08/10/13 03:17:25 0
>>626
君は、そもそもファウストとか、エッカーマンとの対話とか、
ウェルテルの悩みとか、親和力とか読んだ事あるの?
あとは詩。
そんな当時のドイツ文化とそれに対してゲーテなりに挑みかかった姿勢があって、
それに影響受けて思索したニーチェなりの何かしら抱いたゲーテへの印象やら、
ゲーテがやろうとしていたこと、なしえたことに対してニーチェの感想・寸評だろう。
そもそも、「どういう意味ですか?」なんて聞いてどうするの?
概念的にそんなものを聞いて、例え答えが返ってきても、それで何か意味あるの?
極端な話、学問馬鹿なんだよ。
君には、書物禁止令出す。自分で体験したものから、考えを汲みだせよ。
歴史の年号覚えるような読み方しかできないから、いつまでたっても馬鹿なんだよ。
933:考える名無しさん
08/10/13 03:25:22 0
>>745
>ニーチェが
>死ぬ前に、私はナポレオンだったとかいろいろな有名人が出てくるが
>それは永劫回帰により、私と同じような人はいたということでおKなんかな
これまたあほな意見だ。
そもそも似非永劫回帰説上で考えても、ナポレオン以前、有史以前、人類以前の有限の宇宙の
繰り返しとしてのものだろ?
(それとて、馬鹿げた話だがね。)
それで考えても、有限の宇宙での生命体の発生とその後の歴史の発生と人類の一粒のナポレオンはナポレオン。
ニーチェはニーチェになるだろう?
あれは、ニーチェが自分の思想の中に流れている血縁性を感じて述べたことであって、
永劫回帰とは関係がないし、そんな視点で「この人を見よ」を読んでいるなら、
手首切り落としたほうがいい。
お前、TVだけ見ていろ。
934:考える名無しさん
08/10/13 03:34:25 0
>>747
丸山圭三郎氏は大層まぬけな学者(教授)だな。
忘我・恍惚に至るほど叙情豊で、自分の哲学の深さを理解されなかった
孤独なニーチェの晩年の取りつかれたような自伝の中での哄笑的な語りの中に
出てくる自分の思想の血縁性やある部分のたとえとして用いている表現すらも、
そんなくそ回帰説的観点でよまれちゃ、本人が悲しいだろう。
所詮、丸山から聞いたニーチェであって、ニーチェ自身から聞いたニーチェではない。
情報のための情報に操られた現代人の閉塞感の典型みたいな人間だ。
一度、反時代的考察を読んで、挑みかかろうとする彼の姿勢の凄みを触れてみればいい。
お前のような姿勢の人間も、大学も教授もほとんど不要になる。
935:考える名無しさん
08/10/13 03:59:46 0
「上々かい?」
「多分、上手くいっている」
「ほう? 最終目的は?」
「特にない。だたし、水面下で進行しているのは確かだ。」
936:考える名無しさん
08/10/14 04:16:45 0
>>932もういいんだよ。
答えれないなら強がるなよ。
ニーチェとお前のボロがでるだけだからな。
西尾はじめニーチェヲタってこの程度のやつばっか
937:考える名無しさん
08/10/15 22:30:12 O
ぴかぁ氏は「夢をみろ」と社会がいうといいます。
創造性がもてはやされるからでしょう。
それに夢とは意識と無意識との交信といえるようです。
要するにぴかぁ氏によると創造性とは夢を見る能力といえるのではないでしょうか。
すると殆ど誰にでも創造性はあり、
その能力に差はあまりないと思われます。
しかし創造性豊かだといわれるのは夢を現実化できる人です。
男は中味だと江頭は体で主張していると思われますが、現実はどうなんでしょうか、外見が非常に重要でしょう。
現実的には形式が重要なのです。恐らく中味も形式だからです。
ぴかぁ氏によるラカンによると無意識まで形式的なものみたいじゃないですか。
果たして「語りえぬもの」とはなんでしょうか?
