ニーチェ 十四at PHILO
ニーチェ 十四 - 暇つぶし2ch961:考える名無しさん
08/10/20 10:46:53 O
西洋において動作とその主体が分析され、主体があたかもこの世から独立して存在しうる異質のものだと認識されるようになり、
諸言語もその変化を表現するようになってきたのは、
ソクラテス、そしてキリスト教の出現以後からだというのがニーチェの認識でしょうかね。

恐らく、その流れを変えたのが近代哲学の祖デカルトなんじゃないでしょうか。


962:考える名無しさん
08/10/20 16:46:00 0
最近、歯が痛い。虫歯だ。
歯科医「ワーゲンハイム先生」に見てもらいに行こう。
でも、きっと治療痛いんだろうな・・・あの痛み怖いぜ。
"ううっ、(い)やなこった!"


963:考える名無しさん
08/10/21 09:37:37 O
トルストイ 人生論 原卓也訳》「俺の全生命は、自分への幸福の願望にほかならない」めざめた人間は自分に言う。
「俺にとってそんな幸福はありえないし、何をしても、何を得ようとしても、すべてはいつも同じように苦悩と、死と、破滅に終わるだろうと、理性は告げている。
俺は幸福がほしい、生命がほしい、理性的な意味がほしい、それなのに俺の内部や、俺をとりまくすべてのうちにあるのは、悪と、死と、無意味なのだ。
どうすればいいんだろう? どう生きれば? 何をすべきなのか?」しかし、答えはない《

これは詩的に表現されており非現実的、非パンツ的みたいですが、
こういったニヒリズムをですね、身体知にすることがニヒリズムの克服でしょう。
身体的なるものとなったニヒリズムは意味がなくなるんですね。
完成する。
その極限的形式になるわけです。
そうならない限りは、ニヒリズム自体に意味があり、生を退廃させる。
しかし身体化され極限化され意味がなくなったニヒリズムは、
恐らく一転して生を充実させるものに化けてしまう。
起死回生の極から極への移行が起きる。


964:考える名無しさん
08/10/21 09:50:54 O
デカルトは広範な読書と旅により一種のニヒリズムに陥っていたといえるでしょう。
そして、彼は無意味なことにせよ何かについて考えるという働きそのものの中に己の存在、生命を実感したのだと思いますね。
思考の意味内容ではなく、思考という働きそのものが存在と化したもの、
身体と化したものが、コギトだと思います。

でこれはトルストイが「…自分にとって必要でもなく重要でもなく、生きていると自分には感じられないもの、
すなわち、たたかい合い、交代しつづけてゆく存在たちのこの全世界―
それこそが本当の生命なのであり、残りつづけ、永久に生きつづけていくゆくのである」(同書)
といっているものとの意気投合なんだと思います。

つまり私によるとデカルトはニヒリズムを克服していたということらしいですね。


965:考える名無しさん
08/10/21 15:56:10 0
何?歯痛が快楽だって?冗談じゃない。歯痛は歯痛さ!ははは!
下卑たうめき声を聞きたいならば・・・ううっ、痛い。
今からワーゲンハイム先生のところに行きます。
神経根迄、いっちゃうのかな?
"ううっ、いやなこった!"
>トルストイ 人生論
ああ、彼の『人生論』だか『幸福論』だか、昔読んだけど、あまりにも最初まわりくどいから、
途中でやめた。「光あるうち・・」も10年くらい前に読んだけど、いまいち印象にない。
確か、キリスト教的救済を目指す小説だった気がするが。
うう、いやなこった!


966:考える名無しさん
08/10/21 16:13:34 O
ニーチェスレとはいえ、僕は僕の強引なコギト解釈に正直、萎えました。


967:考える名無しさん
08/10/21 16:36:59 O
ちなみに僕は自称「私」から自称「僕」に変えることにしました。
別にぴかぁの真似ではないです。
ぴかぁはボクですし。
僕は「僕」が気にいっただけなんです。
萎えた心には「僕」が合うのかもしれません。
いやはや僕は萎えました。
昔なら、「鬱だ」となったはずです。
僕の快癒の兆候ですね。僕はそう信じたい。
僕…僕…しもべ?!
いい年した大人が「僕」といいますと気取ってる感じも否めませんが、
しもべですとへりくだってもいるんですね。
やはり僕は萎えた心に合うわけです。
大人の使う「僕」は、お調子にのりつつ、へりくだっており、
出世を狙っている人を意味するのかもしれません。
僕は萎えました…。


