08/09/25 06:14:58 O
ダサいザラツストラw
まあしかしツァラトゥストラは己自身を軽蔑することができるということを評価してたから割と原作に合ってるかもな。
613:考える名無しさん
08/09/25 07:20:37 O
まあ人間強い者には弱いからな。
いや、強い者に立ち向かっては、捕虜になるぐらいなら自爆せよという民族もいるけどな。
どうなのだろう?
人に迷惑をかけないように自殺しろというのは?
614:考える名無しさん
08/09/25 07:22:09 O
ひもじいな。
615:考える名無しさん
08/09/25 08:01:00 0
自殺はキリスト教では認められませんが?
ニーチェがイスラム教について述べているように
ジハード?について考える必要があるのではと、考えます。僕は。
616:考える名無しさん
08/09/25 08:20:47 0
171 :彼氏いない歴774年:2008/09/25(木) 05:44:41 ID:6D4NpPb4
無職だと女に興味なくなるよね(?ω?)
スレリンク(dame板)
617:考える名無しさん
08/09/25 08:32:25 O
彼らはアメリカ相手に捨て身で攻撃してるんだから、かつての日本人みたいなことやってるわけだ。
それなら日本人について考えるのが近道ではないのか?
618:ニーセ21世 ◆TFnqGXDHBQ
08/09/25 09:17:32 0
>>612
ホント、お前のダサさを物語っているよ。こち。
619:ニーセ21世 ◆TFnqGXDHBQ
08/09/25 09:23:23 0
『読書衝動における自己虐待』
「おれは憤懣で劣等感の塊です。だから、読んでやろう!読破してやろう」
↑こんな心情があるのはな?
これで他人の色眼鏡で物事を見るくせがついた。
かっこわりい~~
でも「こちとら」はもう逃れられないらしい。その「呪縛」から!
620:考える名無しさん
08/09/25 09:51:59 O
本を読むのは労働
621:考える名無しさん
08/09/25 09:54:06 O
どうせ色眼鏡をかけなくてはならないのなら
他人の色眼鏡をかけてみるのもよかろうもん
622:ニーセ21世 ◆TFnqGXDHBQ
08/09/25 11:33:13 0
自殺といえば昨今の集団自殺。
個人的に自殺者を倫理的な意味で咎めることはまったくしないが、
(他人に迷惑云々 一般論として迷惑をかけない人間なぞ存在しないわけで、
生存者そのものがある意味他の生存者に迷惑だよ)
ただひとつだけ確実に垣間見えること。
彼らの自殺という行為にはこの世と自分への"未練"が付着している。
一人で自殺する奴でもそうかもしれないが、集団はより鮮明にそれが浮かぶ。
623:ニーセ21世 ◆TFnqGXDHBQ
08/09/25 11:38:41 0
>>620
読書が「労働」と感じるということなら、読まなくていいと思うけど?
そか、することないからか・・・了解。
いずれにせよ、とどまることを知らない『自己虐待』が日本人には相当根強いと
感じさせる。これじゃ死ぬわな皆。
624:考える名無しさん
08/09/25 14:35:49 0
日本人のことを通して、ニーチェを考えるのは、ある意味いいと思います。
ニーチェが日本について考えたかは、知らないですけど・・・
625:考える名無しさん
08/09/25 16:53:17 O
>>618
> >>612
> ホント、お前のダサさを物語っているよ。こち。
人に迷惑をかけるぐらいなら氏ね。
626:考える名無しさん
08/09/28 00:22:12 0
「ゲーテはすでに達成されたヒューマニティーの全遺産をなすひとつのヨーロッパ文化を想像した」
とはどういう意味かわかりますか?
627:○丸
08/09/28 22:33:47 0
岩波文庫のツァラ、氷上訳のp193の
『自己超克』を久々読んだんだが。
ここでは、”生あるもの”と”生ある者”って二種類あるが、
これは、意味があってわけてるんだろうか?
わけて解釈してみると、前者の”もの”は何かまだわからいって意味で、
後者の”者”は正体がはっきりしているみたいだ。
「すべての生あるものが見いだされるかぎり、わたしが聞いたことばは、
きまって服従だった。すべての生あるものは、従順なもの、である。」
ここで云われる”生あるもの”を、<生を持つもの>と解釈すると、
<生を持つもの>は、従順である、で、何に従順なのかっていうと、
”生ある者”。つまり、生その者。
628:○丸
08/09/28 22:48:59 0
「私には思われた。どの命令の中でも、ひとつの試みと冒険があるのだと。
また生ある者が命令するときには、かれはつねに自分自身をそれに掛けて
いるのだ。」
”生ある者”は命令するとなってるでしょ。
629:考える名無しさん
08/09/28 23:45:03 O
それはlebendigを名詞にしたものだよ。独和ひけばいい。
つか生あるものというような訳には普通はならないんじゃないか?
普通は生き物とか生き生きしてるもの、生命、活気、活況だとかになって、なにか関係代名詞を予想させるような訳にはならないんじゃないか?
すると「生」というのがニーチェの用語としても定着してるんだわ。
これに躍動的な意味をもたせるという約束というか慣例があるんだな。
そういう意味合いがあることを邦訳の読者は知っているべきだ。
そもそもドイツ語のLebenこれは人生と訳されたりするが、これが形容詞のlebendig(生きている、生き生きした)という語と明らかに関係しているんだし、ニーチェに限らずドイツ語の訳で「生」とでてきたら躍動的な意味合いがあると見た方がいいのかもしれない。
630:○丸
08/09/28 23:57:08 0
>>629
”生あるもの”と”生ある者”が同じlebendigとしても、
あえて、分ける意味が、『自己超克』の章の構成上、
邦訳する場合にあったんじゃって素人の勘ぐりなんだが。
631:626
08/09/29 00:03:37 O
誰か教えて
632:考える名無しさん
08/09/29 00:11:38 O
私の場合には「生」などという日本語の名詞というのは動詞に比べ具体性に欠ける感がある。
「生きる」といえば具体性が湧いてくる。
それは漢語に名詞が多いからだろう。
実はまだ漢語が血になってないのかもしれない。
逆に欧米の言葉では動詞だけでなく名詞にも具体性がある。
名詞の方により具体性があるのかもしれない。
普段動詞として機能しているseinをSeinとしてしハイデガーにそれって何ですかって聞いても困ってしまうかもしれない。一時間ほど放置され挙げ句、忙しいので帰ってくれないかといわれるのかもしれない。
633: ◆unh/PgDNnM
08/09/29 00:15:36 0
>>631
しゃーないな。
ま、なんかの縁だから。
_
そういうのは、ただの短絡思考だろ?。マジバカか?
634:考える名無しさん
08/09/29 00:19:01 O
>>630
生ある者の方の例文は?
635:○丸
08/09/29 00:21:04 0
>>634
>>628なんだけど、どうでしょ。
636:六百六拾六
08/09/29 00:27:05 0
原文は知らんが訳者が気を利かせた文面だと仮定すると、
”生あるもの”=生きとし生けるもの(環境や集団社会に影響される)
”生ある者”=より「活きよう」と己自身を賭す者(生を実感する者)
という違いなんじゃないかいな。
637:考える名無しさん
08/09/29 00:38:29 0
>>626
>>631
出典は『偶像の黄昏』ですか?
638:考える名無しさん
08/09/29 00:47:19 O
>>635
おっとっと見逃してました。
私はまだドイツ語読めるようになってきたというレベルですが、
例の訳語の違いは気にしなくていいと思いました。
639:626
08/09/29 00:57:41 0
誰も答えれねーのかよ。
お前らエセニーチェ理解者気取りかよ。がっかり
640:○丸
08/09/29 01:05:21 0
>>636
ん~。己自身を賭す者。ってのは”生ある者”で全く同意。
しかし、生を実感する者=生あるもの(俺的には<生を持つ者>)
なぜなら、生は実感しても、さらに乗り越えるものだから。
この章では、大いなる生も、己自身を賭す者で、
生が”直接”認識者に語るところがある。(かなり長く)
「つねに自分で自分を克服しなければならないもの、わたしはそれなのだ。
中略
すぐにわたしはその敵対者となり、自らの愛を敵にまわす者とならなければ
ならない。私の意志はそのことを欲する。
中略
力への意志が語っている。」
この中の”わたし”は生その者だとおもうが、めんどうになった。ねる。
まぁいろいろ
641:○丸
08/09/29 01:12:21 0
>>639
多分、ニーチェの関心は、ニーチェを超えることだったろうな。
642:考える名無しさん
08/09/29 01:22:51 0
ニーチェは自身を鼻で笑うような人間が好きなのさ
643:考える名無しさん
08/09/29 01:38:33 O
>>627
> 「すべての生あるものが見いだされるかぎり、わたしが聞いたことばは、
> きまって服従だった。すべての生あるものは、従順なもの、である。」
この訳が対応してるだろう原文を読むと訳に違和感がありますね。
そもそも「すべての生あるものが見いだされるかぎり、」とありますが、日本語としておかしくないですか?
ここはむしろ、こんな感じではないかと。
「私は生あるものについていった…
彼の口が閉じているときには彼の目の語りを私は捉えた…
生あるものしか見あたらないところでは、私はまた、服従の言葉をも聞いた。
すべて生あるものは服従するものである。
第二にこう聞いた。…
第三にこう聞いた。…」
手塚氏訳でどうなっているか調べた方がいいかもしれません。
644:○丸
08/09/29 01:45:21 0
>>643
>>627のように、主体と奴隷に分けてるのではないかと
俺的に考えています。
手塚氏訳も確かに確認したほうがいいですね。
645:考える名無しさん
08/09/29 02:14:27 O
>>640
> >>636
>
> ん~。己自身を賭す者。ってのは”生ある者”で全く同意。
> しかし、生を実感する者=生あるもの(俺的には<生を持つ者>)
これは私も興味あるテーマに関係していますね。すなわちbeing or havingです。エーリッヒ・フロムの本の題名にもなってましたか、
探してみましたら、To be or to have?でした。
で、生は持つものではない、と私は主張しますがね。
まあ先に書いたことと関係しますが、
その前にいま思い出したことをお話しますと、
資本主義の発達につれて名詞表現がふえてきているというものです。
そういえばこれは上記のフロムの本にあった話でした。
生を持つというのは頭痛を持つというのと同様の表現でしょう。
私は生を持つとは奇怪に感じます。
頭痛を持つも同様です。
しかし英語ですとI have a headacheとか普通に使われるようになってきたというのです。昔はそうでなかったと。
昔はI'm in trouble などだったが近頃では、I have a problemというように表現がbeからhaveに変わってきたと。
まあニーチェはI have a life.とはいわないでしょね。 彼ならこんなことをいうでしょう。
I'm living cause I will !
646:考える名無しさん
08/09/29 02:30:01 O
おそらくこの存在から所有、存在者から所有物への変化変身というのが19世紀から辺りからヨーロッパでは問題になってきたのだと思います。
ニーチェが熾烈に批判したのもこれかもしれないですね。
ハイデガーは問います。
「何故一体、存在者があるのか、そしてむしろ無があるのではないのか?」(形而上学入門)
生を持たれるのが奴隷なんでしょうが、
何故、生を持つ者がいるのか、むしろ誰もいないのではないか?
こんな問いに置き換えることもできるでしょうね。
647:考える名無しさん
08/09/29 04:14:52 O
>>645
> >>640
>
> > >>636
> >
> > ん~。己自身を賭す者。ってのは”生ある者”で全く同意。
> > しかし、生を実感する者=生あるもの(俺的には<生を持つ者>)
>
> これは私も興味あるテーマに関係していますね。すなわちbeing or havingです。エーリッヒ・フロムの本の題名にもなってましたか、
> 探してみましたら、To be or to have?でした。
私は現在進行形が好みですね。
自己超克の章に川が生の象徴としてでてきますね。
これは誰でしたか古代ギリシャの初期哲学者で「同じ川に二度と入ることはできない」だとか世界の流動性を無常性を象徴的に語ったわけですが、
ニーチェはこの人を気に入っていたので真似したんでしょうな。
で、今ちょっと「差異と反復」を読んでるんですがここのはじめに「それ自身における差異」ということばがでてきます。
一体なんでしょうか? それ自身における差異とは?
ここでいきなり挫折してたんですが、こういゆうことかもしれません。
これは上記の川と関係してます。
ですから無論のこと自己超克と関係しているのです。
648:考える名無しさん
08/09/29 04:17:11 O
「それ自身における差異」これはですね、普通には考えられないことではないでしょうか?
だってこれはA≠Aが成り立つということでしょう。
そんなことをいえばアリストテレスが化けてでるかもしれませんし、
数学者や論理学者には基地外だお話にならと思われ敬遠されるでしょう。
ドゥルーズが基地外…そうかもしれません。ただ彼はですよ、ニーチェを読んでますし意識していて本まで書いてます。私は読んでませんが。
ですから彼はきっとそういいながら川をイメージしてるという可能性があるわけですよ。
A≠Aは川であり自己超克であり、そしてこれこそがです、生命そのものなんだ! というような認識があるのではないかなとそう思いましたよ。
649:考える名無しさん
08/09/29 04:35:46 O
「それ自身における差異」これはA≠Aということですが、
これが自己超克を意味するならばです、
これは A≠A&A=Aが成立するということです。
そうしますとこれが要するに「差異と反復」であり、生命なんです。
ではこの推測が大体合っているのか気になるところになりましたのでもいちょい「差異と反復」を読み進めてみましょうか。
皆さん眠っていらっしゃる。
では勝手に進行させていただきます。
あっ! そろそろ八言制限に引っかかることだといのを忘れてましたよ。
まあ仕方ないでしょうな。
650:考える名無しさん
08/09/29 05:40:06 O
では「差異と反復」文庫版の13pの次の文が気になるので試しに考えてみましょうか。 期待できない?
