08/10/06 11:02:11 0
(続き)
太宰なら、女々しいと一般的に云われるような刹那の中でも、純一に想いを伝達するし、
ドストエフスキーなら強烈な自意識に苛まれた俎上でもなおその深淵の地獄で見た己や世界観をすばやく伝達するし、
ニーチェなら書物によっても多少違いはあっても、やはり哄笑高らかで尊厳的で自由な感情ですばやく伝達する。
(『人間的な』などは、『反時代的』の情熱的な攻撃・感謝の溢れる賞賛・希望いってんばりから、突然洞窟に逃げ込んで、そこで静かに横たわりながら
ゆったりした姿勢で、観察したものを明確に滴らせている。この点、感情の興奮は少ない印象あるけれど、堀りさげたモノを伝えよとする徹底性には
生の根底に流れるある種デーモンのような目と真剣さが文体に薫り、また文章も言葉を記した瞬間の彼の宇宙感が難解なだけで、基本的にわかりやすい。伝達性にすぐれている。)
ゲーテなら静観的な目から、風景画家のように忠実に、内面に結んだ像をそっくりそのままやさしく、わかりやすく伝達する。
(「ウェルテルの悩み」は若干その後デーテらしくはない。)
そんな感想でいいんじゃないかい?
後は彼らから学んだことを活かせばいいわけですよ。
私は彼らには当然かなわない、本当の芸術家だ!という想いがある。
それで私らが日常で抱いているものを刺激や感動でそぎ落としてくれたり、そこから思索をうながしてくれたりしてくれるという宝物を残していってくれたんだよ。
(だから色眼鏡で見すぎると、よくないってのを言っていたわけだよ。)
トレースしすぎるとよくないよ。まじで・・・