぐらいなら。
実用に際して他流派と対峙せざるを得ない時も来るだろうて、やはり立ち位置は固めておかないと。

50:井上筑後守
09/06/07 20:58:53 0
「心は性情を統ぶるものなり」
(同文庫「近思録」一・四八)

読んでの通り、性+情=心だ。朱子学の別名である「性理学」は、心の内でも真に理に即している
性こそを扱う厳密な学術たることを示す。性は理に即すものの、情は即すとは限らないから、朱子学の
立場からすれば「心理学」などという学術が存在していることからしてすでにおかしい。性情を統べた
心が、全体的に理に即すことをストイックに追い求める陽明学が心理学であることはまだ認めやすい。
でも、別に情を理に即させることを追い求めているわけでもない、ただの勝手気ままな心に対する
研究が「心理学」だなんて呼ばれるのは明らかにおかしい。鍛錬も研鑽もされていないただの心が、
即座に理であるなんてことは朱子学は全く保証していない。心は「誤」りだって多く犯すものだから、
実はいま普通に「心理学」と呼ばれている学術は、正確には「心誤学」である。心の誤りに
いちいち突っ込みを入れて、適当な名前を付けて病気に認定するばかりでしかない、心誤学。

心が性と情とに分かれて、性は誤らないが情は誤りうるというような、心の内実に対する精密な
分析があって、初めて心の効果的な統御も可能となる。心理学(と呼ばれている心誤学)によって
聖人や賢人が生み出されたなんて話はとんと聞かないが、朱子学によっては、数え切れないほどの
聖人賢人が生み出されて、江戸時代までの極東社会の平穏無事を全面的に司る役割を果たせてた。
それで全くよかったわけだ。朱子学だけで人間の心は完璧にプロデュースされていた。三角関係に
悩み込んで自殺するだなんて無様は明治以降にのみ生じたもの。ただそれ以前に還ればいいだけの話。

51:井上筑後守
09/06/07 22:24:23 0
「凡そ物は是の性有らざるなし。通蔽開塞に由り、所以に人物の別あり。蔽に厚薄有るに由り、
故に知愚の別有り。塞がるものは牢として開く可からず。厚き者は以て開く可くして、
之を開くや難し。薄き者は之を開くや易し。開けば天道に達し、聖人と一なり」
(同文庫「近思録」一・四九)

「性即理」と共に、有名な朱子学の常套文句「格物致知」にも使われる「物」という文字、
後のほうで「物我一理」という言葉も出てくるあたり、「大学」の頃から使われている
儒学上の「物」というのは、ヒンズー教でいう「梵」に近い意味を持っているんだと思われる。

宇宙の究極真理、とまでいくとちょっと世俗道徳とはかけ離れすぎるんで、もうちょっと素朴な
言葉によって、ブラフマンに値するような「もの」を指そうとして、そのまま「物」となった。
何でもかんでもモノ扱いされる今の世の中において、儒学上の「物」は常に通用するかといえば、
ほぼ通用する。「物理学」の「物」も儒学でいう「物」とほぼ一致するし、物理学的な意味での
「物質」もまた儒学の「物」に近い。また「物質文明」とか「物質主義」とかいった、
精神や生命を軽んじてすら物質に偏重する意味がこもる場合の「物質」もまた、儒学でいう
「物」の内に含まれる。儒者は物を「成す(支配する)」べきものであると考え、
決して成されて(支配されて)はならないものと考える。刀剣を武士が上手に扱うごとく、
人間自身が物質を支配できている時に、聖人にも紛う物我一理の境地が開ける一方で、
「モダン・タイムス」のチャップリンのように、機械の歯車に右往左往させられる、
人間の側が物に支配された状態を、愚かで塞がった状態と見なしているもの。

52:井上筑後守
09/06/07 22:25:18 0
決して物質の暴走を埒外に置いていたのではなく、選択的に物質からの支配を忌避していた
朱子学影響下の日本が、文明開化以降に機械化を進めていったのも、要は嫌々なものだったということ。
日本刀や西陣織で済ませられりゃそれでよかったものを、巨大戦艦や戦闘機まで造っといて壊すハメになった。
物質を無視するのではなく適切な制御下におくことが信念であった儒学下の日本人にとって、鈍重すぎる
機械文明に携わらせられることは、やればできなくもないが、なるべくしないでおきたい部類のものだった。

大量生産大量消費の本拠地はもはや日本から中国へと移行しているものの、果たしてそれでいいものだろうか。
あんなバカでかい国が日本やアメリカ並みの物質主義にのめり込んでいって、この地球は耐えられるだろうか。
その中国こそが昔は作り出して、今は捨て去っている儒学が説く物我一理。
まずは物の分かる人間になることが急務。

53:考える名無しさん
09/06/07 22:36:47 0
まずは物の分かる人間になることが急務。  PIKARRR

PIKARRR    まずは物の分かる人間になることが急務。

まずは物の分かる人間になることが急務。  PIKARRR

PIKARRR    まずは物の分かる人間になることが急務。

54:考える名無しさん
09/06/07 22:41:41 0
宮川大輔的にはうそがいけないことがわかったようじゃな。
下でいうと競輪選手から言わせるとダメみたいじゃ話しちゃ。
どうにか話してくれんかの?

55:考える名無しさん
09/06/07 22:55:31 0
まあ何でもねえ。足利は2段したまで正面から受けたはずだ。
ただ3段したがあった。最後9段下まであったようだが実際は
4段くらいだろう。ナーラクにしても自然(じねん)逆らったのが
悪い。清和源氏は基本幼少に受けてたって勝たんと家督は告げない。
それだけじゃないないが前がある限りいつまでたっても負けん。

56:井上筑後守
09/06/07 23:17:13 0
「格物致知」の他に、「格物窮理」ってのもあるんだね。
こちらのほうがむしろ格物致知よりも上の境地に当たるってさ。

日本語の「物理学」の語源はたぶん、この辺りから来てると思うんだが、
もちろん朱子学は今で言う物理学ではないし、もちろん今で言う心理学でもない。
形而上の概念夢想への帰納を徹底的に排し、現実論に特化された学問故、
現代の語法上の物理学や心理学におけるような研究成果は何一つとしてない。

物理学や心理学は、重量物の落下や光線の振る舞いや精神病患者といった、
観察者である自分自身とはまた別個の何ものかに対する研究を旨とした。
しかし朱子学は、それを勉強せんとする本人自身の精微深遠な研鑽を旨とした。

規矩準縄を幾何学のような概念夢想に用いたギリシャ人と、自らの礼儀正しい
振る舞いの模範とした中国人や日本人との分かれ目が、挙句の果てには
物理学や心理学と朱子学という、巨大潮流として分派するに至った。

一時は朱子学のほうが物理学や心理学に押され、礼儀作法もことごとく
反故にされつつあったものの、格物窮理を自制に用いる堅実さが功を奏し、
物理学は物理学としての限界を見出しての自滅、心理学は性理学たる
朱子学と比しての完成度の低さを咎められての壊滅を喫した。

結局は、自己に堅実たるものこそが物の理を窮めてもいる。
咬ませ役の敵がいなくなって、やっと朱子学もまたその本領を発揮し始められる。
黒板に懸垂線を描いてる時よりも、剣を振ってる時のほうがよっぽど物理に即す。
その、物理に即すことの限りないすがすがしさの境地こそを、みなと共に。

57:考える名無しさん
09/06/08 00:02:10 0
このスレにはあの変なAAが貼られないな
ルサンチマンとか言うの

58:考える名無しさん
09/06/08 07:08:30 0
いつもおもしろいわかりやすい。この人大人。


59:井上筑後守
09/06/08 21:48:09 0
「聖人の道は、耳に入り、心に存し、之を蘊めば徳行となり、之を行えば事業となる。
彼の文辞のみを以てする者は、陋なるかな」
(同文庫「近思録」二・二)

聖人の徳行というのは、良質な知見を蓄える所からすでに始まっているのであって、
事業として開始されることは、「行」としてもついでということになる。
ただ存在するだけでも艶冶であり、実用しても鋭く斬れる名刀、どちらかといえば、
ただ存在していることのほうに価値があり、斬ることのほうがついでですらある。
何かをしないことには存在価値が見出せないなんてものは、事実始めから大した価値がない。
何もしなくともただそこにいるだけで重々無尽の価値が溢れ出てくる知足円満なる領域、
世俗道徳を司る儒家においてすらその意義が尊ばれる。仕事によって形作られる世俗においてすら。

60:井上筑後守
09/06/08 21:49:33 0
「聖賢の言は、已むを得ざればなり。蓋しこの言有れば、則ちこの理明らかに、この言無ければ、
則ち天下の理闕くる有り。(中略)後の人、始めて巻を執れば、文章を以て先と為し、平生の為る所、
動(やや)もすれば聖人より多し。然れども之れ有るも補う所無く、之れ無きも闕くる所靡し」
(同文庫「近思録」二・五より)

上記の二・二の引用にも関連する格言。聖賢も言葉を述べることはあるが、決してそれは文芸(文辞)
などが目的なのではなく、天下を治める上での仕方のない場合に限っている。ただ存在しているだけでも
十二分に勝ちのある聖賢が、言行によって己が身を取り繕う必要など少しもなく、ただ己の矮小さを
取り繕わんがために言行を飾り倒す小人とは全く非なるもの。同じように文章書いてったって全く違う。

