08/10/09 23:46:14 0
このスレに偽短さんが来た理由とは?・・・ふふ♥
880:考える名無しさん
08/10/09 23:47:55 0
遠吠えに
怒りの反吐を飲み戻す
苦渋によだれる犬ここにあり
881:考える名無しさん
08/10/10 00:02:33 O
大体さ、売れる本、文章を書くというのもまた「規律訓練」であり、合わせることになるじゃねえか。
笑わせんな。偉ぶりやがってよ。おまいとかたまたま合ってるだけじゃね…?
SMAPを見習うがいい。合わせてるだろ。
お客様は神様だからな。
しかし売れないということは「落ちこぼれ」じゃないかorz
くそっ、神は死んだ! 神は死んだんだ!!
私の没落はこうして始まった…
882:考える名無しさん
08/10/10 00:16:14 O
ついに私はニーチェ36歳の境地に達してしまった…
糞の味噌への転倒を果たしてしまった! いままで何よりも自分自身が苦その源泉だと思っていた…。
しかし、いまやそれこそが私の生き甲斐となった。
それは生の糧となるお味噌汁となったのだ!
私はむしろ売れないことに価値があると思っている!
ただほど高いものはないと!
883:考える名無しさん
08/10/10 00:32:08 O
私が始めて読んだ哲学書はそう、かの「方法序説」であった!
そこで私を発見した!
おお、15の夏の甘美なる邂逅よ…
それを病気だと? 分裂病だと?
許す! 私は君を許すぞぴかぁ…なぜなら私は…
この運命を愛するに至ったからだ!
私は一層重症になって気合いで復活したからだ! 要は気合いだ! メタメタ言語だ!
こうして私の没落は続いていくのであった…
884:考える名無しさん
08/10/10 00:42:05 O
上手い。まるで芸人のようだ。
流石だ、流石に江頭の弟子だけのことはある。
885:考える名無しさん
08/10/10 01:16:33 0
>>884
こちとらさん、世界は「私」しかいないというのを感じたことはあるかい?
極端な話、「私」だけの世界ということを・・・
ぴかあによれば、「私」とは他者との"差異"によってしかありえない。
デカルト的にそうだろうけれど、私が言う「私」だけの世界というのは、
ある日突然、ある都会の雑踏の中でも良い、自然に浸っている時でもよい、
仕事中のオフィスという空間でもよい、世界にぽ・つ・んといる「私」に奇妙な幸福感というか、
奇妙な感覚のような、音で言えばサティ?いや違うな、そんな言葉で表現できない感覚に襲われる。
すると、世界は私だけになるのよ。
これは「孤独感」とか「"世界は私の表象"」とか「梵我一如」でもない、感覚!
ぴきゃあ!
ついでに、>>856~>>860氏は私ではないぞよ。
こちとらさんは私だと思って怒り爆発らしいみたいだが・・・
だが、その内容の君への批判には総じて同意でちゅw
日本語を勉強してください。
では、寝るぞ世。
886:考える名無しさん
08/10/10 02:33:46 O
ぴかぁによるフーコーによると「規律訓練」とは人工的な環境が身体に叩き込むものらしいな。
では近頃の世界恐慌騒ぎも権力による環境の捏造なんだろうか?
だとしたらそれは何の訓練なのか?
どこまで人工的な環境なのかわからん。
あるいはそれは権力に敵対する勢力の発現なのか?
人間には反射的に反抗する性があるのでみんなが仲良しではいられない。
死んでも反抗するほど根強い性がある。
人間の権力には常に逆らう者が続出する。
常に闘争がある。だから安定というのは権力者が連勝してるということだろう。
とすると近頃は現体制の権力に対抗勢力の力が匹敵するようになってきたということなのかもしれないな。
887:考える名無しさん
08/10/10 02:54:13 O
動的な安定が平和なんではないか。
相敵対する勢力の一つが、敵対勢力をぶちのめし身柄を拘束、監禁できている状態。
「規律訓練」というのは自衛のための先制攻撃ともいえるだろう。
我々をそれを喰らい続けねば飯を食えないのだ。
だからひきこもりやニートは問題なのである。
「規律訓練」を受けない人間が生存できるということは、監獄に亀裂や抜け穴ができてしまい脆くなっているということであり、
体制の崩壊の兆しかもしれないからだ。
888:考える名無しさん
08/10/10 04:59:31 O
ぴかぁ氏のように出世しようとする意志を持つことは大切ですね。
死に至る病にかかってズッコケてしまったニーチェは危険ですが、
ドイツ語の教材およびゲームとしては割と面白いとも思います。
哲学は何か危なっかしいからといって日本文学の一流どころを勧めるのはまた死につながる危険な面も多々ありそうですので、
情報が反乱するなかで子供を逞しいよい子に育てるにはどうすればいいのかというのは難問ですね。
889:考える名無しさん
08/10/10 05:16:29 O
そこで「規律訓練」といいたいところですが情報化というのがおそらく、
「アンチ規律訓練」なるものなんではないでしょうか?
「規制緩和」が取り立てられていたかと思えば「規制強化」が主張されたりしています。
「IT」、「情報化」、「国際化」、「情報公開」とうたわれていたかと思えば、やはり「閲覧規制」などが主張されてきます。
現代は秩序と混沌の闘争の時代なのでしょうか。
890:考える名無しさん
08/10/10 05:53:32 O
多くの人がズッコケ始めるとどうなるのでしょうか?
えらいことになりませんか?
まず「落ちこぼれること」は死に至る病に至る病といえるでしょう。
というのもキルケゴールやニーチェは身体的に落ちこぼれてたわけですけど、
身体的な「規律訓練」によって「落ちこぼれる」ということは、身体的に落ちこぼれることでしょう。
ですから秩序と平和を守るためには「落ちこぼれ」を出さないということが大切です。
しかし「格差が何が悪い」、勝ち組負け組等々、落ちこぼれて何が悪いという風潮になってきております。
どうも自然に還れといわれてるようで「規律訓練」型の権力というのはすでに虫の息なんではないかとも思えてしまう時もあります。
それとも規律訓練の形態も情報化したんでしょうか?
