08/10/12 15:03:33 O
>>158
>「みなし」は、認識能力のことを言っているんだよ。
>それが虚像であると認識するのは、「みなす」こと。
虚像であると認識することが「みなし」なら、実像であると認識(及び錯覚)することも「みなし」と言っていいんじゃないかな。
外的な懐疑と信仰、あるいは内的な惑溺と信念がそれぞれパラレルであるということを云わんとしているってことでいいの?
>この「みなし」を虚像としても、みなしはどこまでも抵抗し、後退する。
これは大文字の[我]が[思う]、ゆえに[我]が有るってことと同義だよね?
だから虚像ないしは実像を[それ]と「みなす」のは、それ自体差異化しなくても良いのでは?と思うんだけど。
>動物にはないょ。虚像の観念がないんだもの。
動物にないのは虚像の観念というより「観念」自体がないのでは?
だから「実像」の観念もないわけだし、「愛」も「勇気」もないよね。
俺は人間と動物の違いを言葉の有無で捉えてるけど、あなたはもう少しハードルが高くて、言葉の中でも観念の有無で考えてるってことでいいのかな?
もちろんそれらは矛盾する定義ではないと思うけど。
>>159
>だからやめなって。
>そういうレスを返すのは、彼の文に注釈をつけてやってるようなものだよ。
そんなつもりはないんだけど。ただ気になったところを質問してるだけで。。
>注釈をつければつけるだけ勘違いされる可能性が増える。
俺が注釈を付ける(ようなことをする)と、キリエって人に構成力があると周りが勘違いするって意味かな?
ん~俺はまだキリエって人の哲学がどんなものか捉え切れてないから、それについては何とも発言が難しい・・・。