日ごろの作文量では、かえって聖賢などよりも多かったりする小人への批判が、二・五においてはかなり
辛辣に展開されている。朱子にも多少癇癖があったというし、儒者にはかなり怒りっぽかったりなどの
人間くさい側面があって、そこが坊主などとは明確に異なる。喜怒哀楽のない状態なんていつどこでも
保ってられるもんじゃないから、お寺に籠もっているわけにもいかない儒者の場合は、情念が破綻して
悪念と化さない範囲での情感の吐露は存分に認められている。思いに邪すらなければ、怒りもするもんだ。

61:井上筑後守
09/06/08 21:51:39 0
「明に非ざれば則ち動之く所無く、動に非ざれば則ち明用いる所なし」
(同文庫「近思録」二・一二より)

正しい知見がなければ正しい行動も為しえないし、行動しないんなら当然知見も用いられない。
ただ存在するだけでも価値のある聖賢とて、あくまで実用されることを前提には置いている。
いかなる名刀といえども、やはり斬るために存在することには変わりなく、「無用の長物」で
あることは決して良しとされない。実用にも値してこそ、ただ存在するだけでも価値がある。

それでいてやはり朱子学は不用意な行動は控える。「知行合一」の陽明学と比べて、あくまで
善知の後の善行を重んずる。風が寒風や暴風にもなるのと同じように、行動が劣悪であることなど
いくらでもあるのだから、行動第一思考第二ではただ体育会系になるだけでなく、悪人にすらなる。
何の見境もない行動のための行動は、少なからず悪行のための悪行である部分を内包してしまう。
病原菌や塵埃を内包する有覆無記の風にもなってしまう。今一度行のための知が見直されて然るべき。
知行分裂は最悪だし、知行合一は理想的だが非現実的なので、せいぜい善行のための善知の蓄えに勤しむ。
行動に移そうと思えば移せる善い知見を蓄えて、行動するとなれば純良となるように備えておく。
知と行の実用的かつちょうどいい関係性が朱子学においては研究されている。

62:井上筑後守
09/06/08 22:55:08 0
「懈意一たび生ずれば、便ち是れ自棄自暴なり」
(同文庫「近思録」二・三五)

怠け心(懈意)がいけないなんてのは、誰にでも分かっているようなことだけども、
しかもそれが「自暴自棄」ですらあるという、厳しい格言。

性とはまた別のものとしての情が行き過ぎて、自暴自棄と化すことが悪の本質であると、
道体篇第一章などにも書いてあったが、それは現実の状態でいえば「怠け」に値する所で起こる。
他者の利益を収奪して手っ取り早く食いつなごうだなんて犯罪の発端も、堅実な労働を忌む怠惰意識にこそある。
せっせと勉強したり働いたりする人間には怠惰意識がなく、故に犯罪に手を出すこともない。
犯罪者でも詐欺活動に邁進したりすることはあるが、たとえどんなに行動的だろうとも、
犯罪者というのはより根本的な部分で怠惰的である。堅実な労働を忌むこと、無職者以上ですらある。
犯罪者が真っ当な労働に就き直すためには、長期のお勤めなども必要になるから、無職者以上に真っ当な労働から
逃げ続けている。怠惰は行動をしないことに止まらず、犯罪という行動によってより積極的にすらなり得る。
だから「怠け心は悪の発端である自暴自棄にすらなる」といえる。犯罪者の本質に怠惰意識もあるから。
全く根拠もなく断定しているのではなく、理由があってのこと。何もしないことが犯罪だなんて妄断とは違う。

63:井上筑後守
09/06/08 22:57:22 0
「人力行を要すと謂う。亦只是れ浅近の語なり。人既に知見能らば、一切の事皆な当に為すべき所、
必ずしも著意するを待たず。纔に著意すれば、便ち是れ箇の私心有り。這の一点の意気、幾の時に能え得ん了」
(同文庫「近思録」二・五四より)

「まずなんでもやれ」という、それは浅はかな言。知見がよく満たされれば、自ずとすべきことは見えてくる。
そうでもなく無理にやろうとすれば、私情が先走ってさほどのこともできやしない。

まず知見があり、次いで行動がある。知行合一の陽明学とは大いに異なる朱子学の主知主義。
一方で決して実用性のない知識の偏重も認めない。善用に値する知識こそを選別蓄積して善行の糧とする。
程度の嗜まれた知見の尊重、微妙かつ理想的な朱子学の本髄。真の理想は常に微妙な所にある。
ドカンと一発キメちまってそれでお仕舞いなんてのは、小人の嬉しがりには格好のエサになるものの、
真の理想を究めんとする聖人君子の嗜好するところではない。万古不易なる天下の道理に親しんで
大満足の境地に達する、肥えた舌や目や耳を持つ、大人の追い求める微妙壮大なる本質。食い物は甘けりゃいい、
見た目は派手ならいい、音はキンキンしてりゃいい女子供には、食べたり見たり聞いたりしてみた所で、
やっぱりその価値が分からない、高尚故の楽さ楽しさ、低俗な楽さ楽しさよりも普遍的に楽で楽しくもあるその価値が。

64:井上筑後守
09/06/08 23:01:42 0
「古の学者は己れの為にし、其の終りは物を成すに至る。
今の学者は物の為にし、其の終りはは己れを喪うに至る」
(同文庫「近思録」二・六六より)

>>51-52でも挙げたような、「物」への関わり方の変遷。昔の学者ほど自制によって物を支配していたんだが、
今の学者は始めから物の傍観的な分析に特化して、我を見失って逆に物に支配される有り様となる。

800年前の宋代にもすでに古今の比較からそのような憂慮がなされていた。昔であればあるほど人間は自制的であり、
今になればなるほど物質的となっている、人間の歴史ってのは概ねそうである。今の世の中が物質の洪水に
見舞われているのも、別段西洋ばかりが原因ではなく、人類全体での精神的劣化の結果ともなっている。

ただ、そのような物質優先精神劣後を「ダメなもの」として、物質の洪水のせき止めに特化していたのが
朱子学を始めとする東洋教学なのに対し、却って「素晴らしいもの」として礼賛推進してきたのが洋学である。
規矩準縄を文様や礼節のような、精神性の養育に用いてきたものと、奴隷制や原爆のような物質の氾濫に
用いてきたものと、根幹になっている規範(規矩準縄)は同じであった上で、善用か悪用かに二分化してしまった
のが人類の歴史である。善用が先んじ悪用が遅れたぶん、人類はまだ生存を保てている。悪用が先で善用が
後だったりすれば、とっくの昔に人類は亡んでいる。そうではなく、縄文土器やヴェーダや四書五経が先に生まれ、
ピラミッドやホメロスや聖書が後に生まれたからこそ、時間差の猶予で、人類は物質文明の氾濫の中でもまだ
生き延びられている。物質しか必要とされない世界に人間は必要ない。ただ精神の持ち主であるが故に、
物質とは明確に違う人間が、物質に先んじて生まれた確固たる証拠を持つからこそ、人間はまだ健在である。
そしてこれからも健在であり続ける。物質主義が亡んだとて人間は生き残るが、逆はあり得ない。
精神を持つが故に、ただの物質よりも宇宙の真理や天下の道理と近い所にいられもする、人間ゆえの特権があるから。
精神的人間であるが故にこそ、天地万物と己を親しくする機縁にも恵まれている、その優秀さの持ち主であるから。

65:井上筑後守
09/06/08 23:26:24 0
「性静なる者は以て学を為す可し」
(同文庫「近思録」二・六八より)

物静かであってこそ学びなさい。ゴチャゴチャと雑念に囚われている内は
正しい知識と誤った知識の見分けも付かず、却って正しい知識を捨てて誤った知識を
追い求めたりもしてしまう。自分自身も昔はそうだったからこそ言えること。
カビたご飯の七色変化よろしく、見た感じ聞いた感じのド派手さこそを考え抜いている
悪い知識と比べれば、本質的な真理や道理を捉えるに特化された善い知識は地味にも見える。
悪い知識の騒がしさに馴らされている現代人の思考も、急には止まれない自動車の如く、
せわしく動き続けている場合がほとんどだから、物静かであることには努力すら必要とする。

朱子学で座禅に倣って始められた静座もそのための一つの手段。結跏趺坐までいかなくとも、
落ち着いて物事を考える心の余裕を、静かに座って蓄えてみる。座ったとて物書きなどの仕事
に追いやられたんじゃ動き回ってるのと同じ。何もしないでただ静かに座る。やってそうで
誰もやってないこと。意図しないで自然とそうなることなど今の時代にはまずないので、
何もしない時間を作る一つの名目として、静座を目指してみるのもよろしい。
あたかも鯉が滝を登るかのように、現代人には至難の業なれど。

66:考える名無しさん
09/06/09 01:34:09 0
東洋 西洋って分け方が古いな

67:考える名無しさん
09/06/09 01:43:42 0
まあ何もねーよほんっと荒れ野だ。それから荒野にたった人間を
まちでみるとみんながんばって外国人と付き合ってたりしてんだ。
ひとりだけ幸せになるわけにはいかねーもんなあ。
だからはやく持ち場につけ

68:考える名無しさん
09/06/09 02:55:26 O
>>1の定義だと、人類の七、八割方が東洋になるからな。
「一般人類社会」である所の、東洋の亜流である
西洋だけを除け者にした、半ばイジメ同然なスレだ。