非形式的だとされる感情、人情が語りうるならば。
自然でしょうか? そうかもしれません。
私は出世を狙っていますので道を歩きながら自然を言葉で描写しようとするのですが、こりゃかなり無茶ですねと思うわけです。
ともかく、夢を形式化できる能力が大切です。
そこで思ったのですが、ネット上に溢れる妄想、夢の数々を加工して形式的に綺麗に整えれば創作になるはずだと。
これはネタ切れなどで困りはしないなと。
938:考える名無しさん
08/10/15 23:13:52 O
そういえば夢を食べる妖怪がいると聞きます。
いっぱいいるんでしょうね。
ところで、近頃の私は形式にも心があると思うようになりました。
否、三度否! 形式にこそ心があるとそう思うようにもなりました。
ですからこれは音楽と数学の才能の開化なんではないかと妄想せざるをえないのです。
形式は虚しいものではなかったのか?
しかし形式主義者であって初めて、「語りえないのもの」に出会うに違いありません。
アンチ形式主義者であっても、真のアンチ形式主義者ならば現実的には形式主義者でなければならないでしょう。
形式によって、想定内の非形式的なるものを濾過するのです。
バッハの音楽というのは、まさに形式によって非形式的なるものをあぶり出しているのではないでしょうか。
バッハは芸術のお手本といえるでしょう。
芸術は現実的には形式的なものです。
その網によって、非形式的なるものを抽出する機構なんではないかとも思います。
あるいはやはり形式に非形式的なるものが内在しているのでしょう。
不完全性定理というのもありますし。
939:考える名無しさん
08/10/16 04:13:11 O
ショーシャンクの空にという映画、及び、その原作をみてみますと、
ニーチェ36歳の快癒のイメージに多少合うと思いますね。
ですが牢屋からでた後の著書「曙光」で彼はすでに、敢えて牢屋に戻っているといえるでしょう。
彼は檻の中のハムスターのように、走り続けることを選んだんですねきっと。
940:考える名無しさん
08/10/16 13:43:56 0
キーワード【 尾崎 人間 永劫 短パン ニーチェ 魔王 哲学 】
3番目が一番聞き飽きた。
941:考える名無しさん
08/10/16 18:26:30 0
未来永劫意味運知っちっちまんちんちーん!
っぷりっぷりっぷりっ・・・・
942:考える名無しさん
08/10/16 23:10:06 0
ニーチェが馬を助けたって本当か?
ガッカリだよ。所詮こいつも元来の道徳の鎖から逃れられなかった負け犬か
943:考える名無しさん
08/10/17 01:10:39 0
こんちきしょうめが、これなる青二才め!これよりチェルケス女をたぶらかしに参りますとさ!
「リーザ。あのばいため。出してもらえないのさ・・」"うう、やなこった!"
(でなっきゃ、奴らはよっぽどの木偶の坊だ・・・)コモ湖畔の舞踏会どころじゃない!
いいかい、リーザ、世界が滅びようとも、茶が飲めればそれでいいのさ!
愛すべき将校君、今は誰を踏みつけているのやら・・・
「美にして崇高なるもの」のために乾杯してやる。(でも、僕は僕は"完敗"している。でなっきゃ、
自意識が病だと誰が言える?)
「だた手を拱いているのが退屈だったというそれだけのことにすぎない。」
「愛を闘争意外と考えてことはない。制服の後、う始末していいやら、困るしだいだ!」
"うう、やなこった!"