私だって期待してませんよ。ただわかりたいだけ、それだけです。いやこれは失礼、カッコイいことをいいすぎたかもしれません。
ちなみにこれは別にチンポ氏の真似ではないです。ああ! そういえば私としたことが今晩はチンポがついていることを全く忘れてましたよ。眠っているみなさんのようにです。
さて今度は問題を忘れていましたが問題は以下の文なんです。
「生の務めは、差異がみずからを配分してゆく或る空間のなかで、すべての反復を共存させるところにある」これです。
先ほどの「それ自身における差異」ということばのあった隣のページの記述ではありますが、
予想通り「生」ができてきました。
まあざっとこんなものですかね。
さてこの文の意味ですよね、ここニーチェの迷宮においては解釈というべきでしたか?
まずこの文の先をカンニングしますと本書は二つの方向で研究を進めているとあります。
すなわちこんどは、
「否定なき差異」という概念に関わる方向と、「反復という概念に関わる方向」です。
では並べてみます。
651:考える名無しさん
08/09/29 07:29:39 O
では並べてみますか。
「否定なき差異」「それ自身における差異」
ふむ。果たしてこの二つは同じものの二つの表現なんでしょうか?
後者が自己超克だとすれば、前者もまた自己超克であれば果たしてそういえるわけですね。
では自己超克は否定なき差異といえるのか? どうでしょう?
まあ今ですね私は逆にニーチェでドゥルーズを解釈しようとしてるわけですからニーチェを適当に利用してみましょうか。
よろしいでしょうか?
なるほど肯定ですね。「肯定」なんですね!?
では「肯定」に偶然遭遇しましたのでこれをキーワードとして利用してみましょうか。
652:考える名無しさん
08/09/29 13:03:39 O
自己超克、差異、肯定…になりました。
ふむ。自己超克とは差異の肯定である。 例えばこんなのはいかがでしょうか? いかがわしいでしょうか?
そもそも自己超克といってもツァラトゥストラによると、無常なる自己はないみたいなんですよね、
川のように、血流のように常に巡りめくような力があるというのが基本的認識ですから。
これは文献学者じゃなくともパクリとわかります。
また、超克といいますと、不動の厚くて高い強かな壁を乗り越えるというイメージがありますが、そんな壁はないんですね。ニーチェの辞書には。
では原語のUeberwindungを独和で引いてみましょうか。
征服、克服、勝利、克己、がまん
とでました。なんでがまんだけ平仮名なのかわかりかねますねこれは。
どうもこれは禁欲が答えのクイズなのかもしれません。
独独引いてみます。
よさそうな語義があったので転載してみますか。DUDENからこんなんでました。
“im Laufe einer Entwicklung hinter sich lassen”
これはある発展の最中に自身の後ろにおいていくというような意味ですね。
ではこれを踏まえまして「自己超克」について再び考えてみましょう。
653:考える名無しさん
08/09/29 13:35:04 O
Lebenに生という訳語を当てることにします。
「生」はその秘密をこのように語るんです
「見なよ、ボクはずっと自分を追い越さなきゃいけないんだ」
また気さくにその秘密をこのようにも語るのです、
「もっとつくりたいし、どこかもっと高いところに登ってみたいし、
もっと遠いところに行きたい、それにもっと色々欲しいものがあるんだ」
このように色々と欲張っているようで、この子は一途なんです。
この子はただ絶え間なく自分を追い越さきゃいけない「生」そのものであり、そんな運命なんですから…。
なるほど「運命」とはうまいこと当てはまってるようですね。
おそらくニーチェ的には生=自己超克=運命といえるのではないでしょうか。
そして一切がこれであるならば、
自己超克という概念における自己は、デカルト的な自己ではないので、
自己超克というのは「私」が成長していく強くなっていくいうような意味ではないのでしょう。
654:考える名無しさん
08/09/29 20:13:16 O
“Ich bin das, was sich immer selber ueberwinden muss”
これは普通こんな感じの訳になると思います。
「私とは常に私自身を自ら克服せねばならぬものである」
ここで私とは生を意味します。
ueberwinden という動詞がキーですね。先ほど辞書を参照しましたがこれには何かがentwickeln発達成長しつつ、過去のそれ自身を置き去りにしていくという語義がありました。
これは「生」自らかたる「生」に似てますし、「それ自身における差異」とも似てます。
で、ドゥルーズは「差異と反復」という時の差異を形容して「それ自身における差異」、「否定なき差異」といってるんですからこの二つはまとめられます。
「否定なきそれ自身における差異」このようにして上記の「生」や「超克」と訳される語と比べてみますと、かなり似ていることがわかると思います。
たとえば「否定なき」というのは常に成長していかねばならない前向きでないといけない資本主義のような生に関連してますね。
資本主義といえばちなみに生はこうも語っています
「成長(克服)を断念するぐらいなら、落ちるほうがいいんだ。
それに見てみなよあそこを、没落と落葉のある場所には本当に生は自分を犠牲に供しちゃうんだ…力(権力)に!」
これはある意味女のことかもしれないですね。
これでドゥルーズのいう差異がニーチェの「生」、「自己超克」と高い相関性を示しているということが多少なりともわかってきたと思います。
655:考える名無しさん
08/09/29 21:24:07 O
ニーチェを論理的に批判した哲学者っているの?
656:考える名無しさん
08/09/29 21:37:22 O
論理的に問題にならないから無理
657:考える名無しさん
08/09/29 21:38:47 0
ぐぐれカス
658:考える名無しさん
08/09/29 22:09:04 O
今度はドゥルーズの「反復」という概念に注目してみたいと思います。
そしてこの概念とニーチェの思想の関連性を探ってみたいと思います。
もちろん差異とニーチェのいう「生」「自己超克」関連しており、差異は反復に関連してるんですから、
反復と「生」、「自己超克」も関連してるはずではあります。
ですから両者の直接的な関連性を探ってみたいと思うのです。
659:考える名無しさん
08/09/29 22:11:03 O
その前にちょっと脱線しまして、いわゆる創造性、オリジナリティについて思いついたことをお話したいと思います。
ニーチェというのは創造することを重視しますが、文献学者じゃなくてもわかりますが基本的にパクってますね。
彼の批判する相手のことはもちろん、彼が批判するに使用する彼の思想もまた、彼が無から創造したものとはいい難い。
ニーチェ自身が生成変化の一戯れのようです。
要するにオリジナリティてのは、組み合わせの問題ではないのかということです。
そういえばソフィーの世界というロリータと哲学史みたいな小説がありますが、
あれに原子論がらみでレゴブロックが登場しますが、
オリジナリティというのはレゴブロックの組み合わせ方、構造の際立った違いでしかないのではと思ったわけです。
そうしますとある本を読み解く時、正しく解読するということよりも、むしろ誤解によってこそオリジナリティが育まれるといえないこともないかなと思えます。
しかし、そもそも解釈の正しさの判定基準が解釈される本文であり、
それはそれが記述する意味内容の本来の姿とはまるで別物である以上は、
「事実などない」といえ、その正しさには迫ろうとすることはいわゆる物自体に迫ろうとすることとあまり変わらないのではないかと思います。
ですから正しさを限りなく追い求めても誤解が尽きてしまい誤解由来のオリジナリティが失われる心配はないでしょうね。
660:考える名無しさん
08/09/29 22:19:33 0
>>659パクリというなら証拠見せてみろドカスが
661:考える名無しさん
08/09/29 22:29:21 O
眠っていた人は眠っててください。
そうですねでは休憩に入りましょうか。
その間私はピアノのお稽古に行ってきますので。
662:考える名無しさん
08/09/29 22:43:08 O
そういえば、パクリには当たりませんがドイツ語に既にニーチェの考えの多くは包含されていたと推測することもできそうですね。
lebendig 、ueberwindung などニーチェを理解するに当たって重要な言葉を辞書でじっくりと引いてみて、そう思いつきましたがね。
663:考える名無しさん
08/09/29 22:49:49 0
>ニーチェというのは創造することを重視しますが、
そもそも長文系が胡散臭さ全開に見えるのは、その著者を神格化した上で語り始めるから。だ。
(もし、その著者がそれを目にしたら多分怒り狂うのではないだろうか。とさえ思ってしまう・・・)
ところが、大抵の場合彼はもぅ現存しておらず。
言葉は悪いが(死人にくちなし)なのである。。。
スキ過ぎるが故のあやまち。
時として我々は、歪曲をしてまで彼の思想に溶け込もうとする。(または、闘おうとする。)
しかし、これをしてしまうと大体は次の章で訳が解らなくなるのだ。(繋がりが見いだせなくなる。)
それは丁度、嘘は嘘によってでしか繋がらないように、歪解も歪解を持ってしか導き出せないだろう。
そうして深みにはまってゆくのだが、それは決していい意味での深さでない事は火を見るよりも明らかな~のだ。
(そしてそれはいずれ「破綻」する運命にあ~るのだ。)
にょ?
664:○丸
08/09/30 00:23:17 0
おいおい、いつ寝てるんだよ。
ドゥルーズの「ニーチェと哲学」をしげしげ見た。
自己超克に関してp252。
「没落を欲する人間、克服されることを欲する人間のうちで、否定はなお
自身をひきとめている一切の絆を断ち切った。
中略
生の過剰に奉仕するような否定、
中略
まさにここにおいて、はじめてこの<力>は自身の完成に遭遇する。」
ここに出てくる否定が行われるには、どうもおしまいの人間を通過した
”ニヒリズムの完成”が必要のようです。ニヒリズムとはちゃいます。
聖なるノン。獅子の咆哮。
665:○丸
08/09/30 00:31:48 0
”ニヒリズムの完成”はニヒリズムの価値転換の結果であり、
それは否定の否定だから。
単なる否定だけとはちゃう。
666:考える名無しさん
08/09/30 00:58:58 O
ピアノのレッスンしてきましたが指が動くようになるまでちょっと時間がかかりました。サボるとすぐなまるんですね。
携帯でピコピコやっててもピアノは上手くならないのがよくわかりましたね。
むしろ親指ばかり動かすわけですか下手になる気もしますね。
>>664
キーボードにしては中略が多いですね。
そんなことではなんともいえませんな。
ところで、ドゥルーズを読み解くにはフランス語版のニーチェを読むのも有効でしょうね。
なんというかかつてのラテン語のような国際語がないと誤解が雪だるま式に増えていきそうですね。
667:考える名無しさん
08/09/30 01:06:02 O
>>663
やあ。
私はニーチェという人間はどっちかというと嫌ってますがね。
ニーチェという人間は没落を欲すべき者というところでしょうか。
まあ思想は別かなと。
668:考える名無しさん
08/09/30 01:08:21 0
そんな心持ちで弾かれたんじゃ、ピアノも泣いとる事だろう。
可哀想に。
669:○丸
08/09/30 01:09:04 0
ではこういうのはいかが?
捏造とは創造のことだ。
670:考える名無しさん
08/09/30 01:45:20 O
では反復について考える前に、ドゥルーズの言う「力」について調べておくことにしました。
フリガナによるピュイサンスらしい!
仕方ないフランス語に身の覚えのない私としてはここはまず和仏で「力」ですな。
ない! ピュイサンスないですな。
ではニーチェがらみなので権力で…ない!
では勘で仏和で探します。
ありました。
puissance 力、強さ、能力、権力、強国、動力 とでました!
では反復をちょっと考えてみましょう。
「一切の同一性は、差異と反復の遊びとしての或るいっそう深い遊びによって見せかけられたもの…」(差異と反復 財津氏訳 以下同書)
見せかけってのはフリガナによるとシミユレですしシュミレーションみたいなものでしょう。
simulacle 見せかけ、まやかし、模造品とでました。これは海賊版みたいなものですね。
ほかに詐欺とか化粧、着色料とか擬態、媚態に虚勢にシリコンなど世の中あれだわsimulacleばかりだわ。
「深い遊び」はニーチェがらみでしょうに。ディオニュソスやら深淵やらでてくるで小児。
671:考える名無しさん
08/09/30 01:55:09 O
>>668
> そんな心持ちで弾かれたんじゃ、ピアノも泣いとる事だろう。
>
> 可哀想に。
それは当たってますかね。 まだまだ雑音かなと。
>>669
それはニーチェのあちこちにあるような話ですが、
まあオリジナリティ溢れるものというのは当初は正しいものであるはずのないものですね。
672:考える名無しさん
08/09/30 02:52:43 0
673:考える名無しさん
08/09/30 03:11:43 0
>>671
おまえ異様にくせーんだが
風呂入ってんだろうな?
