09/06/27 12:14:29 0
>>340
ええと、いやそういう難しい話では全然ないのです。
たとえば赤と緑のクオリアが逆転している人がいたとして(現に私が
そうなのかもしれないのですが)、その人の目の前に林檎があって、その人が
現に感じている視覚的クオリアを映像化するとします。
普通に絵の具で映像化するなら、赤の絵の具で林檎の形を描いたものが
それなわけです(ちなみに、形のクオリアの逆転も哲学的にはありえると
思いますが)。
それを見て、当人は「おお、俺のクオリアはこれに近い」と考えて、そう言うでしょう。
クオリアの逆転は、誰にもわかりません。
これを絵の具ではなくてもっと精巧で厳密な特定波長の光とかによる映像化でも、
原理的には同じことではないか、ということです。
あなたのいう「クオリアの映像化」が、この場合でいえば緑の絵の具
(あるいは光とか)による映像であるとすると、それを見た当人は
(通常人の赤のクオリアを感じながら)、「馬鹿これは緑じゃないか。
全然俺のクオリアと違うぞ!俺の見ている林檎は赤だ。」と考えて、そう主張するわけです。
この場合、当人のクオリアは世界中で当人しかわからないのに、そして、
その当人が違うといっているのに、どうして緑の絵の具(か光)による
映像化が当人のクオリアの「正しい映像化」であるとわかるのか、検証が不可能では
ないか、ということです。そもそも、その映像化装置はどんな原理で動くのか、
まったく説明がつきません。この場合「クオリアの映像化の正しさ」は
まったく超越的な原理で問答無用に担保されるしかない、ということにならないか、
というような疑問があるわけです。