システムによって規律訓練されてるとも思いますね。
例えばここにも8レス制限というのがあります。
891:考える名無しさん
08/10/10 07:45:37 O
困りますね、ダウが8500ぐらいにダウンしてますね。
ちょっと見たことないような低さであります。
追いかけるようにして日経平均も8500を切るんでしょうか。
これは混沌としてきましたね。稼ぐ人はこうゆう時かせぐんでしょう。
凄まじい力が荒れ狂っているかのようです。
どうなってしまうのでしょうか地球は…
892:考える名無しさん
08/10/10 08:38:44 O
「バッハのすべての作品はどうにもふみ外しようのない徹底した節操をもって、
あらかじめ規定されている軌道をばく進し、追求します。
この点において、彼は何か或る機械に、或る時計仕掛けに、もちろん自然という手によって造られた「生命のある」時計仕掛けに似たところがあります…」 (フルトベングラー 音と言葉 新潮文庫)
忘れてましたが何年か前に間違いなく読んでましたね。
堂々とパクッてました。
私の無意識的な記憶力はなかなかですね。
私の考えというのはほぼパクリかもしれない。
すなわち、みなさんは私を馬鹿にしないほうがよろしいということでしょう。
みなさんより立派な人の意見を馬鹿にすることになるのかもしれませんからね。
893:考える名無しさん
08/10/10 13:50:02 O
病気と健康の関係…
実は病気といわれるものの中には健康への意志の現れであるものもありますね。
体を治そうとして体が頑張ってる状態でも苦しくなるわけです。
ニーチェのかかっていたのはその種の健康への意志としての良性の強烈な病気だったという可能性もあります。
894:考える名無しさん
08/10/10 19:15:27 O
「ニーチェは音楽家としては、晩年の日においても、その端初の日と少しも変わったところはありません。
いつもワグネリアーナーだったのです。そうであってならぬわけはどこにもありません。
芸術に対する根本的な関係においては、―それは我々の性格の意識下に属する何ものかであって―
たとえその他のものがどう発展してゆこうが、こればかりは全生涯の行程に沿って変わるものではありません。」(フルトベングラー 音と言葉 新潮文庫)
895:考える名無しさん
08/10/10 19:52:23 O
ところで学者とか評論家とか公の場で語る人は、
どこかで見聞きしたことをあたかも自分の発想、考えであるかのように思ってしまうような記憶があやふやな人間では、
駄目だしされますよね。
パクリやら馬鹿やらと。
ちゃんと引用したりしとけば、同じ意味の話でも無教養な人から易々と馬鹿だと退けられることもないだろうし、
識者としての信用を落とさずにすむわけです。
整理された正確な記憶力というのは公の場で語るための基本ですね。
果たしてぴかぁにそんな正確な記憶力があるのでしょうか?
嫉妬はしてないです。ただ心配なんです。
あまり調子に乗ってしまうと基本がおろそかになるかなと。
もしかしたら記憶容量に関しては個人差はあまりないのかもしれませんね。
人は見聞きしたことは大体記憶するに足る記憶容量は備えている、
いわばHDの容量は変わらないといえる気がするわけです。
ただOS、データベースなどのソフトウェアの差があるんですね。
896:考える名無しさん
08/10/10 20:00:51 O
ちなみに「君が心配だ」とかいいますけど、
大抵これは「君が(私に迷惑をかけるのではないかと)心配だ」
という意味で使われます。
しかし私はそんなトリックを使うような人間ではないのです。
正直すぎる哲学徒ですから。
897:考える名無しさん
08/10/11 01:10:50 0
>>896
>大抵これは「君が(私に迷惑をかけるのではないかと)心配だ」
そうだ。大抵は、まあ世間やらなんらやの丸めようとする折に発する言い草だ。
でも必ずしもそうではない。それは打算的人間の打算を隠蔽する小細工なんだよ。
私は最近、生理学を勉強している。
文学は短歌を時折したしむのみ。
こちとらさんはピアノ弾けるでしょ?
カルメンの編曲サイトあったから楽譜もDLできたはずだ。
ぜひ弾いて、UPしてくれよ!
898:考える名無しさん
08/10/11 03:24:07 O
なんだかわかりませんが、ぴかぁ氏のブログを見て思うのですが、
「デカルトの病気」が徐々に感染していったのであり、19世紀あたりからヨーロッパのインテリたちを席巻する重大な問題に発展したといえるでしょう。
そしてそれは現代に至り、通俗的な問題にまで発展したということですね。
精神の近・現代病といえます。
その名は…「自意識」
ドストエフスキーやブログ・日記などが巷で流行りだしたのもその症状ともいえますね。
果たしてニーチェは自意識病患者を健康へと導く灯台なのでしょうか?
私は多少快癒してきたとも思ってますが、まだ発作がおこりますね。
私の治療を妨げようとする人がいるもので。
それも逆に治療に貢献しているのかもしれませんね。
899:考える名無しさん
08/10/11 04:03:08 O
ぴかぁが出世してきましたので、私もつられて出世について考えるようになりました。
出世を狙うということは快癒の兆候ではないでしょうか?
それはおいときまして、論文でもエッセイでも小説でも詩集でも音楽でもです、
自分の作品を売るには営業が必要ですね。
まず営業販売を人にお願いしてやってもらい、自分は作品づくりに集中するというスタイルがあります。
また昨今ではネット経由で宣伝直販というスタイルを取ることも可能ですね。
これは前者のスタイルをとる人に比べて不利でしょうが。
前者のスタイルを取る場合の心構えを考え出したいと思います。
Aさんに営業販売を委託され承諾した企業は、AとAの作品に投資をすることを決めるわけですね。
ビジネスですから、社長などの理想に合う作品でないかぎり、
少なくとも初期投資を回収できる見込みがなければいけません。
ですからAさんが無名で人気がないならはデビューはなかなか難しいでしょう。
しかし出版社などの企業は出版しないわけにはいかないです。
しかし新人は投資リスクが高く敬遠せね
ばならない。しかし誰もが初めは新人であり、新人も起用していかねばならない。
900:考える名無しさん
08/10/11 04:20:33 O
ですから新人登用のリスクをいかに下げるかということが問題です。
つまりAさんは非常な才能に恵まれてないかぎりは、
自分に対する投資のリスクを下げる努力をするべきなんですね。
たとえばぴかぁ氏は人生の秋になったら自費出版でもしますとかいってますが、
哲学書の場合はそうなってしまうのかもしれませんが、
彼はブログ歴がながく、知名度、人気ともに着実に上がってきているはずで、
すでに彼は自分に対する投資リスクをけっこう下げてるんです。
いずれ出版社のほうから
901:考える名無しさん
08/10/11 04:32:24 O
いずれ出版社のほうからオファーがあるかもしれないですね。電子出版もありますし。
ともかく、自分に対する投資のリスクを下げるという営業面の努力も大切ですね。
ショーペンハウアーやニーチェでも自費出版してたと思いますが、今は出版は容易になってきてますので、
それで出版物のレベルが下がるというのはありますけど、
凡人でも積極的になってもいいんです。
私はまだレベルスリーですが、
レベルフォーにでもなったと思ったらエゴイスティックに営業させていただきます。
この経済危機を乗り越えることができたらの話ですが。
902:考える名無しさん
08/10/11 04:37:47 0
おぃおぃw
一体誰だよ!
あんなイロモノうんこ引き合いにだしてこのスレ汚物化してんのは!!!
おまえか、おまえか!
それとも俺が汚物か?
そうだ、俺が汚物だ!
おし。そこのおまえ。
俺の名を言ってみろ!