by 住人の手記より
うん、私は地下の住人に惚れたね。彼は世界一醜悪な感情から、笑いを生み出す。
「人間だけが苦悩しているので、笑いを発明せざるを得なかった・・・」
とりあえず、3回目読破。もう口調も染み付いた。
「こんちきしょうめが・・・」「水晶宮も鳥小屋も同じだ!」
944:考える名無しさん
08/10/17 01:34:24 0
勝手な推測だが、「地下室の手記」の著者ドストエフスキーは、
"手記"と言っても、全てが原体験だとは思わない。
初めに、「言うまでもなくフィクションである」と言っているし、
芸術家は実際にありうる人間の本質から事実のように書いて、読者を共感や感動や
苦痛をさせるからこそ、芸術家なんだから。
しかし、ドストエフスキー自身が、あそこまで想像を膨らますほど、自意識に苛まれていたんだろう。
以上、閉廷。
945:考える名無しさん
08/10/17 01:50:50 0
カラマの尋問を受ける際の描写で、尋問官の指輪を気にするところが
妙に現実的だった。
ドストは、処刑寸前に特赦が降りた経験があると聞いて、さらにリアル
な感じがした。
946:考える名無しさん
08/10/17 06:23:01 O
私たちはいろいろ日々色々と創造しています。
新しいものを生成している。
しかし創造的、創作といわれるものは限られています。
そしてそれらは主に夢(妄想)を加工し小綺麗な形に整えたものだといえる気がします。
創作は夢を媒介するものです。
そういえばユングは普遍的無意識という概念を編み出したようですが、
要するに、夢というのは、その普遍的無意識に通じているので、
夢を形にした創作は広く受け入れられるのだと思います。
数々の創作は互いに似ているので、いわば生物のように遺伝子を持っているといえるでしょうけど、
これも創作の素材たる夢が普遍的無意識に通じているからでしょう。
精神的にも、遺伝子のように各人に殆ど共通する機構が、私たちを根本から支配しているといえるのでしょう。
恐らく、この根元的な生命体を比較的写実的に表現しているのが数学や音楽なのです。
947:考える名無しさん
08/10/17 06:33:40 O
とすると他人が記述した妄想、夢をパクるのはパクリには当たらないはずであります。
なぜなら、妄想、想像、推理、伝説、神話、夢などは普遍的無意識の現れであり、
非個人的なものですから、私的所有権を主張することはできないはずだからです。
とはいえ、「いろいろ」と「色々」などのように双子のように似ていては、似て非なるものであるといっても断罪されるのが現実ですから、
多くの創作家はパクリの罪を重ね合わせることで罪をかいくぐります。
いわば、パクリはゆるされないが性犯罪は許されるわけなんです。
優秀な遺伝子を混ぜてしまうんですね。
948:考える名無しさん
08/10/17 12:55:23 0
>>945
内心は現実体験でも、現実体験+想像による創作でもどっちでもいいと思いました。
それだけ描写力が現実的なんですよね。
949:石垣眞人
08/10/17 14:44:34 0
「平成の黙示録」という表題の私説を公開しています。
URLリンク(makoto-ishigaki.spaces.live.com) にアクセスしてください。
950:考える名無しさん
08/10/18 04:32:38 0
ふあ~
951:考える名無しさん
08/10/19 13:56:49 0
丸山氏の授業を受けた大学出身者です。今思えばアホ大学でした。
でも後悔はしていません。
ただ、丸山氏は哲学者ではなく、ただの研究者で終わった。これ以上死人について
悪く言いたくはない・・・・・合掌
952:考える名無しさん
08/10/19 23:08:15 0
ここ、昆虫の抜け殻ばっかりだね。
953:953
08/10/19 23:10:55 0
失礼、虫の抜け殻だけだ。
954:考える名無しさん
08/10/20 01:54:14 O
在日↑
955:考える名無しさん
08/10/20 05:44:10 0
抜け殻・・・廃墟・・・・形而上学です。
Kの物語は序章にすぎないと思っています。ただそれで完結なのだと考えます。
956: ◆TANPanX3xc
08/10/20 08:38:55 0
あーーーーーー
朝からくだらねぇ!
おはよういわせろや!
この、カスどもめが!!!!
