08/09/04 10:46:19 0
昔は「間引き」というのがあった。
例えば、見るからに奇形の体型を持って生まれたものは、間引きされた。殺されたわけだ。
これが実に合理的だったと思う。
戦前(戦後も実はあっただろう)あたりでも、奇形や双子が生まれたりすれば、助産婦が首をしめて殺した。
不具合を持った人間は、それだけでその人間にとって重荷であるし、他人にも負担をかける。
彼らに生きる権利を与えると、その不具合を当然のものとして受け入れる風潮が世に蔓延ると、
それへの福祉が必要とされ、それへの寛容が必要とされる。
そうすると、その種の人への反感は「差別」として健常者の良心にのしかかる。
人権というものがそれを促進したんだろう。
現代の医学で生まれる前に知的障害者か、身体障害者かどうかまで判別つくのかは知らないが、
判別ついて、親が望むなら、その場で殺すのも許可すべきだろうと思う。
たまに、その種の人間の学校が多い場所に居合わせた時に、彼らはその近隣の駅のバス停で騒いでいた。
彼らは正直、見ていて危ない。いつ突進してきかねない雰囲気を兼ね備え、大声で突然わめきちらし、
万一それがこちらにきたとしても、注意できないから。
「人間には判断力があるはず・・・」というのが無意識に人にはあって、それが人間に期待できない場合に
はその妨害行為も黙って黙認し、容認し、見守らなければならない。
これは、心身の疲労が著しい時には、酷く不快な感情を呼び起こす。
以上が「差別である」。でも彼らが外にでなかかったり、それどころか生まれなかったら、
「差別もなかった」。
でもこれを実行したのがナチスだろう。ユダヤ人以外にスラブ系やエホバの証人や不具者をも
殺害対象とした。"既に"へ適応すれば、残酷。"これから"に適応すれば、差別や人権侵害。
・・・・「力への意志」にもこの種の考えがあるけど、
(「悦ばしき知識」の聖者と障害児を生んだ親の会話もある。)
それが、制度として社会的事業として実行されるのと、風潮として人間に自然に蔓延るのとを区別できなくなると、
ナチスみたいなになる。ニーチェはどっちを人間に望んだかは明確だろう。