えんがちょw
674:考える名無しさん
08/09/30 04:17:12 O
「一切の同一性は、差異と反復の遊びとしての或るいっそう深い遊びによって見せかけられたもの…」(差異と反復 財津氏訳 以下同書)
この引用の前後をみますと同一性と見せかけは同じ仲間みたいですね。
でこの仲間たちの織り成す劇、劇場が現代の世界であり、現代思想はそのスクリーンが裂けたところに生じているということらしいです。
これは裂傷みたいなイメージでしょう。パカッと開いた傷口の目…
リストカットではなかなかできない深みのある目の形の傷です。
ドゥルーズはそんな目をした一人ですしそう自認辞任しているでしょうね。
ところでドゥルーズにとって差異に種類があるように反復にも種類がありますね。これが二つに分けられる。
その一つ目は機械的、ステレオタイプ的、物理的な反復
もう一方は秘めやかで偽装しながら隠れた反復です。
で、前者は後者の差異を介した見せかけのようです。
反復するには差異が介在せざるをえないでしょうね。
例えば機械的反復の振り子運動を考えてみますと、上下左右に位置を変え向きを変えますからね。
これって自己超克のイメージに合いますね。重りは常々自分自身を追い越していかねばならない。上にいけないぐらいなら、没落を欲する。
常に差異を求めつつ止まらず加速しつつ落ちたときは運動エネルギーを他に分け与える…
675:考える名無しさん
08/09/30 04:19:06 O
生の務めは差異とすべての反復を共存させることなどとありますから、生というのは秘めやかで偽装している反復、生自身をも含めそれらを司る力に従わなければならないものということでしょう。
務めということは、権力の下にあるということでしょう。
生というのは力の僕というところでしょう。
差異が肯定の対象になるとき、攻撃と選別の力が解き放たれ、否定的なものの闘争や破壊が仮象にしかならくなるらしいですな。
どうもナチスか原爆っぽいですね。
差異の肯定…格差があって何が悪い。
ところで何が差異を肯定の対象にするんでしょうか?
力への意志=生でしょうか?
しかし物理学にしろニーチェにしろ「力」には触れないですよね。
ぴかぁが時々いってましたが、そこにあるべき惑星みたいなものでは?
力などない関係があるだけだ!かもしれません。
殴ってやろうか? 力は感覚ではないでしょう。
書面は差異と反復でもやっぱり主役は力ですね。
力というのは表象の還元先でしょうね。 なんか力って神様っぽい…。
676:考える名無しさん
08/09/30 06:32:53 0
名前:哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/09/29(月) 23:59:45 0
気味が悪いな
677:考える名無しさん
08/09/30 07:01:02 O
> 書面は差異と反復でもやっぱり主役は力ですね。
書面? 題名ですね。
22pに「頭脳は交換の器官であるが、心は、反復を愛する器官である。」とあります。
心が器官なのかというのはおいとくとして、
ではもし一切が繰り返されるのだとしたら、
世界は機関ではなく器官なのか?
それとも器官でありながら機関でもあるのか?
そもそも反復と差異が同一性と矛盾に取って変わったというけども、
それで世界が変わったんでしょうか?
特に変わってないのでは?
とすれば、取って変わったといっても、見せかけという烙印を押されたとはいえ同一性と矛盾は消え去ったわけではなく、今もなお「差異と反復」と共存しており、
ただ「差異と反復」が「同一性と矛盾」より根本的だというだけの話でしょう。
別に素粒子が発見されて、机が消え去るわけではない。見せかけとはいえども。
ところで頭脳と心を別物とし、
両者は各々の意志に従って日々権力争いを繰り広げ闘っているとしましょう。
そうしますと、恐らく心が優勢な人は頭脳が見せかけとして表面化し、
逆に頭脳が優勢の人の場合は心が見せかけとして表面化するような気がしますね。
で、ドゥルーズは心が優勢なんだと思います。
でさ!これがさ!
ニーチェ、このニーチェの中の人ってのは頭脳が優勢なんですよこれが。 このね、詐欺師だと思いますよ。
発狂したとか偽装かななんて思いますね。
678:ニーセ21世 ◆TFnqGXDHBQ
08/09/30 09:50:06 0
こちとらはこう語った・・・・
ではそろそろこちとら君を・・・(ry
>>663
>そもそも長文系が胡散臭さ全開に見えるのは、その著者を神格化した上で語り始めるから。だ。
>(もし、その著者がそれを目にしたら多分怒り狂うのではないだろうか。とさえ思ってしまう・・・)
胡散臭いどころか、皮を被らない赤裸々な事象観察や思考が不足しているから、
誰かの概念に"ついて"考えることでしか生存が苦々しいという真の落ちこぼれ状態に至っている文体ってとこだね。
確かに怒り狂う。人間の書物も人間も冒涜してる。
ではそろそろこちとらの奴を・・・・・・・
679:ニーセ21世 ◆TFnqGXDHBQ
08/09/30 09:57:33 0
でも、「自己虐待衝動に随伴する劣等意識ゆえの読書」をしている人物が
このような精神や思索になる悪例を"如実に"に示しているので、
その点ではいわば実験用動物を飼いならしている価値はあるといえる。
しかし、それでも汚い長文だ。
「地下の住人」と何処となく口調が似ているが、あの住人は逆に偉大だ。
なぜなら、一切を自分の肉体(概念そのものを信じない根からの思考)で以って当っているから。
でもここにいる「こちねずみ」は・・・
なあ こち。
680:ニーセ21世 ◆TFnqGXDHBQ
08/09/30 10:09:17 0
それでも、"こち"はこの思索が楽しい、唯一の生存の退屈しのぎになっている。
こちはまず自分を愛していない。
それはまずいいとしても、その自己軽蔑・憤怒・劣等感・復讐のきったねえ血を
を色眼鏡で世界をみようと義務を課した長年の虐待から益々人間を愛せなくなっているように思える。
681:ニーセ21世 ◆TFnqGXDHBQ
08/09/30 10:23:48 0
日本の詩人を例に、個人的な感想として
石川啄木>>>>萩原朔太郎
朔太郎には西洋化(自己の背伸び化)がある。
なぜに、それほど人間の言葉を難解化する必要があるのか気が知れない。
ニーチェについても同様の事をやっている・・・
馬鹿馬鹿しい限りだわ~~~
ぴょ
682:○丸
08/09/30 13:10:20 O
言葉が難解なんじゃない。
言葉の示す先が難解なんじゃ。
誰も知らないことに、ことばがあると思うか?
683:考える名無しさん
08/09/30 16:42:57 0
自分が分からないからって、馬鹿馬鹿しいとかいうのはやめようよ。
そういうのが典型的なルサンチマンだろ。
批判するなら批判してもいいが、内容のある批判をしてくれ。
684:考える名無しさん
08/09/30 17:36:01 0
>>675
>しかし物理学にしろニーチェにしろ「力」には触れないですよね。
そんなことはないよ。
ニーチェは物理学の「力」(Kraft)概念を批判して、
そこから「力」(Macht)への意志の思想ができたんだよ。
685:○丸
08/09/30 17:42:24 0
「誰にでも読めるが、誰にも読めない」って有名だろ。
686:考える名無しさん
08/09/30 19:00:24 O
>>684
> >>675
> >しかし物理学にしろニーチェにしろ「力」には触れないですよね。
>
> そんなことはないよ。
> ニーチェは物理学の「力」(Kraft)概念を批判して、
> そこから「力」(Macht)への意志の思想ができたんだよ。
>
力ってなんですか? っていう基本的な疑問に答えてくれてないかなってことです。
形式的にでもWhat is ○○○?という疑問文は脳または電脳へと「生成する」じゃないですか…。
ところでp15に「そのとき、あらゆる思考(パンセ)は攻撃へと生成する」とあります。
こうゆう文をみるとやっぱ原文必要だよねって思いますね。
生成変化するならわかる気もします。
なにか個体が液体に液体が気体になるような変化を表してる気がします。
位相が変わるという意味合いかもしれません。
とはいえ位相ってどんな意味だったか…
「位相」…(周期運動の中で)どういう位置、状態にあるかということ…
687:考える名無しさん
08/09/30 19:01:55 O
ここでニーチェとドゥルーズをぐちゃぐちゃとミックスしてみたくなりました。
それ自身における差異が肯定の対象になり続けるとき、人間は生ある者として位相を変え続け、己自身を反復する…己自身を反復し続ける…
「差異と反復」の目次を見ますと、「それ自身における生」と「それ自身へ向かう反復」というのが重要みたいです。
まあそもそもピュイサンスに力、権力、そして「累乗」という語義がありますからね。
これは英語のパワーでも同様です。
ドイツ語のクラフトやマハトには「累乗」という語義はないみたいですが。
フランス人と英米人は「力」といえば累乗を想起しやすい。
累乗が反復に連なり、反復が力に連なりやすい。
ドゥルーズもはじめに「反復の本来の力(ピュイサンス)」といってます。
688:○丸
08/09/30 19:24:01 0
でもあれじゃないかな、原文見るなら、ドイツに住んで
体感しないと。
結局、ドイツ辞書は日本語で説明しているわけでしょ?
そうなると、本職の訳に依存してしまいたくなる。。。。
689:考える名無しさん
08/09/30 19:37:47 0
>>686
>力ってなんですか? っていう基本的な疑問に答えてくれてないかなってことです。
「○○とは何か?」という問いに答えることは、その○○を本質規定するということだから、
本質規定され得ないディオニュソス的なものである力への意志についてはそういう書き方はできないだろうね。
「○○とは何か?」に正面から答えてしまえば、ハイデガー的に言えば、存在を存在者化してしまうことになる。
だからニーチェは「○○は~ではない」という書き方をせざるを得ない。
690:考える名無しさん
08/09/30 19:47:20 O
>>681
朔太郎がお口に合わないのか
お気の毒に
691:考える名無しさん
08/09/30 20:13:43 O
>>680
やあ。
> それでも、"こち"はこの思索が楽しい、唯一の生存の退屈しのぎになっている
いやいや滅相もないですな。買いかぶりにも程がありますよ。
そんな人いるんですかね。
> こちはまず自分を愛していない。
これは当たりかな。自分をあまり意識しなくなってきましたし。
自意識が病なら快癒したのか!?
病気は生の自己超克の表れではないかとも思いますね。
熱の医学的説明はガンなどにも当てはまるのかもしれない。
でも腫瘍の痛みに長期間耐えるぐらいなら死んだほうがましでしょう。
私はこのまえ歯茎がかなり腫れただけで泣きそうでしたよ。
> それはまずいいとしても、その自己軽蔑・憤怒・劣等感・復讐のきったねえ血を
> を色眼鏡で世界をみようと義務を課した長年の虐待から益々人間を愛せなくなっているように思える。
>
さてどうですかね。近頃は激情とは縁がないです。
それ故にいささか冷酷になったという恐れはあるかもしれない。
それでも音楽には浸りやすくなりましたが。
音楽ですか…w
692:考える名無しさん
08/09/30 20:15:01 O
まあ人間を愛するほどに人間関係が上手くいき、叙情性溢れる文化に浸れるのかといったら、
偽短氏には悲しいことかもしれませんが、
そうでもなくて、逆に追放されていく運命の下にあるでしょう。
そんな体験をするのも一興です。
子供の頃から大人らしいニーチェが憧れの矢を放ち続けた先はそんな春なんですし。
693:考える名無しさん
08/09/30 20:48:10 O
>>689
> 「○○とは何か?」という問いに答えることは、その○○を本質規定するということだから、
> 本質規定され得ないディオニュソス的なものである力への意志についてはそういう書き方はできないだろうね。
力への意志ではなくて「力」が気になるんです。
力への意志が力ですか?
何故に一切が力への意志なんでしょうか?
これではその憧れの矢は力に届きやしない。
いわゆる蛇が己の尻尾に噛み付いている状態で、位相を変えつつ、
それ自身における差異を求め、それ自身を反復するだけでしょう。
これでは人間も世界も無力なんであって、運命あるいは慣性のままに永久に1を累乗してしまうということでしょう。
ドゥルーズはフランス人であるせいか反復に力=累乗を認めるわけですが。
ニーチェもフランス語は知っていたので同様なんでしょうか?
p32に「そしてニーチェだが、彼はこう述べている。
すなわち、意志を束縛しているすべてのものから、意志を解放するために、反復を、意欲の対象そのものにすること。」
とありますけどね。
同一性をもつ反復、それ自身の累乗、1の累乗=力を意欲する精神が、逆説的に自由な精神なのだというのでしょう。
694:考える名無しさん
08/09/30 21:35:11 O
力というのは、地球と共に回っていて人間がその運動を感じないように、
差異として、間接的に表象=再現前化としてしか感知できない物自体なんでしょうか。
反復は力なりというのは確かなものがあります。
しかし力はそれ自身における差異としてしか表面化しない感知できない
差異としてしか力を楽しめないわけです。
例えば私たちは大地と共にジェットコースターより速く動いている。だがその自転公転のスピードは楽しめない。
ジェットコースターのスピードは相対的のスピードで、乗れば私たちは己自身のスピードとの差異、それ自身との差異を感知する。
したがって力への意志はそれ自身における差異を意欲せねばならない。
常に自己超克せねばならないわけです。
自己超越ができないならば差異によって現れる力のために没落をも欲する。
なぜなら要するに己自身との差異を求めるのが力への意志だからです。
では何故にそれ自身との差異を意欲する力への意志が反復に向かうのか?
何故に反復は力なりなんでしょうか?
何故にパワー(力=累乗)なんでしょうか?