↓
903:考える名無しさん
08/10/11 06:54:44 O
まあ作品の投稿サイトは新人登用のリスクを下げるために開発されたシステムといえるでしょうね。
いやはや審査員が消費者なんですから、画期的です。
ブログでもランキングがありますけど。
どうも新人発掘という面倒な作業を自動化してくれ、もううんざりだというような需要があったんでしょう、
新人発掘作業の自動化が進められてるんですね。
ぴかぁ氏は今、デビューの候補者なのかもしれないですね。
904:考える名無しさん
08/10/11 08:25:53 O
なるほど、ぴかぁ氏は、著名ブロガーに選ばれて、まなざしを意識したわけですね。
今まではまさに趣味という感じで、ともかく自分がわかればいい、わかる人はわかりますね? という態度を示していた気がします。
それなりに面白いことをいってるなとは思ってましたが、わかりにくかったと思います。
多くのまなざしを意識することで、彼は自分の思考に説明をつけ加えるようにしたんですね。
それで自分と同様の教養をもっていなくてもわかるようにして、彼の意識の中で対象となる読者層を広げたんですね。
今までなら彼の頭の中で前提として飛ばされてきたような事柄まで記述する手前をかけるようになったようなんですよ。
理解を助けるために記述を詳細化するだけでなく丁寧に注意深く記述するようになったんですね。
多少先生としても振る舞うようになったわけです。先生といっても丁重ですが。
これによって読者からしたら何か飛躍した感が出てきたと思うんですが、彼としては面倒になったというだけかもしれないですね。
そんな仕事のような労力を払うのは厄介なんですが、ボクの文章を読みたいという人が増えるなら多少はボランティアする気にもなってしまうんですよという感じでしょうか。
905:考える名無しさん
08/10/11 08:53:20 O
しかしデカルトのコギトが自意識というのは、ちょっとしたコロンブスの卵ですね。
いわれてみればなるほどという感じですが思い付かなかったですよ。
色々つながった気がしますねこれは。
どうなんでしょうか、ニーチェの人生の冬、36歳あたりで、拷問のような苦しみの中で、彼は転倒したというか、
なぜか快癒したといいます。
それ以前と以後のニーチェの自意識にどんな変化があったのかというのが気になります。
ソクラテス主義に反発してたのもあり、ニーチェは自意識を嫌っていたのではないかと思います。
「この人を見よ」でも彼は自分について語ることを習慣と本能的な誇りに反逆することだと始めに言ってますが。
ニーチェというのはまず自意識に挑み、ぶったおしたのだともいえそうなんですよね。
彼のいう「健康」…というのがですね、肉体的「拷問」のなかで目覚めたとすれば、それは肉体的なものとはいえないと思います。
その後、ツァラトゥストラに理性とはなんだろう、惨めな安逸ではないかと言わせています。
ならばこの「理性」というのは、デカルトのコギト〓自意識を意味するんではないでしょうか?
906:考える名無しさん
08/10/11 09:45:28 O
ソクラテスは相手に「汝自身を知れ」と裏でニタリとしながら迫り、そして「産婆術」とかいって、
自分の思想を相手に編み出させたというようなイメージもありますが、
一体どうなんでしょうか、「汝自身を知ること」と「自意識」の関係は?
ソクラテスが処刑されたのも人に「自意識」という病を押し付けたからだといえるのでしょうか?
ぴかぁ氏の認識では、たしか自意識とは動的な環境の圧力から逃れるための言語的な構造、装置、シェルターみたいな話でしたか。
病気とはいえ、治療であり自己保存のためのものみたいです。
恐らくニーチェの認識では、それは「惨めな安逸」であり、生の減退やらデカダンスです。
彼はそれから抜け出した。拷問のなか抜け出さねばならなかったのかもしれないですね。
自意識という保護装置が生命力を低下させるという認識があったのかもしれないですね。
ソクラテスを中傷したのだし。
907:考える名無しさん
08/10/11 09:48:07 O
また彼はドストエフスキーを評価してますが、「地下室の手記」で「自意識は病である」という認識を持つ男がやたらはりっきっていますので、
その男にニーチェは自意識からの「快癒」を認めたのではないでしょうか?
自意識が新環境の圧力からのシェルターならば、
地下室のような閉じた空間では、
自意識はいらないわけです。
そこで地下室でその男は自意識の砦から抜け出して快癒し、自意識を病だと認識して、生き生きしてる…というわけなのではないでしょうか。
908:考える名無しさん
08/10/11 10:11:29 O
すると、笑ってはいけませんが、地下室は「ひきこもり」の部屋を、その男は「ひきこもり」を象徴してるともいえます。
(フフ
いけませんね、また発作が… フフフフ
耐えました。括弧に入れておきました。フフ)
私がいいたいのは、何故に「ひきこもり」は「ひきこもり」なのか、ひきこもるのかということです。
それはすなわち、「自意識」という病の治療のためなんではないかということです。
「ひきこもり」とは「閉じられた部屋」≒「地下室」に籠もることで、「自意識」という砦を無用の長物となし、
地下室の住人のようにやたら生き生きとしたいという本能による社会的な問題行動および問題のある人のことなんではないかと思うわけであります。
909:考える名無しさん
08/10/11 10:27:54 O
「ひきこもり」とは「閉じられた部屋」≒「地下室」に籠もることで、「自意識」という砦を無用の長物となし、
地下室の住人のようにやたら生き生きとしたいという本能によって喚起される社会的な問題行動、
またそのような問題行動をしでかす人のことなんではないかと思うわけであります。
ちょっと訂正しました。まだ変ですかね。
念のため言っておきますが、これは自己紹介ではないです。
それにまた別にぴかぁ氏のことを暗示してるわけでもないです。
あくまでひきこもり一般の定義の試みなんです。
910:考える名無しさん
08/10/11 10:39:11 O
パンツw
実態の割にはやたら生き生きしてたみたいですね彼は。
そして自己軽蔑がありました。
いけませんね犯罪予告は。
ドストエフスキーは犯罪者を健康だというような問題発言をしてましたが。
いけない! 発作だ!
偉大なる8レス制限よ、私の親指を封じてくれ!
私の出世に手を貸してくれ!
911:考える名無しさん
08/10/11 11:12:54 0
>>908
>すると、笑ってはいけませんが、地下室は「ひきこもり」の部屋を、その男は「ひきこもり」を象徴してるともいえます。
どう考えてもそれしかないっしょ。
そもそも、あの住人が「地下」という象徴、例えを用いているのは、自意識苛まれている精神状態やら、
そこから見る社会と自己の乖離のことも掛けている自虐なわけですよ。
彼自身が、ペテルブルクのアパートを借りて、その物理的な空間という地下室に住んでいるわけではないと思うよ。
太陽も見るし、雪(ぼた雪!)も見てるはずだろうけど、彼が自意識に苛まれて他人との交流を絶っていることが地下なんだから。
(シーモノフとその仲間とダニのような使用人とリーザあたりだろう。関係は。)
>「ひきこもり」とは「閉じられた部屋」≒「地下室」に籠もることで、「自意識」という砦を無用の長物となし、
>地下室の住人のようにやたら生き生きとしたいという本能による社会的な問題行動および問題のある人のことなんではないかと思うわけであります。
同意。さすが地下にすんでいなくても、世間を絶っているだけある。こちとらさん。
ただし、それを解っても、ここに来ることで自意識病が悪化されては・・・とは思う。
>ドストエフスキーは犯罪者を健康だというような問題発言をしてましたが。
一度「死の家の記録」を読んでみたらいい。健康というのは、犯罪を犯すことを健康と賞賛しているわけではないよ。
912:考える名無しさん
08/10/11 11:48:30 0
「自意識」やら、漠然とした「恐怖」やら「羞恥」やらを、住人のような
自意識過剰でなくとも、一般の人でもよく垣間見る。
例えば、私らの世代で子供あたりと接する時に、漠然と苦手を覚える人いる。
たぶん、何か自分の底を見据えられる恐怖なのか?
あるいは、純真なものと、原始性や子供心や純真さを彷彿とさせられて、
大人として自分を蹂躙してきたことを相対的に感じてしまうからでは?