全人類社会の中に西洋という小さな部落があって、
それ以外は全部東洋。釣り合わないっちゃあ釣り合わない対比。

常識的に、正統な学問即ち東洋教学となって、わざわざ「東洋」と
冠するまでもなくなるようになれば、それに超したことはない。
お母さんが子供に「早く勉強しなさーい」と促す勉強からして
四書五経や朱子語類になれば、もはやこんなスレもいらない。
時代を先取りしたスレとして、記念に保存される程度で十分。

69:井上筑後守
09/06/09 12:05:07 0
西洋は、今でこそ占有面積も大きく広がってはいるが、自分らの文化
文明の根幹となっている地域(ギリシャ、イスラエル)は極めて小さい。

基本的な文化文明の発祥地たる、中国やインドからして「それぞれの世界」と呼べる
ほどにも巨大であり、合計で西洋全体の人員規模をも上回ってしまうという恐ろしさ。
全く水増しなしで25億人以上の規模を持つ、あまりにも次元の違いすぎる存在。

人類の文化文明は確かに多種多様である。これほどにも次元の違う文化文明が
地球上で共存しているという奇天烈さ。あまりにも濃くて大きすぎる文化文明と、
あまりにも薄くて小さすぎる文化文明との並存。古今東西の基本文献は図書館
などに行けば大体閲覧できるもんだが(イスラム関連は不備が多かったりするが)、
ただ両方ともを読み比べただけじゃ、「同じ文章」であることへのひとしなみから、
濃くて大きいほうの文化文明を見くびり、薄くて小さいほうの文化文明をかいかぶる
傾向に陥ってしまいがち。

そうならないためには、十分な遠近感を以て方々の文化文明に接する覚悟を要し、
それさえできたなら西洋だけを除け者にする必要なんかもなくなる。ただ、元来からの
潜在的価値の落差のわきまえの徹底のために、一時的に濃くて大きい東洋文化文明
を尊重し、薄くて小さい西洋文化文明を忌避の対象としている。遠近感の行き届きにより、
大人には大人に、小人には小人に相応の接し方が自然とできるようになれば、不当な
差別に見えるような区別はなくなる。乾栗陀識が体得されるほどの奇跡ではあるが。

70:考える名無しさん
09/06/09 12:57:46 O
北朝鮮が「ピョンヤンは東洋のエルサレムだ」ってな。妥当な所だな。

東洋には東洋で落ちこぼれがいて、それがちょうど西洋のエリートと同等ぐらい。
全ての東洋社会はさらにそれに上乗せされる。それで初めて
ものの見方が妥当になる。地球人類社会を営む上でちょうどよい知見となる。

日の出ずる処ほど貴く、日の没する処ほど卑しい、聖徳太子やスフワラルディーの
思想哲学にも裏打ちされた、真に普遍的な地球観が完成する。

71:井上筑後守
09/06/09 22:37:14 0
「形して後に気質の性あり。善く之に反れば、則ち天地の性存す。
故に気質の性は、君子性とせざるものあり」
(同文庫「近思録」二・八〇)

人間としての形体を成してから生じる人間ゆえの性よりも以前に、天地万物に即した本性が
遍在している。その本性に比べれば、人間ゆえの性なんてのは性の内に入らないとすら言える。

生殖とは無関係にただ姦淫したいという欲望は、生殖のために性交して子孫を残そうとする
生物としての本性に比べれば副次的であり、最悪の場合「姦淫第一生殖第二」なんて転倒夢想にも
発展してしまったりする。そうではなく、生殖の価値は認めるものの姦淫の価値は劣後する
「生殖第一姦淫第二」の正立論理に基づけば、副次的な気質の性を捨てて天地の性を採る英断となる。

今の人間が一般に「性」と聞いて思い浮かべる性もまた、朱子学の言う性即理に基づいていて、
生殖第一姦淫第二という本然の性にまで遡れば、性も確かに理に適ったものであることが分かる。
レイプだの売春だのといった、姦淫が独り歩きし過ぎたが故に引き起こされる性犯罪もまた
生殖という本然の性を蔑ろにした好色の行き過ぎによってこそ引き起こされる。性も情も併せた
心こそは全て理であるとする陽明学と比べて、情念が姦淫第一生殖第二のような致命的な転倒も
引き起こしかねないことを考慮に入れているから、朱子学は情を抜きにした性のみを理であるとする。

巷で言う性問題ってのは、情念が本性を蔑ろにしている状態こそを言うのだから、本当は性問題
ではなく「情問題」ですらあるんだが、言葉の使い方が錯綜しまくっている現代人にはなかなか
納得しにくい話となっている。漢字や日本語には本来厳密な定義が備わっていて、漢文や古文
だけに基づけば少しも誤った言葉遣いなどないんだが、基本文献からして誤謬の塊である洋学が
導入され始めたことにより、言葉遣いから大間違いであるものがそこら中に氾濫しきっている。

言葉遣いがグチャグチャである虚しさを物質の構築で紛らわしたりもする、元来は一切東洋人
には必要のなかった悪癖が、わざわざ導入されて今に至る。言葉から大満足だった時代が懐かしい。

72:井上筑後守
09/06/09 22:40:33 0
「天に非ざる莫し。陽明勝てば、則ち徳性用いられ、陰濁勝てば、則ち物欲行なわる。
悪を領して好を全うするは、其れ必ず学に由るか」
(同文庫「近思録」二・八二)

誰しもは天(太陽)からの光を浴びることで生じた存在であり、そうでないものなどない。
より日光に照らされて明るく生きたなら、徳性が養われるものの、十分な日光を受けることなく
暗く濁った所で燻ってたなら、本来あるはずの徳性も萎びて、物欲ばかりが溜め込まれていく。

スフワラルディーの照明論と同じで、やはり日光の明暗に基づいて人間性の明暗善悪も決まると
朱子学でも説明されている。灼熱の炎天下で生き抜いたアラブ人、太陽に最も近い地上最高峰たる
世界の屋根、ヒマラヤを擁するインド・ネパール人や中国人、太陽の出ずる処に居を構えた日本人、
段階は違えども、いずれもが太陽に親しもうとする何らかの特性を備えて来ていて、故にこそ、
一概に悪くなかったり善かったりする文化文明の発展に貢献してきているんだが、そうであること、
天に親しむ善良さの価値が、陰鬱な物質主義を嬉しがる近現代の世界に置いては全くの反故にされ、
ピラミッドの奥底で独りおびえ隠れる陰気な精神のほうが、むしろ貴重なもの扱いされたりしている。

光を愛する善良さを推し進め、闇を好き好む劣悪さを鎮圧するためには、勉強がやはり必要である。
儒学もそうだし、仏教もそうだ。アラブから日本に至る「光明の弧」における学問であれば、
光を愛し闇を憎む程度の方向性は厳密に付けられている。もちろん闇を好み光を嫌う異学雑学は
却って逆効果になるわけで、今はもうそれは洋学のことだと分かりきっているから、取捨選択に躊躇
はいらず、適切な勉強によって光明に親しむ正善さを養う決断を迷う必要はどこにもなくなっている。

73:井上筑後守
09/06/09 22:43:17 0
「其の心を大にすれば、則ち能く天下の物に体す。物未だ体せざる有れば、則ち心外有りと為す。
世人の心は、見聞の狭きに止まる。聖人は性を尽くして、見聞を以て其の心を梏せず、其の天下を
見ること、一物として我に非ざる無し。孟子の心を尽くせば則ち性を知り天を知ると謂えるは、
此れを以てなり。天は大にして外無し、故に外有るの心は、以て天心に合するに足らず」
(同文庫「近思録」二・八三)

心が広いことが、そのまま天地万物との合致となる。合致できない限りにおいて「外界」を認識する。
天地万物の理に沿う壮大さに比して、狭量な見聞に止まる矮小さは、外界へのコンプレックスを抱かせる
原因となって、その外界への「侵略」を考える無様さへとも発展する。十分に心を広く持つことで、
外界との圧力差を感じない万物斉同の境地に達し、外のない世界観を抱く。重力加速度の大きさからして、
大部分の物質は地面に止まらざるを得ないこの地球上に、人類の外界を持たない世界観は確立される。
宇宙には宇宙でまた別の世界観が適用され、これもまた外のない宇宙観となる。最善を尽くせば
自ずと人間の世界観は外のない境地に達してしまう。無上の満足を得られる心の広さは確かにある。
そこまで到達できない狭い心の持ち主が、外を侵さんとする。心理学でいう「外向型」の人間よりも、
実は「内向型」の人間のほうが心は広い。語感上逆に思えるこの心理学用語も、やはり不適切なもの。

もはや外側を想定もできないほどに万物を考慮し尽くしているからこそ、外を侵そうなどとは考えない。
天下の道理や宇宙の真理とも完璧に合致している大満足の境地。全く人間に可能なものであり、
何千年も前から東洋ではそれこそが着実に嗜まれてきた。己の小ささに不安を抱いて、外側へと侵略を
目論まねばならないザマのほうが、絶対的に後輩であり、しかも少数派でもある。アラブから日本までの、
面積ではむしろ狭めな領域に地球人類の大部分が属しているのも、それで満足ができていたからこそによる。
太陽の光に親しみ、善良さを養って心を広く持つ、人として大満足な境地を恒常的に享受できているから。

74:考える名無しさん
09/06/10 06:34:38 O
何もしないより楽で楽しい善良さは東洋だけにあり、
何もしないより辛く苦しい劣悪さは西洋だけにある。

