08/05/09 20:34:26 O
Mr.Childrenの「タガタメ」は佐世保市の小学校で起きた女子生徒による同級生殺傷事件をもとに、その事件へ向けて歌われている。この事件へ向けて桜井は、やはり変わらぬスタンス、良心と思いやり、で向かってゆく。この曲が歌われたのは2004-2005年頃だった
と思うが、当時それなりに感動していた頃より今聴くと、よりこの事件への私の感じ方とズレが出てきていることに、気が付き始めている。どの辺でズレてきたのか。
佐世保市のような、血塗られた惨たらしい殺傷事件があり、そのたびに、Mr.Childrenを持ち出すまでもなく、有職者は教育や家族の無能を指摘したり、何が必要かを並べ立てたりする。Mr.Childrenは要するに、何も出来ない、愛するより他には、という
悲劇的な立場を表明しているわけだ。
そのどれもに、事件から受ける私の感じとズレが出てきている。どの辺でズレるのかというと、教育評論家や社会評論家や、慈善家らの表明する論調が、あれらの事件の底辺にあるであろう、当事者たちの中の終末感、閉塞感、そのニヒリズムに到達してなくて、
為にどこか、反動的な感性に留まっている感を受けるのだ。止まらない殺傷事件の連鎖にたいして私が受ける感じとは、日常をこれ以上維持することに無意味を感じた人間の抱く乾いた感情だ。光市の母子殺害事件にしても、そこに漂ってくるのは、それだ。
それを感じさせる点で、底辺に抱えている点で、異なる殺傷事件は一本の線となる。<ゲームは終わり>という無言のメッセージがそこに籠められている気がする。<ゲームは終わり>というメッセージを感受している人間は、実は少なくないのではなかろうか。
全部終わってるし、日常とは無意味だし、今さら何が必要かなんて論議自体、無知や偽善以外のものではない。教育者も評論家も慈善家も、ポップスやロック歌手も、そのような感覚に蓋をし、まだ未来があるかのような顔をしたがる嘘つきだ。
あのような殺傷事件の当事者が放つ無言のメッセージがあるとしたら、それだと思う。ジョン・レノンの「GOD」を模して言えば、「ゲームは終わった。僕に何が言えるだろう」
日本のロックのなかでそのような<終わり>の感覚を表現しえている人間がいたら、それこそ、先端的感性だと思うわけです。それは間違ってもMr.Childrenにはない。