と思う。だから、幼児のまま育った人間はそれを感じない。
または、自意識が少ない大人はうまく子供を手懐ける。
こういうどうでもよい部分を、どうでもよくないと考えてみることで、色々くみ出せる。
913:考える名無しさん
08/10/11 12:40:20 0
文章構成としては、イロモノうんことそっくりだ。
いや、読んだ事ないけど、多分同じ。
「読まずに解るか!」いや、解るね。
っつか。
なんだかイキナリ暇になっちまったな、精神的に。
じゃ。
914:考える名無しさん
08/10/12 01:18:18 O
私は読んでもわかってなかったようです。
まだわかってないです。
ぴかぁ氏によると、
主体は環境を言語で( )に入れる…(環境)
環境を()に入れた主体がコギト≒自意識。
この主体は無意識的な言語的構造の支配下にあるということですかね。
まあいいです。
私は、自意識というのは主体が環境をヒッシに語ることで言語の盾、砦、主観的世界観を築き上げ、
主体自身を言語的な構造のなかに幽閉し、環境による圧力から、己自身を閉め出したものことだと思いましたね。
要するに笑ってもいいですが「ひきこもり」なんだと思いました。
だからといってこれは自意識の発作ではなかったのですが。
デカルトをひきこもりと一緒にするなと罵声が聞こえてくるようであります。
いやはや、ひきこもりというのは懐疑というよりは確信、信念、偏見で構成された閉じた世界の中に閉じ籠もっているイメージがありますからね。
貴様はコギトがそんなひきこもりのような確信、信仰、偏見だとでもいうのかとそんな声が聞こえてくるようであります。
どうですかね、まあ両者共にその自我が環境によって緊張や不安に苛まれているといえるでしょう。
そして言語的に「私」を安定させようとするのも共通してますね。
915:考える名無しさん
08/10/12 01:26:20 O
デカルトの方法的懐疑は信念のための懐疑だったとはいえないのでしょうか。
私を確立するためのです。
環境の動揺、変化に伴って、揺れ動き動揺する自我を安定させ、確立するためだったとはいえないのでしょうか。。
916:考える名無しさん
08/10/12 02:08:51 O
ひきこもりはおいといて話を進めますが、
デカルトの病、発明ですね、これはソクラテスの18番「汝自身を知れ」に由来しているのかもしれませんが、
これに反抗し治療しようとした人としてニーチェを挙げることができるのではないかと思うわけであります。
ニーチェはワグナーの強い影響を受けていますから、ワグナーもまたそうだったと推測できます。
それにしてもニーチェは「ワグナーの場合」でワグナーを貶めるわけですが、
だからといってワグナーがデカルトの病を治療しようとしていなかったとはいえないでしょう。
結局治らなかったのだともいえます。
しかしワグナーの創作が影響力を強めていたんですね。
恐らくニーチェは「曙光」以来、デカルトの病を克服したんですが、
そんなニーチェにとって恩師ともいえるワグナーを敢えて攻撃せねばならなかったのではないでしょうか?
そんな悲劇として私は「ワグナーの場合」をこれから読もうかなと思いますね。
悲劇でしょうよこれは。
ニーチェの煮えたぎる心情の怒号、荒れ狂う血の飛沫が私にはありありと見えるんですから。
そう、読んでないのに、わかるんですよね。
さて…
917:考える名無しさん
08/10/12 02:12:57 O
大体、「悲劇の誕生」が半ばワグナーのの思想だといいますし、ワグナーは悲劇作家でもあるわけです。
つまりワグナーにしてみれば、よくやったということになるでしょう。
これは、ニーチェの考えでもあります。
師を信じ、失って、己を見だし、否定する者のところに師は帰ってくるというような。
これはワグナーとニーチェの関係を物語ってるのだと思います。
としますとこれはよくありそうな親父と息子のような関係ですね。
さて…
918:考える名無しさん
08/10/12 02:52:57 O
いきなりかっこいいですね。シックザール☆彡次の文はなかなかイケメンではないでしょうか?
Wagner den Ruecken kehren, war fuer mich ein Schicksal.
これをイケメンに邦訳することはできるのでしょうか。 やってみましょう。
私にとってワーグナーに背を向けるということは、一個の運命であった…
私にとってそれは運命だったのだ、ワーグナーに背を向けるということは…
私にとってそれは運命であった、ワーグナーに背を向けるというそのことは…
いまいちですね。
919:考える名無しさん
08/10/12 03:33:25 O
残酷な環境((((ひきこ゜д゜;こもり))))腐敗した環境
920:シレノスの哲理
08/10/12 13:20:21 0
ここにぴか~氏がいたとはな。
921:考える名無しさん
08/10/12 22:33:39 O
>>919
ひきこもりとは何だろう、惨めな安逸ではないか?
922:考える名無しさん
08/10/12 23:34:06 0
ぴかぁ~
923:考える名無しさん
08/10/13 00:02:10 O
デカルトが「環境を俯瞰する視点」を持っていたとかいっても、それは神のような超越的な視点ではないですからね。
あくまで人間の視点です。
では如何にしてデカルトにコギトが生じたのか?
環境は「規律訓練」を課すといえます。
では環境Aに住んでいたkさんが環境Bに移動したとしましょう。
すると環境Aの規律訓練A’を身につけていたkさんは、
環境Bで規律訓練B’を身につけるように圧迫されます。
ぴかぁ氏にしたがえばそれはいわば右利きの人が左利きになるように迫られるようなものなのでしょう。
あるいはキーボードの配列が変わってしまうよなものですね。
そうすると、Aではブラインドタッチでスラスラ入力できていたのが、
Bでは初心者より下手になってしまう。
子供だってそんな下手な真似はしないという状況になる。
このような移動を繰り返すと、超越的な視点を持つどころか混乱してきます。
kさんはカフカの「城」や「審判」の主人公kのようになるんですね。
「城」にkは測量師としてきましたがわけもわからないうちに実際にはある学校の用務員になりました。
わけのわからない話が延々と続いていくんですね。
彼は住民になれないし城に近づくこともできない。
924:シレノスの哲理
08/10/13 00:18:35 0
やっぱり、ぴか~氏じゃないか。
925:考える名無しさん
08/10/13 00:25:20 O
ではkは一体何者なんでしょうか?
kの環境は不可解なんであり、kは鳥どころかみみずのように地を這っている。
kは新天地であれこれ忙しく動き回ります。しかしほとんど物事は進展しないのです。
無駄なんです。疎外されています。
何もよくわからない…懐疑…無知の知…
このように環境から閉め出された状態になり、デカルトはコギトを発明したのではないかと思います。
そうしますと環境を括弧に入れるべくもないと思いますね。
むしろ環境を見失い喪失したといえます。身体的な環境をです。
そうなると志向性をもつ意識は自意識となるでしょう。
すると環境を言語的に捏造していく。
というのは環境なしの自意識というのは恐らく精神的な拷問になるからです。
926:考える名無しさん
08/10/13 00:27:24 0
日栄は脳梅毒でした。
ですから脳梅毒から派生する作用として日栄は脳の活性化を得たのです。
活性化した脳を得た日栄は規律訓練をその思想の中心に据えて展開していきました。
日栄の規律訓練とは自己自身に課したものです。
927:考える名無しさん
08/10/13 00:50:26 0
無駄に、黒い模様が重なっているようだが、
これどんな新手の荒らしなんだぃ?w
928:考える名無しさん
08/10/13 00:52:04 O
ニーチェは全ての価値の転倒を試みたようです。
「神は死んだ」というのはキリスト教に立脚した世界観に依存している人々にとっては、
天地がひっくり返ってしまうようなとんでもない話です。
とはいえ
科学的世界観が浸透してきていた情勢からして受け入れ体制が整ってきていたのでしょう、ニーチェは殺されませんでしたね。
彼が価値の転倒を試みるに何故キリスト教は槍玉にあげられたのでしょうか?