両者の格差は何もしていない人間にとってこそ顕著であり、
楽しかろうが辛かろうがとにかく動き回る人間にとって
ほど分かりにくいものである。

苦楽の両極端への奔走と比べれば、何もしないことは死に近く、
死を恐れる者にとって、何もしないことほど恐ろしい生きた人間の有り様はない。

何もしない人間とて、生きてはいる。生きた上で何もせず、無記故の無苦楽から
純善故の純楽への僅かな伸び上がりをしては、また元へと戻る生活を嗜む。
基本となっている素地が、死に近似する無記無苦楽であるだけで、
意図的に善悪苦楽を享受する自由度はむしろ行動依存者よりも高い。

常にADHD気味の状態でしかいられないよりは、静動自在であったほうが
善悪苦楽の享受すら思いのままとなり、善楽と悪苦の分別も明確となる。

本当に全く何もせずにいろというのではなく、
何もしない所に然るべき人間の有り様を見い出し、
そこから自由自在な行動へと移って行く、
立ち居振る舞いのメリハリを付ける所から
いま一度人生をやり直してみればいい。
ただそれだけのこと。

75:井上筑後守
09/06/11 18:28:24 0
「善を明らかにするを本と為す。固く之を執れば乃ち立つ。之を拡充すれば則ち大、
之を易視すれば則ち小。人能く之を弘むるに在る而巳」
(同文庫「近思録」二・九三)

儒学の根本は善の解明にこそあり、これを堅持することでまず道徳が確立される。
その上で己を磨き上げていけばより大きくもなり、適当にほっとけば小さくもなってしまう。

道徳には一定の法則があり、まずこの法則に到達できるか否かで極端な落差を生む。
「食人も人間の生贄もいけない」というような、道徳の普遍法則の把握に辿り着けるか否か、
辿り着けない限りで救いようのないカルト宗教にのめり込んでしまったりもする。

かといって法則に辿り着けたらそれで終りだなんてことはなく、何時如何なる場合においても
法則の把握を堅持し、より多大なる普遍法則に与かることが道徳者の積極的な責務となる。
賢者はそれを努力によって実現し、聖人はもはや努力するまでもなく自然とその境地にいる。
ここで道徳確立の大小を比較強調しているのは、聖人とまではいかない賢者に対する教訓といえる。
適当に置いておいたんじゃ取りこぼして矮小化してしまいかねない自らの徳性を、
さらなる努力によって養生拡大していけというお達し。最低限の道徳者(庸徳者)程度の
自覚しかない自分個人にとっても手痛い教訓となっている。仏道の聖徳とまではいかずとも、
儒家の道徳でも細長く険しい道があるものであり、決して見くびってはならないものといえる。

76:井上筑後守
09/06/11 18:31:42 0
「内外を合せ、物我を平しくす。此に道の大端を見る」
(同文庫「近思録」二・一〇五)

内心と外物との流動性の合致により、物我一理の境地に達し、大体の道徳法則への視野が開ける。

善の解明が道徳の確立ともなるあたり、物我一理こそは善の究明でもあるといえる。
儒家に比べれば神秘性が高いとはいえ、ヒンズー教の梵我一如もまた、善の本質を究めるもの。
諸法無我とすらなる仏者の境地は、もはや善の究明ですらなく、善悪への法愛を断ち切った先にある
普遍的な真理法則の究明に特化される。儒家もヒンズー教もゾロアスター教も善性への特化が
前提としてあり、善悪すら達観してしまう仏教の教学は東洋教学内でも別格のものといえる。

概ね善良である東洋教学の中に、さらに善悪の公平な審査の役割を担う仏教という流派が存在する。
善良主義寄りの審判だから、善の側に贔屓目であると思われがちになるが、善であるということは
事物の道理に明らかであるということであり、悪であることは逆に道理に反するということなので、
悪ではない善の側からこそ善悪の等分な判定もまた可能となる。悪の側からでは善悪の審判は
善悪のみそくそにしかならない。清濁併せ呑んで両者を公平に審判する、「公平」という言葉の
定義上からも、善良である側の審判でなければ公平とはならない。無理矢理悪の側が裁判などを
開いたところで、それは公平ではない。公平さは始めから悪ではなく善の側のものだから。
借り物でしかない公平さはいつだって根本的に悪贔屓だった。東京裁判もパール判事のみが
公平な審判を下した。公平であることの実績は今もうすでに善良である側にのみあり、
劣悪である側にはない。大量の不当利得を銀行に預金させているスイスも少しも中立などでない。
最低でもムスリム世界裁判所に委託する所からしか、公平な審判などはあり得ない。悪いこと
ばっかしてきた負の実績などを審判能力とは認められず、むしろ司法権の剥奪理由とすらなる。

77:井上筑後守
09/06/11 18:34:11 0
「人の血気固より虚実あり。疾病の来るは、聖賢も免れざる所なり。
然れども未だ古え自り聖賢にして、学に因りて心疾を致すものを聞かず」
(同文庫「近思録」三・四より)

人間の身体としての壮健や疾病は、聖賢だからって完全に制御できるってもんでもない。
ただ、正しい学問によってノイローゼを被るだなんて話は未だ嘗て聞いたことがない、という。

勉強でノイローゼになるってのは、近ごろの学歴社会などではよく聞かれることだ。
それもやっぱり本物の勉学だからではなく、学問のフリした泥棒講座なんかを勉強させられるから
病気になるだけの話。人間の善良さ正しさを養う本物の学問であれば、病気になるどころか健康となり、
毎日を伸びやかに煩いなく過ごせるようになる。もちろん致命的な問題に接した時の
対応の仕方なども養われて、悪を懲らして善を勧む、人間としての正しい振る舞いも癖付けられる。

思考と言及と行動と、全てが正しく善いものとなる。ゾロアスター教に限らず全ての東洋教学は
一概な正しさ善さこそを、人間の全ての有り様に対して付与する。正しさ善さを付与するようなフリを
して、その実、裏で犯罪に代表される悪思悪言悪行を促進するような劣悪な学問モドキも、今の世の中には
沢山あって、そういうものを服毒すれば余計に不健康となって、自殺願望すら芽生えることこれ請け合い。
自分も昔はそうだったからこそ言える。悪い情報ばかり取り入れて二進も三進もいかなくなった
自分自身の経験からして、そういう悪い勉強を決してしないことをお勧めする。悪い勉強まで取り入れて
善い学問によって浄化する、密教のごとき荒行も不可能ではないが、極めて困難なものなので、
よほどの覚悟でもない限りはお勧めしないし、失敗したからといって恨みっこなしでお願いしたい。
今現在も多くの人間が陥っている、悪の苦しみの地獄に興味本位で入ったりはしないよう喚起しておく。

78:井上筑後守
09/06/11 19:29:38 0
「問う、人学に志有り、然れども知識蔽固し、力量至らざれば、則ち之を如何せん。
曰く、只だ是れ知を致せ、若し智識明らかならば、則ち力量自ずから進まん」
(同文庫「近思録」三・一一より)

生半可な知識を実行に移すぐらいなら、ただ知識を蓄えることに特化しておけ。
知力が満たされて道が開けたときに、自然と実行性もまた付いて来るものだから。

陽明学の知行合一とは明確に一線を画す、伊川らの言に基づいた朱子学の主知副行主義。
行動的人間には凡そ三種類あり、一つは自分自身の知見は全くなくただやらされることをやるだけの者(一番目)、
ある程度は自分自身の知見に基づくが、知見が不十分であるが故に行動も何かがおかしい者(二番目)、
自らの行動を、厳密に考え抜いた自らの透徹した知見によって為す者(三番目)とに分かれ、
朱子学も陽明学も二番目を排して三番目を選択し、一番目にしか与かれない下民を先導しようと
考えていることは共通している。ただ、二番目の人間がそこら中に蔓延っている今の世の中で
知行合一なんかに基づいたんでは、十分な効能を発揮する余地がない。よく見聞を広めて知識を養った上で、
十分な効能を持つ実行にこそ移す。陽明学と比べて一見した魅力は低くとも、確かな現実性に基づいている
その堅実さが、極東社会を朱子学一色に染め上げる程の功績も残した。

表向きは大政奉還などにより儒家教学が排された近現代においても、本当に正しいと確認された
ことのみをなす堅実さが多くの極東人に潜在的に備わっていて、危うきに近寄らぬ君子の素養が徹底されている。
そうとも知らない外人は、不可解に穏健な日本人のことをただ臆病扱いしたりもするが、それこそは
東洋の叡知に基づいた、嘗ての教育の賜物であるのであり、厚かましさが欧米人並みかそれ以上であるような
中韓人らのほうが、実は朱子学のような真の叡知からは遠ざかってしまっている。日本人でも相当に劣化している
人間も多くいるから、あまり他国を批判できたもんでもない。ただ自らの研鑽にこれからも専念していく所存。

79:井上筑後守
09/06/11 19:31:53 0
「凡そ文字を看れば、先ず須らく其の文義を暁るべし。
然る後其の意を求む可し。未だ文義をば暁らずして意を見るもの有らざるなり」
(同文庫「近思録」三・二三)

文章はまず書いてある通りの意義こそを重視せよ。
その上で含意を読み取るような便宜を図れ。

中学や高校の国語の授業でも、裏読みや行間読みが教えられたりする。教えている文章も推理小説とかだったり
するんで、そりゃあ裏読みや行間読みがなけりゃあ下手な読者扱いされてしまうだろう。でも、そのような
アクロバティックな読書法は、四書五経の如き大説に対しては却ってうがち過ぎた読み方となってしまう。
食人はダメ、人間の生贄もダメ。まさにそこに書いてある通りのことがすでに限り無く重要なことであり、
寓意を読み取るような無駄手間には何の意味もない。三文小説あたりならそれでよくとも、大説はよくない。
ただでさえ言い伝えることが困難な壮大な教えを、わざわざ不当寓意なんかを含ませつつ仄めかす余裕なんか
どこにもないから、誠意的に記された文章はまずその誠意に沿って、文面の価値を重視せねばならない。