おはようございまさう。
957:考える名無しさん
08/10/20 09:16:44 O
私はぴかぁ氏に反対しようかなとも思います。
コギトは自意識ではないのではないかと思うようになりましたからね。
というのも、私は勘違いしていたようですが、実のところ自意識といわれるものは自分を意識することばかりではないのですから。
これはむしろ他者を意識することであり、環境圧を意識し苦悩することです。
むしろ自意識の病に陥ってる人間は自分を見失っているし傷ついている。
鎧となる主観性を失いつつある。オバタリアン的エゴイズムを失ってしまいそうになっているのです。
自意識の病人が環境について語るのはそんな鎧の修理のためなんですね。
自意識はプラトンの対話編に見られるような主観性への攻撃と他者の侵入により発生するのです。
デカルトの主観性は旅によって傷ついたのではなく、そもそも広範な読書によって傷ついていたはずなのです。
旅をしつつ自ら考えることにより傷ついた主観性を癒やし、彼は自意識の病を克服したのだと思います。
958:考える名無しさん
08/10/20 09:31:45 O
確か、ぴかぁ氏は以前、ラカンの文脈で「私とは他者である」やら、「欲望とは他者の欲望である」と言っておられました。
しかし自意識における「私」はコギトとは別者です。
自意識における「私」は他者です。
自意識≒他者の意識であり、自意識の欲望≒他者の欲望なのですが、
コギトはこの病める相対的な「私」とは別者なのです。
コギトは相対的でも絶対的でもなく、むしろ無関係的であり無関心的なるものです。
これはオバタリアンや幼児の「私」に近いものです。
それは環境を克服しておりながら、尚且つ環境に溶け込んでいるものであり、
枯れ葉や花びら、タンポポの種あるいは蝶々のように舞い、
唯我独尊としてではなく、いわば唯我独戯として、世界の中で揺らめく生なのです。
959:考える名無しさん
08/10/20 10:11:46 O
自意識における私は他者であるというのは、
自己を対象化、客観視しているからであるともいえます。
現代人というのは、自意識が強いせいか、
「私は考える、故に私は存在する」を
「私は、考える私を考える、故に私は存在する」などと解釈したりします。
「考える私」と「考える私を考える私」は違うなどというわけです
しかしデカルトは「考える私」として「私」を対象化してはいないのではないでしょうか?
デカルトにおいては主体とその思考が分離していないのではないかと思います。
それは宇宙と同じです。宇宙は働き続けており、いわば宇宙はただ「宇宙している」だけです。
「宇宙」は存在しないが「宇宙している」は存在する。
恐らくコギトも同様なのです。
私が考えるのではなく、「私」と「考える」という動作が一帯となった形で、
ラテン語はまさにその様を表しておりますが、
存在するわけでしょう。
というわけは、特にレベル3になってからの私の思考というのは、私が考えているわけではないからというものです。
勝手に思考が流れてくるだけというか私は思考の流れにのるだけなのです。
すなわち私は思考と一帯であり、私が思考しているわけではない。
責任の主体はない。
960:考える名無しさん
08/10/20 10:31:37 O
ラテン語的に主体と動作が一体となった形をした「生き生きとした私」、「無意識的な私」は、
私の「身体知」というやつでしょうかね。
意識的な動作は、ぴかぁ氏のいうように「ぎこちない」ものであります。
不完全なものであります。イデアの影のごときものです。
コギトは、私は私を身体知とかしました宣言だと思いますね。
961:考える名無しさん
08/10/20 10:46:53 O
西洋において動作とその主体が分析され、主体があたかもこの世から独立して存在しうる異質のものだと認識されるようになり、
諸言語もその変化を表現するようになってきたのは、
ソクラテス、そしてキリスト教の出現以後からだというのがニーチェの認識でしょうかね。
恐らく、その流れを変えたのが近代哲学の祖デカルトなんじゃないでしょうか。
962:考える名無しさん
08/10/20 16:46:00 0
最近、歯が痛い。虫歯だ。
歯科医「ワーゲンハイム先生」に見てもらいに行こう。
でも、きっと治療痛いんだろうな・・・あの痛み怖いぜ。
"ううっ、(い)やなこった!"