「生の務め」はそれ自身における反復、同一性のある反復を意欲する自由な精神と、
それ自身における差異、自己超克を意欲する力への意志が、共存させることであります!
695:考える名無しさん
08/09/30 22:00:37 0
>>693
>力への意志ではなくて「力」が気になるんです。
>力への意志が力ですか?
そうでしょう。意志が力でもあり、力が意志でもある。
ニーチェはMachtwilleという書き方もしている。
たしかドゥルーズも、力と意志は別物ではないとして
「力(への)意志」と「への」を括弧に入れてたと思うけど。
>p32に「そしてニーチェだが、彼はこう述べている。
>すなわち、意志を束縛しているすべてのものから、意志を解放するために、反復を、意欲の対象そのものにすること。」
>とありますけどね。
>
>同一性をもつ反復、それ自身の累乗、1の累乗=力を意欲する精神が、逆説的に自由な精神なのだというのでしょう。
「意志を解放する」のはどちからといえば「獅子」の意志であって、「子供」の意欲は「自らの意志を意欲する」。
「意志を解放する」んではなくて「意欲は解放する」。
「意欲は解放する」というフレーズはツァラトゥストラに何度もでてきます。
>>694
>しかし力はそれ自身における差異としてしか表面化しない感知できない
>差異としてしか力を楽しめないわけです。
>例えば私たちは大地と共にジェットコースターより速く動いている。だがその自転公転のスピードは楽しめない。
>ジェットコースターのスピードは相対的のスピードで、乗れば私たちは己自身のスピードとの差異、それ自身との差異を感知する。
>したがって力への意志はそれ自身における差異を意欲せねばならない。
>常に自己超克せねばならないわけです。
なんか全然ちがうんじゃないかと思いますw
そういう「差異」にもとづく肯定は、つまり「比較」にもとづく肯定にすぎないのであって、
道徳でいえば「奴隷道徳」に通じるものがあります。
ニーチェが求める肯定はもっと直接的な自己肯定でしょう。
それは過去の自分との比較でもありません。
696:○丸
08/09/30 22:12:09 0
俺の記憶では、力意志は、
力意志力でないの?
力→力の→は必然に発生する意志。
697:考える名無しさん
08/09/30 22:23:09 O
>>687
>
> ここでニーチェとドゥルーズをぐちゃぐちゃとミックスしてみたくなりました。
>
> それ自身における差異が肯定の対象になり続けるとき、人間は生ある者として位相を変え続け、己自身を反復する…己自身を反復し続ける…
と、こちとら両津が適当なこといってますが、
これが力≒累乗であることや、それ自身における差異とそれ自身に向かう反復、自己超克と永遠回帰を結びつける説明に少しはなってるかもしれない。
ともかく差異と反復を共存させること、これが問題であり生の務めですね。
ドゥルーズはこの問題にどう立ち向かったのか?
気になりますね。
>>688
でもドイツにだって国語辞典はありますけどね。
とっておきとしてグリム兄弟が編集し始めた馬鹿デカい国語辞典もあります。
たしかもうデジタル化されてたと思いますね。
そろそろ10月になるので私はサバイバルモードに入ります。
多分1ヶ月ぐらいですかね。
では、さようならなんです!
698:○丸
08/09/30 22:37:36 0
>それ自身における差異とそれ自身に向かう反復
「ニーチェと哲学」では、
肯定には、第2の肯定がある。
たしか、デュオニュソスとアリアドネの物語で、
互いの魂が、お互いの魂を映すと、鏡のように
無限の魂が映し出される。第2の肯定(鏡)は知恵と
理解したが、
699:ニーセ21世 ◆TFnqGXDHBQ
08/10/01 01:48:48 0
>>692
ほい。
思った通りの返答が聞けたよ。
気に入らない産毛があると、私は時折わざと剃刀を当てて出血させる。
そうすると、その人間がなにゆえにそんな思索定型を好んでいるかよくわかる。
ドゥルーズを読まなくても、よくよく見えてくる。
そんなことを試したかったのもあるんだ。
>そんな体験をするのも一興です。
敗北の狼煙を上げるのはけっこうな話だが、敗北の良薬が概念の迷路遊びとは!
>子供の頃から大人らしいニーチェが憧れの矢を放ち続けた先はそんな春なんですし。
了解。
飯を食べる。味がわからなかった。成分を調べる。
顕微鏡でね。顕微鏡のつくり学ぶ。それが他人の色眼鏡だ。
でお味の方は?
味がしない?
では君、舌がないんだよ・・・・
舌が味わう権利が備わっていない者は、言葉の"背後"の味もわからない。
舌は顕微鏡で覗いたり、顕微鏡の仕組みを調べて、食を吟味することでは馴らされない。
そういうことをいいたかったのさ。
でも、そんな嘆きもむりっぽそうだ。
700:考える名無しさん
08/10/01 08:26:50 O
訳注の19を見ますと「ニーチェのWille zur Macht は、
フランス語ではvolonte de puissanceと訳されている。」とあります。
ドゥルーズもこの塾語を使ってるらしいけども彼はこれを「 力を目指す意志」ではないという。
そりゃdeという英語のofに相当するような前置詞で英語のtoに相当するようなzuが訳されていれば、
そんな解釈になりがちなんでしょう。
しかし仏和で調べてみるとdeは方向性も表すことがわかりました。
例えばtrain de Paris でパリ行きの列車という意味らしい。
じゃあ「パリの列車」をフランス語で表現するとしたらやはり train de Paris
になるのではないでしょうか。
またdeは目的、対象の前におかれたりするようです。これも方向を指示するものですね。
例えばle desir de paix で平和の希求、la peux de mourirで死への恐怖を意味します。
しかしdeの主要な役割は語と語を所属関係で結ぶものみたいで「~の~」やらofと似た寄ったりみたいですね。
701:考える名無しさん
08/10/01 08:32:09 O
というわけでvolonte de puissanceといえば、
力への意志なのか、力の意志なのかという曖昧さがあるわけですよ。
しかもどっちだってよくね?なんてあっさり片付けていい問題ではない。
どちらの意味で解釈するかでニーチェ理解に大きな差が生じてくる。
まあどっちかというと力の意志と解釈される表現でしょう。
まったく、他に方向性を表す前置詞はないんでしょうか? フランス語には。
知らないので仕方ありませんね辞書を片っ端から探してみましょう。
ああっ! あ、ありました…ああなんと…aでした。
いきなりありましたね。ざっとこんなものでしょう。余裕でした。
ああ、実はa` ですけどね。面倒なのでaで。
例えば、パリへ行く、は、aller a Parisなんですよ。
…
…
ああああああ!!!あ~あ…
やっちゃってますね、こいつ所属関係も表しやがるんですよ!
馬鹿らしい。 deと使いわけとけっての!
信じらませんね。どのへんが明晰なんでしょうかフランス語は。曖昧じゃないですか。
なるほど、デカルトの気持ちがようやくわかりましたよ。
やっぱり今月はこれにてサバイバルモードに入りたいと思います。
スポーツ紙が大恐慌きた!と煽ってたようですし…。
702:考える名無しさん
08/10/02 04:39:17 0
ツァラトゥストラの岩
URLリンク(pds.exblog.jp)
1881年、ニーチェが永劫回帰を思いついて立ち止まった場所だそうです、、、(清水真木『ニーチェ』p97より)。
703: ◆TANPanX3xc
08/10/03 16:00:34 0
うつろいの阿片靴。
今更だ。
上げモードで貴様等に問うて進ぜよう。
704: ◆TANPanX3xc
08/10/03 16:06:32 0
「ニーチェに自分の今までの生き方を重ねる、」まではよしw
しかし、取り込まれるようでは、読んだとも言えんよな?
これじゃ、まるで聖書だと、言った・・・・
君の生き方は、君にしか造り得ない。
2chなんて、糞だ、
ホント。。。。
705: ◆TANPanX3xc
08/10/03 16:13:35 0
:ニーセ21世 ◆TFnqGXDHBQ
決別の辞世の句ならば、述べたはずだ。
君は、ボクのフィールドを犯してまで、進入したくせに、
その負荷を見ていないようだね?
普通ならば、死んでる所だ。
706: ◆TANPanX3xc
08/10/03 16:25:41 0
その罪に。
707: ◆TANPanX3xc
08/10/03 16:48:00 0
ほれ、
答えてみろ?
くだらねぇよ、なんもかも・・・
708: ◆TANPanX3xc
08/10/03 17:12:23 0
「あははは。さすが私の師。」
というのも、迷惑だ。
消去法でいけば、君の存在そのものが大体無い。
で?
なんだよ。にーせ
709:考える名無しさん
08/10/03 18:34:23 0
ニーチェの、ボードレールからの影響については
どう思われますか?
遺稿などを読まれた方・・・・?
710: ◆TFnqGXDHBQ
08/10/03 18:48:12 0
>>705
>君は、ボクのフィールドを犯してまで、進入したくせに、
>その負荷を見ていないようだね?
あなたはいまだに、"犯しに"意・図・的に、私が訪れたと本気で思っているわけですよね。
では、その後をなぜ語らなかったか知ってますか?
あなたの怒りを知ったからですよ。
そう、確かに色々な思いでいるということを知らずに叩いたことは非常識と言える。
ただ、私が君の背中についている目印を見つけた時に、声をかけてびっくりさえようと
思った瞬間の気持ちはそうじゃなく、あくまで街頭のそれである。それすらもけしからんわけでしょ。)
それは認める。しかしあなたの中では『蒙古襲来』に来たチンギスハンのな領土破壊の人間としてしか
像を結んでいない。そんな猜疑心も怒りも私はどう処理すればいいわけです?
(君が居たのはもっともぬくもりを感じていて、もっとも自分らしくある場所であった。
>普通ならば、死んでる所だ。
何が気に入らないかずばっと言ってしまえば良いです。ただ公衆の面前だから、
メールにしましょうか?
突然書き込みをしたわけですから、何か腑に落ちないものを抱えていたはずです。
711: ◆TFnqGXDHBQ
08/10/03 19:01:16 0
>>708
>「あははは。さすが私の師。」
>というのも、迷惑だ。
あなたを師と思っていないです。
私は私の実生活であった偉大な師が2人いるだけだ。あとは書物の過去の偉人。
あなたの素晴らしい点を素直に私は認めるし、お世辞ぬきに指摘した。
けっして、歯を浮かせようと思ったわけではない。
ただし、そんな指摘も褒め言葉だけでは済まされず、何かしらの悪意を感じている・・・
ということをまず知った。
>消去法でいけば、君の存在そのものが大体無い。
それでかまわないです。
>で?
>なんだよ。にーせ
あなたが来たらこれまでのように接する。
でもそうじゃなかったら、そうじゃないなりでこの板で振舞う。
特にあたなにようがあるためにきているわけじゃない。
ただ、何か書き込みに来ているだけです。
こちらとしては「どうしました 短パンさん 急に?」というのしか、この板を
覗いた時はなかった。
ただ、ここにあたなが怒りの気分を書き込んだ以上は、推測している。
どうすればいいかです。
712: ◆TFnqGXDHBQ
08/10/03 19:13:39 0
>>708
あなたのフィールドで最後に放った言葉を覚えている。
「乗せられた。そんな気がしている。」
これを読んで、私はもうなすすべがなかった。
私は、あなたからみれば策士なんだろうし、ペテン師なんだろう。
こういう疑いで接せられたら、私は偏屈な欠点があるから、素直に折れることはできないですよ。
扉の領域"制圧"の罪をどう償えば良いか知らない。
申し訳なかったとしか言えない。
以上。
713:考える名無しさん
08/10/03 21:50:58 O
私もそろそろ音楽がわかってきましたね。
基本的に音学なんです!
みんなの言葉、いわば音葉なんです!
誰でもわかるしできるんです!
そして音楽は文芸です!
しかしこれを大人になってから学ぶのは外国語を学ぶようなものなんです。
難易度も同様なんです。
作曲は思考、詩作に相当するようなもので、質を度外視すれば、誰でも曲を作る能力をもっているんだと思いますよ。
ですがやはり外国語で考えることや話すことと同じように小さい頃からやってないとなかなか自然に流暢にとはいかないでしょう。
さらにサンマやタモリのような即興で様になる場をつくりあげてしまう話をする能力というのは普通望めもしない。
それでも特別な才能はいらないですね。
まあ宇多田に特別な才能があるかといえばそうでもないでしょう。
以前から彼女に異臭がすることはわかってましたが。
日本語も英語も音楽も中途半端なレベルなんでして、
今のところ芸術の域には達してないんですよね。
この五倍ぐらいは書きましたが、上記の2ちゃん化した上でレスしたいと思います。
なにしろパケ代節約中ですしね。
ありがたくあらかじめ言い訳させていただきました。ではでは。
714:魔王 ◆TANPanX3xc
08/10/03 22:06:47 0
◆TFnqGXDHBQ
くだらないレス。おつかれ。。。
そこまで、いい加減に存在してねぇよ・・・
アホ
715:考える名無しさん
08/10/03 22:12:51 O
おっとなんなんでしょうかこの二人は、またまた不穏な空気になってますね。
せっかくの私の金のかかるレスがまるで場違いのようです。
可哀想な人たちだ、こちとら両津、起死回生の第三成長期に突入した気がしてるんですがね。
まさにこれにてさようならというところでしょうな。
716:考える名無しさん
08/10/03 22:36:07 O
仕方のない人たちですね。
まあここで対照的に私の意気込みを発表しておきましょうかね。
私はあたかもぴかぁのように三十路を迎えおやじになりそうな今日この頃なんですが、
私がおやじになってもです、味噌だからといって糞味噌にされても、
腐っても鯛なんだと、そういえるような三十路でありたいと、そう思うんですよね。
だって腐っても味噌、腐っても納豆、腐っても鯛じゃないですか!?