968:考える名無しさん
08/10/21 19:44:52 O
僕の聴衆を想定した思考スタイルはなかなかいいものだと自負しています。
これはぴかぁ氏が出世しだしたために僕の出世願望が強くなってきたのをきっかけにして始まったスタイルなんだと思います。
いや、ぴかぁ氏の友人の純一さんが人気があった気がしたので、
僕も人気者になろうと純一さんの語り口の真似をしようとしたのがきっかけでしょうか。
いずれにせよ、こういった冗長なスタイルによる記述は読者に優しいものであり、10年後20年後の僕にも簡単に読めるのではないかとそう期待してますね。
というのも昔書いたものを自分で今よんでみると自分でもたまにわからなかったりするんですねこれが…。
しかしまだ慣れてないせいか勝手に生じてくるこのスタイルによる孤独な思考というのは非常に不気味なものがあります…。
僕は、萎えました。


969:考える名無しさん
08/10/22 00:03:16 0
ぴかぁ~

970:考える名無しさん
08/10/22 17:24:39 O
ニーチェの用いたアフォリズムスタイル、
詩的小説スタイルは、賢明なるスタイルといえるでしょう。
さすがに、あの世志向に反発しただけのことはある。
殺されなかっただけのことはあります。
そのスタイルを止めてからというもの読者層が広がり、「ワーグナーの場合」などはかなり売れようですし、
結局、尾崎ファン的なワーグネリアーなどの反発を買い発狂させられたのかもしれないですが…。

出世と没落は同様の事ですので出世願望を持つものは、
「fuer Alle und Keinen」 を座右の銘としなければならないのかもしれません。
これはとくに近頃のグローバル大衆社会においては重要でしょう。

971:考える名無しさん
08/10/22 20:13:58 O
仮想空間のリアリティ…これは散々語られてきたといえるリアルの仮想性と表裏一体のものかもしれませんね。
リアルに仮想性があるから仮想空間にもリアリティがあるといえます。

リアル、ネット、このいずれも、バーチャルリアリティといって呼んでいいでしょう。

「事実などない。解釈があるだけだ」ともいいます。


私たちは真理、不変の法則にしたがって働いているのかもしれませんが、
その認識というのは解釈になります。

少なくとも人間の認識は解釈であるといえます。
物自体やら事実、真実は認識不能ですね。
人間はバーチャルリアリティしか認識できないわけです。

ドラゴンボールというバーチャルリアリティに洗脳され気味の僕は、
第三次成長期に入ったと信じたいと思っている僕なんですが、
何故に僕はレベルスリーに入ったのかということが気になっています。

で、思うにニヒリズムによるんじゃないかと思うんです。
いわゆる「超回復」と同じ原理なんでしょうかね。
なんなんでしょうこれは。
差異と反復で形成されるといえる形式的で空虚な音楽的世界が、逆に豊かであることに通じているんでしょうけと。物質も空虚で、宇宙も空虚ですし。
ニヒリズムこそ力への意志か…


972:考える名無しさん
08/10/22 20:35:15 O
ニヒリズムは第三成長期に当たるものであり、これは物質的には核分裂反応に相当する。
その極限的形式は第四成長期に当たるもので、太陽のような核融合反応に相当する…

力は影も形もないものですが、僕たちがいわゆる現実よりも音楽などの創作に感動するのは、
力こそが唯一のリアリティであるからかもしれないですね。
全ては力への意志であるといいますが。
するといわゆる現実を空と観るニヒリストというのはリアリストかもしれません。

973:考える名無しさん
08/10/22 23:10:34 O
実に音楽というのはある曲想の「それ自身における差異」であり「それ自身に向かう反復」といえますね。
音楽と永遠回帰というのは同様の想いの表現といえるでしょう。
ユークリッド幾何学などの演繹的体系も同様です。
演繹的体系における定理というのは公理の「それ自身における差異」でしょう。
どうも作曲というのはいわば演繹ですね。
ある単純な曲想を公理として演繹的に展開していくわけです。
どうみても楽器の作りからして、楽器は音楽が「それ自身における差異」を反復することを前提にしてますね。
ピアノじゃ実に明らかです。
楽器は反復しろと江頭のように体で主張しているのです。
反復への意志が楽器に現れていますね。
反復と差異というのはどうみても楽器の暗黙知、身体知ですね。


