08/06/29 23:06:35 0
純粋な追体験というものはおそらく不可能でしょうが、
原体験においてそもそも純粋さは汚染されていた、
というのがデリダ的視点になりますね。
体験はその前後の時間と切り離された定点にあるのではなく、
過去とも未来ともつながっている一連の流れの中にあるとすれば、
固定化された体験そのものというものはどこにもなくて、
純粋に反復されるような「もの」とはいえないのでしょう。
それは「こと」として、「運動」としてしか反復されず、
差異を孕んだ反復とならざるを得ないのでしょう。
このへんは『差異と反復』のドゥルーズ的視点になりますが。