そんな味噌のような三十路として生きていきたいということなんですよ!
717: ◆TFnqGXDHBQ
08/10/03 22:38:26 0
>>716
君はもう四十路だろ
ちょうど地下の住人と同じ年齢じゃないかw
718:魔王 ◆TANPanX3xc
08/10/03 22:39:15 0
うるさい!!!
にーせ。
お前のせいで、苦しんだ。
責任は・・・・
719: ◆TFnqGXDHBQ
08/10/03 22:43:06 0
>>718
短パンさんはどうしたいわけです?
私を苦しめたいですか?
720:魔王 ◆TANPanX3xc
08/10/03 22:50:32 0
あぁ。そうしたいね?
だが、それだけで物事終わらない。w
歪曲の限りを回り回って、いきつくはてに・・・
ふん。
721: ◆TFnqGXDHBQ
08/10/03 22:55:30 0
>歪曲の限りを回り回って、いきつくはてに・・・
殺したい!
こうですね。
じゃ、住所を教えればいいですか?
722:考える名無しさん
08/10/03 23:40:48 O
やはり第三成長期に入ったにしても、明石家さんま大先生のようにはいかないのだろう。
彼ならこの場をどう取り繕うのだろうか。
ふん、まあ太田ではどうしようもないかろうが。
むむ、さては第四成長期というものまであるのかもしれない。
そもそも私は芸人を目指してるわけではなかった。
まあいい、さらばだ決闘者たちよ。
できれば相討ちで頼む。
後はまかせるがいい。
723:考える名無しさん
08/10/04 00:10:12 O
私もちょっとだけ孔子の気持ちがわかってきましたね。
724:考える名無しさん
08/10/04 01:12:22 O
まあぶっちゃけブッダは生は苦だといいます。これはおっしゃる通りだと思います。
ショーペンハウアーなどもそうゆう認識ですね。ニーチェにもそういう認識はあります。
苦は初期設定であり、本質、実質、性です。
ですが苦楽の楽の方は作ることができます。
それはソフトウェアのように起動してるときにだけ働き、「ある」ようにみえる儚いものでいわゆるウーシアではない。
いつ露と消えてしまうかわからない。
したがってニーチェは生ある者を創造者やら、自己超克し続けねばならない者だとかいうのでしょう。
いくら自己超克したつもりでも本質は変わらない。いつ本質へと没落してもおかしくはない。
すぐにも重力により自然と落ちるんですよ。
したがって、生は常に自己を越え続けていねばならないものとされるのです。
生は神の手により何度没落させられてもシシューポスのように登り続けてこそなんぼなのです。
登ることに生の喜びがあるんですから、
落ちてもいいのです。また登ればいいのですから。
あまり痛すぎたら死ねばいいわけです。
死にたくても恐怖などから死ねないなら死なねばならないような強烈な痛みをまだ味わってないんですね。
725: ◆TFnqGXDHBQ
08/10/04 02:23:50 0
>>720
私は東京都民(三鷹市)。短パンさんも恐らく口調から関東でしょう?
(勝手な予測だけど、なまりがあるので、茨城か群馬あたりですよね?)
会うのにそう遠くはないはず。
メールさえ貼り付ければ、いつでも希望に沿うようにします。
(捨てアドですが、こちらがフィールドに貼ってもかまわないです。)
但し、殺す以上は、ブスリとやって貰いたい。
中途半端に生かしたら、植物人間でない限り、私も殺しはしないが、
必ず反撃する。一応、テコンドー黒帯、極真空手をやっていたし、
喧嘩なれも相当してます。できれば凶器を持ってきた方が良い。
>>724
そういう文章の方が、ずっと解りやすいのに。
仏・独授業よりも。
ほいじゃ
726:考える名無しさん
08/10/04 03:26:42 O
人間は本質的なものは何も作れません。
影しか描けない。
人間のなしうる創造というのはロゴスにもとづくものです。構造物ですね。
ですから人間のなす創造の基本はパクリです。学習、探索、発見、発明です。
危なげな短ぱんたちの理解では生とはカオティックなものでしょう。
たしかに本質は地獄絵図でしょうね。いやはや想像以上に酷いものでしょう。トンデモでもです。基地害です。
しかし本質だけで本質が成り立つんでしょうか?
物自体というのはその表象なくしてありうるのか?
形式が消えれば、内容は忽然ときえうせるのか?
体が滅びれば魂は滅びるのか?
こうゆう疑問がいざ死んでわかるならば大変でしょうね。
ともかくこの世においてはカオスに加ええるにロゴスがあります。
ディオニュソスとアポロン二人三脚でアトラスになっているといえます。
青春とはロゴスに対する反抗ともいえそうですね。
ニーチェのですねアンチロゴス的な著作はです、
あまりにも初めに言葉ありきというようなロゴス命みたいな生活環境の中、危機感を覚えたからでしょう。
彼はキリスト教の滅亡は意図していなかったわけですし、その存続を最も望ましいことの一つとして挙げていましたからね。
727: ◆TANPanX3xc
08/10/04 04:37:11 0
>>725
関西在住ではないけど、だからなに?
論点は。
いいか?にーせ・・・
728: ◆TANPanX3xc
08/10/04 04:45:49 0
>>721
殺さない。
なぜかといえば、
にーちぇをこれでは語りきれんからだ。。。
729: ◆TANPanX3xc
08/10/04 05:03:37 0
あとはてめーで考えるんだな。。。
730:考える名無しさん
08/10/04 07:01:05 O
ロゴスを希希辞典で調べたい!
orz
つか、現代ギリシャ語はショーペンハウアーが罵声を投げかけるような変化を被っており、
随分簡単になってるみたいですね。
それにしてもギリシャ語は知恵の結晶という感じがします。
これを習得すると無知の知、無意識の知を得ることができ、
謙虚にも私は何も知らないといいつつ議論をふっかけ歩き優勢に話を進めることもできれば、
想起説、イデア論を信じられるようになる気もしますね。
そして、おおロゴスよ! 我がコスモスよ!!と誇大妄想気味に感動したかと思えば、
無理数に落胆し、虚数に参り、不完全性定理にノックアウトされるのも一興でしょう。
まあ古希の栄光はギリシャ語のおかげでしょうね。
そうです思うに、知能は半ば言語で決まるんだと思いますね。
サンスクリットにしても言語からして素晴らしい!!ヾ(≧∇≦*)ゝという報告は稀でもないでしょう。
古希を学ぶにはまず現希からがいいとはいいます。
シュリーマンも現代ギリシャ語から入ったといいますし。
731:考える名無しさん
08/10/04 18:28:03 0
もういい加減飽き飽きしてるんだ。
毎日毎日同じ事の繰り替えしでさ。
ホトホト呆れかえるよ。まったく。
はたして君に、これがわかってもらえるのだろうか。
そう言ってる間に、ほらまた、同じ
真新しい今日が、はじまる。
732:考える名無しさん
08/10/04 21:13:15 O
始めはニーチェと関係ないようですがここで地下室の住人というか穴蔵の住人を考えてみましょう。
ショーシャンクの空にという映画でリタ・ヘイワースという美女が出てきますが、違いました、アンディが所長に2ヶ月程、懲罰房に入れられました。
そんな暗い部屋に監禁されたとします。
そうしますと、まず非常に強い自意識に襲われるでしょう、これはまた非常なる苦悩の嵐になると思います。
すると私たちはそのうち発狂するでしょう。
あるいは、別人格が生じてくるという可能性もある気がします。
「私」をその自意識から逃れさせるために、別人格が発生し意識を乗っ取るのではないかと。
そうしますと、元の「私」のほうは他者に意識を奪われることで、己自身の重みで潰れずに済むのです。
要するに、私たちは私たち自身の重みで崩壊する性をしているのだと思うのです。
ですから、汝自身を知れというソクラテスの誓いに反し私たちは「私」自身から気を逸らし続けねばならないのです。
ですから、自愛というのは自滅的ですのでキリスト教でも神、隣人、敵への愛さえも説きながら自愛は説きません。
むしろ自己忘却をといているといえます。自己からの解脱を。
733:考える名無しさん
08/10/04 21:31:42 O
アンチキリスト党の党首のようなニーチェもディオニュソス的なるものなどを説き、自己、「私」を横に置いといて、あまり意識してません。
たとえ「この人を見よ!」とはいえです。これは自演ですから。
自意識は病であるというドストエフスキーの言葉は確かなものがあると思います。
逆に日本語の「我を忘れる」 「心を奪われる」「滅私奉公」「無我夢中」「没頭する」「ハイになる」「陶酔する」
などの自己忘却の類似表現は健康的とは言えないまでも楽しいものです。
リタ・ヘイワースに心を奪われていれば塀の中でも最高の気分になったりするわけです。
まあ要はですね本質的に「私」は苦しむことしか能のな存在だと思うわけです。
ですから、皆さん、信じましょう…神を…
734:考える名無しさん
08/10/04 21:41:11 O
>>733
> アンチキリスト党の党首のようなニーチェもディオニュソス的なるものなどを説き、自己、「私」を横に置いといて、あまり意識してません。
> たとえ「この人を見よ!」とはいえです。これは自演ですから。
狂人生活も自演の一環ですか?
あなたの話に従えば、むしろ自演ではなくマジだったからこそ発狂したのでは?
自分を意識しすぎて自分に耐えきれずに崩壊したのでは?
735:考える名無しさん
08/10/04 21:52:43 O
>>734
憑かれたようにツァラトゥストラを書くような人間はもちろん、
一般的に物語る人間、ストーリーテラーというのは、役者なのです。
しかも演じてるときにはその意識がない、自意識のない生ける人形なのです。
736:考えない名無し
08/10/04 21:58:25 0
興味深い意見。
地下室の住人の『地下』は感情的・本来的な「私」の他者意識への奴隷化・あるいは
行動の歪曲化によって生じた強引な嵌め込みによる自意識過剰感情が乗っ取った
ある種の感情の音色=苦悶であると考える。絶望の溝に浸りきって生き抜いており、
同時にその溝に嵌りきって、その嵌りきった精神困憊の重荷それ自体が、なおさら重荷をひとっとびしようと
する衝動をもたらし、それがあのような選択的に自由でありながら、感情が苦悶という黒いものに束縛された不自由を生み出す。
つまり、本来的な「私」を他者に同化しようとする自己歪曲の衝動と、同時にそれが本来的な「私」に圧力を加えて
本来的な私というすんだ水を汚し、その汚れた水が精神の大半を占め出すと、自分の精神が汚れたことにも気づかなくなる。
ただ、ここで自意識過剰ながら、"自意識"(人間がよく言う理性)が働き、実はこの苦悶の音色に覆われたこんな「私」は本当に私の体が私自身に望んでいる状態なのだろうか?
という疑問を提出する。
(ここで"精神は肉体の道具"であるというニーチェの思想とだぶる。)
737:考えない名無し
08/10/04 21:59:07 0
翻って、ショーシャンクのアンディのように監禁された場合は、ドストエフスキーのような自意識がかんでくるだろうか?
あそこでは、物理的な暗闇という地下そのものに浸る。そうなれば、他者を意識するというより
本能的恐怖心が自我の大半を占めるようになると想像する。でもこればかりは体験しないと不明。
ただし、自意識病の至った人間がそういった地下に生うめされることを想像すること自体が、もう息がつまるほどの恐怖だ!
ソクラテスの汝自身を知れは、あくまで自由意志というものを信じる人間が実は不完全であるという
抑圧をもたらし、それが科学性や合理性を外的に君臨させる。
するとその合理性への自己歪曲こそが、本来の感情を虐待し、場合によって自意識病をもたらすようになる。
仮に「自愛」が歪曲へ向かえば自滅的、反対に「自愛」が自意識病的に汝を汝以外の他者を含む自分に目を向けず、
私の感情に目を向ければ生産的になる。
本来「自意識という苦悶を"消化"するのと、一時的に"忘れる"」のは、雲泥の差があると思いますが。
「自己の開放」は実は"地下状態"から抜け出すことではなく、地下そのものを己から消すことにあると確信している。
そして、それは情報や知識の集積ではないとも相変わらず思うのだ。
738:考えない名無し
08/10/04 22:00:50 0
あの映画でブルックスはいわば、自由に赴き、不自由を感じて自殺した。
あれこそ自意識ゆえの人間の本来の恐怖だろう。
つまり、愛は知性では買・え・な・い。
739:考える名無しさん
08/10/04 22:41:57 O
苦行というのは恐らく己を叩きのめすことで、非人称的なるものを召還せんとする魔法の修行なのではないでしょうか? これは敢えて病にかかり免疫系を強化するというワクチン接種のような逆説的方法なのではないかと思います。
人間には天才と呼ばれる魔法使いみたいな人々がいますがね。
で、どうしてそんなことができるのか自分でも説明できないわけです。
サバァンなんてのはまさに自分の特殊能力を説明できません。
それは私たちが日本語をどうやって操っているのかよくわからないし、どうやって生存しているのかよくわからないし、妊婦にしてもどうやって生命を形づくっているのかよくわからないのと同様でしょう。
非人称的なるものが働いてるんですね。
まあ人称的なるものというのは、無能なんですよね。
ですから敢えて苦行で人称的なるものを叩きつぶしたり、
苦境に陥り、それが叩きつぶされたり、
先天的にその種の障害があったりすると異常な魔法が使えるようになったりするのかもしれませんね。
740:考える名無しさん
08/10/04 23:13:21 O
一般的に比較的アンチロゴス的な女性はカオティックで見かけによらず地下的でありまして暗くてジメジメしてますね。
自意識というのは理性的なものではないんですよ考えるななしさん。
凡人にはなかなかできたものではないですが探究は我を忘れてやるべきものです。自意識なしに。
なんでもそうです! 波乗りです! サーフィンです!