そのような偉大な大説を三文小説などと比べる場合にも、寓意ではなく誠意の比較こそを旨とする。
寓意である部分を比較したりしたんじゃ、いちいち寓意の含ませまで考慮していない(そんな余裕はない)
大説のほうが面白くないということになり、寓意満タンな三文小説のほうが面白いということにすらなってしまいかねない。
文章の寓意を読み取るなんてことは、文章オタクにとっては楽しみかもしらんが、文章によって現実の徳性こそを
養うことを目的とする士人大夫には全くつまらなく、しかも現実の徳性を養うことのほうが、文章遊びに耽溺する
ことなどよりも普遍的に遥かに楽しいもの。虚実両者を踏まえた上で、やっぱり本当に圧倒的に楽しい、現実の振る舞い
の正しさのために文章も読む、その場合に適切な読書対象となる大説の読み方は、寓意よりも文義の誠意であれ。
重箱の隅をつつくような意地汚い読み方は大説を読む時には捨ててしまえ。小人として大説を読むのはやめろってこった。

80:井上筑後守
09/06/11 21:26:40 0
「吾が道は釈氏の、一見し了って便ち空寂に従って去くが如くなるに非ず」
(同文庫「近思録」三・四二より)

釈氏とは、仏陀こと釈尊のこと。中国思想では、儒教も仏教も道教も全て等分に見定められ、
その中で優位を競い合ったりしている所が、神儒仏に権威性が定まりきっている日本とは違う。
一見一聴して悟りを開くというのは、仏教の中でも特に禅に見られる仏心主義であり、
重層な階梯を追って悟りを開く密教などとはまた方向性を異にしている。朱子学が興隆した宋代に
仏教と言えば禅だった。中華風仏教である禅を対抗馬として、朱子学は学問の王道を説く。
道教はまだ、老荘思想が親密な影響を与えている一方で、禅は完全にライバル扱いとなっている。
一切衆生悉有仏性、三歳の稚児にも教えを乞い、八十歳の老人にも教えを説かんとする自由思想が、
窮理のための恒久的な努力の必要性や年功序列を重視する、宋儒の立場からすれば受け入れられない。
学問の王道はそのような天才志向によらず、日進月歩の勉学によってこそ嗜まれるもの。
天才は愚か、秀才すら認めない。知能指数の高低などで道理の把握は左右され得ない(かといって
極端な白痴などは除く)、善悪禍福をわきまえる大人の知見は、本当の大人でないと理解されない。
20億人の幼稚園児の知見も、たった1人の大人の知見に及ばない。儒学ならそうである。
禅や密教ならまだ別として、宗教である以上に学問中の学問である朱子学がそこに威儀を認める。

81:井上筑後守
09/06/11 21:30:44 0
「来書に云う、易の義本と数に起ると。則ち非なり。理有りて後象有り、象有りて後数有り。
易は象に因りて以て理を明らかにし、象に由りて以て数を知る」
(同文庫「近思録」三・五〇より)

易占によって示し出される大義は、六十四卦の数理構造によって導き出されるのかといえば、そうではない。
まず、数がどうだというのではない、定性的な理解があって形象があり、その次にやっと定量的情報としての数がある。
易によって形象を扱い、それによって定性的な理解に照らし合わせ、ついでに定量的な数量情報も知らされる。

仏教もまた、数的な概念論を「取るに足らないもの」として無記に付し、数などとは全く別の所にある
善悪禍福を論及の対象とする。人間に限らず、動物や植物に至るまで、あらゆる有機的生命体は、自然法則に対する
定性的な理解を持ち、己の成育を最適たらしめんと努力している。まとまった物体を一個二個と数え上げる
定量的な情報処理は、天才チンパンジーあたりから始まって、人間はこれを莫大に扱っている。
高度の知的生命体であるから、定量的な情報処理が可能である一方で、定性的な理解もまた一貫して備わっている。
定性的な理解を蔑ろにすることで、定量的な情報処理を得てきたのではなく、定性的な理解のついでに
定量的な情報処理も発展させてきた。定性的であることが本であり、定量的であることが末である。

数的であることが第一であって、定性的な理解が第二だなんてのは、数学者が数学をやっている時と、
コンピューターあたりにのみ適用されること。日々の生活ともなれば数学者も定性的な理解に頼らざるを得ないし、
道徳か犯罪かといったような善悪の問題に関しては、数的概念論を全くの無記に付さねばならない。
数は無記であり、しかも無覆無記であるべきもの。善悪に関連さすことで有覆無記となることも避けるべきこと。
清濁併せ呑む陰陽五行も、定性と定量両方を扱った上で、定性を優先し定量を劣後する。数であることはあくまで二の次。
数の魔力に囚われることこそは、金融主義や物質主義に没落してしまう原因中の原因ともなっているから。

82:井上筑後守
09/06/11 21:33:06 0
「釈氏は天地を錙銖にす、至めて大なりと謂う可し。然れども嘗て大を為さざれば、
則ち事を為すことは得ず。若し之に一銭をあたうれば、則ち必ず乱れん」
(同文庫「近思録」三・七一)

仏教の世界観はまことに甚大で、百千万億の仏が毛穴の中にいるといった具合。李白の白髪三千丈も真っ青。
だけどもそれらは全て、世俗とのしがらみを断ったお寺の中でのみ保全される代物。
実際に為政に参加して思想哲学を実践することなどはないのだから、極めて脆いものであると言える。
一銭でも恵んでやれば取り乱すだろうという、ちょっと見くびり気味の仏教に対する批評である。

大乗仏教なら衆生の救済も念頭に置いているし、布施も一つの慣習として取り決められている。
中国に入ってきた仏教の大部分も大乗なんだから、的外れなんじゃないかと思われるかもしれないが、
何しろ儒教は出家も超俗も認めないバリバリの仕事人スタイル、今でいう官僚や政治家にも値するものを
創始者の孔子からして兼任していたわけで(ただしそんなに目立った成果はない)、実用性のない思想哲学は
どんなに高尚で立派だろうとも賞味するに値しないものとする。総力を挙げて仏教への帰依を誓った日本の
十七条憲法に値するような統率規範もない中国においては、相当に直接的な仏儒の対決が垣間見られ、
それが日本ほどの国を挙げての教学の凝縮が見込めない原因になる一方で、傍目には面白いものとなっている。
完成品をただ味わうのとは違い、試行錯誤によって新たな教学を精製していく活気が、多少羨ましくもある。

83:考える名無しさん
09/06/13 07:09:13 0
この漢スプラッシュは真似できないな

84:考える名無しさん
09/06/13 11:29:59 O
女は子を産むお人形さん。

高台院や芳春院のような婦徳の持ち主であれば、
夫に気兼ねせずどんどん自分から意見を言ってもらっても構わないが、
築山殿や淀殿のような姦婦悪女である以上は、徹底的に言行を慎ませて
不吉の種と化すのを防ぎ止める以外に余地はない。

名君名将に女運がないのは諸葛孔明の頃からの習わし。
せいぜいてなづけられるまで暴れ回れ暴れ馬。

85:井上筑後守
09/06/13 20:00:25 0
「虚器に水を入れば、水自然に入るが如し。若し一器を以て之に実たすに水を以てし、
之を水中に置かば、水何ぞ能く入り来らん。蓋し中に主有れば則ち実つ、
実つれば則ち外患入る能わず、自然に事なし」
(同文庫「近思録」四・一〇より)

水で満たされた器を水中に投入しても水が入り込んでいかないように、敬意や忠誠で本心が
満たされた人間は、外界から色々と鬱陶しいちょっかいを出された所で、惑うことなく自然といられる。

敬意や忠誠とは、本心の内圧のことであり、あたかも酒に酔うかのように徳で満たされる状態を指す(詩経)。
ちょっと敬ってみました、忠誠を誓ってみました程度のお試しによって本心が徳で満たされることなどはなく、
全身全霊を呈しながら敬いや忠誠に専念して、初めて徳で満たされることとなる。

このことを逆に「己を虚しくする」という。徳に満たされることは却って己を虚しくすることとなる。
徳性と我執とは相反した関係にあり、どちらかを立てればもう一方が蔑ろにされる。私情を排せば公正さは増す。
単なる自我の喪失とは違って、公共性という確かな主体性のために、我執に右往左往する副体性を捨てる。
自我の確かさからしても、自我喪失状態の白痴<我執の鬼っ子≪物我一理の大人という関係にあり、
公共性に即した大人の自我は、主体性を見定められないガキの自我などよりも確固普遍たるものとなっている。
そして、公共性と一致した大人の自我を固めるためにこそ有効となるのが、敬意や忠誠によって我が心を実たす、
己を虚しくする志しである。己を虚しくすれば自我は却って確固となる。逆に思えるこの微妙さにまず気付くこと。

86:井上筑後守
09/06/13 20:02:35 0
「敬して失うこと無きは、便ち是れ『喜怒哀楽の発せざる之を中と謂う』なり。
敬は中と謂う可からず、但だ敬して失うこと無きは、即ち中なる所以なり」
(同文庫「近思録」四・一八より)