963:考える名無しさん
08/10/21 09:37:37 O
トルストイ 人生論 原卓也訳》「俺の全生命は、自分への幸福の願望にほかならない」めざめた人間は自分に言う。
「俺にとってそんな幸福はありえないし、何をしても、何を得ようとしても、すべてはいつも同じように苦悩と、死と、破滅に終わるだろうと、理性は告げている。
俺は幸福がほしい、生命がほしい、理性的な意味がほしい、それなのに俺の内部や、俺をとりまくすべてのうちにあるのは、悪と、死と、無意味なのだ。
どうすればいいんだろう? どう生きれば? 何をすべきなのか?」しかし、答えはない《
これは詩的に表現されており非現実的、非パンツ的みたいですが、
こういったニヒリズムをですね、身体知にすることがニヒリズムの克服でしょう。
身体的なるものとなったニヒリズムは意味がなくなるんですね。
完成する。
その極限的形式になるわけです。
そうならない限りは、ニヒリズム自体に意味があり、生を退廃させる。
しかし身体化され極限化され意味がなくなったニヒリズムは、
恐らく一転して生を充実させるものに化けてしまう。
起死回生の極から極への移行が起きる。
964:考える名無しさん
08/10/21 09:50:54 O
デカルトは広範な読書と旅により一種のニヒリズムに陥っていたといえるでしょう。
そして、彼は無意味なことにせよ何かについて考えるという働きそのものの中に己の存在、生命を実感したのだと思いますね。
思考の意味内容ではなく、思考という働きそのものが存在と化したもの、
身体と化したものが、コギトだと思います。
でこれはトルストイが「…自分にとって必要でもなく重要でもなく、生きていると自分には感じられないもの、
すなわち、たたかい合い、交代しつづけてゆく存在たちのこの全世界―
それこそが本当の生命なのであり、残りつづけ、永久に生きつづけていくゆくのである」(同書)
といっているものとの意気投合なんだと思います。
つまり私によるとデカルトはニヒリズムを克服していたということらしいですね。
965:考える名無しさん
08/10/21 15:56:10 0
何?歯痛が快楽だって?冗談じゃない。歯痛は歯痛さ!ははは!
下卑たうめき声を聞きたいならば・・・ううっ、痛い。
今からワーゲンハイム先生のところに行きます。
神経根迄、いっちゃうのかな?
"ううっ、いやなこった!"
>トルストイ 人生論
ああ、彼の『人生論』だか『幸福論』だか、昔読んだけど、あまりにも最初まわりくどいから、
途中でやめた。「光あるうち・・」も10年くらい前に読んだけど、いまいち印象にない。
確か、キリスト教的救済を目指す小説だった気がするが。
うう、いやなこった!
966:考える名無しさん
08/10/21 16:13:34 O
ニーチェスレとはいえ、僕は僕の強引なコギト解釈に正直、萎えました。
967:考える名無しさん
08/10/21 16:36:59 O
ちなみに僕は自称「私」から自称「僕」に変えることにしました。
別にぴかぁの真似ではないです。
ぴかぁはボクですし。
僕は「僕」が気にいっただけなんです。
萎えた心には「僕」が合うのかもしれません。
いやはや僕は萎えました。
昔なら、「鬱だ」となったはずです。
僕の快癒の兆候ですね。僕はそう信じたい。
僕…僕…しもべ?!