741:考えない名無し
08/10/04 23:33:09 0
>自意識というのは理性的なものではないんですよ考えるななしさん
一応、地下室の住人の『自意識』とは別の意味での自意識。
自意識過剰はあくまで苦悶の感情が含む理性であり、後の自意識は単に客観的な振り"返ってみて"の理性。
もちろん、自意識病は理性の力だけでは消滅させることはできないだろうよ。
まあさ、最終的にカオスがロゴスが出て、ロゴスでカオスを表現するしかないんだよ。
742:考えない名無し
08/10/05 00:04:37 0
ショーシャンクと言えばスティーブン・キングだけど、彼の原作で似たような囚人映画グリーンマイルでは、
黒人囚人がキリスト顔負けの奇跡を起す。
ただしあれはあくまで製作者のキリスト教的な伝統感への保持でしかないような気がする。
映画ではそれどころか単に無罪証明と愛すべき人柄の象徴として奇跡を利用したにすぎない。
よい意味で、理不尽な社会に殉教した現代版キリストとも捉えられるだろう。
変わりにアンディは地下を20年掘りつつけて、雨の外に飛び出した。
ブルックスは恐怖ゆえに自殺したが、アンディと《M・フリーマン演じる???》は希望を信じた。
いや、愛を友情を。
フリーマンは一度フルートを手渡されたけど、希望が怖いゆえに吹くのをためらったわけだ。
ニーチェに話戻すけど、道徳の系譜で『ショーペンハウアーは厭世主義者なのに、毎晩フルートを吹いていた!
これぞ真の厭世主義者か?』と指摘しているけど、簡単に言えば、そういうことだろう。
ショーペンハウアーは生の解脱から、つまり拷問から逃れるためだけに苦行をしているが、
やはり希望の人だった。厭世主義者ではないと思う。まあ、文章読めばわかると思うけど。
晩年犬ころと一緒にはいしゃいだわけでしょう。
では。
743:考える名無しさん
08/10/05 00:10:22 O
考えない名無しさんのお話はよくわかりません。
もしかしたら「が」は誤字脱字ではないのかもしれませんが。
マイ神話的にはですね、
女性神カオスは男性神ロゴスで自己表現しようとしており、
ロゴスはカオスで自己表現しようとているのです。
まあ内容と形式が貪欲に互いを貪り自分のものにしようとして絡み合って一体化しているイメージです。
これは欲求不満による18禁の妄想のような神話的世界観なのであります。
744:考える名無しさん
08/10/05 01:41:14 O
アンディの親友はたしか”レッド”でしたね。
いや、あれは迫真の演技でしたね。
私はあれで人間不信になりました。
ショーペンハウアーについていえば、彼は若い頃から酷い認識を受け入れていくことでタフになったんだと思いますね。
それ故に生まれた余裕と遊び心が生活に現れてるんでしょう。
ニーチェはショーペンハウアーに比べるとか弱いですね。
745:考える名無しさん
08/10/05 06:58:14 O
ニーチェが
死ぬ前に、私はナポレオンだったとかいろいろな有名人が出てくるが
それは永劫回帰により、私と同じような人はいたということでおKなんかな
746:考える名無しさん
08/10/05 10:13:36 O
偽短=考えない名無し氏の一連のいつも同様の主張では、
己のカオスに目を向けろ、逃避的にロゴスに目を向け続けてばかりいればカオスは糞となる!
ということみたいです。
しかしむしろカオスはロゴスによって糞から味噌になるのであります。
カオスとロゴスが「合体」せねばならないということです。
ロゴスには発話、言語能力という語義もあります。
ロゴスを軽視するお稽古嫌いの奴の表現、演奏は下手糞です。
雑音にしかなりません。
ロゴスだけでも空虚な雑音にしかなりませんが。
747:考える名無しさん
08/10/05 11:02:26 0
>745
それは私の学生時代に丸山圭三郎氏がうまく説明していたと、記憶しています。
今すぐ私自身の言葉でうまく説明できません。私の浅さです。
このスレを読んでの感想・・・・・
「語らずうたえ!!!!」
748:考える名無しさん
08/10/05 11:05:27 O
まあ、早君は神話に注目していましたし、ニーチェもそうです。
早君=偽短説によりますと、早君没落の原因は受験失敗によるのか知りませんがロゴス蔑視のせいだと思います。
神話的世界観との絶縁から西洋の科学的、機械的思想は始まり、近代に入り神話が見直されてきたなどといいますが、
古代中国思想では老子、孔子のように、
形と内容の両方を重視されてました。
とはいえ暗黒時代といわれるようなヨーロッパ中世において重視されていたアリストテレスなんかは形相と質料だとかいってますが。
そんなアリストテレスに立ち向かったガリレオやケプラーなどによってプラトニック、ピタゴラス的な世界観に基づいているといえる科学が息を吹き返し大いに発展してきたわけです。
ソクラテスはもちろんプラトンも詩人のような質でちょっと頭がおかしいのだし、ニュートンも錬金術などに時間を大いに割いていたわけですし、
どうも混沌と秩序のいずれかを信仰するのは片手落ちであり誤っているのだと信仰していもいいと思いますね。
749:考える名無しさん
08/10/05 11:27:04 O
でまあ、凡人というのは視野が狭いといますか盲目といいますか片輪といいますか、
いつもなにか片手落ちでして、
例えば片手でカオスかロゴスの一方を取るわけです。
ですが、歴史的人物というのは大体ちゃんと両手両輪共に備わっているんですよね。
小さい子供もそうでしょう。
で、一般的になにゆえに人が小さい子供のような天才的能力を「成長する」につれて失ってきてしまうのかというのが問題ですよ。
まあ老化ということで仕方ないのかもしれませんな。
ではなぜ比較的短命ともいわれる天才が存在してきたのか? まあ偶然ということで片付けておきましょう。
750:考える名無しさん
08/10/05 11:45:29 O
昨今の日本で歴史的人物といえば、ここの管理人である「ひろゆき」でしょうね。
これは多分もう間違いないでしょうね。
そうしますと私も歴史的出来事に参加してきたといえますね。
私は2ちゃんねらとして誇りをもって生きてきましたし、これからもそうするでしょう。2ちゃんがここにある限り…
751:考える名無しさん
08/10/05 12:18:28 O
長い目でみますと, 前大戦のヒトラーを総統とするナチスと原爆を投下しその後も戦争を続けるアメリカのどちらが悪の権化とされるのかわかりませんし、
まあ評価は時代時代で揺れ動いていくでしょう。
規模は小さくなりますが、ひろゆきに関してもそういえます。
ひろゆきを管理人とする2ちゃんと、これに対立するマスコミ、世間のいずれが後々よく評価されるのか、これはわかりませんし、やっぱり評価は変転するのでしょう。
でも悪の化身とされたり英雄視されたり、マスコット扱いされながらも、
やはりひろゆきはその死語にも評価され続けるだろう要注意人物なんですよね。
752:考える名無しさん
08/10/05 12:33:29 O
そうしますと、近頃ぴかぁはチンポを差し置いて出世し始めたようですが、
長い目でみればほんとに出世といえるのかわからないですね。
彼が仕事が忙しくなりずきたり世間体の問題で2ちゃんで語ってられなくなり去っていきますと、
長い目でみればぴかぁは眼差しの快楽を棄てることになるのかもしれませんねw
まあ「今、ここ」を大切にすればいいのではないでしょうか?
753:考える名無しさん
08/10/05 14:53:48 O
イデアと影
物自体と表象
意志と表象
ディオニュソス的なるものとアポロン的なるもの
語りえないものと語りえるもの
存在と存在者
無意識と意識
これは歴史的パクリでしょうね。
754:考える名無しさん
08/10/05 21:54:23 O
いいことを思いつきました。
私は昔から昔の人の方が能力が高いなという気がしてました。
知的な領域では一人で今の人の10倍以上働いているようなおまえのエネルギーは底なしかというような人がいるわけです。膨大な仕事をこなしている。
なんか2000ページにも及ぶ辞書を一人で編集したりしてますね。
まあここは現代人の知能は低下していると仮定してしまいましょう。
で、問題は何故に低下しているのかということになります。
ぴかぁの発言に、テレビによる知能低下というのがあった気がします。
受信する情報量が10の3乗とか4乗とかになっていそうなのが災いしてるのではないかということでしょう。
そういえば最近、私は知を愛するというよりは、探索が好きになってきたこともあり、これは女の買い物好きとは似て非なるものですが、
シャーロック・ホームズの話を想起しました。
彼は必要ない情報に触れないようにしてるんですね。
なぜだか地動説も知らなかったと思います。
知能低下の原因として受信する情報量の過剰が容疑者なのです。
そこで私は私で生体実験を行いたいと思います。受動的な情報の受信を大いに避けたいと思います。
まあすでに半年以上テレビはみてないんですが。
755:考える名無しさん
08/10/05 22:10:19 O
このスレに短ぱん偽短が現れたのも丁度半年ぐらい前でしたかね。
その辺から私は歌わなくなってきたということでしょうか。
そういえばニーチェは新聞を批判してましたね。
また、物事を書き留め記録するようになってから人の記憶力は落ちたとはよくいわれることですし。
このちょっとした実験は、そもそもマスメディアに飽きたというのもありますが経済的な理由もありますし、やるっきゃないですね。
756:考える名無しさん
08/10/05 22:57:22 O
ふむ。
ショーペンハウアーは多読を整理されてない図書館のようなものだとして戒め思索の重要性を語りましたね。
そんな受動的な多読に比べても、マスメディアによって垂れ流される情報の受動的摂取量は著しく大きくなりますね。
偽短≒早君はショーペンハウアーに則って、知識集積を非難してるのかもしれませんが、
その本人の頭の中は恐らくマスメディアを通して、
知識ではなく、広告やらどうでもいいようなおしゃべりを集積し続けぐちゃぐちゃになっているんですな。
ゴミ集積地みたいになってるわけです。
757:考える名無しさん
08/10/05 23:01:58 0
いったいこの人たちは何を言っているんだろう?
自分で一人ブログでも書けばいい話じゃないか。
わざわざここに書く必要性が感じられない。
なにしに来てるの?
758:考えない名無し
08/10/05 23:21:06 0
>ショーペンハウアーは多読を整理されてない図書館のようなものだとして戒め思索の重要性を語りましたね。
「読書について」だか「知性について」で一貫していた。あれは何度でも読めるいい本だ。
あなたの予想に反し、私ほどTVも新聞も雑誌も無縁の人間もめずらしいといえるけど?
(そもそもカオス的人間が既にある腐ったロゴスで組み立てられた構築物・形式なんかに耳も傾けんよ。)
TVはスポーツニュースのサッカーのみ。新聞は取ってない。
新聞は賤民が賤民を裁いてはきちらす"胆汁"だからな。
759:考える名無しさん
08/10/05 23:55:35 O
>>758
本当ですか?