キリスト教の世界観は先の「言語的に捏造された環境」だったからでしょうか?
ニーチェにはキリスト教が「身体的な環境」≒大地から人々を引き離し、生を退廃させているという認識があったのでしょうか。
ソクラテスやプラトンに対しては、人々を懐疑、無知の知、自意識に導き、超越的な世界観を与えたという認識があったのでしょう 。
どうもフーコーの「規律訓練」はニーチェの「大地」に由来しているといえそうなのであります。
929:短パン
08/10/13 00:58:51 0
読む気ない。って言ってんジャン?
学習能力ないなぁ・・・w(死にてぇの?)
んじゃ、とっとと巣に帰ってね★バイバイ
はぃ。引き続きニーチョをドゾー。
↓
930:考える名無しさん
08/10/13 01:36:36 O
ニヒリズム…
「城」のkはやることなすこと意味がないですね。
身体的な環境を失っており、何やっても無駄なんですね。
そうゆうニヒリスティックな状況が自意識の生じる必要条件でしょう。
ですがこのkには活気がありますね。
これはドストエフスキーの描く地下室の男にも似た何かがあります。何かがあるといっても活気のことですが。
これはカミュのシーシュポスの神話、そしてまたニーチェの永遠回帰 ―徒労、無意味なことを永遠に反復することをさえ欲するほどの意志の強さへの畏敬、崇拝―と似ています。
似て非なるものですと? つまらない連想で邪魔しないでいただきたい。
似て非なるものといっても似ているんです。
彼らはまず自意識の病に陥ったのでしょうが、
何かが起きて自意識を克服し、活気を取り戻したのではないかと思います。
カフカの「城」は未完であり、カフカの意向は出版するな死んだら燃やしてくれというものだったと思いますが、
たしか友人が作者の意向に反して出版したんですね。
ですから何か問題があるのでしょう。
危険性を認識していたといえるかもしれません。
ニーチェは確信犯で危険性を認識していた。「ワーグナーの場合」でこのように語ってます。
931:考える名無しさん
08/10/13 01:43:45 O
…ドイツ語…誤読してました。
ですから、つ、続きはないです…。
お休みなさいorz
932:考える名無しさん
08/10/13 03:17:25 0
>>626
君は、そもそもファウストとか、エッカーマンとの対話とか、
ウェルテルの悩みとか、親和力とか読んだ事あるの?
あとは詩。
そんな当時のドイツ文化とそれに対してゲーテなりに挑みかかった姿勢があって、
それに影響受けて思索したニーチェなりの何かしら抱いたゲーテへの印象やら、
ゲーテがやろうとしていたこと、なしえたことに対してニーチェの感想・寸評だろう。
そもそも、「どういう意味ですか?」なんて聞いてどうするの?
概念的にそんなものを聞いて、例え答えが返ってきても、それで何か意味あるの?
極端な話、学問馬鹿なんだよ。
君には、書物禁止令出す。自分で体験したものから、考えを汲みだせよ。
歴史の年号覚えるような読み方しかできないから、いつまでたっても馬鹿なんだよ。
933:考える名無しさん
08/10/13 03:25:22 0
>>745
>ニーチェが
>死ぬ前に、私はナポレオンだったとかいろいろな有名人が出てくるが
>それは永劫回帰により、私と同じような人はいたということでおKなんかな
これまたあほな意見だ。
そもそも似非永劫回帰説上で考えても、ナポレオン以前、有史以前、人類以前の有限の宇宙の
繰り返しとしてのものだろ?
(それとて、馬鹿げた話だがね。)
それで考えても、有限の宇宙での生命体の発生とその後の歴史の発生と人類の一粒のナポレオンはナポレオン。
ニーチェはニーチェになるだろう?
あれは、ニーチェが自分の思想の中に流れている血縁性を感じて述べたことであって、
永劫回帰とは関係がないし、そんな視点で「この人を見よ」を読んでいるなら、
手首切り落としたほうがいい。
お前、TVだけ見ていろ。
934:考える名無しさん
08/10/13 03:34:25 0
>>747
丸山圭三郎氏は大層まぬけな学者(教授)だな。
忘我・恍惚に至るほど叙情豊で、自分の哲学の深さを理解されなかった
孤独なニーチェの晩年の取りつかれたような自伝の中での哄笑的な語りの中に
出てくる自分の思想の血縁性やある部分のたとえとして用いている表現すらも、
そんなくそ回帰説的観点でよまれちゃ、本人が悲しいだろう。
所詮、丸山から聞いたニーチェであって、ニーチェ自身から聞いたニーチェではない。
情報のための情報に操られた現代人の閉塞感の典型みたいな人間だ。
一度、反時代的考察を読んで、挑みかかろうとする彼の姿勢の凄みを触れてみればいい。
お前のような姿勢の人間も、大学も教授もほとんど不要になる。
935:考える名無しさん
08/10/13 03:59:46 0
「上々かい?」
「多分、上手くいっている」
「ほう? 最終目的は?」
「特にない。だたし、水面下で進行しているのは確かだ。」
936:考える名無しさん
08/10/14 04:16:45 0
>>932もういいんだよ。
答えれないなら強がるなよ。
ニーチェとお前のボロがでるだけだからな。
西尾はじめニーチェヲタってこの程度のやつばっか
937:考える名無しさん
08/10/15 22:30:12 O
ぴかぁ氏は「夢をみろ」と社会がいうといいます。
創造性がもてはやされるからでしょう。
それに夢とは意識と無意識との交信といえるようです。
要するにぴかぁ氏によると創造性とは夢を見る能力といえるのではないでしょうか。
すると殆ど誰にでも創造性はあり、
その能力に差はあまりないと思われます。
しかし創造性豊かだといわれるのは夢を現実化できる人です。
男は中味だと江頭は体で主張していると思われますが、現実はどうなんでしょうか、外見が非常に重要でしょう。
現実的には形式が重要なのです。恐らく中味も形式だからです。
ぴかぁ氏によるラカンによると無意識まで形式的なものみたいじゃないですか。
果たして「語りえぬもの」とはなんでしょうか?
非形式的だとされる感情、人情が語りうるならば。
自然でしょうか? そうかもしれません。
私は出世を狙っていますので道を歩きながら自然を言葉で描写しようとするのですが、こりゃかなり無茶ですねと思うわけです。
ともかく、夢を形式化できる能力が大切です。
そこで思ったのですが、ネット上に溢れる妄想、夢の数々を加工して形式的に綺麗に整えれば創作になるはずだと。
これはネタ切れなどで困りはしないなと。
938:考える名無しさん
08/10/15 23:13:52 O
そういえば夢を食べる妖怪がいると聞きます。
いっぱいいるんでしょうね。
ところで、近頃の私は形式にも心があると思うようになりました。
否、三度否! 形式にこそ心があるとそう思うようにもなりました。
ですからこれは音楽と数学の才能の開化なんではないかと妄想せざるをえないのです。
形式は虚しいものではなかったのか?