敬意に本心が満たされることで、外患によってその本心が左右されることがなくなる。
ここに中庸の真髄もある。敬意を持つことは、土下座などの恭しい行動によって現れる点からも、
中立的というよりは、あえてへりくだる一概さを持っている。でもその一概さが、中正を欠いた偏重で
取り巻かれている現実の世の中と相殺されることで、総合的に見れば本心の揺るぎなさとなって現れることとなる。

不誠実や蔑みが蔓延している一般社会の実情に応じて、一概な誠実さや敬いを嗜むことで結局は中正を得る。
傍観者に止まらない、社会の内側での主体的な活躍者として振る舞って、しかも中正である。
傍観者として観察が中正であることは、科学者などが専門としているところ。しかし、観察の正しさを保つために、
傍観者としての科学者たち自身の振る舞いは無責任なものとなり、原爆開発の推進に署名したりもしてしまう。
それは少しも社会人として中正ではなく、自らの立場を特権階級に追いやるものですらあるので、
そんな人間が増大する社会は、中正さを欠いた格差社会となること必至。じゃあ学問なんか捨ててしまえ
というのかといえば、もちろんそんなこともない。科学のような観察の中正さばかりを偏重する学問以上に、
社会人としての振る舞いが中正であることを重んじる学問を優先すること。もちろんそれは儒学などのこと。
主観性が迷妄と化してしまうカルト宗教(聖書教)に反発することで発展してきた科学が、
自らの社会人としての無責任さを反省し、主観的でありしかも公正である完全なる学問に道を譲る。
本質的に無記を扱う科学が、無闇に膨張して有覆無記と化す危険性もまたそれによって制御される。

87:井上筑後守
09/06/13 21:10:21 0
「道に入るには敬に如くは莫し。未だ能く知を致して敬に在らざるもの有らず」
(同文庫「近思録」四・二五より)

道を知るためにはまず敬うことが一番。道をわきまえる前からとにかく敬っておけ。
結局道をわきまえた所には、自ずとあふれ出る敬意が生ずるものであるから。

知識には道徳的である場合と犯罪的である場合とがある。真正な道徳学たる儒学で「知」といえば必ず
道徳的な知識のことを言う。泥棒講座でしかない犯罪的な知識を蓄えれば、敬意は増すどころか減って行き、
逆にできる限り他者を軽んじようとする侮蔑のほうが増して行く。道徳と犯罪が綱引きの両端であるように、
尊敬と侮蔑もまた綱引きの両端たる。一概に敬いたければまず蔑むことは遠ざけるに尽き、
その上でどうしても蔑まなければならないような悪人のみを蔑む。犯罪も侮蔑も完全に捨て去って、
一概かつ高尚な道徳(聖徳)や敬意を育む仏教とは違って、儒学はかなり道徳尊敬と犯罪侮蔑の衝突を
考慮に入れていて、悪が存在するからこそ成立しうる勧善懲悪に奔走している。それでいて儒学の
本分は道徳や尊敬にある。純善として純悪や善悪みそくそをやっつける、正義の味方故のこの上ない享楽。

変な言い方だが、儒家は「悪の責任」を悪者に丸投げする。悪いことを考え抜いてやらかすせせこましさを
自分たち以外の悪者に任せきって、自分たちはそのやっつけに徹してしまう。非常に無責任な純善である。
元より善であることは責任的であることなので、善が無責任であるとは、比較的責任が軽いということ。
完全に善のみであり、しかも善故の真理として独立独歩たる仏教などと比べて、善ではあるものの悪を
やっつける方面に得意である。刹那的なのに、悪も少なくない現実に応じて永続的でもある、説明困難な
完全中間管理職としての特権。そこに13億を超える東ユーラシア大陸の民が潜在的に群がっている。
理解することがすごく辛いのに、無視するわけにもいけない、一種異様な領域がいま認知された。

88:井上筑後守
09/06/13 21:12:08 0
「人を動かすこと能わざるは、只だ是れ誠の至らざるなり。
事に於いて厭倦するは、皆な是れ誠に処すること無きなり」
(同文庫「近思録」四・二八より)

誠実さが足りず、うまく人を動かせないというのは、特に説明するまでもない常識。
ただ、その己の至らなさ故に動かない人々への逆恨みから、相手の弱みを握って強制的に動かすような、
犯罪行為による人事を目論もうとする問題が今では頻発している。誠実さによって人間関係を確立する
手堅さがどこにもなく、後ろめたさだけでほとんどの人事が左右されている現状、これが「厭倦」を生む。
何もかもがしょうもない、つまらなく苦しいものばかりでしかない、ただ人間関係のしがらみだけによって
必要でもない労働を続けている、悪い仕事ばかりに関わらされる苦悩、始めから誠実であればそんなことはない。

続けることがつまらなく、切ったほうが楽しい、しがらみによる人事。
続けるほうが楽しく、切ったほうがつまらない、誠実の限りを尽くした人事。

敬意という本心の圧力が己の虚しさとなり、外面上の虚しさは引き付けあって不満のない人間関係を築き上げる。
敬い尽くした時、もちろん誠実さの限りも尽くされている。心身の内外に対する考察を尽くした学問は、
主観客観の分裂を超えて、人事を含むあらゆるものを最適な方向へと導く指針を明示している。

89:考える名無しさん
09/06/13 21:41:42 0
>>84
無能で浅はかなダメ人間の、精一杯のあがきなんだ、それ。
有能な人間なら考えもしない事だよね。余裕がない事で。
コンプだらけの汚い自意識晒してご苦労さん。

90:井上筑後守
09/06/13 22:06:09 0
「人の心は常に活せんことを要す。則ち周流すること窮まりなく、一隅に滞らず」
(同文庫「近思録」四・三五)

滞留することのできない人間の本心を、
以前(四・一〇)は器に例えて、水が満たされた状態を「徳に満ちた状態」とも呼んだ。
川のように流れ続けて限りのない心を、水の張られた器のように内圧の保たれた状態と化す、
一見矛盾しているように思われることを、儒家はよく修学者に強要する。それこそは中庸の証。

風のように動くことも、山のように動かないことも、孫子の兵法であれば必要とされる。
それと同じように、相反する二つの条件を満たして中正を守る微妙さが常に儒家でも遍在している。
「十人の話を同時に聞いた」という聖徳太子の伝説は極端にしても、相反する二つの意見を聞いてうまいこと
裁決を下す、裁判官としての素養を儒者は蓄える。その一方でやはり儒者は積極的な社会参画者でもある。
法治社会における裁判官は裁判だけの公正な審査に徹する。審理対象者からの賄賂を避けるために、
専用の官舎に引きこもって暮らさせられるような便宜も図られる。科学者と同じで、社会的な責任性を欠いた
傍観者に徹することで中正を守ろうとする、コストパフォーマンスの悪い振る舞い。そこに裁判官の限界もある。

自分自身が積極的な人間関係に没頭しつつ、社会全体の利益も考慮した公正さを担う、汎用道徳学の大成者としての
孔子の存在意義が現代人の心外にあり、あまり活躍的とも思われないその政治社会的な振る舞いが、実は
多数派の道徳者のあるべき姿として計算し尽くされている。多数派ともなりうる程の汎用的な道徳者の姿。
敬う限りにおいて道徳を保て、見くびる限りにおいて罪を犯し続ける、道徳と犯罪の関門に立つ、孔子という存在。
「早く(関門を)くぐろうよ」という誘いは、犯罪者から道徳者に対しては安易だが、道徳者から犯罪者に
対しては難儀となる。犯罪に留まることは簡単でも、道徳へと解き放たれることは難しい、人間性の法則に依り。

91:考える名無しさん
09/06/13 22:38:04 O
可愛い可愛いお人形さん。
しかも子供も産む。

他に何も言うことはありません。
女の素晴らしさはこれだけで言い尽くされている。
言葉数が多すぎることを恥じる程にも。
後は不純物でしかない。

92:考える名無しさん
09/06/14 10:15:47 0
犯罪者ごときに無能扱いされる覚えはないわな。
誰しもにとって有害無益な犯罪の才能にかけて有能ではあるだろうがな。
むしろないほうが偉い類の有能さ。躁鬱を悪化さすだけの有能さだ。

93:考える名無しさん
09/06/14 15:06:25 O
なにか、女ならではの内面の素晴らしさでもあるのかなあー?と思いきや、


ポッポポポー


だったもの。
スカスカで安易なだけの女の中身。
だから、仕方ないんで夫唱婦随にしておくわけ。

男は中身、女は外見と出産機能。
大事な決め事では男に譲る優しさが、
逆説的に女の内面の素晴らしさともなるから。
どこまでも限りなく、優しい奥さんであられたまへ。

94:井上筑後守
09/06/14 19:29:35 0
「未だ感ぜざる時に知は何所に寓すと言うもの有り。曰く、『操れば則ち存し、
舎つれば則ち亡ぶ。出入時なく、其の郷を知る莫し』。更に怎生ぞ寓する所を尋ねん。
只だ是れ操る有るのみ。之を操るの道は、『敬以て内を直くす』るなり」
(同文庫「近思録」四・四六)

感じ取られもしない内から、どこかに普遍的な知覚対象が存在するのかといえば、そうではなく、
知覚する人間と対象との相互作用によって、初めて対象は新規の知見として現出する。
観察は常に観察対象をかき乱しているのだから、観察している時に察知される対象が、
観察していない時も同じ振る舞いをするのかといえば、そんなことは全く分からない。