そうすると私の実験は無駄になるといえるかもしれません。
まあ経済的理由から断行しますが。
760:考える名無しさん
08/10/06 00:09:25 O
偽短は在日ですかね。
誤字脱字としては片付けられないほどに日本語がおかしい。
かなり注意深く書かないとおかしくなるんでしょうね。
あるいは感情を優先し過ぎているがために形式が崩れ不細工な表現になるんでしょう。
761:考えない名無し
08/10/06 00:25:53 0
>>760
うん。日本語おかしい。それは読み返してみてもよく感じている。
誤字脱字多いしなw
文章を書くときに、形式を意識したことはない。
そもそもよい文章・綺麗な文体というものを意識していないからだろう。
文章家になろうとも考えないし。(仕事で漢字の間違いはけっこう指摘された。)
>あるいは感情を優先し過ぎているがために形式が崩れ不細工な表現になるんでしょう。
それは言えていると認める。あまり、「まず主題を置き、その後に」というのは全然考えない。
漠然と主題が浮かんだ瞬間に、その場で直情的に書いているだけですな。
(あるいは、主題自体が明確な像を結ぶ前に、浮かんだことを書きなぐる。ってな感じだろう)
そんな点は早氏の考えと似ている。ただ彼は私よりずっと綿密で論理的文章だった。
(同時に苛烈な苦悶の入り混じった爆発的カオスの中からほとばしる稲妻的比喩があって印象的であった。
わかりやすい文章です。)
さすがは文章家志望。
762:考える名無しさん
08/10/06 00:27:47 O
肉体も形式あってのものでして、その形式が崩れるということは不細工、病気、奇形、老化、死に直結しています。
また明らかに叙情性豊かな詩や文学は散文より形式的であり、音楽になるとさらに形式的になります。
ニーチェが肉体を重視するということは、形式、ロゴスをも重視するということです。
理性、ロゴスがなんだろう! 惨めな安逸ではないか? とはいえ肉体はそんなものです。
それがなければ生気を失い腐りつつ異臭を放つものですね。
763:考える名無しさん
08/10/06 00:56:18 O
マスメディアや教育機関は親と触れ合う時間のすくない子供たちにとっては日本語を学ぶ上で大切な役割を果たしているのでしょう。
そんな日本語の上手な連中の中でもタモリの能力というのは異常に高いわけです。
即興で気の利いた発言を続け、視聴者や対話の相手までも引きつけねばならないわけですから。
作曲ができる人は多いでしょうが聞きたくなる曲を作れる人は少ないでしょうし、即興で聞きたくなる曲を奏でることができる人というのはほぼいないでしょう。
タモリの発揮している能力というのはそんな即興曲を奏で続けることができるような極稀な能力なんですね。
764:考える名無しさん
08/10/06 01:46:36 O
ニーチェが本当に発狂したのだったら、
ロゴス軽視によるのでしょうか。
アメーバじゃあるまいし、形あるものが形を失うということは壊れるということですな。
ニーチェの魂はどうなったか知りませんが、
ロゴスなきものは表現されえないですな。
ロゴスを軽視しろ!ということは死ねってことであります。
偽短君、氏にたいなら一人で氏になさい。
どうなんでしょう、ニーチェの言葉は発狂に近づくにつれ奇形気味になっていったのか?
それともお手本のようなドイツ語だったのか?
ドイツ人のドイツ語が上手か下手かというのは私にはまだ読みとれないんですが、
ちょっと初期と後期の著作を比較してみますか。
わかりやすいか、わかりにくいかという理解できるかどうかというドイツ語レベルでは無駄でしょう。
まあでも言葉遊びなどが結構あるみたいでしたし、
ドイツ人には巧みに映るんでしょうね。
ツァラトゥストラはまだしも、
文脈の助けを借りにくいアフォリズムスタイルの作品は難解ですな。
さて…
765:考えない名無し
08/10/06 02:17:52 0
>>764
>偽短君、氏にたいなら一人で氏になさい。
あのさ、ロゴス軽視といっても、そんな破壊一辺倒へ"意図的に!"ということを推奨しているわけでないw
兎に角、感性や直感的に感じるもの、我々の中にある不当な感覚が「もしや・・」という反芻によって生じる
思索・探索心情やその際に内面に開ける宇宙を重んじずに、既にあるロゴスだけに追従しすぎると、逆に心情が
腐敗するのでは?というわけです。
第一、私は文章こそ形式無視派だけど、意外と幾何的な思考で人間を処理することもよくある。
そうじゃないと既に破滅している。エマーソンやゲーテ的な静観性が好きだしな。
但し、今はある程度、定型的日常で保っていられるロゴスが突然破綻し、叙情が行き過ぎて
破滅することはありえないとは言えない。それは己でも確定できないわけだよ。
ニーチェだって自分が発狂するとは思わなかっただろう。発狂直前までは。
たぶん・・・
>文脈の助けを借りにくいアフォリズムスタイルの作品は難解ですな。
逆に「人間的な」とか「曙光」が好きだけどね。
ツァラトゥストラはもう私ニーチェは忘我最高!って感じ。
あんな状態になれるわけない。そう感じるうちはまだまだ私はロゴス的なのさ。
>>742
訂正、M・フリーマン扮するレッドはフルートではなく、「ハーモニカ」だったはず。
では、考えない名無し ここにありき。
今日は閉廷。
766:考える名無しさん
08/10/06 02:27:26 O
「悲劇の誕生」と「この人を見よ」を比較しているんですが、
それぞれ1ページぐらいしか読んでませんが、今のところやはり、
後者の文章が前者に比べて劣っているとは思えないですね。
どちらも名文なんじゃないですか?
少なくとも、インターネットに転がってるような無名の筆者のドイツ語よりは立派でしょうし、
シュピーゲルだかの記事よりは立派な文みたいですね。
明白な違いはただ、前者からは歓喜が伝わってくるの対して、
後者からは張り詰めた空気、それこそ雷雲のようなものが伝わってくるということだけですね。
こんなご立派な精神が突如として崩壊するんですかね?
767:考える名無しさん
08/10/06 02:46:30 O
「この人を見よ」の文章が他人の手で訂正されてないのだとしたら、どうゆうわけなんですかね…
ドイツ語的には問題ないどころか多分、名文でしょう。
早君が発狂したようになったときは、
文章がぶっ壊れてましたがね。
ただ己を雷雲から落ちる雫、雷の到来を告げる者だと語っていたようなツァラトゥストラは何か気楽そうでしたが、
「この人を見よ」の場合、本当にそんな張り詰めた気配が漂ってるような感じはします。
これは面白いですねw
768:考える名無しさん
08/10/06 03:03:14 O
どうもこれは深夜に一人でひっそりと読むのにはですね、適しませんな。
一語一語に怖じ気づいてきましたかね。
チンポも縮み上がるというやつでしょう。
その一語一語が他に何も聞こえない暗黒の中で、静かにゆっくりと、私の方へ、
どこからともなく、忍び寄ってくる…
そんな足音に聞こえてきてしまいましたね。
769:考える名無しさん
08/10/06 04:28:25 O
もしかしたらニーチェがマジで書いたのはこの「この人を見よ」だけかもしれないですね。
どうもこればかりは流石にあまり洒落になってないようで。
発狂したのは本当かもしれないですね。
後は冗談まじりの創作、遊戯でしょう。
雷は、残念ながら神のイカズチだったのかもしれませんな。
まあでもニーチェは神を意識しつつ真剣におちょくってたのかもしれません。
一種のアホですね。
神々との闘争! 自殺同然です。
だから自由になるには発狂するか死ぬしかないんですよ。
フリーターだってわかりますよそんなこと。
やっぱりニーチェってダサい。
太陽に挑み負けました。 素晴らしいですね。
マジ発狂も渾身の洒落なのかもしれない。
江頭の先生ですな。
770:考える名無しさん
08/10/06 04:46:23 O
いやこれはビビりつつウケますね。
つまり江頭がリアル雷雲の下で、避雷針を持って、おまいら俺を見ろ! 俺を誰だと思ってるんだ!!
などと時々叫びながら語るんですね。
結局、実際に打たれてしまうんですが。
まあこんな感じでしょうね。
771:考える名無しさん
08/10/06 05:36:07 0
あれだけいろんな分野に裾野を広げて思索した人間に
「まあこんな感じでしょうね」としか感想を導き出すことが
出来ない人間に対して
「まあこんな感じでしょうね」って感じだな。
772:考える名無しさん
08/10/06 06:46:55 O
日本語を解さない奴は黙ってなさい。
773:考える名無しさん
08/10/06 07:47:40 O
偽短が外人なのはわかりました。
というのも感情を込めて書くとき、母語だと詩的になり、形式的になるもんだが、
これは私もそうだし、ニーチェだってそうだろ。
より規則性を持つようになるわけだ。
発狂前の文章でさえ壊れてはいなかった!
しかし偽短≒早の場合、感情的になるほど逆に文章が崩壊してくるわけで、これは使用している言語が血になってない証拠だろう。
774:考える名無しさん
08/10/06 08:06:21 O
発狂というのは、物自体、イデア、存在、語りえぬものなどと呼ばれるものとの直接的な接触によって起きる現象なのかもしれない。
混沌ではなくむしろあまりの明晰さにこそ狂うのではないか?
それは太陽を直視することによる失明なのではないのか?
775:考える名無しさん
08/10/06 09:25:19 O
ふむ。
まあ感情的になって言葉が乱れることはあるとしても、
それは偽短の主張とは逆に反芸術的な低劣な感情が高ぶった場合であり、
醜くなっている時である。
だが「この人を見よ」の言葉はツァラトゥストラより高尚であり、芸術的である…
ここには芸人として仕事中の江頭と、素の江頭の差があるという印象を受けたわけです。
776:考える名無しさん
08/10/06 10:32:28 O
偽短や短パンが日本人だとしたら、
その言葉の乱れかたからして低劣な感情に満ちているということでしょう。
短パンはまだそれを異常な状態だと自覚しているらしいが、
偽短の場合はすでにその状態が常態なんであり異常なしという認識になっているらしい。
ともかく言葉の乱れというのは、警報になるようですね。
まあ女なら珍しくもないことかな?
しかし女の方がぐしょぐしょしてる割には男の方が殺し好きなんだよな。
なぜだろう。昔からそういう役だったからか…。
そして女は命を男より尊重している…
777:考えない名無しさん
08/10/06 10:58:32 0
>>773
なんだってそんなにニーチェやら早氏やらと比較して自分を位置づけようとするのがよくわからんのよw
例えばさニーチェの文章読んで思うことは、「高すぎてあなたにはかないません」です。
それを「まあこんな感じ」だとか比較検討することや、自分のなかで"言葉から垣間見える人間"を限定しすぎようとすること自体、
著者に対する良心が欠けているんじゃないかと思う。
ただ、君なりに自意識があるんだろうけどってのは君のここでのレス読んでわけるんだけど、
そんなことをしすぎていては?という意味で益々、叙情が悪い意味で崩壊するんじゃないかと思うわけです。
情動でも確かに色々な色合いの情念があるけれど、どれもこれも真剣な場合は、伝達性が完璧で、こちらの内心を抉り、興奮させる。
778:考えない名無しさん
08/10/06 11:02:11 0
(続き)
太宰なら、女々しいと一般的に云われるような刹那の中でも、純一に想いを伝達するし、
ドストエフスキーなら強烈な自意識に苛まれた俎上でもなおその深淵の地獄で見た己や世界観をすばやく伝達するし、
ニーチェなら書物によっても多少違いはあっても、やはり哄笑高らかで尊厳的で自由な感情ですばやく伝達する。
(『人間的な』などは、『反時代的』の情熱的な攻撃・感謝の溢れる賞賛・希望いってんばりから、突然洞窟に逃げ込んで、そこで静かに横たわりながら
ゆったりした姿勢で、観察したものを明確に滴らせている。この点、感情の興奮は少ない印象あるけれど、堀りさげたモノを伝えよとする徹底性には
生の根底に流れるある種デーモンのような目と真剣さが文体に薫り、また文章も言葉を記した瞬間の彼の宇宙感が難解なだけで、基本的にわかりやすい。伝達性にすぐれている。)
ゲーテなら静観的な目から、風景画家のように忠実に、内面に結んだ像をそっくりそのままやさしく、わかりやすく伝達する。
(「ウェルテルの悩み」は若干その後デーテらしくはない。)
そんな感想でいいんじゃないかい?
後は彼らから学んだことを活かせばいいわけですよ。
私は彼らには当然かなわない、本当の芸術家だ!という想いがある。
それで私らが日常で抱いているものを刺激や感動でそぎ落としてくれたり、そこから思索をうながしてくれたりしてくれるという宝物を残していってくれたんだよ。
(だから色眼鏡で見すぎると、よくないってのを言っていたわけだよ。)
トレースしすぎるとよくないよ。まじで・・・
779:考えない名無しさん
08/10/06 11:12:52 0
>>776
>偽短や短パンが日本人だとしたら、
ああ、私に関しては生粋の日本人とは言えない。
ひいじいさんがアイヌ人だから。だから私は鼻が整っていて、いい男に生まれたw
>その言葉の乱れかたからして低劣な感情に満ちているということでしょう。
粗暴な言葉遣いや表現内容のことを言っているみたいですな。
>短パンはまだそれを異常な状態だと自覚しているらしいが、
危険な感情が高ぶりすぎているからそうでしょう。
>偽短の場合はすでにその状態が常態なんであり異常なしという認識になっているらしい。
私は暴言・罵倒しても良心安らかだよw
ただ、それが行き過ぎると危険だというのは自覚しているさ。
そもそも、君の方が攻撃感情まで行かなくても、その<寸前>が仄見える、さっぱりしてない部分が垣間見える。
そちらの方が心配ですぞ。けっこうな感性はもってるようだけど、なんか労働しすぎじゃないかい?
以上<休廷>。
780:考える名無しさん
08/10/06 11:48:26 O
君は不要なんだがね?
私がここから消えると君も消え、私が現れれば君も現れまた毎度同様の雑音を入れる。
なんの用なんだ。まあいい。
今後一度でも君がレスしたら私は消えることにした。
781:考える名無しさん
08/10/06 12:06:45 O
かまってちゃんだなw
かまうほどにご機嫌になってしまうようだ。
荒らしの典型。
貴様にはうんざりだ!!
あばよってことさ!
さあ、レスしてごらん?
782:考える名無しさん
08/10/06 13:44:52 O
ふふ。 どうも俺が変わったのがわかってないようだな。
きっかけは短パンにいじめられたせいだな。
アップグレードした。
別人格が生じたような気もする。
これは飛び級ですよ?