しかし形式主義者であって初めて、「語りえないのもの」に出会うに違いありません。
アンチ形式主義者であっても、真のアンチ形式主義者ならば現実的には形式主義者でなければならないでしょう。
形式によって、想定内の非形式的なるものを濾過するのです。
バッハの音楽というのは、まさに形式によって非形式的なるものをあぶり出しているのではないでしょうか。
バッハは芸術のお手本といえるでしょう。
芸術は現実的には形式的なものです。
その網によって、非形式的なるものを抽出する機構なんではないかとも思います。
あるいはやはり形式に非形式的なるものが内在しているのでしょう。
不完全性定理というのもありますし。
939:考える名無しさん
08/10/16 04:13:11 O
ショーシャンクの空にという映画、及び、その原作をみてみますと、
ニーチェ36歳の快癒のイメージに多少合うと思いますね。
ですが牢屋からでた後の著書「曙光」で彼はすでに、敢えて牢屋に戻っているといえるでしょう。
彼は檻の中のハムスターのように、走り続けることを選んだんですねきっと。
940:考える名無しさん
08/10/16 13:43:56 0
キーワード【 尾崎 人間 永劫 短パン ニーチェ 魔王 哲学 】
3番目が一番聞き飽きた。
941:考える名無しさん
08/10/16 18:26:30 0
未来永劫意味運知っちっちまんちんちーん!
っぷりっぷりっぷりっ・・・・
942:考える名無しさん
08/10/16 23:10:06 0
ニーチェが馬を助けたって本当か?
ガッカリだよ。所詮こいつも元来の道徳の鎖から逃れられなかった負け犬か
943:考える名無しさん
08/10/17 01:10:39 0
こんちきしょうめが、これなる青二才め!これよりチェルケス女をたぶらかしに参りますとさ!
「リーザ。あのばいため。出してもらえないのさ・・」"うう、やなこった!"
(でなっきゃ、奴らはよっぽどの木偶の坊だ・・・)コモ湖畔の舞踏会どころじゃない!
いいかい、リーザ、世界が滅びようとも、茶が飲めればそれでいいのさ!
愛すべき将校君、今は誰を踏みつけているのやら・・・
「美にして崇高なるもの」のために乾杯してやる。(でも、僕は僕は"完敗"している。でなっきゃ、
自意識が病だと誰が言える?)
「だた手を拱いているのが退屈だったというそれだけのことにすぎない。」
「愛を闘争意外と考えてことはない。制服の後、う始末していいやら、困るしだいだ!」
"うう、やなこった!"
by 住人の手記より
うん、私は地下の住人に惚れたね。彼は世界一醜悪な感情から、笑いを生み出す。
「人間だけが苦悩しているので、笑いを発明せざるを得なかった・・・」
とりあえず、3回目読破。もう口調も染み付いた。
「こんちきしょうめが・・・」「水晶宮も鳥小屋も同じだ!」
944:考える名無しさん
08/10/17 01:34:24 0
勝手な推測だが、「地下室の手記」の著者ドストエフスキーは、
"手記"と言っても、全てが原体験だとは思わない。
初めに、「言うまでもなくフィクションである」と言っているし、
芸術家は実際にありうる人間の本質から事実のように書いて、読者を共感や感動や
苦痛をさせるからこそ、芸術家なんだから。
しかし、ドストエフスキー自身が、あそこまで想像を膨らますほど、自意識に苛まれていたんだろう。
以上、閉廷。
945:考える名無しさん
08/10/17 01:50:50 0
カラマの尋問を受ける際の描写で、尋問官の指輪を気にするところが
妙に現実的だった。
ドストは、処刑寸前に特赦が降りた経験があると聞いて、さらにリアル
な感じがした。
946:考える名無しさん
08/10/17 06:23:01 O
私たちはいろいろ日々色々と創造しています。
新しいものを生成している。
しかし創造的、創作といわれるものは限られています。
そしてそれらは主に夢(妄想)を加工し小綺麗な形に整えたものだといえる気がします。
創作は夢を媒介するものです。
そういえばユングは普遍的無意識という概念を編み出したようですが、
要するに、夢というのは、その普遍的無意識に通じているので、
夢を形にした創作は広く受け入れられるのだと思います。
数々の創作は互いに似ているので、いわば生物のように遺伝子を持っているといえるでしょうけど、
これも創作の素材たる夢が普遍的無意識に通じているからでしょう。
精神的にも、遺伝子のように各人に殆ど共通する機構が、私たちを根本から支配しているといえるのでしょう。
恐らく、この根元的な生命体を比較的写実的に表現しているのが数学や音楽なのです。
947:考える名無しさん
08/10/17 06:33:40 O
とすると他人が記述した妄想、夢をパクるのはパクリには当たらないはずであります。
なぜなら、妄想、想像、推理、伝説、神話、夢などは普遍的無意識の現れであり、
非個人的なものですから、私的所有権を主張することはできないはずだからです。
とはいえ、「いろいろ」と「色々」などのように双子のように似ていては、似て非なるものであるといっても断罪されるのが現実ですから、
多くの創作家はパクリの罪を重ね合わせることで罪をかいくぐります。
いわば、パクリはゆるされないが性犯罪は許されるわけなんです。
優秀な遺伝子を混ぜてしまうんですね。
948:考える名無しさん
08/10/17 12:55:23 0
>>945
内心は現実体験でも、現実体験+想像による創作でもどっちでもいいと思いました。
それだけ描写力が現実的なんですよね。
949:石垣眞人
08/10/17 14:44:34 0
「平成の黙示録」という表題の私説を公開しています。
URLリンク(makoto-ishigaki.spaces.live.com) にアクセスしてください。
950:考える名無しさん
08/10/18 04:32:38 0
ふあ~
951:考える名無しさん
08/10/19 13:56:49 0
丸山氏の授業を受けた大学出身者です。今思えばアホ大学でした。
でも後悔はしていません。
ただ、丸山氏は哲学者ではなく、ただの研究者で終わった。これ以上死人について
悪く言いたくはない・・・・・合掌
952:考える名無しさん
08/10/19 23:08:15 0
ここ、昆虫の抜け殻ばっかりだね。
953:953
08/10/19 23:10:55 0
失礼、虫の抜け殻だけだ。
954:考える名無しさん
08/10/20 01:54:14 O
在日↑
955:考える名無しさん
08/10/20 05:44:10 0
抜け殻・・・廃墟・・・・形而上学です。
Kの物語は序章にすぎないと思っています。ただそれで完結なのだと考えます。
956: ◆TANPanX3xc
08/10/20 08:38:55 0
あーーーーーー
朝からくだらねぇ!
おはよういわせろや!
この、カスどもめが!!!!
