08/08/03 14:06:48 O
西田幾太郎 場所的論理と宗教的世界観》相対的なるものが、絶対的なるものに対すると云ふことが、死である。
我々の自己が神に対する時に、死である。
イザヤが神を見たとき、「禍なるかな、我亡びなん、我は穢れたる唇のものにて、穢れたる唇の民の真中に住むものなるに、我眼は万軍の主たる王を見たればなり」と云って居る。
相対的なるものが絶対者に対するとは云えない。
又相対に対する絶対は絶対ではない。
それ自身亦相対者である。
相対が絶対に対するといふ時、そこに死がなければならない。
それは無となることでなければならない。
我々の自己は、唯、死によってのみ、逆対応的に神に接するのである、神に繋がると云ふことができるのである。《
西田幾太郎 善の研究》…而して此力を得るのは我々の此偽我を殺し尽くして一たび此世の慾より死して後蘇るのである(マホメットがいつた様に天国は剣の影にある)。
此の如くにして始めて真に主客合一の境に到ることができる。
これが宗教道徳美術の極意である。
基督教では之を再生といひ仏教ではこれを見性(けんしょう)といふ。《
さてニヒリズムを徹底して再生でもするか。
まあね、ホームレスになれる強さがないようでは程遠いわけだが。