いい年した大人が「僕」といいますと気取ってる感じも否めませんが、
しもべですとへりくだってもいるんですね。
やはり僕は萎えた心に合うわけです。
大人の使う「僕」は、お調子にのりつつ、へりくだっており、
出世を狙っている人を意味するのかもしれません。
僕は萎えました…。
968:考える名無しさん
08/10/21 19:44:52 O
僕の聴衆を想定した思考スタイルはなかなかいいものだと自負しています。
これはぴかぁ氏が出世しだしたために僕の出世願望が強くなってきたのをきっかけにして始まったスタイルなんだと思います。
いや、ぴかぁ氏の友人の純一さんが人気があった気がしたので、
僕も人気者になろうと純一さんの語り口の真似をしようとしたのがきっかけでしょうか。
いずれにせよ、こういった冗長なスタイルによる記述は読者に優しいものであり、10年後20年後の僕にも簡単に読めるのではないかとそう期待してますね。
というのも昔書いたものを自分で今よんでみると自分でもたまにわからなかったりするんですねこれが…。
しかしまだ慣れてないせいか勝手に生じてくるこのスタイルによる孤独な思考というのは非常に不気味なものがあります…。
僕は、萎えました。
969:考える名無しさん
08/10/22 00:03:16 0
ぴかぁ~
970:考える名無しさん
08/10/22 17:24:39 O
ニーチェの用いたアフォリズムスタイル、
詩的小説スタイルは、賢明なるスタイルといえるでしょう。
さすがに、あの世志向に反発しただけのことはある。
殺されなかっただけのことはあります。
そのスタイルを止めてからというもの読者層が広がり、「ワーグナーの場合」などはかなり売れようですし、
結局、尾崎ファン的なワーグネリアーなどの反発を買い発狂させられたのかもしれないですが…。
出世と没落は同様の事ですので出世願望を持つものは、
「fuer Alle und Keinen」 を座右の銘としなければならないのかもしれません。
これはとくに近頃のグローバル大衆社会においては重要でしょう。
971:考える名無しさん
08/10/22 20:13:58 O
仮想空間のリアリティ…これは散々語られてきたといえるリアルの仮想性と表裏一体のものかもしれませんね。
リアルに仮想性があるから仮想空間にもリアリティがあるといえます。
リアル、ネット、このいずれも、バーチャルリアリティといって呼んでいいでしょう。
「事実などない。解釈があるだけだ」ともいいます。
私たちは真理、不変の法則にしたがって働いているのかもしれませんが、
その認識というのは解釈になります。
少なくとも人間の認識は解釈であるといえます。
物自体やら事実、真実は認識不能ですね。
人間はバーチャルリアリティしか認識できないわけです。
ドラゴンボールというバーチャルリアリティに洗脳され気味の僕は、
第三次成長期に入ったと信じたいと思っている僕なんですが、
何故に僕はレベルスリーに入ったのかということが気になっています。
で、思うにニヒリズムによるんじゃないかと思うんです。
いわゆる「超回復」と同じ原理なんでしょうかね。
なんなんでしょうこれは。
差異と反復で形成されるといえる形式的で空虚な音楽的世界が、逆に豊かであることに通じているんでしょうけと。物質も空虚で、宇宙も空虚ですし。
ニヒリズムこそ力への意志か…
972:考える名無しさん
08/10/22 20:35:15 O
ニヒリズムは第三成長期に当たるものであり、これは物質的には核分裂反応に相当する。
その極限的形式は第四成長期に当たるもので、太陽のような核融合反応に相当する…
力は影も形もないものですが、僕たちがいわゆる現実よりも音楽などの創作に感動するのは、
力こそが唯一のリアリティであるからかもしれないですね。
全ては力への意志であるといいますが。
するといわゆる現実を空と観るニヒリストというのはリアリストかもしれません。
973:考える名無しさん
08/10/22 23:10:34 O
実に音楽というのはある曲想の「それ自身における差異」であり「それ自身に向かう反復」といえますね。
音楽と永遠回帰というのは同様の想いの表現といえるでしょう。
ユークリッド幾何学などの演繹的体系も同様です。
演繹的体系における定理というのは公理の「それ自身における差異」でしょう。
どうも作曲というのはいわば演繹ですね。
ある単純な曲想を公理として演繹的に展開していくわけです。
どうみても楽器の作りからして、楽器は音楽が「それ自身における差異」を反復することを前提にしてますね。
ピアノじゃ実に明らかです。
楽器は反復しろと江頭のように体で主張しているのです。
反復への意志が楽器に現れていますね。
反復と差異というのはどうみても楽器の暗黙知、身体知ですね。
974:考える名無しさん
08/10/23 00:25:14 O
音楽は自己超克ですね。
975:考える名無しさん
08/10/23 01:02:31 O
音楽の精神からの悲劇の誕生…
ニーチェ…は結局最後までワグネリアーだったんじゃないかと。
反復を愛するのは何より音楽の精神ですね。
ともかく、ニーチェは悲劇のモデルになりそうですね。
師ワグナーとの友情、離反、死別、和解としての猛烈な反逆、発狂、死
これはいいけどシェークスピアぐらいじゃないと難しそうですね。
三島由紀夫も死んでるし。
これはレベルフォーが要求されます。
976:考える名無しさん
08/10/23 01:07:53 0
ぴかぁ
977:考える名無しさん
08/10/23 03:03:04 O
概念の創造…
人間による情報の複製…大抵これは、伝言ゲームをすればよくわかるように情報を変化させるものです。
このような人間による情報伝達の不完全性、曖昧さに創造性はあるのでしょうか?