おはようございまさう。
957:考える名無しさん
08/10/20 09:16:44 O
私はぴかぁ氏に反対しようかなとも思います。
コギトは自意識ではないのではないかと思うようになりましたからね。
というのも、私は勘違いしていたようですが、実のところ自意識といわれるものは自分を意識することばかりではないのですから。
これはむしろ他者を意識することであり、環境圧を意識し苦悩することです。
むしろ自意識の病に陥ってる人間は自分を見失っているし傷ついている。
鎧となる主観性を失いつつある。オバタリアン的エゴイズムを失ってしまいそうになっているのです。
自意識の病人が環境について語るのはそんな鎧の修理のためなんですね。
自意識はプラトンの対話編に見られるような主観性への攻撃と他者の侵入により発生するのです。
デカルトの主観性は旅によって傷ついたのではなく、そもそも広範な読書によって傷ついていたはずなのです。
旅をしつつ自ら考えることにより傷ついた主観性を癒やし、彼は自意識の病を克服したのだと思います。
958:考える名無しさん
08/10/20 09:31:45 O
確か、ぴかぁ氏は以前、ラカンの文脈で「私とは他者である」やら、「欲望とは他者の欲望である」と言っておられました。
しかし自意識における「私」はコギトとは別者です。
自意識における「私」は他者です。
自意識≒他者の意識であり、自意識の欲望≒他者の欲望なのですが、
コギトはこの病める相対的な「私」とは別者なのです。
コギトは相対的でも絶対的でもなく、むしろ無関係的であり無関心的なるものです。
これはオバタリアンや幼児の「私」に近いものです。
それは環境を克服しておりながら、尚且つ環境に溶け込んでいるものであり、
枯れ葉や花びら、タンポポの種あるいは蝶々のように舞い、
唯我独尊としてではなく、いわば唯我独戯として、世界の中で揺らめく生なのです。
959:考える名無しさん
08/10/20 10:11:46 O
自意識における私は他者であるというのは、
自己を対象化、客観視しているからであるともいえます。
現代人というのは、自意識が強いせいか、
「私は考える、故に私は存在する」を
「私は、考える私を考える、故に私は存在する」などと解釈したりします。
「考える私」と「考える私を考える私」は違うなどというわけです
しかしデカルトは「考える私」として「私」を対象化してはいないのではないでしょうか?
デカルトにおいては主体とその思考が分離していないのではないかと思います。
それは宇宙と同じです。宇宙は働き続けており、いわば宇宙はただ「宇宙している」だけです。
「宇宙」は存在しないが「宇宙している」は存在する。
恐らくコギトも同様なのです。
私が考えるのではなく、「私」と「考える」という動作が一帯となった形で、
ラテン語はまさにその様を表しておりますが、
存在するわけでしょう。
というわけは、特にレベル3になってからの私の思考というのは、私が考えているわけではないからというものです。
勝手に思考が流れてくるだけというか私は思考の流れにのるだけなのです。
すなわち私は思考と一帯であり、私が思考しているわけではない。
責任の主体はない。
960:考える名無しさん
08/10/20 10:31:37 O
ラテン語的に主体と動作が一体となった形をした「生き生きとした私」、「無意識的な私」は、
私の「身体知」というやつでしょうかね。
意識的な動作は、ぴかぁ氏のいうように「ぎこちない」ものであります。
不完全なものであります。イデアの影のごときものです。
コギトは、私は私を身体知とかしました宣言だと思いますね。
961:考える名無しさん
08/10/20 10:46:53 O
西洋において動作とその主体が分析され、主体があたかもこの世から独立して存在しうる異質のものだと認識されるようになり、
諸言語もその変化を表現するようになってきたのは、
ソクラテス、そしてキリスト教の出現以後からだというのがニーチェの認識でしょうかね。
恐らく、その流れを変えたのが近代哲学の祖デカルトなんじゃないでしょうか。
962:考える名無しさん
08/10/20 16:46:00 0
最近、歯が痛い。虫歯だ。
歯科医「ワーゲンハイム先生」に見てもらいに行こう。
でも、きっと治療痛いんだろうな・・・あの痛み怖いぜ。
"ううっ、(い)やなこった!"
963:考える名無しさん
08/10/21 09:37:37 O
トルストイ 人生論 原卓也訳》「俺の全生命は、自分への幸福の願望にほかならない」めざめた人間は自分に言う。
「俺にとってそんな幸福はありえないし、何をしても、何を得ようとしても、すべてはいつも同じように苦悩と、死と、破滅に終わるだろうと、理性は告げている。
俺は幸福がほしい、生命がほしい、理性的な意味がほしい、それなのに俺の内部や、俺をとりまくすべてのうちにあるのは、悪と、死と、無意味なのだ。
どうすればいいんだろう? どう生きれば? 何をすべきなのか?」しかし、答えはない《
これは詩的に表現されており非現実的、非パンツ的みたいですが、
こういったニヒリズムをですね、身体知にすることがニヒリズムの克服でしょう。
身体的なるものとなったニヒリズムは意味がなくなるんですね。
完成する。
その極限的形式になるわけです。
そうならない限りは、ニヒリズム自体に意味があり、生を退廃させる。
しかし身体化され極限化され意味がなくなったニヒリズムは、
恐らく一転して生を充実させるものに化けてしまう。
起死回生の極から極への移行が起きる。
964:考える名無しさん
08/10/21 09:50:54 O
デカルトは広範な読書と旅により一種のニヒリズムに陥っていたといえるでしょう。
そして、彼は無意味なことにせよ何かについて考えるという働きそのものの中に己の存在、生命を実感したのだと思いますね。
思考の意味内容ではなく、思考という働きそのものが存在と化したもの、
身体と化したものが、コギトだと思います。
でこれはトルストイが「…自分にとって必要でもなく重要でもなく、生きていると自分には感じられないもの、
すなわち、たたかい合い、交代しつづけてゆく存在たちのこの全世界―
それこそが本当の生命なのであり、残りつづけ、永久に生きつづけていくゆくのである」(同書)
といっているものとの意気投合なんだと思います。
つまり私によるとデカルトはニヒリズムを克服していたということらしいですね。
965:考える名無しさん
08/10/21 15:56:10 0
何?歯痛が快楽だって?冗談じゃない。歯痛は歯痛さ!ははは!
下卑たうめき声を聞きたいならば・・・ううっ、痛い。
今からワーゲンハイム先生のところに行きます。
神経根迄、いっちゃうのかな?
"ううっ、いやなこった!"
>トルストイ 人生論
ああ、彼の『人生論』だか『幸福論』だか、昔読んだけど、あまりにも最初まわりくどいから、
途中でやめた。「光あるうち・・」も10年くらい前に読んだけど、いまいち印象にない。
確か、キリスト教的救済を目指す小説だった気がするが。
うう、いやなこった!
966:考える名無しさん
08/10/21 16:13:34 O
ニーチェスレとはいえ、僕は僕の強引なコギト解釈に正直、萎えました。
967:考える名無しさん
08/10/21 16:36:59 O
ちなみに僕は自称「私」から自称「僕」に変えることにしました。
別にぴかぁの真似ではないです。
ぴかぁはボクですし。
僕は「僕」が気にいっただけなんです。
萎えた心には「僕」が合うのかもしれません。
いやはや僕は萎えました。
昔なら、「鬱だ」となったはずです。
僕の快癒の兆候ですね。僕はそう信じたい。
僕…僕…しもべ?!