今まさに重大な犯罪被害に遭っている人間が、被害者であるに応じて、災禍のドミノ倒しを防止すべく
なるべく消極的な行動に徹していたとする。その人間は、犯行が解消された後にもぐうたらしてるのかと言えば、
そんなことは全く分からない。のぞきのような犯行によって見られている人間と、全く見られていない
人間とは、同一人物だろうとも全くその言動が変容し得るし、変容するほうがむしろ健全ですらある。
犯罪行為によって何かが得られると言うような妄念に協力してあげようだなんて考えを絶対に持たず、
悪いことをされたに応じて相手を怒ったり蔑んだりもする。意図的に「嫌な観察対象」となってあげている。
観察者と観察対象とを、犯罪加害者と被害者にすら分裂させてしまうような、緩慢で劣悪な学芸ごっこでは
何ら得られる所がなく、自らが誠意的な学究となることで初めて得られる優良な知見の存在を示唆している。
寓意ではなく誠意や敬意によってこそ得られる、優良で楽々な知識の体得。今はまだそこまではいかない。
便所の落書きとして寸評をメモってる程度。犯罪者が逮捕されるまではその程度であり続ける。その必要があるから。

95:井上筑後守
09/06/14 19:32:48 0
「大率ね把捉すること定まらざるは、皆な是れ不仁なり」
(同文庫「近思録」四・五九)

仁義を尽くせば、何事も大体の見通しが付く。仏教でも真理のことを「諦(たい)」というように、
道理や真理はある程度把捉してしまうと、それ以上を見込めないような大まかな概観に行き着く。
日本刀も微妙な形状の個体差はあれど、折り返し鍛錬の片刃や、両手で握れる柄といった、大まかな形状は共通している。
それは刀という道具の扱いようを極めた結果、自然とその形状に落ち着いていったからであって、
もはやそれ以上の革新的な進化のしようがないという諦めが付いているから。もちろんその共通した形状の
範囲内において、さらなる名刀の精製を目論むことは全く可能であるにしろ、基本的な製作基準までもが覆されることはない。
日本刀の形状に限らず、万事万物にはそれ以上極めようがないというような一定した段階が存在していて、
仁義を尽くす人間は自らもそこに落ち着くんだが、不仁の人間は極められた真理や道理にも満足できず、
すでに定まっている真理や道理に抗ってまで色々と迷惑行動を続け、犯罪者と化してアジトの穴にもぐる。

道徳の概観も四書五経らによって大体は把捉されているし、真理の概観も仏典らによって大体は把捉されている。
より完成度を高めることは全く可能で、四書五経らによって把捉された道徳も、宋儒によってより煮詰められたりした。
でも道徳や聖徳が、四書五経や仏典によって把捉された以上に革新されるなんてことは、もはや考えられないこと。
悪いことをせずに善いことをする、悪を懲らしめ善を勧める、これ程にも当たり前な原理を覆すことなど決してできやしない。
にも拘らず不仁者は、四書五経や仏典によって示された、大まかな道徳や聖徳の枠組みにすら反して犯罪を続ける。
真理も道理もある程度は把捉が定まっているのだという、諦められた大人の見解を受け入れられず、
まだ何かが変えられる、「ウィーキャンチェンジ」とほざきよる。必要なのは変革ではなく温故知新であるのに。
とっくの昔に道徳や聖徳の概観を把捉し終えている、正され終えたものを受け入れる大人しさ。それがあれば他は何もいらない。

96:井上筑後守
09/06/14 19:34:54 0
「心定まるものは、その言重くして舒なり。定まらざるものは、その言軽くして疾なり」
(同文庫「近思録」四・六一)

道理や真理の把捉が概ね完成し、揺るぎなく定まった心を得た人間の言葉は、心と同じくゆったりとしている。
道理も真理も諦められず、変革ばかりを嬉しがる未熟者は、心も定まらず、言行もどこか病的であり続ける。

女々しい派手さ加減にこだわるんであれば、むしろ未熟者の振る舞いのほうが奇抜で面白がられたりする。
聖賢の言行は、揺るぎないが故に一見して地味ともなる。七色変化の未熟者と比べて、セピア色程度の落ち着いた配色となる。
色彩の魔術が衆生の心を惑わして、戦乱のような誤った方向へと導くことがあるのも経験上は知っている。
だからって聖賢の側が色彩で勝負するってのも間違いで、ただそのような子供だましに右往左往させられる愚かしさを
気付いた人間から各自卒業していくよう促すのみである。陰陽五行は清濁併せ呑んだ上で、汚濁を遠ざけ清浄を近づける
自主性こそを重んじる。世俗社会が完全に清浄となることなど不可能であるのは分かりきっているから、
完全粛清などではなく優劣の徹底程度の処理に止める、清浄優先汚濁劣後。清浄肯定汚濁否定の仏教などからすればゆるい。
でもそのゆるさが勧善懲悪の実現性を高めもする。お寺にこもらずとも社会の内側で確かにそれが実現できる。
孟子は場合によって臨機応変を肯定したり否定したりした(「孟子」参照)、これこそは本物の臨機応変といえる。
何ものをも把捉しつつ、それでいて何ものにも囚われない不惑の境地、確かにある程度という大まかさでは到達できるものだ。

97:考える名無しさん
09/06/15 11:55:05 0
ちょっと質問していいかな。>>96

勧善懲悪、と出たけれど、その裏で、
かならず、ヒーローが堕していく物語ってのが、日本人の好みでもあるよね?
才人超人が泥まみれになるのを見て、哀れと思い、美化する過程って、
いわゆる嫉妬心、やっかみの昇華でもあるんだけど。
井上筑後守さんはその物語性についてはどう思うの?物語自体が悪とは思う?


98:井上筑後守
09/06/15 12:06:00 0
>ヒーローが堕していく物語ってのが、日本人の好みでもあるよね?

いいえ。全くそんなことはありません。
ヒーローなりの努力や苦労が好まれることはありますが、
それも現実に即したヒーローであることを求めるまで。
日本人が特筆して嫉妬ややっかみをヒーローに当てこすることなどない。
そんなのはスーパーマンやSWあたりをつくったどっかの国にある程度。

99:井上筑後守
09/06/15 12:33:31 0
ヒーローに嫉妬ややっかみを当てこするなんて、日本人にとっちゃ堕落以外の何ものでもない。
何百億と制作費を投じた大スペクタクル映画でも、シナリオがそうなだけでゴミも同然になる。
武家装束に陣笠に十手に捕縛のお縄だけでも、最高の勧善懲悪劇はつくり上げられるのに、
わざわざつまらないシナリオをあてこすって、コストパフォーマンスを地に落としてやがる。
そういうムダが日本人は嫌いだから。弱虫は弱虫同士で、好色一代ものか曽根崎心中でも
やってなさいってこった。町衆文化もあるにはあるが、それは勧善懲悪とは全くの別物だから。
英雄と悲劇を混同する古代ギリシャ以来の悪癖を、日本に持ち込むのはやめてもらおう。

100:考える名無しさん
09/06/15 14:40:47 O
元祖裸族!
ギリシャ人♪

101:考える名無しさん
09/06/15 14:45:58 0
>>98>>99
確かにそうなんだよね。
正義であるのに、こんなにまで虐げられる主人公や何かの物語、ドラマ、を見る層ってのは、
だいたいが俗臭にまみれている。
ただ、人情ものというくくりでその物語を見ると、系譜は江戸時代までさかのぼるし、
儒教ともつながってくる。
儒教の事は、そんなに勉強した訳じゃないんだけど。
それでも、儒教自体がルサンチマンの産物だ、という説もあるくらいなんだよ。
実際どうなんだろうね。
井上筑後守さんの文章からはそんな気配は感じ取れないけど。

102:考える名無しさん
09/06/15 14:53:30 O
やまねのきもちヤットコム

103:考える名無しさん
09/06/15 14:54:29 O
ヤクザのあやまちズットコウ

104:井上筑後守
09/06/15 15:14:50 O
「儒教がルサンチマンの産物だ」なんてのは、
「日本人とユダヤ人は似ている」ってぐらいのトンデモ意見だ。

そりゃあ、目と耳と鼻の穴と手足を二つずつ持っていて、
二本脚で歩く程度には似てらあ。

現実を見定めた意見と、ただそうであって欲しいというだけの願望とを
混同するのはいい加減やめろってこった。

105:考える名無しさん
09/06/15 15:24:22 0
トンデモかねえ。
まあ、
>二本脚で歩く程度には似てらあ。

>いい加減やめろってこった。
会話して↑こういうの読みたかっただけなんだけどね^^
かぶりつきで読ませてもらいました。どうもどうも。

106:井上筑後守
09/06/15 18:11:07 0
町衆文化は、士農工商でいえば「工商」にあたる、儒家教学上の被差別階級でこそ
発達していったもの。儒家に近似するどころか、反発することで興隆したとすら言える。
その精神的な支柱になっているのも、開祖からして幕府に楯突いて罰せられた日蓮宗あたり。
同じく開祖が罰せられたにしても、別にお上に楯突いたからなわけでもない浄土教と比べても、
妬みやっかみを当てこするような陰湿さが比較的多めなもの。もちろん日本国内での話で
あって、どこもかしこも善良さに対してこそ積極的である、日本の中ではむしろ必要悪だったほう。
創価学会員が普通の日本人と比べて浮いてるのからも分かるとおり、変則的な存在に過ぎない。