974:考える名無しさん
08/10/23 00:25:14 O
音楽は自己超克ですね。


975:考える名無しさん
08/10/23 01:02:31 O
音楽の精神からの悲劇の誕生…

ニーチェ…は結局最後までワグネリアーだったんじゃないかと。
反復を愛するのは何より音楽の精神ですね。
ともかく、ニーチェは悲劇のモデルになりそうですね。

師ワグナーとの友情、離反、死別、和解としての猛烈な反逆、発狂、死

これはいいけどシェークスピアぐらいじゃないと難しそうですね。
三島由紀夫も死んでるし。
これはレベルフォーが要求されます。


976:考える名無しさん
08/10/23 01:07:53 0
ぴかぁ

977:考える名無しさん
08/10/23 03:03:04 O
概念の創造…

人間による情報の複製…大抵これは、伝言ゲームをすればよくわかるように情報を変化させるものです。
このような人間による情報伝達の不完全性、曖昧さに創造性はあるのでしょうか?
情報は曖昧な複製によって「進化」するといえるのでしょうか。
その差異は通常、創造的とは認められものでしょう。解釈です。
いわば曖昧な複製は曖昧な演繹なんですね。

では「ツァラトゥストラ」のように次々と解釈が現れ反乱するような豊かな公理的、根元的なるものの創造はいかにして行われるのか?

相変わらず強引でもはやニーチェに洗脳されつつあるいえますが、
やはりこれはニヒリズムの克服によるのだと思います…。
帰納的に無意味だと思われるものを見限っていく。
ロゴスによってロゴスを見限っていく。
恐らくこの自意識的苦悩、闘争、孤立の果てに、
語り得ないものと邂逅に僕たちは思わず沈黙してしまうのでしょう。
そして僕たちは、おお曙光よ、などと創造的に語り出し没落していくのでしょう。


978:考える名無しさん
08/10/23 03:15:34 O
まあ眠いし誤字脱字は訂正しません。

979:考える名無しさん
08/10/23 07:59:34 O
“…Wahrheit und Guete nur in der Schoenheit verschwistert sind.
Der Philosoph muss evensoviel aesthetishe Kraft besitzen, als der Dichter.”シェーリング



980:考える名無しさん
08/10/23 10:50:28 O
普通、人々は、全てがその意味、価値、存在感を失ってしまうような激烈な痛み、痛みしか存在しない世界を十二分に味わうことができるでしょう。
この拷問によって私たちは全てを洗いざらい白状し、ニヒリズムを克服するのではないでしょうか…
ニーチェはどうやらその様でした…
フォー!!
と叫びたいがために、レベルフォーになりたいがために、僕は拷問をよくよく考えてみて白状するのですが、
フォーになるのに拷問に耐えねばならぬのならば死んだほうがマシだと思いました。
拷問は望むものではありません。
ただ畏怖すべき神様に選ばれし多くの人々が拷問を経験するだけなんです。
といいますかまずいことに僕たちの本質は拷問のような苦痛かもしれませんが。
単なる苦ではなく。退屈でもなく。
もがくに忙しいでしょうからね。

ありえん!

では、なんで人々には拷問のように全てを無意味にする、全てを失わせるような無意味な痛みを感じる力があるんでしょうか?
なんでニヒリズムを完成させるような痛みを感じる「力」があるのでしょうか?
全ては力への意志である。痛みへの?

ありえん! ありえん。力の充溢…芸術は爆発だ…



981:考える名無しさん
08/10/23 11:19:19 O
拷問に耐えるくらいならば死んだほうがマシであります。
というか耐えられずに死にます。

しかし超回復というのがありますし、
あるいは「涙の数だけ強くなれるよ」ともいえるので、
もし拷問を耐え凌ぎ、ニヒリズムを克服できれば、
人は飛躍的に超回復するんでしょうね。
また人の能力は努力というよりはむしろ耐えうるあるいは耐えてきた痛みの強度に比例するといえるかもしれません。

とんでもない馬鹿げた話ですね。


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