いい年した大人が「僕」といいますと気取ってる感じも否めませんが、
しもべですとへりくだってもいるんですね。
やはり僕は萎えた心に合うわけです。
大人の使う「僕」は、お調子にのりつつ、へりくだっており、
出世を狙っている人を意味するのかもしれません。
僕は萎えました…。
968:考える名無しさん
08/10/21 19:44:52 O
僕の聴衆を想定した思考スタイルはなかなかいいものだと自負しています。
これはぴかぁ氏が出世しだしたために僕の出世願望が強くなってきたのをきっかけにして始まったスタイルなんだと思います。
いや、ぴかぁ氏の友人の純一さんが人気があった気がしたので、
僕も人気者になろうと純一さんの語り口の真似をしようとしたのがきっかけでしょうか。
いずれにせよ、こういった冗長なスタイルによる記述は読者に優しいものであり、10年後20年後の僕にも簡単に読めるのではないかとそう期待してますね。
というのも昔書いたものを自分で今よんでみると自分でもたまにわからなかったりするんですねこれが…。
しかしまだ慣れてないせいか勝手に生じてくるこのスタイルによる孤独な思考というのは非常に不気味なものがあります…。
僕は、萎えました。
969:考える名無しさん
08/10/22 00:03:16 0
ぴかぁ~
970:考える名無しさん
08/10/22 17:24:39 O
ニーチェの用いたアフォリズムスタイル、
詩的小説スタイルは、賢明なるスタイルといえるでしょう。
さすがに、あの世志向に反発しただけのことはある。
殺されなかっただけのことはあります。
そのスタイルを止めてからというもの読者層が広がり、「ワーグナーの場合」などはかなり売れようですし、
結局、尾崎ファン的なワーグネリアーなどの反発を買い発狂させられたのかもしれないですが…。
出世と没落は同様の事ですので出世願望を持つものは、
「fuer Alle und Keinen」 を座右の銘としなければならないのかもしれません。
これはとくに近頃のグローバル大衆社会においては重要でしょう。
971:考える名無しさん
08/10/22 20:13:58 O
仮想空間のリアリティ…これは散々語られてきたといえるリアルの仮想性と表裏一体のものかもしれませんね。
リアルに仮想性があるから仮想空間にもリアリティがあるといえます。
リアル、ネット、このいずれも、バーチャルリアリティといって呼んでいいでしょう。
「事実などない。解釈があるだけだ」ともいいます。
私たちは真理、不変の法則にしたがって働いているのかもしれませんが、
その認識というのは解釈になります。
少なくとも人間の認識は解釈であるといえます。
物自体やら事実、真実は認識不能ですね。
人間はバーチャルリアリティしか認識できないわけです。
ドラゴンボールというバーチャルリアリティに洗脳され気味の僕は、
第三次成長期に入ったと信じたいと思っている僕なんですが、
何故に僕はレベルスリーに入ったのかということが気になっています。
で、思うにニヒリズムによるんじゃないかと思うんです。
いわゆる「超回復」と同じ原理なんでしょうかね。
なんなんでしょうこれは。
差異と反復で形成されるといえる形式的で空虚な音楽的世界が、逆に豊かであることに通じているんでしょうけと。物質も空虚で、宇宙も空虚ですし。
ニヒリズムこそ力への意志か…
972:考える名無しさん
08/10/22 20:35:15 O
ニヒリズムは第三成長期に当たるものであり、これは物質的には核分裂反応に相当する。
その極限的形式は第四成長期に当たるもので、太陽のような核融合反応に相当する…
力は影も形もないものですが、僕たちがいわゆる現実よりも音楽などの創作に感動するのは、
力こそが唯一のリアリティであるからかもしれないですね。
全ては力への意志であるといいますが。
するといわゆる現実を空と観るニヒリストというのはリアリストかもしれません。
973:考える名無しさん
08/10/22 23:10:34 O
実に音楽というのはある曲想の「それ自身における差異」であり「それ自身に向かう反復」といえますね。
音楽と永遠回帰というのは同様の想いの表現といえるでしょう。
ユークリッド幾何学などの演繹的体系も同様です。
演繹的体系における定理というのは公理の「それ自身における差異」でしょう。
どうも作曲というのはいわば演繹ですね。
ある単純な曲想を公理として演繹的に展開していくわけです。
どうみても楽器の作りからして、楽器は音楽が「それ自身における差異」を反復することを前提にしてますね。
ピアノじゃ実に明らかです。
楽器は反復しろと江頭のように体で主張しているのです。
反復への意志が楽器に現れていますね。
反復と差異というのはどうみても楽器の暗黙知、身体知ですね。
974:考える名無しさん
08/10/23 00:25:14 O
音楽は自己超克ですね。
975:考える名無しさん
08/10/23 01:02:31 O
音楽の精神からの悲劇の誕生…
ニーチェ…は結局最後までワグネリアーだったんじゃないかと。
反復を愛するのは何より音楽の精神ですね。
ともかく、ニーチェは悲劇のモデルになりそうですね。
師ワグナーとの友情、離反、死別、和解としての猛烈な反逆、発狂、死
これはいいけどシェークスピアぐらいじゃないと難しそうですね。
三島由紀夫も死んでるし。
これはレベルフォーが要求されます。
976:考える名無しさん
08/10/23 01:07:53 0
ぴかぁ
977:考える名無しさん
08/10/23 03:03:04 O
概念の創造…
人間による情報の複製…大抵これは、伝言ゲームをすればよくわかるように情報を変化させるものです。
このような人間による情報伝達の不完全性、曖昧さに創造性はあるのでしょうか?
情報は曖昧な複製によって「進化」するといえるのでしょうか。
その差異は通常、創造的とは認められものでしょう。解釈です。
いわば曖昧な複製は曖昧な演繹なんですね。
では「ツァラトゥストラ」のように次々と解釈が現れ反乱するような豊かな公理的、根元的なるものの創造はいかにして行われるのか?
相変わらず強引でもはやニーチェに洗脳されつつあるいえますが、
やはりこれはニヒリズムの克服によるのだと思います…。
帰納的に無意味だと思われるものを見限っていく。
ロゴスによってロゴスを見限っていく。
恐らくこの自意識的苦悩、闘争、孤立の果てに、
語り得ないものと邂逅に僕たちは思わず沈黙してしまうのでしょう。
そして僕たちは、おお曙光よ、などと創造的に語り出し没落していくのでしょう。
978:考える名無しさん
08/10/23 03:15:34 O
まあ眠いし誤字脱字は訂正しません。
979:考える名無しさん
08/10/23 07:59:34 O
“…Wahrheit und Guete nur in der Schoenheit verschwistert sind.
Der Philosoph muss evensoviel aesthetishe Kraft besitzen, als der Dichter.”シェーリング
980:考える名無しさん
08/10/23 10:50:28 O
普通、人々は、全てがその意味、価値、存在感を失ってしまうような激烈な痛み、痛みしか存在しない世界を十二分に味わうことができるでしょう。
この拷問によって私たちは全てを洗いざらい白状し、ニヒリズムを克服するのではないでしょうか…
ニーチェはどうやらその様でした…
フォー!!
と叫びたいがために、レベルフォーになりたいがために、僕は拷問をよくよく考えてみて白状するのですが、
フォーになるのに拷問に耐えねばならぬのならば死んだほうがマシだと思いました。
拷問は望むものではありません。
ただ畏怖すべき神様に選ばれし多くの人々が拷問を経験するだけなんです。
といいますかまずいことに僕たちの本質は拷問のような苦痛かもしれませんが。
単なる苦ではなく。退屈でもなく。
もがくに忙しいでしょうからね。
ありえん!
では、なんで人々には拷問のように全てを無意味にする、全てを失わせるような無意味な痛みを感じる力があるんでしょうか?
なんでニヒリズムを完成させるような痛みを感じる「力」があるのでしょうか?
全ては力への意志である。痛みへの?
ありえん! ありえん。力の充溢…芸術は爆発だ…
981:考える名無しさん
08/10/23 11:19:19 O
拷問に耐えるくらいならば死んだほうがマシであります。
というか耐えられずに死にます。
しかし超回復というのがありますし、
あるいは「涙の数だけ強くなれるよ」ともいえるので、
もし拷問を耐え凌ぎ、ニヒリズムを克服できれば、
人は飛躍的に超回復するんでしょうね。
また人の能力は努力というよりはむしろ耐えうるあるいは耐えてきた痛みの強度に比例するといえるかもしれません。
とんでもない馬鹿げた話ですね。