107:考える名無しさん
09/06/16 00:22:07 O
付いて来られない小人の多さと、付いて行かなきゃならない偉人の多さと、
両者を繋ぎ止めようとするともがらの少なさとに感服する。

誰にでもできるのに誰もしようとしない、そのせいで誰にもできないことをやる、
中正の堅持者としての冥利に尽きる、今の自分のありのままの姿。

大して美しくもないが、極端に醜くもない、その有り様も含めての中正。
カッコいいとか美しいというよりは、微妙不可思議な仏像の造形にも沿う、
よく分からない変なもの、外見がそうであることと引き換えに中正であるものの冥利に尽きる。

108:考える名無しさん
09/06/17 00:43:55 0
構造であるものは全てだが、構造でしかないものは
ほんの一部分の落人でしかない。よかったな。

109:井上筑後守
09/06/18 22:32:17 0
「夫れ人の心正しく意識なれば、乃ち能く中正の道を極めて、充実光輝あらん。
若し心に比しむ所あらば、義の不可なるを以て之を決す。」
(同文庫「近思録」五・七より)
「『他山の石、以て玉を攻く可し』を解す。(中略)譬えば君子と小人処るが如し。
小人に侵陵せ為れば、則ち修省畏避し、心を動かし性を忍えて、増益予防す。
此くの如くなれば便ち道理出来たらん」
(同文庫「近思録」五・一五より)

君子が小人と親しむことは、中正を欠く愚行となるから、「残念ながらダメです」と断れ。
然れども、どうしても付き合いを強制される以上は、小人ごときに対して自省を期待するのではなく、
明らかな小人から君子への不当な侵害である場合だろうとも、君子の側が自主的にその経験を
自己研鑽の道具として活用せよ。他山の石で玉を磨けという「詩経」の言葉もそういった意味を持つから。

「下学して上達す」という論語の言葉を、あまり上等でない問題から学んでいくと考えるなら、目に余るような
小人凶族の暴挙も、戦乱期における、ある種の「下学」として、一つの上達の道という風に考えられるのかもしれない。
とはいえそれは決して模範的な見習い対象としてではなく、完全なる反面教師、悪例としての意味である。
戦乱状態の春秋時代に、武術ばかりに頼らない文治を目指した孔子の興した儒教が、漢や江戸といった泰平の時代の
御用学として大いにその真価を発揮した。孔子の著作と言われる「春秋」などを読んでも、戦乱期における人間の
生き様から、孔子もまた生き残りの法則としての道徳と、自滅の法則としての不徳(犯罪)との違いを見定めていた。

110:井上筑後守
09/06/18 22:34:18 0
「徳」とは、分かりやすく言えば「善悪二元論を超えた一元論における善」であるといえる。
「善」という呼び方は、「悪」という闇に対する光としての比較概念でしかなく、真に悪を打ち滅ぼして
善こそを打ち立てようとする人間は、もはや善を善と呼んではならず、徳とのみ呼ばなければならない。

特に状態程度を指定しない、単なる善であれば「徳」、悪を懲らし善を勧む積極的な善であれば「道徳」、
悪を断ち尽くし善のみを修める、消極的ではあるものの完全に純粋なる善であれば「聖徳」などと呼ぶことが勧められる。

儒家でも道家でもよく使われていて、仏教でも釈迦が「大徳婆伽婆」などと称されたりもする(「教行信証」など)。
東洋の聖賢が当たり前のように使いこなしているにも関わらず、その本意がなかなか読み取りにくい「徳」という
言葉の意味を(辞書で引いても数多くの意味が載っている)、善悪でいえば善であり、しかももはや悪との傍観的な
比較すら捨て去っている、実践突入型の正善であると捉えたなら、場合分けによらず何時如何なる状況によっても
通用する普遍的な教学を、東洋の先人たちが積み重ねてきたことに気付くことだろう。

111:井上筑後守
09/06/18 22:54:00 0
「己れを罪し躬を責むること無かる可からず。
然れども亦た当に長く留めて心胸に在りて悔と為すべからず」
(同文庫「近思録」五・二三より)

常に自省の念を持ち続けることが肝要であるけれども、
いつまでもクヨクヨして心疾と化すような偏屈も禁物である。

適度な運動は身体の壮健を促進するよい負荷となるけれども、過剰な運動は却って故障を招く原因となる、その
内心版とでも言うべき格言で、適度な自省が人格の向上を促す一方で、過度な自省は自虐と化してしまうという中正論。
国家神道で大日本帝国を称した明治以降戦前までの日本人が、自省を欠いた極端な自尊に走った一方で、
敗戦後は一気に、微塵の自尊心もない自虐一辺倒と化してしまった。どちらも中正を欠いた極端志向でしかなく、
「今が自虐的だから今度は戦前の自尊主義に戻れ」ってのもおかしな話で、自省と自尊の釣り合いを十分に取れていた
明治以前にまで戻ることが一番望ましい。自尊の躁、自虐の鬱、適度な自省が双極性障害を全面的に解消さす。

(根拠のない)自尊をアングロサクソン、(根拠のありすぎる)自虐をゲルマンに役割分担させきっている
白系アーリア人の慢性精神異常も、過不足のない自省によってこそ治療される。ニュートンとゲーテ両者への処方箋だ。

112:井上筑後守
09/06/18 23:22:26 0
「欲する所は必ずしも沈溺せず。只だ向かう所あるは便ち是れ欲なり」
(同文庫「近思録」五・二四より)

欲望も適度であれば溺れ去ることもないんだが、
我を忘れてしまってまでの好き好みは問題である。

金も物も、ある程度有為な文化文明に興じる人間である以上、捨て切れはしないんだが、
「物流のためにある」という金の本質的意義や、「人間自身の豊かさのためにある」という物の本質的意義を
覚悟した上で金や物に接するのと、そうでないのとでは非常な落差を生ずる。人間の命を直接左右する食や、
さらにその食以上に人間の積極的な生存を司る善良さ、善悪二元論を乗り越えた所にある善良さとしての徳を
「金や物よりも本質的に貴いものである」とわきまえられることで、人間はどこまでも限り無く厳密に生の楽しみを謳歌する。

実際の社会において金を司る商民、物を司る工民、食を司る農民、徳を司る士人を、優先する順番に配した「士農工商」。
徳や食の本質的意義が著しく軽視される近現代においても、結局は徳や食が生産するものを、物や金が消費することで
人類はこれまでにも生き延びられてきている。物や金が徳や食を食わせてるのではなく、徳や食が物や金を食わせてやってる。

四民平等でもはや存在しないものとすらされてしまっている、工民や商民の上に立つ、永劫普遍の優位者たる
士人や農民としての自認者が未だにどこかに実在してくださっていることで、初めてまだ地球人類は生き延びられている。
徳や食があるだけでも人間は生きられるが、物や金があるだけでは人間は生きられない。一ヶ月もしない内に全員餓死する。
とわの昔、宇宙開闢から現代に至り、しかも未来永劫に至るまで、真の支配者が交替することなどは決してないのだ。

113:考える名無しさん
09/06/19 01:22:32 0
このスレは原典に自説(注釈)を書き込むスレですか?

114:考える名無しさん
09/06/19 09:13:26 0
くせになる文章だのう。

115:井上筑後守
09/06/20 20:53:55 0
「舜の四凶を誅するが如き、怒り四凶に在り、舜何ぞ与らん。
蓋し是の人怒る可きの事あるに因りて之を怒る。聖人の心本と怒りなし。
譬えば明鏡の如し。好き物来る時は便ち是の悪しきを見る。鏡何ぞ嘗て好悪あらん」
(同文庫「近思録」五・二七より)

古の賢王舜が、四凶を誅罰する時に怒ったとて、確かに相手どもに紛れもない罪があったのであって、
そのように実在する罪悪に応じて聖人は怒りもするし、同じく実在する盛徳に応じて機嫌良くなりもする。
少しだって聖人の側に私心があってそうなるのではなく、あたかも鏡に諸物が映り込むようにそうなる。

怒りこれ即ち悪の根源として、完全に断ち切ることこそが「聖」であると仏教などでは考えられる。
私娼をアガメムノンに掠め取られて、怒って戦線を離脱したアキレスの「イリアス」中の振る舞いなどからも、
私情にかられて怒り狂うのは愚かしいことだと分かるのだけども、憎悪などによって外物に囚われる煩悩を
社会人までが完全解脱するわけにも行かず、結局はアキレスの如き愚行に走って、不誠実故の戦局の悪化にも加担する。

そのどちらでもなく。煩悩の赴くままに怒り狂うでも、煩悩も怒りも捨て去るのでもなく、煩悩だけを捨てて
公務のための怒りだけを残す。事実として罪悪が極重である現実社会に、渦中の世俗者として対応する上で、
怒り狂って罪人どもと同じ穴の狢と化すことを避け、かといって何もかもを許し尽くす白痴となることもない、
情勢の大局を見計らって、それでもいけないものに対してこそ怒り、自己を律する上での「主流の感情の流れ」を
その怒りに沿わせていくようにする。公的な喜怒哀楽が主流となることにより、私的な喜怒哀楽が自然と
すぼまる一方で、一般人から敬遠されてしまいかねないような、超俗の聖人然とした無感情となることも避ける。

一般人と同等かそれ以上に感情的であって、しかもその感情が公共性にも沿っているという、正義の味方の基本要件。
泣いたり笑ったりもあった上で、しかも善いってのが、他者の信奉心をくすぐる義人の有り様となる。


次ページ
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch