09/01/17 21:38:36 0
>>409にて完全に決定論を論破しましたが
さらに決定論が再起できぬように矛盾を指摘してきしておきましょう
科学が信仰する事実そのものという観念は、宗教、特にキリスト教の神観念に近い。
これは科学が西洋社会を起源にもつ文化現象であるという一つの証拠である。
キリスト教の神観念は、人間の外にある絶対者であり、人間にとって認識不可能かつ到達不可能な存在である。
これは正しく科学が前提とする事実そのものの存在と同じである。
ちみなに、仏教では一切の存在に仏の生命が宿ると考える。
仏性=真理は外にある絶対のものではなく、個々の存在に宿る内面的なものである。
真理は自身のうちにあり、外にはないと考える。
科学は真理を人間の意識の外に求めようとする点において、極めてキリスト教的、西洋的である。
到達不可能な絶対者を立てる科学は、キリスト教と同型の思考形態をもつ。
真理そのものがはなから自己のうちに宿ると考える仏教的発想によって、科学は相対化されるのである。
また、構造構成主義もシステム論も、意識から隔絶した事実そのものを定立することなく、世界を記述するので、科学とは観察方法が根本的に異なることになる。