ニーチェ十三at PHILOニーチェ十三 - 暇つぶし2ch■コピペモード□スレを通常表示□オプションモード□このスレッドのURL■項目テキスト400:考える名無しさん 08/06/26 16:20:01 0 >>520 ◆TFnqGXDHBQ >君の好きなニーチェ先生は『解釈しか存在しない』と言っている。 >俺もそう思う。主体が、力を持つ生が、事象に解釈を、つまり評価を与える。 ニーチェ先生の『解釈しか存在しない』の意味がわかっていない生徒さんですね。 「主体が、力を持つ生が、事象に解釈を、つまり評価を与える」んじゃないですよ。 『解釈しか存在しない』のに、なんで「主体」が存在する??? ニーチェ先生は「主体への信仰」を激しく批判しておりますです。 先生はそれをなんで批判しているのか? 次回までの宿題ですよw 401:考える名無しさん 08/06/26 16:48:03 O ぴかぁは生き生きと生きていきたいという。 俺だってそう思ってきたさ。今でさえそう思っている。 そしていわば幸福への道を実験的な生活をおくりながら希求してきたともいえる。 結論:快は「権力」の浪費である。 残念だったなぴかぁよ。 ぴかぴかの意識の背後で、生は勢いよく蕩尽を目指し流出しているのである。 しかもいわゆる「栄養」により流出したエネルギーを補給することは…できやしない。 ニーチェはそれでも意識的な生の充実を渇望するために、必然的に徹底的な没落をさえ、 彼のいう弱者よりもさらに退廃することをさえ、望まざるをえなかったのだ。 彼は快や苦を随伴現象にすぎないというし、 高級種は劣悪な環境でこそ育つともいい、苦を敢えて回避しはしないのだが、 生き生きと生きようとすること、権力への意志は、やはり快楽主義であるし、生の浪費であり、死への突進である。 半ば自殺だ。 ところで真の「栄養」があるとすれば、いわば砂漠にあるのだ。死の世界に。 生の否定に…無への意志に。ニヒリズムに…。 ニーチェも、若さを失うにつれ本能的に否定に傾いていったといえる。 そして結局、ニヒリズムの極限的形式にまで行き着いてしまい、ニヒリストを代表する一人になった。 そこにこそ生の充実があったのだろう。彼はニヒリズムを徹底的に否定することで極限に達し、肯定に転じたのだろう。 彼はあれだけキリスト教を非難しながらも、遺稿の中で、キリスト教の存続を最も望ましいことだと言っている。 次ページ最新レス表示レスジャンプ類似スレ一覧スレッドの検索話題のニュースおまかせリストオプションしおりを挟むスレッドに書込スレッドの一覧暇つぶし2ch