情報は曖昧な複製によって「進化」するといえるのでしょうか。
その差異は通常、創造的とは認められものでしょう。解釈です。
いわば曖昧な複製は曖昧な演繹なんですね。
では「ツァラトゥストラ」のように次々と解釈が現れ反乱するような豊かな公理的、根元的なるものの創造はいかにして行われるのか?
相変わらず強引でもはやニーチェに洗脳されつつあるいえますが、
やはりこれはニヒリズムの克服によるのだと思います…。
帰納的に無意味だと思われるものを見限っていく。
ロゴスによってロゴスを見限っていく。
恐らくこの自意識的苦悩、闘争、孤立の果てに、
語り得ないものと邂逅に僕たちは思わず沈黙してしまうのでしょう。
そして僕たちは、おお曙光よ、などと創造的に語り出し没落していくのでしょう。
978:考える名無しさん
08/10/23 03:15:34 O
まあ眠いし誤字脱字は訂正しません。
979:考える名無しさん
08/10/23 07:59:34 O
“…Wahrheit und Guete nur in der Schoenheit verschwistert sind.
Der Philosoph muss evensoviel aesthetishe Kraft besitzen, als der Dichter.”シェーリング
980:考える名無しさん
08/10/23 10:50:28 O
普通、人々は、全てがその意味、価値、存在感を失ってしまうような激烈な痛み、痛みしか存在しない世界を十二分に味わうことができるでしょう。
この拷問によって私たちは全てを洗いざらい白状し、ニヒリズムを克服するのではないでしょうか…
ニーチェはどうやらその様でした…
フォー!!
と叫びたいがために、レベルフォーになりたいがために、僕は拷問をよくよく考えてみて白状するのですが、
フォーになるのに拷問に耐えねばならぬのならば死んだほうがマシだと思いました。
拷問は望むものではありません。
ただ畏怖すべき神様に選ばれし多くの人々が拷問を経験するだけなんです。
といいますかまずいことに僕たちの本質は拷問のような苦痛かもしれませんが。
単なる苦ではなく。退屈でもなく。
もがくに忙しいでしょうからね。
ありえん!
では、なんで人々には拷問のように全てを無意味にする、全てを失わせるような無意味な痛みを感じる力があるんでしょうか?
なんでニヒリズムを完成させるような痛みを感じる「力」があるのでしょうか?
全ては力への意志である。痛みへの?
ありえん! ありえん。力の充溢…芸術は爆発だ…
981:考える名無しさん
08/10/23 11:19:19 O
拷問に耐えるくらいならば死んだほうがマシであります。
というか耐えられずに死にます。
しかし超回復というのがありますし、
あるいは「涙の数だけ強くなれるよ」ともいえるので、
もし拷問を耐え凌ぎ、ニヒリズムを克服できれば、
人は飛躍的に超回復するんでしょうね。
また人の能力は努力というよりはむしろ耐えうるあるいは耐えてきた痛みの強度に比例するといえるかもしれません。
とんでもない馬鹿げた話ですね。