努力では越えられない壁を越えてしまったようですね…
しかももう一つ先のレベルがすでに見えている。
第二次成長の次ですから私はレベル3なんですね。
失礼ながらみなさんの多くは2止まりなんです。タモリはレベル4なんですよ。
いや妄想ですよ。 遊びです。なにこれワロタ
783:考える名無しさん
08/10/06 15:09:23 O
まだレスないんですね。
本気でいってるのがわかりましたか?偽短君。
まあ第3次成長なんてのはあるのかわかりませんが、多少、変わりましたかね。
よくわかりません。なんでしょう。
人格が新たに生じたのかもしれません。
例えばこの話かたですがこれは演技ではない…いつからか意識を支配し、思考を繰り広げるようになった何かなんです。 その自然発生的な言葉をこうして綴っているわけです。自動的な思考ですね。
無意識というのが一部意識化したのかもしれない。
では以前の私はどうなったのか?
以前の私が今の私になったのか?
以前の私は意識の支配権を失いどこかにいるのか?
例えば以前の真似をしようと思えばできるような気もしますができないですね。
昨夜から午前中にかけてちょっと現れましたかね。恐怖を覚えたときですね。
すると彼は恐怖から心の奥底に引きこもったのかもしれませんが、恐るべかものに反応して出て来るのでしょうか?
二重人格? 演技かもしれませんね?
わかりません。
では、あなたの無意識はあなたなんでしょうか?わからないでしょう?
私が以前の私より能力が高いのかどうかこれもよくわかりませんが、高いような気がしますね。しばらく様子見です。
784:考える名無しさん
08/10/06 15:26:48 O
以前の私はやっぱりいるんですが、
面にはなかなかでてこなくなったといえますかね。
私と同居してる。しかし私とは話さないですね。
まあ嘘ですよ。二重人格だなんて都市伝説でして。
ついに病気に? かもしれませんね。
というか逆に治療でしょうね。
彼では生きられない世の中です。
とはいえ私ならば生きられるのかといえばやはり難しいでしょう。昔から私が支配権を握っていればです、それはそれは余裕だったでしょう。
ですがなにしろ私は彼の後を引き継がなければいけない�%f
785:考える名無しさん
08/10/06 15:29:06 O
携帯がもう駄目ですかね、続きです。
ですがなにしろ私は彼の後を引き継がなければいけないんですからね。厳しいです。
でもやはり余裕かもしれないですが。
それほど彼とはレベルが違うかなと。
腐った? 腐っちゃいませんよ。
腐らないようにできてますから。
わけわかりませんね?
妄想ですからね。
786:考える名無しさん
08/10/06 15:37:00 O
さて、これで終わりですかw
残念です。誇り高き2ちゃんねらとして活躍したかったのですがね。
しかし偽短君にはうんざりですからね。 あなたも、これでうんざりでしょうか? これが演技なのかが問題ですが。
なんかよくいる典型的な悪者みたいで恥ずかしかったですよ!
いやはや。
787:考える名無しさん
08/10/06 16:09:42 0
う~ん、なぜ突然怒られるから、実はよく私はわからないんですよね。
例えば、罵倒とかそういったものを根に持たれたのかもしれないしとか、
考えはしますが・・・
後は、何分自信過剰なものでして、私のニーチェやその他に関する見解や、
その途上で反抗してくるあなた達の見解に対してする意見は、かなり的を得ていることが多いと考える。
それがたぶん尚更、怖がられたり、恨まれたりする要素かもしれないとは反省はします。
>しかし偽短君にはうんざりですからね。 あなたも、これでうんざりでしょうか? これが演技なのかが問題ですが。
う~ん、私は特にあなたにうんざりすることはないですがね。(あなたが私に対する"うんざり"のようまでのギリギリ感はないということです。)
但し、偉人の書物を顕微鏡で見るような掴み方は、軽蔑している。
あなたがそんなに強く思っている以上は、あなたにとっては迷惑きわまりない奴だとは認識してます。
それとあなたもそうだし、短パンさんもそうだけど、突然!怒り出すことが私にはてんで理解不能であります。
漠然と何か溜め込んでいるからというのはわかるのだけれど、
それがあるなら、苦しくてもいい洗いざらい書き込んでもらいたいと思うんです。
ここでは顔が見えないですから、どんなものか解らない相手への恐怖というのを漠然と持っているのかもしれないですね。
そんな点で実生活の人間よりは怖いのかもしれない。それと同時に、その見えないがゆえに、
言葉尻を誇大解釈してしまう危険性も孕んでいる。よい意味でも悪い意味でも。
788:考える名無しさん
08/10/06 16:31:42 0
>なんかよくいる典型的な悪者みたいで恥ずかしかったですよ!
本音を言いにくいけど、言いたい、でも言うのが怖い、でも言いたい、
言ってしまえ! ってな感じの場合は恥ずかしいですよね。
だから、罵倒したりしたことに関しては、
「ああ、もしやあれが原因で・・言い過ぎたかな」って想いにも、なります。
そんなときもそうですが、私は会話・対話を重んじます。
この投稿見てれば解るはずです。
あなたはそれでも対話の最中に、怒ってしまったわけですから、何が怒らせたかを一生懸命考えますけども、
突然何日かぶりに「こら!」とか板で喧嘩うられるのはごめんです。
そんなに私は悪人なのかな? 自分で考えて見ますよ。
789:考える名無しさん
08/10/06 16:54:48 0
短パンさんも偽短さんも、私にとってはつまらないからほとんど読まなかったけれど、
偽短さんは早君だったのか。
>>778
相変わらずの感想文だね。
そういう感想文を書く意味というか、神経がわからないよ。
790:考える名無しさん
08/10/06 18:11:10 0
ロゴスについての携帯君の指摘はかなり当たっていると思うけれど、
早君自身も前よりは自分のことを分かってきたみたいな感じがするね。
早君のはあくまでもディオニュソス的なもの「への憧れ」であって、
ディオニュソス的なものからはほど遠いということ。
791:考える名無しさん
08/10/06 18:31:19 0
w
本気で俺=早氏と思っているなら、それは俺じゃなくて彼に対して失礼だと思うけど?
でも、私は彼の過去スレの文章読んで、基本的に考え方は同じ部分たくさんあるけどね。
まあ、前スレでは金曜日氏と間違えられたし、短パンさんとも間違えられたし、
私には俳優的性格がおありらしい。どんな文章でも文章家の心を可能な限り想像し、
その後はそれを模造することで本当にそういう口調に変化させることが容易にできる。
たぶん、無限人格なんだろう。にゃはは。
まあ、同一人物と思い続けてください。
俺は早氏よりもロゴス重視だし、実際に破綻するほどの経験はない。
"ごめんなさい"も感じねえし。
(少しは、良心くらいあるけど、、、、ね?)
792:考える名無しさん
08/10/06 18:43:54 0
>本気で俺=早氏と思っているなら、それは俺じゃなくて彼に対して失礼だと思うけど?
なんだ、違うのか。それは失礼。
しかし早君を高くかっているところから見ると、あなたも相当若いんだね。
まあどっちでもいいけど。さよならw
793:考える名無しさん
08/10/06 22:00:20 O
おかしな話ですが偽短君は知能が殆ど無いみたいですね。
どうやら偽短君は影の影ぐらいしか見えてないですね。
偽短=早が正しいとしてもニーチェのような失明ではないと思います。
少しでも認識させようとした私は阿呆でしたよ。お恥ずかしいことです。
彼のいびきにはうんざりです。
雑音に対しては私は弱いですよw
勢い二重人格になりましたか。
携帯でもNGワード設定できれば少しはましになるでしょうが。
で、ニーチェは影の世界から出ましてなぜか太陽を直視し続け、失明したんだというのが私の印象です。
やはり雑音が入ったせいか途中になってますがツァラトゥストラの段階でも彼は私の「ザラツストラ」のように太陽を見たが、その時は目を閉じた。
で、続きはこんな感じになるかもしれません。
それからザラツストラは無心で歩いていたが大きな木に出会うと立ち止まり、
こう語りかけた「…」
この時点で彼は最後を決意した…
つまり太陽を直視し続けること、稲妻の直撃に遭うことを。
まあこんな感じになるでしょう。
794:○丸
08/10/06 22:35:37 0
太陽の目とは、自分で照らし見る認識の事であるが、
現在は、ニーチェの間接照明で、考察中。
795:考える名無しさん
08/10/06 23:07:43 O
こうゆう創作文といえば携帯小説サイトというのがありますね。
で、あれを見てみますと日本語が下手な人が多い。
うまい人も稀にいますが。
書籍化されているような小説でもプロの文章とは思えなかったりします。
まあ人気があれば売れるわけですな。
いままで出版社の中の人も大変だったなと思いましたが、
投稿サイトにある自動的に人気のある作品をピックアップできてしまうシステムというのは商売として効率的ですね。
そういうシステム構築により金儲けは金儲けとして割り切ることで、
多少余裕の生まれた出版社の中の人はこだわりのある本づくりをするようになるわけでしょう。
情報化によって格差は広がるんでしょうね。
一見平等な話のようですが、天は人の上に人を作りますから、平等の社会的条件で生かしますと差は広がります。
切りやすい派遣の増加も社会的条件の平等化の現れであり生命体としての天性の不平等による格差拡大を惹きおこします。
そうしますと垣根に守られていた人々が凋落していき反抗しだすわけです。
ですが時代の大きな潮流としては社会的不平等、垣根の撤廃に向かってるわけであり、これに逆らうことは無茶でしょうね。
796:考える名無しさん
08/10/06 23:18:35 O
思うに短ぱんや偽短というのは暴力、権力をちらつかせて遊んだりしますが、
彼ら自身の能力というのはむしろ低いでしょう。
ようは垣根撤廃により困る人たちなんですね。
ニーチェは社会的な不平等と自然由来の生命体としての不平等のどちらを好ましいと思っているのでしょうか?
どちらでもなくその一致でしょうね。
797:考える名無しさん
08/10/06 23:34:37 O
平等の社会的条件で、最も有利なのはユダヤ人でしょうな…。
やはり、社会的にどん底であること、追放された者であることというのは、
大地に立たされることなんでして、
そしてそこには何か偉大な力が働いてるわけです。
大地そのものが恐るべき力で律動している。
その力を多少借りられるのかもしれませんね。
798:考える名無しさん
08/10/06 23:56:20 0
反応の連鎖は続くようですなw
私を知能が低いと思おうが、文章が下手だと思おうが、そんなことは私には関係がないのよ。
むしろ、そういう観点を意識している君の考えをまず見るようにするんです。
で、「こちとら」さんの文章を上手だと思う人がいるのは不思議。いるの?
少なくとも、私は"駄文"の典型として扱っています。
ほとんど駄文。考えている内容も、深さも大したない。伝達性の速度も遅そうです。
考えが明確な像を結んでない曖昧なまま、とにかく書いているんだけど、曖昧でも"言葉にするのが難しい"曖昧さではなく、
既に考えていること秩序ずいておらず、破綻きたしかねている。
意外と私より論理性もなさそうです。数学苦手でしょ?
頭の回転も遅そう。言っている内容も、ある概念を既に悟性のほとんどを占めていて、
基本的な基盤や地平線的目線が他人の意見で覆われているかのようです。
(もちろん、考えている内容から、人格、感情のテンポ、恐れているものなどを瞬時に見抜ける。
でなっきゃ、俺のこと怖がらないのはずだ。)
799:考える名無しさん
08/10/07 00:00:03 O
ユダヤ人の怒りというのは、あるわけですよね。
やはりその怒りが大きな流れとして昔からあるんではないかと思いますよ。
というのも、生ある者というのはユダヤ人ぐらいでして、他の民族は社会に守られて地に足がついてないでしょうに。
ヒトラーはそんな深い大地の動きに抵抗しようとしたんだとおもいますね。
800:考える名無しさん
08/10/07 00:12:03 0
>こうゆう創作文といえば携帯小説サイトというのがありますね。
携帯小説なんて読んだことあるのか・・・さすが携帯君です。
携帯を肌身離さず持ち歩く人達が世間のくだらん現実の流行やら、時に閉塞しきった感情の内向性やらを
ポエム!などと書いている人間の魂の律動に寄与しない、まさに末期人間の歎きでしょう。
でも、それにデビューしたいなんて思う人がここにいるらしいです。
まさに"活字の没落"は精神の荒廃の総体である"人間の没落"です。
「精神は神、やがて人間、今では賤民」。それすらを通り越したようです。
うん。やはりここはある意味そういった没落人間の巣窟と言えそうだ。
私もその一人かもなあw 身を洗い流して、清めないといけない。
《但し》、朽ち果てた廃墟に潜む幽霊達も、その幽霊になる前は人間であったわけだし、
当然、物心つく以前の"原初性"や本能的思考を持っていたわけです。
そんなものを、廃墟のおが屑で詰め込んだ脳の容器を眺めるのは、現状を把握するのに良い。
とも思うのである。
801:考える名無しさん
08/10/07 00:14:44 O
想像を続けますが、
ユダヤ人は結束力が極めて強いんでしょうが、比較的少数民族でしょう。
ならば他民族の結束に対して刃を向け切り離すというのは戦略として当然あるかもしれませんね。
ごちゃまぜのアメリカなどはユダヤ人にとっていい場所になるんですし、
私にはよくわかりませんが、昔のドイツ、日本には、ゲルマン魂やら大和魂とかいう都市伝説があったので問題だったのかもしれないですね。